【フローニンゲンからの便り】18216-18219:2026年2月16日(月)
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タイトル一覧
18216 | スケール練習で和声空間を感じるための工夫 |
18217 | 今朝方の夢 |
18218 | 今朝方の夢の振り返り |
18219 | 「発達理論と文明論──テクノクラシーの時代における成熟」に関する対談に向けて |
18216. スケール練習で和声空間を感じるための工夫
多くの人がスケールを何年も練習していながら、和声空間をほとんど感じられないまま弾いている。自分が感じている「どのメジャースケールも同じ順番で音が並ぶので固有の感覚が出にくい」という違和感について考えていた。問題の核心は、通常のスケール練習が「音の配列の再生」になっており、「機能」や「重力」を体験していない点にある。和声空間を感じるとは、単に高低の順に音を並べることではなく、それぞれの音がどこへ引っ張られ、どこに安定し、どこに緊張があるのかを身体で感じることである。例えばCメジャースケールを弾くとき、多くの人はC–D–E–F–G–A–B–Cを均等に並べる。しかし和声的にはCは「帰る場所」であり、Gは「緊張の頂点」であり、Bは「強く主音へ吸い込まれる音」である。この重力差を無視すると、音階はただの直線になる。主音に戻るときにほんのわずかに音を深く鳴らす、導音から主音に向かうときに吸引感を意識する、4度に浮遊感を感じるといった微細な意識の差だけで、空間は立体化する。さらに有効なのは持続低音を用いる方法である。例えば開放弦のCを鳴らし続けながらスケールを弾くと、各音が主音に対してどの距離にあるかが明確になる。2度はやや不安定、3度は明暗を決め、4度は浮遊し、7度は強い緊張を持つ。持続低音は和声重力を可視化する装置のようなものである。また、スケールを三度跳躍で弾くことも有効だろう。1–3–5、2–4–6、3–5–7というように分解すると、スケールはコードの連なりに変わる。C–E–Gは安定、D–F–Aは中間的、B–D–Fは強い緊張というように、音階が「線」から「立体」へと変化する。このとき初めて、和声的性格の違いが身体で理解される。さらに重要なのは「終止」を意識することである。スケールをただ上昇下降するのではなく、属和音から主和音へ帰る流れを内包させる。どこへ向かっているのかを意識しながら弾くと、音は機能を帯び始める。自分が既に実践しているように、テンポを落とすことも不可欠だろう。速いテンポでは機能の差を感じる余裕がなくなる。50程度の遅いテンポで一音ごとに「今これは何度か」「どこへ向かうか」と問い続けると、音の重さが変わる。さらに調を変えることも大きな助けになるだろう。CメジャーだけでなくEメジャーやF♯メジャーを弾くと、指板上の位置が変わり、身体感覚も変わる。同じ構造でも、空間の体験は新鮮になるはずだ。同じ音列でも主音を変えれば空間は再配置される。Cメジャーの音をDを中心に弾けばドリアンになり、重力の向きが変わる。この再配置を体験すると、スケールは固定的な順列ではなく、動的な重力場になる。結局のところ、スケールは直線ではなく重力空間である。それぞれの音は同じ重さではない。順番通りに弾くことを目的にするのではなく、毎回焦点を変えることで、スケールは単なる運動から音楽的宇宙へと変わる。基礎を楽しめる段階にいるなら、ここから先は技術練習というより、和声世界の探究になるはずだ。フローニンゲン:2026/2/16(月)07:25
18217. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、母方の祖母のマンションのリビングにいた。すでに時刻は夜を迎えており、宿泊にやって来ていた小中高時代の友人数人と就寝に向けて準備をし始めた。まず最初に各人が小さめのベッドを持ってきて、それを横に並べていった。ベッドの準備が整った後に歯磨きを始めたところ、浴室から物音がしてそこを覗き込んだが、誰もおらず、しかしそこには誰かいるような気配がずっとあった。そこには透明人間になった友人がいるのではないかと思いながらも、物音が消えたので歯磨きに戻った。歯磨きをしていると、歯磨き粉をつけ過ぎてしまったことに気づき、口をゆすぎ始めた時にはそれが全て流れ出ていくまでに随分と時間を要した。歯磨き粉が口の中に残るのは嫌だったので、しっかり洗い流そうとすると随分と時間が経った。
