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【フローニンゲンからの便り】18482-18485:2026年4月9日(木)

  • 7 時間前
  • 読了時間: 10分


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タイトル一覧

18482

中竹竜二さんの「押し掛けコーチング」の第二回を受けて

18483

今朝方の夢

18484

今朝方の夢の振り返り

18485

因果応報思想を自己責任論へ転化する誤用

18482. 中竹竜二さんの「押し掛けコーチング」の第二回を受けて   

       

小鳥の鳴き声が美しく響き渡っている。一昨日に続き、昨日も見事な快晴で、春の暖かさを存分に感じられた。ひるがえって今日は少し雲が多い。天気予報を確認すると、今日も最高気温は17度に到達するようだが、一日中曇りのようである。


昨日は、知人の中竹竜二さんのご厚意によって、「押し掛けコーチング」というものをしていただいた。実は今回が二回目で、初回はちょうど今から二年前のことになる。その時もこれからの進路に関して迷いがあり、あれこれと考えていることをゼミの皆さんに音声ファイルでシェアしていたところ、それを聞いてくださった竜二さんが声をかけてくださってセッションを受けることになった。その時に初めて、学術研究および居住先としてイギリスが選択肢に浮上したのである。竜二さんご自身がイギリスに留学した経験をお持ちなので、その時にイギリスに関する話をしたことを覚えている。その初回のセッションで閃いたイギリスという選択肢が、今二年の時を経て形になったことを驚き、そして心底喜んでいる。これも種々のご縁が運んできてくれたことなのだということに畏敬の念の感謝の念を噛み締めている。昨日のセッションもまた非常に実りのあるものだった。事前に竜二さんにはいくつかリクエストを出しており、それをしっかり反映してくださったセッションに感激し、非常に充実した時間を過ごさせていただいた。中でもスポーツコーチングの要素を活用した100日プランについては、早速エクセルの枠だけ作って記入できるようにしていった。今は留学前のシーズンということで、昨日の話に基づくと今はまだかろうじてオフシーズンで、五月から論文の執筆を本格的にしていこうと考えていたので、そこからがプレシーズンになるだろう。そして九月に入ってからの二週目に行われるオリエンテーションウィークからがシーズンインと捉え、本格的に種々の活動に従事していく。そこでの活動は当然ながら学術的なものが多くなるが、それだけではなく、豊かなソーシャルキャピタルに触れ、それを自らさらに豊かにしていく取り組みもしたいので、音楽的な活動やその他何かエディンバラの人たちと交流できるような活動も一つぐらいは行いたい。昨日のセッションから得られた創造的な刺激をもとに、ここからの活動計画をじっくり練っていきたいと思う。貴重な時間を取ってくださった竜二さんには大感謝である。竜二さんから受けたご恩をこの社会に何らかの形でペイフォワードしていきたいと思う。フローニンゲン:2026/4/9(木)07:11


18483. 今朝方の夢 

             

今朝方は夢の中で、大学時代のある女性友達と一緒に研修を受けるために会場のホテルに向かっていた。駅からそのホテルまでは近く、駅から一緒に会場に向かう中でお互いの近況について話し合った。彼女はすでに結婚をしており、子供がいるが、夫との関係があまり良くないという悩みを相談してくれた。まずはその話題に関して彼女の気持ちが整理されるまで話をし、そこから大学時代の楽しかった思い出話を語り合った。そうこうしていると会場のホテルに到着した。受付の人にカンファレンスルームに案内してもらい、その部屋に入ると、そこは広々としていてシャンデリアを含めて内装が非常に豪華で明るかった。研究の前に軽食が出されていたので、それを少々いただくことにした。そもそもここは外国の町であったから、研修参加者も日本人は私たちだけだった。外国人のある家族とテーブル席を共にしたところ、その家族の生まれたての赤ちゃんがカゴに入ってテーブルの上に置かれていた。その様子を私たちは眺めており、とても可愛らしい赤ちゃんの表情に癒された。

