【フローニンゲンからの便り】17598-17604:2025年10月28日(火)
- yoheikatowwp
- 2025年10月30日
- 読了時間: 24分

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タイトル一覧
17598 | クラシックギターの特徴と魅力 |
17599 | 超越的卓越世界の参入に向けて/マウロ・ジュリアーニの《120の練習曲》 |
17600 | 今朝方の夢 |
17601 | 今朝方の夢の振り返り |
17602 | クラシックギターとジャズギターのそれぞれの魅力 |
17603 | 音楽理論の学び方の工 |
17604 | クラシックギターのストラップを受け取って |
17598. クラシックギターの特徴と魅力
時刻は午前4時半を迎えた。辺りは闇と静寂さに包まれている。今日もまた朝の集中力が高い時間を有効活用し、ギターの練習と学術研究に励む。学術研究を通じて培ってきた思考法や探究方法がギターの練習に活かされていることは思わぬ嬉しい副産物である。
確かにクラシックギターの演奏では、ポップスやフォーク、ジャズギターのように6本の弦を同時に鳴らすフルコードを多用することはほとんどない。見た目には同じギターでも、クラシック音楽の構造は和音の「塊」ではなく、複数の独立した声部(旋律線)が同時に進行するポリフォニーを基盤としているためである。したがって、クラシックギターでは同時に押さえる弦の本数よりも、各弦がどのような音楽的役割を担っているかが重視される。結果として、4弦以上を同時に押さえる場面は稀であり、6弦を一斉に鳴らすのは劇的な終止や強調の瞬間に限られる。まず、クラシックギターにおける和音の扱いを理解するには、声部的思考(voice leading)を出発点にする必要がある。例えばソルやタレガの作品では、右手がベース・内声・旋律を明確に分担して演奏する。ベースライン(親指)は低音で安定感を生み、旋律(薬指)は最も響きを持って歌う。その間を中音部(人差し指・中指)が補い、和声的つながりを形成する。したがって、各指が1つの声として独立して動くことが理想であり、全弦を同時に鳴らす「コード的アプローチ」は、音の厚みを作るための補助的手段にとどまる。これに対して、ポップスやフォークギターでは、楽曲構造が基本的にメロディ+伴奏であり、ギターがその伴奏全体を担うことが多い。コード進行がリズム的枠組みを形成し、同じコードフォームを繰り返すことで音楽の推進力を生み出す。そのため、6弦すべてを鳴らすフルコードや、5弦~6弦中心のストロークが主流となる。アコースティックギターでは、コードの形を握ったままリズムを刻むことが音楽の土台であり、指の動きよりも腕のスイングが中心となる。これは、クラシックギターが「音の線(旋律と内声)」を重んじるのに対し、ポップスが「音の面(ハーモニーの塊)」を重視する文化的対比とも言える。ジャズギターもまた、クラシックとは異なる。ジャズでは複雑なコードを扱うが、その目的は「即興のためのハーモニック基盤」を作ることにある。コードを鳴らすときも、実際には6弦すべてを使うことは少なく、3~4弦の「ボイシング(部分和音)」を選んで弾く。だがこれは和声的機能を支えるための選択であり、クラシックのように声部独立を意識して旋律を同時進行させるものではない。ジャズのボイシングは“縦の構築”であり、クラシックギターは“横の流れ”を重んじる——この違いが、コード使用の頻度と性質を大きく分けている。もう1つの違いは、音響設計の思想である。クラシックギターはナイロン弦の特性上、音が柔らかく減衰が早い。そのため、6弦を同時に鳴らしても音が濁りやすく、響きの透明性を保つためには、むしろ弦数を絞る方が効果的である。3本前後の弦を用いて必要最小限の音で和声を示す方が、美しく明瞭な響きを得やすい。バッハのリュート組曲やソルのエチュードを見ても、ほとんどの和音は3音または4音で構成されており、残りの弦は共鳴弦として控えめに使われる。