次に覚えているのは、母の車に乗って高校時代を過ごしていた社宅のアパートに戻っている場面である。駐車場が間も無く見えた時、母はそこに車を止めることをせず、再びどこかに向かって走り出した。すると気づけば自分は地元の海の砂浜の上にいた。そこで私は、見知らぬ若い母親と思われる女性を目撃した。彼女はどうやらタイムトラベルをしてやって来たらしく、息子に向けて伝えたいことがあるようで、この世界に滞在できるわずか60秒の時間を懸命に使って、砂浜にメッセージを刻み始めた。それが海の水で消えてしまわないように、深く深くメッセージを刻み込む彼女の姿勢は真剣そのものであり、命を懸けた行為のように思えた。その気迫に私は畏敬の念を感じ、遠くから静かにその様子を眺めていた。
最後に覚えているのは、イギリス人の老年の女性教授と会話をしている場面である。その教授のセミナーが終わったタイミングで質問をしに向かった。質問内容は、その教授が所属する大学院に自分は出願をしており、出願に際しての必要書類に関する内容だった。その教授と四回ほどメールでやり取りをしており、四回目のこちらからの質問に対してまだ返信をもらってなかったので、その内容について確認したかったのである。その教授はすぐさまその場で私のメールを確認し始めてくれたが、どうやら大量のメールが日々届いているらしく、見つけるのには一苦労のようだったので、私の名前で検索してみることを勧めた。フローニンゲン:2026/2/16(月)07:37
18218. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は、自分の内的時間軸と存在の連続性が幾層にも折り重なり、その深層にある「継承」と「浄化」と「刻印」のテーマが浮上してきたものであるように思われる。まず母方の祖母のマンションのリビングという舞台は、血縁的・心理的ルーツの象徴であり、そこに小中高時代の友人たちが集い、横並びに小さなベッドを準備する場面は、自分の発達史における諸段階が一堂に会し、同時に眠りへと向かう準備をしていることを示唆しているようである。ベッドが小さいという点は、過去の自己がいまだ未成熟なサイズであること、しかしそれらが整然と並ぶことは、自己史が秩序化されつつある兆しであると推量される。夜という時間帯は無意識の領域への移行であり、そこに浴室からの物音、そして透明人間の気配が現れるのは、未だ可視化されていない心的内容、すなわち阿頼耶識的な潜在種子の存在を暗示している可能性がある。誰もいないが確かに「いる」という感覚は、顕在意識では把握できないが、確実に作用している無形の自己の働きを象徴しているのではないか。歯磨き粉をつけ過ぎ、それを完全に洗い流すまでに長い時間を要した場面は、自己浄化の過程の比喩であると考えられる。過剰な歯磨き粉は過剰な思考、過剰な言葉、あるいは過度な自己批判の象徴かもしれない。それを残さず流し切ろうとする姿勢は、曖昧さを許さず、徹底して内面を清めようとする態度を示唆するが、その徹底性ゆえに時間がかかるという構造は、自分が完全性を志向する傾向と、その代償としての労力を暗示しているようにも思われる。次に母の車で高校時代の社宅へ戻るはずが、海辺へと場面が転換する点は、過去への回帰が直線的には成立せず、むしろ原初的な場、すなわち「海」という集合的無意識の象徴へと導かれていることを意味している可能性がある。砂浜に60秒の滞在時間でメッセージを刻む若い母親の姿は、時間の有限性と、世代を超えて何かを伝達しようとする衝動の象徴であるように思われる。海水で消えぬよう深く刻む行為は、存在の儚さに抗して痕跡を残そうとする営みであり、それはまさに自分が研究や執筆、教育活動を通して行おうとしている行為と重なるのではないかと推量される。その姿を遠くから畏敬をもって眺める自分は、すでにその営みの神聖さを理解している観察者である。最後のイギリス人老年女性教授との対話は、未来志向の象徴であり、学術的承認や制度的通過儀礼への接近を示唆していると考えられる。大量のメールの中から自分の名前を検索するよう勧める場面は、広大な情報の海の中で自己の固有名を確立すること、すなわち「名を刻む」行為の現代的形態であるようにも思われる。祖母の家から海辺、そして英国の大学院へと舞台が移ろう構造は、血縁的起源、集合的深層、そして国際的未来へと連なる三層構造を形成しているようである。この夢全体は、有限な時間の中で何を深く刻むのかという問いを自分に突きつけている可能性が高い。人生における意味とは、消えやすい砂浜に浅く書き連ねることではなく、波に洗われてもなお残る深層構造を刻む営みを選び取ることであるという示唆がここに潜んでいるのではないかと思われる。フローニンゲン:2026/2/16(月)08:18
