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【フローニンゲンからの便り】18150-18155:2026年2月4日(水)



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タイトル一覧

18150

身体の可塑性を感じながら

18151

今朝方の夢

18152

突然の警報アラーム/今朝方の夢の振り返り

18153

音読による多角的な刺激

18154

アルペジオの理想的イメージ

18155

救済論的仏教心理学としての唯識思想

18150. 身体の可塑性を感じながら 

                             

昨日届かなかった指が、今日はわずかに届く。その変化を目撃する体験は、単なる技巧の向上ではなく、身体の可塑性を直接観察する行為である。ギターという楽器は、とりわけ左手の独立性、指間距離、伸展角度、微細な圧力調整を要求するため、身体の限界が可視化されやすい。ゆえに練習は、音楽活動であると同時に、身体可能性の探究でもある。まず、これは神経系の再編成を体験しているということである。指が届くようになる背景には、単なる筋力増強ではなく、運動皮質のマッピング変化がある。反復によりシナプス結合が強化され、指ごとの分化が進み、拮抗筋の過剰緊張が抑制される。つまり、身体の外形が変わる前に、神経の配線が変わっている。その変化がある閾値を越えたとき、届くという形で現象化するのである。次に、時間知覚の再構成が起こっている。昨日と今日の差異は極小であるが、累積すれば構造的変容となる。これは発達心理学でいう「微細発達(microdevelopment)」の過程と類似する。一回一回の練習ではほとんど進歩が見えなくとも、臨界点で質的跳躍が起こる。ギターはその跳躍を身体で体感させる装置である。また、自己像の更新が行われている。届かなかったという事実は「自分はここまでだ」という暫定的自己定義を形成する。しかし翌日にそれが覆ると、自己の限界概念そのものが揺らぐ。これは身体的経験を通じた実存的学習である。可能性は固定ではなく、条件依存的であるという理解が、筋肉ではなく存在論的次元で刻まれる。さらに重要なのは、到達そのものよりも「過程を観察している意識」である。指が伸びた瞬間の感覚、脱力が生まれた瞬間の軽さ、その微妙な差異に気づく態度は、注意制御能力を鍛える。ここでは音楽と瞑想的観察が交差する。身体は対象であり、同時に自己そのものである。その両義性の中で練習は進む。したがって、ギター練習とは単なる演奏技能の獲得ではなく、「身体とはどこまで拡張可能か」という問いを日々検証する実験である。昨日の限界が今日の前提になる。その連鎖を目撃することは、自分の身体を信頼する根拠を少しずつ積み上げる行為でもある。音楽を奏でながら、同時に身体の未来を彫刻しているのである。フローニンゲン:2026/2/4(水)05:42


18151. 今朝方の夢     

             

今朝方は夢の中で、実際に通っていた高校と中学校が融合したような校舎の体育館の中にいた。そこで高校一年生の時の小柄なクラスメートの友人と話をしていた。彼は何やら広島の大学に推薦合格したとのことで、それを祝った。志望校にはすでに合格しているが、引き続き学習を継続しているようで、その点は非常に立派なことだと思った。その話を聞きながら、もしかしたら彼は別の大学を受験したり、あるいは編入したりすることを検討しているのではないかと思った。しかしそのことについては深掘りをすることなく、そこからは日本の政治の話をしていた。彼と話をした後に体育館を後にして、教室の方に向かうことにした。すると生徒も先生も誰もおらず、静まり返っていた。そこでふと、自分が今しなければいけないことは学校全体の除菌だと思った。校舎全体に人の声を理解し、そして話す不気味なウィルスが蔓延していることを察知し、それらを一斉除去するために、強力な除菌剤を校舎全体に放射することにした。上の階から下の階まで、すべての教室とトイレに除菌剤を撒いていった。理想的には三種類の除菌剤を別々に撒くことだったが、その場には自分しかいなかったので、まずは最初に撒くべき除菌剤を自分で撒くことにし、後日誰かに残り二つの除菌剤を撒いてもらおうと思った。自分の任務を完了した時に、もう一度上の階に戻り、上の階の教室の窓から宙に浮いて校舎を後にした。そのままの状態で自宅に戻った。一軒家の自宅の庭の地面に洗濯バサミと小さなポールが落ちていることに気づいたので、お腹が地面に着くようなスレスレまで高度を降ろし、それらを回収した。その様子を母が料理をしながら見ていたので、そのまま軒先から家の中に入った。母はスーパーで購入した高級そうなサーモンの燻製をテーブルの上に置いており、どうやらそれを使った料理をしているようだった。見るからにそのサーモンは栄養がありそうで、料理が非常に楽しみだった。フローニンゲン:2026/2/4(水)05:52