これに対して、スチール弦を持つアコースティックギターでは、音の持続と倍音が豊かであるため、6弦を同時に鳴らしても音が溶け合い、美しいハーモニック・ブレンドが生まれる。したがって、クラシックギターが弦数を減らして透明さを狙うのに対し、アコギは弦数を増やして厚みを狙うという違いがある。また、クラシックギターでは押さえる指の数よりも、音を離すタイミングや各声部のレガートが重要である。4本の指で押さえたまま固めるよりも、不要な音を早く離すことで、響きを整理し、旋律の流れを自然にする。これはピアノでペダルを最小限に使うのと同じ考え方である。結論として、クラシックギターは他のジャンルに比べて、和音の密度よりも線の独立性、響きの透明性、時間的流れを重視する。そのため6弦を同時に鳴らす場面は少なく、4弦押弦ですら厳密に選ばれた瞬間にしか現れない。だがその分、1音1音の意味が深く、弦ごとの声部が対話しながら全体の音楽を形づくる。つまり、クラシックギターとは少ない音で多くを語る楽器であり、その静謐な構造の中にこそ、他のジャンルにはない精密な美学が息づいているのである。自分はそうした点にクラシックギターの魅力を感じている。フローニンゲン:2025/10/28(火)04:52
17599. 超越的卓越世界の参入に向けて/マウロ・ジュリアーニの《120の練習曲》
ここ最近は午前4時に起床していることもあって、朝のギター練習に多くの時間を割くことができる。偶然にも朝4時に起床して自らの実践を磨く習慣を長らく継続していたある1人の人物がいることをふと思い出した。それは自分が中学校時代にバスケをしていた時のロールモデルである故コービー・ブライアント氏である。彼はプロ選手になる前から、そしてプロになってからも人生最後の日まで午前4時に起床し、そこから朝練を欠かさなかったそうである。それはいつどこでもである。今自分はクラシックギターの熟達に向けて日々実践をしているが、自分にはもう1つピアノという楽器が熟達を待っている。まだピアノの演奏には手をつけられておらず、この2つの楽器で自由自在に内的感覚を即興演奏する境地に至るためには、ブライアント氏のように生活に規律を持たせ、自らの生命時間を捧げる必要がある。どんな分野に関しても情報やノウハウはもう氾濫状態だが、それらに触れているだけでは決して人はある実践領域で熟達の境地に辿り着くことができない。克己心を発揮し、生活を秩序立て、自らの生命時間を長年にわたって投入し続けない限りは、結局何もモノにならないのである。宇宙はそのようにできており、逆に言えばそうした在り方で特定の実践と向き合えば、人は平等に超越的卓越世界に辿り着くことができる。学術研究分野に関しては唯識と量子論、音楽分野に関してはクラシックギターとピアノに関してそのような超越的卓越世界の扉を開き、その世界に参入して残りの人生を過ごしたいと切に願っている。
ブランダン・アッカー氏のクラシックギターのオンライン講座は本当に素晴らしい。稀に見るクオリティーの講座である。すでに基礎講座を終え、それもまた今後繰り返し視聴しようと思っているが、今は標準講座に進み、日々少しずつ講座を前に進めている。昨日は、マウロ・ジュリアーニ(Mauro Giuliani, 1781–1829)が残した120個のアルペジオの練習のための楽譜を講座のページからダウンロードした。アッカー氏曰く、それは大変教育的な作りをしており、これを何度も繰り返し練習して極めると、「アルペジオモンスター」になれると笑いながら述べていた。昨日から、アルペジオモンスターを目指してこの楽譜を日々の練習に取り入れることにした。こうした重要な楽譜を残してくれたジュリアーニに関心があったので彼についても調べてみた。ジュリアーニは、19世紀初頭に活躍したイタリア出身のクラシックギタリストであり、作曲家・教育者としてもギター史に大きな足跡を残した人物である。今日のクラシックギターの基礎を築いた三大巨匠の一人(他はフェルナンド・ソル、ディオニシオ・アグアド)とされる。ジュリアーニはイタリア南部のビシェーリエ(Bisceglie)に生まれ、若いころからチェロとギターの両方を学んだ。