18219. 「発達理論と文明論──テクノクラシーの時代における成熟」に関する対談に向けて
今日は後ほど、知人の鈴木規夫さんとの第九回目の対談がある。今日のテーマは「発達理論と文明論──テクノクラシーの時代における成熟」というものだ。このテーマに関して、事前に少し考えを整理しておきたい。まずは、ビョンチョル・ハンの問題提起と「従順な身体」についてである。ビョンチョル・ハンが照準するのは、現代人が「外から抑圧される主体」ではなく、「自分で自分を駆動し、消耗する主体」へと変質しているという点である。彼が言う「達成社会(achievement society)」では、命令や禁止よりも、可能性・ポジティブ・自己実現の語彙が前景化し、個人は自発的に自己を最適化し続ける。そこで生じる搾取は他者による搾取ではなく自己搾取であり、主体は加害者であると同時に被害者になる、という構図である。この視点を今回のテーマの「成熟」へ接続すると、成熟は「より高い段階へ行くこと」ではなく、「自己実現の無限プロジェクトに回収されない能力」として再定義されねばならないことが見えてくる。発達理論が成長の物語として流通すると、ハンが批判する自己実現プロジェクトの燃料になりやすい。すなわち、発達段階・複雑性・統合といった概念が、「もっと上へ」「もっと早く」「もっと良い自分へ」という自己最適化のKPIとして働き、結果として発達は自由の拡張ではなく、自己管理の強化=自己搾取の洗練に転化するのである。ここでミシェル・フーコーの「従順な身体(docile bodies)」が重要になる。フーコーは『監獄の誕生』において、近代の権力は暴力で身体を押さえつけるだけではなく、観察・規律・訓練を通じて、身体の操作可能性と有用性を高める形で主体を形成すると論じた。従順な身体とは、強制されるのではなく、規律を内面化して自分から規範に適合していく身体である。ハンの「自己搾取する主体」とフーコーの「従順な身体」は、権力の様式が「外的抑圧」から「内面化された自己統治」へと移行した点で共鳴する。発達支援や教育がここに無自覚であると、支援は解放ではなく、規律の更新になる。現代の従順さは、上司に従うことではなく、自己に課した成長目標に従うこととして現れるからである。したがって今回の実践上の注意点は明確である。発達概念を導入するとき、それが「自己実現プロジェクトの加速装置」になっていないかを点検せねばならない。成熟とは、より多くを達成できる主体ではなく、達成の論理が生命・関係・倫理を侵食するときに、速度を落とし、撤退し、再配列できる主体である、という方向へ軸を切り替える必要がある。
次に「危険な発達──高次段階の極悪人はあり得るのか」という問いの文明論的意味を考えてみたい。「あらゆる発達は同等に評価されるべきか」という問いは、発達理論が文明論へ踏み込むとき避けられない。発達はしばしば「高次=善」「成熟=倫理的」と連結されがちだが、これは論理的に保証されない。認知的複雑性(多視点統合、システム理解、抽象化能力)と、倫理的成熟(他者配慮、公共性、非搾取)は自動的には一致しない。同じ高度に発達していても、そこに善人もいれば悪人もいる、という直観は、理論的にも実務的にも正当である。ここで問われているのは「高次段階の極悪人が存在するか」というセンセーショナルな話題ではなく、発達概念が倫理の免罪符になり得る、という構造的危険である。この危険は、とりわけテクノクラシーの時代に深刻化する。なぜなら高度な認知能力は、善にも悪にもよく効くからである。高度な抽象化は、公共善の設計にも使えるが、収奪の正当化やリスクの外部化にも使える。ここに、ザカリー・スタインが展開するエリート批判の核心が接続される。