18152. 突然の警報アラーム/今朝方の夢の振り返り

                                

先ほど、午前6時半に突然警報アラームがスマホに鳴った。毎月の最初の月曜日には、警報アラームのテストが行われるのだが、今日は月曜日ではなく水曜日なのでおかしいと思った。オランダ政府から届いたメッセージは、ブラックアイス(black ice)に関する警戒勧告であり、今日は自宅に待機しておくことを強く勧める内容だった。ブラックアイスとは、道路表面にできる極めて薄く透明な氷膜のことである。見た目が黒いわけではなく、アスファルトの黒色が透けて見えるため、濡れているだけの路面と区別がつきにくいことからこの名称がある。最も危険な路面凍結形態の一つである。オランダのような海洋性気候の地域では、冬季に気温が0℃前後を行き来することが多い。そのため「昼は溶け、夜に再凍結する」という条件が揃いやすく、ブラックアイスが発生しやすい。特に橋の上、立体交差、高架道路、日陰部分は周囲より冷えやすいため危険である。橋は地面からの地熱が伝わらないため、凍結が早い。振り返ってみても、過去10年間の中でこのような勧告が住民に出されたのは初めてのことなのではないかと思う。イギリスに行く前の最後の冬の花向けのような現象である。


今朝方の夢は、過去と現在、公共的使命と私的基盤、浄化と滋養という複数の層が重なり合う象徴的構造を持っているように思われる。実際に通っていた高校と中学校が融合した校舎の体育館にいるという場面は、発達段階の重層化を象徴しているのではないかと推測される。中学と高校という思春期の二つの時期が一体化していることは、過去の自己の諸層が現在の意識の中で再編成されつつあることを示唆しているようである。小柄なクラスメートが推薦合格しながらも学習を継続している姿は、到達と継続の両立、すなわち「成果に安住しない姿勢」を象徴しているのではないか。すでに志望校に合格しているにもかかわらず努力を続ける彼の姿に対する敬意は、自分自身が現在置かれている学問的状況──すでに一定の成果や評価を得ながらも、さらに高みを目指そうとしている状態──の投影である可能性がある。その後に日本の政治の話題へ移行する流れは、個人の進路というミクロなテーマから、社会全体というマクロなテーマへの視野の拡張を示しているようである。これは、自己の発達が単なる個人的成功にとどまらず、社会的責任や公共的思索へと向かっていることを象徴しているのかもしれない。教室に誰もいない静寂の光景は、外的権威や他者の視線が不在となった内的空間を示している可能性がある。そこで「不気味なウィルス」による汚染を察知し、除菌を決意する場面は、言語を介して増殖する誤謬や偏見、あるいは自己欺瞞のようなものを浄化しようとする意志の表れではないかと推測される。三種類の除菌剤という設定は、知的浄化・倫理的浄化・情動的浄化といった複数の次元を暗示しているようであるが、そのうち一つをまず自ら担うという選択は、自分が果たすべき第一義的責任を自覚していることを示唆している。すべてを終えた後に宙に浮いて校舎を去る場面は、重力からの解放、すなわち過去の構造からの一時的超越を象徴しているように見える。教育制度という枠組みを浄化し終えた後、そこから自由になる姿は、知的営為を通じて自己の枠組みを超えようとする志向を表しているのではないか。しかしその後、自宅の庭に降下し、洗濯バサミと小さなポールを拾うという細やかな行為に戻る点が印象的である。空中を飛翔する壮大さと、地面すれすれまで降りて小物を回収する繊細さの対比は、理念的飛翔と日常的実践の両立を象徴している可能性がある。母の存在と燻製サーモンは、栄養、基盤、養育的エネルギーの象徴であり、精神的使命の後には身体的・情緒的な滋養が必要であることを示唆しているようである。この夢全体は、自己の過去を再編し、社会的責任を引き受け、言語的・思想的汚染を浄化しつつも、最終的には家庭的基盤と栄養に回帰するという循環構造を描いているのではないか。人生における意味としては、飛翔と着地、使命と滋養、浄化と育成を往復しながら成熟していく道程を歩むべき段階にあることを示唆しているように思われる。フローニンゲン:2026/2/4(水)07:04