次に覚えている夢としては、上記で出てきた女性友達が引き続き現れ、見知らぬ建物の一階の広いスペースで多くの人たちとヨガを一緒にしていた場面である。そこには外国人だけではなく、数人の日本人もいた。ただしインストラクターは外国人の男性であり、彼が私の体の柔軟性に着目し、ある動きを示してほしいとお願いをした。それは片手を地面につけながら体を左に旋回する動きで、地面につけられた自分の左腕がじわじわと右側に向かっていく様子に周りの人たちは驚いていた。インストラクターの男性がうまく自分の体の様子を見極めながら、彼がちょっとずつ自分の腕を右の方に押してくれ、最終的には左腕がほぼ360度まわる形となった。それを見て周りの人たちは拍手を送ってくれた。そこからすぐに腕を解放すると体に負担がかかると思ったので、左腕を徐々にまた左側に戻していった。最終的に腕を解き終わると、特に方周りの血の巡りがとても良くなっていることに気づいた。呼吸を通じて行うヨガのポーズにはやはり血液循環を良くし、気の巡りを良くする効能があると改めて実感した。フローニンゲン:2026/4/9(木)07:31


18484. 今朝方の夢の振り返り

           

今朝方の夢は、自分の内側で進みつつある「成熟の再編成」を映しているのかもしれない。最初の場面で大学時代の女性友達と駅からホテルへ向かう道のりは、過去の自分から新しい学びの場へ移行する通路を象徴しているように思われる。駅は人生の分岐点であり、そこから近いホテルへ歩いていくという構図は、大きな飛躍というよりも、すでに準備されていた次の段階へ比較的自然に入っていく心の動きを示しているのではないか。彼女が結婚や夫婦関係の悩みを打ち明ける場面は、単にその友人個人の問題ではなく、自分の中にある「親密さ」「関係」「人生の現実」に関する感受性が前景化している徴候とも考えられる。大学時代の楽しい記憶と現在の悩みが一続きで語られるのは、青春的な可能性と大人の現実とを、自分が切り離さず受け止めようとしているからかもしれない。ホテルの豪華で明るい会場は、外面的な成功というより、内面に用意されつつある豊かな精神空間を表しているように見える。そこが外国の町であり、日本人が少ないという設定も、自分がいま馴染みの世界を離れ、より広い文化的・精神的文脈の中で成長しようとしていることの象徴であろう。研修前に軽食が出るのは、本格的な探究の前に、まず心が受け取れるだけの栄養を与えられている状態とも読める。そして外国人家族の生まれたての赤ちゃんは、きわめて印象的である。それは新しい研究テーマ、新しい人生段階、新しい自己理解の萌芽を象徴している可能性が高い。籠に入れられた赤ちゃんがテーブルの上に置かれているという光景は、その新しい可能性がまだ保護されるべき繊細なものでありながら、すでに他者との交流の場に現れ始めていることを示しているのかもしれない。続くヨガの場面では、夢の主題がさらに明確になる。ここでは言葉や思い出ではなく、身体そのものが変容の媒体になっている。外国人男性のインストラクターに柔軟性を見出されることは、自分の中に眠っていた適応力や変容能力が、外部の導きによって可視化されつつあることを意味するのではないか。左腕がほぼ360度回るという非日常的な動きは、通常の枠組みでは考えられないほどの可塑性、すなわち自分が従来の自己像を超えて再編成できる可能性を象徴しているように思われる。しかも無理に戻すのではなく、徐々に元へ戻していく点が重要である。これは変化が急進的な破壊ではなく、慎重な統合を必要とすることを夢が教えているのかもしれない。周囲の拍手は承認欲求の反映というより、自分の変容が社会的にも意味を持ちうるという無意識の確信の表れであろう。最後に血の巡りや気の巡りの改善を実感する場面は、知的成長だけでは足りず、身体・感情・呼吸・関係性を含めた全体的な循環が整うことこそ本当の成熟だという感覚を示しているように思われる。この夢全体が伝えている人生における意味は、過去の縁、現在の悩み、異文化との接触、新しい生命、身体の柔軟性といった異質な要素を一つの流れとして結び直すことで、自分はこれから「知る人」から「深く循環する人」へ移行していくのではないか、という予感である。つまり人生とは、ただ前に進むことではなく、内なる血流と意味の流れを開き、まだ生まれたての可能性を丁寧に育てていく営みなのかもしれない。フローニンゲン:2026/4/9(木)08:17