1806年ごろウィーンに移住し、当時ヨーロッパの音楽中心地であったこの都市で名声を確立する。ウィーンではベートーヴェンやフンメルらと交流を持ち、ギターを独立した独奏楽器として確立する役割を果たした。彼の演奏会は貴族や音楽家の間で高く評価され、ギターが一時的にサロン文化の中心的楽器となるきっかけを作ったと伝えられる。ジュリアーニは約150曲以上の作品を残しており、ギターのための協奏曲・ソナタ・練習曲・変奏曲・室内楽作品など多岐にわたる。特に代表作として知られるのが、《ギター協奏曲第1番 イ長調 Op.30》《ロッシーニ主題による変奏曲 Op.119》《右手のための120の練習曲(Etudes) Op.1》である。講座を通じて知った《120の練習曲》は、初級から中級の学習者が右手の運指(PIMA)やアルペジオの基礎を体系的に習得できる教材として、今日でも世界中のギター教育で用いられている。これはまさに現代ギター教育の原点と言えるらしい。ジュリアーニの音楽は、ウィーン古典派の透明で整然とした様式をギターに適用した点に特徴がある。彼はギターを単なる伴奏楽器ではなく、「旋律・和声・低音」を一台で奏でられる独立した楽器として位置づけた。旋律線が美しく、対位法的な書法や優雅な変奏が多く見られる。技術的には、右手の独立性・ポジション移動・分散和音の多様な使い方など、後世のギター奏法の基礎を確立した。ジュリアーニの影響は後のギタリストにも大きく、ソルやカルカッシらと並んで「クラシックギター黄金期」の代表的存在とされる。彼の作品は、古典派の端正な美しさとギター特有の繊細な響きを結びつけたもので、今日の演奏会でもしばしば取り上げられる。また、当時ギターがまだ「軽音楽的」と見なされていた中で、ジュリアーニはそれを芸術音楽の舞台へ引き上げた先駆者でもあった。マウロ・ジュリアーニは、クラシックギターを「芸術としての器楽」へと昇華させた最初期の巨匠である。彼の作品は技術的練習としても、音楽的洗練としても今日まで生き続けており、まさに「ギターの古典派」を体現した存在と言える。フローニンゲン:2025/10/28(火)05:09
17600. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、見慣れない部屋の中にいて、強い眠気が襲ってきたのでうとうとしていた場面があったのを覚えている。身体は別に疲労を抱えているわけではなく、しかし脳と体全体が深い休息を必要としているようだった。自分はその衝動に抗うことなく、深い眠りの世界に入っていった。深い眠りの世界から目を覚ますと、心身が全面回復しており、大変心地良かった。そして驚いたことに、気づけば学校の教室の中にいた。どうやら今は給食の時間のようで、同じ班の2人の女子生徒と1人の男子生徒と楽しく話をしている最中のようだった。自分は深い眠りから覚めたばかりだったので、3人が何の話をしていたのか把握しておらず、彼らに何の話をしていたのかを尋ねた。すると彼らは笑い出し、さっきから一緒にずっと話をしていたではないかと述べた。それを受けて私は愛想笑いを浮かべ、彼らの話に追いつくことにした。
もう1つ覚えているのは、見慣れないサッカーグラウンドで小中学校時代の友人たちとサッカーの練習をしていた場面である。そこではセンタリングを合わせる練習が行われており、自分はまずセンタリングを合わせる役としてゴール前に走り込んでボールを合わせることを楽しんでいた。ある友人が蹴ったボールは私たちの頭上を大きく超えて、グラウンドの奥にあるコピー室に入っていってしまった。自分はそのボールを拾いに行くことにし、コピー室の中に入ると、無性に鼻水がかみたくなり、近くにあった薄いビニール袋を何枚か手に取って鼻水をかむことにした。するとある双子の友人の兄がやって来て、自分がおかしな鼻水のかみ方をしていることを目撃し、正しいかみ方を教えてくれようとした。しかしそれくらいは自分も知っていたので、ビニール袋でかむのをやめて、近くにあったティッシュペーパーの箱からティッシュを数枚抜き取り、ちゃんとしたやり方で鼻水をかむことにして外に出た。するとすぐに自分の頭はサッカーモードに切り替わっていて、どうやったらセンタリングを綺麗にボレーで決められるのかのイメージを膨らませている自分がいた。フローニンゲン:2025/10/28(火)05:31