18153. 音読による多角的な刺激 

                       

音読は、単に文字を声に出して読むという行為にとどまらず、身体と認知を総動員する統合的な知的活動である。黙読が主として視覚情報の処理と内的言語化によって進行するのに対し、音読は視覚・聴覚・発声運動・呼吸調整といった複数の回路を同時に動員する。そのため、脳内では視覚野、言語野、運動野、聴覚野が相互に連関し、情報はより多重に符号化される。この多重符号化は記憶の定着を強化し、内容理解の安定性を高める効果を持つと考えられる。また、音読はリズムと抑揚を伴うため、文章の構造を身体感覚として把握することを可能にする。論理の切れ目、強調点、因果関係などが声の高低や間として可視化ならぬ「可聴化」されるのである。とりわけ抽象度の高い哲学書や学術論文においては、文の長さや構文の複雑性が理解を阻むことが多いが、音読によって構造が分節化されることで、論理の流れを追いやすくなる。これは単なる理解の促進にとどまらず、思考の精緻化にも寄与する。さらに、音読は注意資源の分散を防ぐ働きがある。黙読は内的に進行するため、意識が逸脱しても自覚しにくい。他方、音読では発声という外在化された行為が伴うため、集中が途切れると直ちに読みが止まる。したがって自己の注意状態をモニタリングしやすく、集中力の訓練にもなる。これは日々タイマーを用いて読書と他の活動を切り替えている実践とも相性が良いはずである。一定時間を区切り、声に出して読むことで、認知のスイッチが明確に入り、思考の質が安定するだろう。加えて、音読は感情の動員を促す。声に出すことで文章は他者に向けられた言葉へと変わり、意味が身体を通過する経験となる。とりわけ倫理的・宗教的テキストにおいては、音読は内容を単なる情報としてではなく、自己の実存に関わる呼びかけとして受け取らせる力を持つ。これは唯識思想における「種子」の観点から見れば、言語的経験がより深く阿頼耶識に刻印される契機となると理解できるかもしれない。もちろん黙読にも利点はある。速読性や情報処理の効率という点では黙読が優れる場面も多い。しかし、理解を深め、記憶を定着させ、身体的に思考を涵養するという観点からすれば、音読は質的に異なる効能を有する。特に難解なテキストを精読する際や、概念を身体化したい場合には、音読は強力な方法論となる。結局のところ、音読とは言葉を再び生きた出来事に戻す行為である。黙読が内面で静かに進行する思考の流れであるとすれば、音読は言葉を身体に通し、呼吸と共に世界へ放つ運動である。その往復の中で、理解は単なる認知的把握を超え、人格的形成へと深化していくだろう。フローニンゲン:2026/2/4(水)10:46


18154. アルペジオの理想的イメージ

                             