18485. 因果応報思想を自己責任論へ転化する誤用 

             

仏教における因果応報の思想は、本来きわめて精緻で動的な倫理的・存在論的原理であるにもかかわらず、現代日本社会においてはしばしば単純化され、「自己責任論」として誤解される危険性を孕んでいるように思われる。すなわち、現在の苦しみや不遇はすべて過去の自分の行為の結果であると短絡的に理解され、「だから本人が悪い」という帰結に回収されてしまうのである。このような理解は、仏教の本質を歪めるだけでなく、社会的弱者への想像力や連帯を著しく損なう可能性を持つ。この危険性の根底には、因果を「直線的・単線的な決定論」として捉える誤解がある。本来、仏教における因果は、単一の原因から単一の結果が必然的に生じるという単純な構造ではない。むしろ、それは無数の条件が相互に関係しながら現象が生起するという「縁起」のネットワークの中で理解されるべきものである。ある苦しみが生じているとき、それは過去の行為だけでなく、社会的環境、他者との関係、偶然的要因など、多様な条件の交差によって成立している。したがって、「すべては本人の責任である」とする理解は、この複雑な条件性を無視した単純化に過ぎない。さらに重要なのは、因果応報が本来「他者を裁くための理論」ではなく、「自己の行為を省察するための実践的指針」であるという点である。仏教において業の教えは、自らの行為が未来にどのような影響を及ぼすかを自覚し、よりよい行為を選択するための内省的枠組みとして提示されている。したがって、それを他者に適用し、「あの人はこういう結果を受けているのだから、過去に悪いことをしたに違いない」と判断することは、本来的な用法から逸脱している。この逸脱が、自己責任論的な冷酷さを正当化する温床となる。では、どのように理解すればこの危険性を回避できるのか。その鍵は、因果を「固定された運命」ではなく、「開かれたプロセス」として捉えることにある。仏教の因果は、現在の行為が未来を変容させうるという可塑性を前提としている。過去の条件が現在に影響を与えているとしても、それは不可逆的な決定ではなく、今この瞬間の選択によって新たな因果の連鎖を生み出すことができる。この理解に立つとき、因果応報は他者を断罪する論理ではなく、むしろ苦しみの中にある存在に対して「どのような条件を整えればよりよい方向へと転換できるのか」を共に考えるための枠組みへと変わる。また、大乗仏教において強調される慈悲の視点も不可欠である。すべての存在が無数の条件に制約されながら生きているという認識は、他者の苦しみを単なる自己責任として切り捨てるのではなく、その背後にある条件の複雑さに対する理解と共感を促す。因果の理解が深まるほど、他者への非難ではなく、むしろ支援や関係性の再構築へと志向が向かうはずである。要するに、因果応報は「責任の押し付け」の思想ではなく、「条件の理解と変容」の思想である。この点を見失ったとき、それは自己責任論という形で硬直化し、社会的分断を助長する。一方で、その本来の文脈において理解されるならば、因果応報は個人の内省を深めると同時に、他者との関係性の中でよりよい未来を共に創出するための倫理的基盤として機能しうるのである。フローニンゲン:2026/4/9(木)09:41


Today’s Letter

Improvisation brings a sense of fulfillment. Improvising—whether in conversation or on the guitar—heals my body and mind and stimulates my creativity. Groningen, 4/9/2026

 
 
 

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