17601. 今朝方の夢の振り返り
時刻はまだ午前7時を迎えたところだが、この時間帯で早くも1時間半ほどのギターの朝練を終えて気分が高揚している。ここからも引き続き適度に休憩を挟みながらギターの練習をしていきたい。自分にとっては学術研究をすることや日記を執筆することは最良の休息となっている。
今朝方の夢の第一場面は、意識の層を深く潜行していく過程を象徴している。見慣れない部屋というのは、日常意識の領域ではなく、心理的にまだ統合されていない未知の内的空間を指している。その中で襲ってきた強い眠気は、単なる生理的な疲労ではなく、精神の深層が自己再生のために「沈潜」を求めている徴である。意識が抵抗をやめ、深い眠りに身を委ねた瞬間、外的な行為や思考の統制がほどけ、潜在意識の自己修復機構が働き始める。目覚めたときの「全面回復」という感覚は、心身の調和が一時的に回復したことを意味しており、それは単なる休息の再現ではなく、新しい認識の基盤が再構築されたことを示しているかのようだ。目を覚ました場所が「学校の教室」であることは象徴的である。学校は学びと成長の場であり、夢の意識構造においては「自我が再び社会的文脈の中に戻る場所」を意味する。給食の時間という穏やかで共同的な時間帯は、外界との関係性の回復と再統合を表している。しかし、周囲が自分よりも一歩先に会話の流れを掴んでいたという描写は、深層的再生の直後に生じる「軽いズレ」——内面の時間と外的社会の時間の非同期性——を象徴している。そのズレを「愛想笑い」で覆いながら周囲に追いつこうとする行為は、自己がまだ完全には社会的リズムに再適応できていないことを示唆している。つまり、深い内的眠りを経た後の自我は、外界と一時的に異なる波長で存在しており、それを調整する過程が会話に追いつく努力として描かれているのである。第二の場面で登場する「サッカーグラウンド」は、夢における行動的・創造的エネルギーの再起動を表している。サッカーは集団的な協調と瞬発的な判断を要するスポーツであり、自己の内外の統合を動的に試す象徴的舞台である。センタリングを合わせる行為は、他者との呼吸を合わせながら自己の目的を遂行する能力を示し、それが「楽しみ」として描かれている点に、意識の健全な社会的関与が回復していることが見て取れる。ところが、ボールが「コピー室」に飛び込むという展開は、象徴的転換を告げる。コピー室とは、再生・複製・写し取りの象徴空間であり、自分の本来の動きが一度模倣的・反復的領域に逸れていくことを示している。つまり、創造的リズムが一時的に模倣や習慣の次元に落ち込む瞬間である。その中で「鼻水をかむ」という生理的行為が挿入されるのは、精神的な浄化作用を示している。鼻は呼吸と嗅覚を司り、生命エネルギーの流入を象徴する器官である。それを「ビニール袋」でかむという奇妙な行為は、不自然で人工的な手段に頼る自己防衛的態度を暗示している。そこに登場する双子の兄は、自己の中の「理性的側面」や「補正機能」を象徴しており、誤った方法を正そうとする存在である。ビニール袋をやめてティッシュを使うという転換は、自然で正しい方法を取り戻すこと——すなわち、自己のリズムに忠実な再生——を意味している。鼻をかんだ後にすぐ「サッカーモード」に切り替わるという展開は、浄化の完了とともに再び創造的行為へとエネルギーが流れ出すことを示している。ここでの「ボレーで決めるイメージ」は、自己の行為が無意識的衝動ではなく、明確な意図とビジョンをもって遂行される段階への移行である。つまり、夢の後半は「内的統合を経た創造的再生」の過程を物語っているのである。この夢全体は、深層的休息→社会的再統合→行動的再生という三段階の構造を持っている。眠りの場面が内的再生、教室が対人関係の再調整、サッカー場が能動的創造の再開を象徴している。