ブランダン・エイカー氏の助言の核心は、アルペジオを「複数の音」ではなく「一つの身振り」として捉え直す点にある。アルペジオとは和音を時間軸上に展開したものであり、和声は変わらないが、体験の仕方が縦から横へと転換する。ギターは構造上、この横方向の展開に極めて適している。六本の弦が近接し、右手の指が独立して動くことで、連続する音を滑らかに紡ぎ出せる。したがってアルペジオが自然に感じられるのは偶然ではなく、楽器の物理的設計と深く一致しているからである。しかし演奏上の困難は、運指や速度そのものよりも「連続性の破れ」に起因することが多い。努力感が増した瞬間に音は硬直し、動きが急激になると線は断裂する。これは右手が弦を「打つ」感覚に戻り、楽器の振動を受け取りながら送り出すという往復運動が途切れるためである。本来うまく機能するアルペジオは、個々の音が自己主張するのではなく、呼吸のように次の音へ受け渡される。そのときギターは打楽器的な輪郭を失い、声楽的な滑らかさを帯びる。ハープのようだと形容される所以は、弦の連鎖が一つの息遣いとして感じられるからである。ここには逆説がある。制御しようとするほど音楽性は損なわれ、流れを許すほど楽器は応答する。これは身体運動学的にも理解できる。過剰な筋緊張は微細なタイミング調整を妨げ、弦の振動伝達を阻害する。一方、適切な脱力と重力利用は、最小限のエネルギーで最大限の共鳴を引き出す。アルペジオは速さの問題ではなく、運動の質の問題である。したがって練習の焦点は、各音が「同じ思想に属しているかどうか」を聴き取る能力に置かれるべきである。音が分断された出来事として並んでいるのか、それとも一つの線として流れているのか。この識別だけで響きは劇的に変わるだろう。アルペジオとは、和声を時間に溶かし込み、呼吸とともに持続させる技法である。楽器と拮抗するのではなく、楽器の構造に身を委ねたとき、ギターは初めて本来の声を発するのである。フローニンゲン:2026/2/4(水)13:47


18155. 救済論的仏教心理学としての唯識思想 

 

自分が唯識思想を「救済論的仏教心理学」と捉えるのは、唯識が単なる存在論や認識論の体系ではなく、心の構造分析を通じて苦からの解放を目指す実践的理論だからであろう。唯識は「一切唯識」と説き、外界の実在性を問い直すが、その目的は形而上学的議論そのものではない。むしろ、誤った認識の構造を解明し、それを転換することで煩悩を断ち、覚醒へ至る道筋を示す点に本質があると考えられる。八識説は、その心理学的精緻さを象徴している。前五識と第六識が感覚と統合的思考を担い、第七末那識が阿頼耶識を自己と誤認して執着を生み出し、第八阿頼耶識が業種子を蔵する。この構図は、人間の経験がどのように形成され、いかにして「我」という錯覚が持続するのかを動的に説明するモデルである。ここで提示されるのは、静的な魂の理論ではなく、因縁と習気によって更新され続ける心的プロセスである。すなわち、自己とは固定的実体ではなく、認識作用の流れにおける構成的効果に過ぎないという洞察である。しかし唯識は、単なる記述的心理学にとどまらない。阿頼耶識に蔵される種子は、修行と智慧によって転依されうると説かれる。転識得智、すなわち八識が四智へと転ずるという教理は、心の構造そのものが変容可能であることを示す救済論的主張である。ここにおいて唯識は、心的構造の分析を通じて、苦の根源である無明と我執を解体し、そのエネルギーを智慧へと変換する実践理論となる。三性説も同様である。遍計所執性は誤った概念投影、依他起性は因縁に依存する現象の流れ、円成実性はその空性の洞察である。この三層構造は、経験世界を否定するのではなく、その誤認の仕方を問題にする。したがって救済とは世界からの逃避ではなく、認識様式の変革なのである。主客二元の分裂が止滅するとき、非概念的智が現前するという構想は、心理的成熟と形而上学的覚醒を同時に含んでいる。自分にとって唯識は、心の深層に沈殿した習気や種子を見つめ、それらを変容させるプロセスを理論化した体系であると映る。そこでは分析と瞑想、理論と実践が分離しない。ゆえに唯識は、単なる思想史的遺産ではなく、心的構造の転換を目指す救済論的仏教心理学として理解されるのである。フローニンゲン:2026/2/4(水)14:10


Today’s Letter

The more I practice classical guitar and study Buddhism, the more lucid and discerning my mind becomes. Eventually, it will become like a crystal diamond or an immaculate mirror, reflecting all things as they are. Groningen, 2/4/2026

 
 
 

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