スタインの問題意識は、社会の舵取りを担う「エリート」が、現行の教育制度に最も適応し、最も優秀な成果を収めた者たちであるにもかかわらず、その成果が公共善ではなく、利己的な抽出(富・注意・データ・制度的利益の収奪)へ結びついてしまうという文明的ねじれにある、という点にある。このねじれを「人格の堕落」ではなく、「教育と評価が何を成功として報酬化してきたか」という制度設計の問題として捉えるところに、文明論としての射程がある。発達理論の実践に戻すなら、ここでの注意点は「発達を中立の上昇指標として扱わない」ことである。発達支援は、認知的複雑性の上昇だけでなく、倫理的基準(非搾取、他者尊重、透明性、説明責任)を同時に設計の中心へ置かねばならない。さもなくば、発達は危険な高度化になる。つまり、より巧妙に自己と集団の利益を最大化し、より洗練された言葉で正当化し、より大規模に外部化できる主体を生む可能性がある、ということである。文明論として「成熟」を語る意義は、まさにこの危険を直視し、発達を倫理と切り離さない枠組みへ再統合する点にある。
次に「ハーバーマス、テクノクラシー、監視社会──21世紀の「動的成熟人」を再定義する」というトピックを事前の企画案として考えていた。ハーバーマスの「コミュニケーション的理性」は、近代社会が道具的理性(効率・制御・最適化)の増殖によって支配されるとき、社会の正当性と理性をどこに回復できるのか、という問いから立ち上がる。彼は、合意と正当性の基盤を、権力や市場の成功ではなく、言語的コミュニケーションの中での相互理解可能性へと置く。コミュニケーション的理性とは、相手を手段として操作するのではなく、理由を交換し、批判に開かれた形で合意の妥当性を更新する理性である。今回の文脈で言えば、成熟とは「正しい答えを持つこと」ではなく、「妥当性をめぐる対話に耐えること」、そして「異議申し立てと批判可能性を制度として守ること」である。これは、発達理論がハイステイクス測定やエリート主義へ滑落することへの、強力なブレーキにもなる。成熟を高次段階の所有ではなく、対話的手続きへのコミットメントとして再定義できるからである。だが21世紀の状況は、この対話的基盤を脅かしている。テクノクラシーは、意思決定を「専門家の最適化」へ回収し、公共的熟議を迂回しやすい。さらに近年、テクノ封建制(technofeudalism)や監視資本主義の議論が示すように、巨大プラットフォームが場そのものを所有し、データとアルゴリズムによって可視性・接触・注意の配分を支配する構造が強まっている。ヤニス・バルファキス(ギリシャの経済学者・政治家)は、ビッグテックが市場競争というよりレント(地代)を吸い上げる領主のように振る舞う状況を「テクノ封建制」と呼んで論じている。この環境では、人間の発達は二重に歪む。第一に、評価がデータ化され、常時測定され、自己は指標として管理されやすくなる(フーコー的な規律の内面化が再強化される)。第二に、対話は注意経済のアルゴリズムに媒介され、相互理解よりも分断と興奮が増幅されやすくなる(ハーバーマス的な公共性が侵食される)。結果として、成熟は「深い理解」ではなく「適応の速さ」として誤認され、発達は「市場での生存戦略」へ回収されやすい。ゆえに提示すべき「21世紀における成熟する人間像」は、単なる人格的理想ではなく、文明状況に対する対抗原理でなければならない。ここで提案されるべきは、知性・感情・倫理・関係性を統合し、変化と多様性の中で自己を更新し続ける「動的成熟人」という理想像である。動的成熟人とは、(1)指標化・加速化に飲み込まれず、自分の時間を取り戻す能力、(2)複雑性を扱いながらも、収奪や外部化の誘惑に抗する倫理的拘束、(3)対話の手続きを守り、妥当性を更新し続けるコミュニケーション的理性、(4)監視とプラットフォーム支配の中でも、関係を再構築し、共同体のルールを作り直す実践力、を併せ持つ主体である。成熟とは完成形ではなく、テクノクラシーの圧力の中で、自由と公共性を更新し続ける運動体である、という再定義がここで要請されるのである。フローニンゲン:2026/2/16(月)08:53
Today’s Letter
There is a bare or naked reality beyond what we ordinarily perceive as reality; that is the ultimate non-dual reality. Groningen, 2/16/2026