夢は、意識が日々の緊張と役割の層を脱ぎ捨て、自己の自然なリズムを取り戻す周期的なプロセスを映している。そして「鼻水をかむ」という一見些細な行為が、人工的な防御(ビニール袋)から自然な呼吸(ティッシュ)への回帰として描かれることにより、この夢は、自然体で生きることの再獲得という深いメッセージを放っている。人生における意味として、この夢は、成長や創造の前には必ず「沈潜」と「浄化」が必要であることを教えている。表面的な活動をいくら重ねても、心身の奥底が休息と再調整を求めているなら、真の創造は生まれない。深い眠りを経て新しい意識の地平に立つこと、それこそが持続的な変容の原型である。この夢は、外の世界に合わせようとするよりも、自らの内的リズムに耳を澄ませる勇気を促しているように思える。フローニンゲン:2025/10/28(火)07:14
17602. クラシックギターとジャズギターのそれぞれの魅力
クラシックギターとジャズギターは、同じ6弦の楽器でありながら、その音楽構造・演奏方法・楽譜の思想が根本的に異なる。両者の違いは単に弦の種類や音色だけでなく、「音楽をどう構築し、どう即興し、どう解釈するか」という芸術観そのものに及ぶ。クラシックギターは作品再現の芸術であり、ジャズギターは即興的再構築の芸術であると言ってよいだろう。まず、楽曲構造上の違いから考えてみる。クラシックギターの楽曲は、明確な作曲者が存在し、楽譜にすべての音が書き込まれている。バッハ、ソル、タレガ、ヴィラ=ロボスといった作曲家の作品は、譜面そのものが完成された音楽であり、演奏者はそれを忠実に再現しつつ、音色やフレージングで個性を表現する。曲の構造は形式的で、ソナタ形式、変奏曲形式、あるいは舞曲など、音楽的形式美を重視する。一方、ジャズギターでは、譜面はあくまで「骨格」にすぎない。テーマ(メロディ)とコード進行が書かれた“リードシート”をもとに、演奏者がその場で即興的に音楽を構築していく。つまりクラシックが「作品を演奏する芸術」なら、ジャズは「演奏が作品になる芸術」である。次に、演奏上の違いを見てみる。クラシックギターは、ナイロン弦を用い、右手のPIMA奏法によって音を分離的かつ多声的に表現する。親指が低音を、他の指が中高音を担当し、旋律・内声・ベースがそれぞれ独立して進行する。ここではポリフォニー(多声性)が本質であり、複数の旋律を同時に奏でることで「1人オーケストラ」のような響きを作り出す。したがって、即興よりも「声部の正確な運動」「音色の制御」「タッチの均質性」が重要視される。演奏の精度、音の透明さ、フレーズの方向性——これらが作品の完成度を決定する。これに対し、ジャズギターはスチール弦を使い、ピックまたは指を使ってコードとメロディを柔軟に組み合わせる。演奏ではリズムの揺れ(スウィング感)と即興の自由度が核心であり、リズム・タイミング・ノリのコントロールが最重要となる。和音はクラシックのように完全な3声や4声ではなく、状況に応じた「ボイシング(部分的和音)」で弾かれ、即興の際にはスケール理論やモード理論を用いて旋律をリアルタイムに構築していく。つまりクラシックでは作曲家の意図を再現するために精度を磨き、ジャズでは自分の耳と反応力で瞬間を作る。演奏に求められる身体感覚は、クラシックが「彫刻的」であるのに対し、ジャズは「対話的」である。音の扱い方にも顕著な違いがある。クラシックギターの音は「減衰」を意識して設計されている。音が消えていく過程そのものが表現の一部であり、演奏者は余韻・間・呼吸を通じて静寂と調和する。一方、ジャズギターの音はアンプやエフェクターによって「持続」と「空間拡張」が可能で、レガート奏法やスライド、ハンマリングなどを多用して音を流動的につなげる。クラシックが「一点一点を磨く芸術」なら、ジャズは「流れそのものを創る芸術」と言える。そして、楽譜の性質の違いも決定的である。クラシックギターの譜面は五線譜で細部まで指定され、リズム・音高・アーティキュレーション・ダイナミクスが全て明示されている。演奏者の解釈は音楽的装飾やテンポ感の範囲にとどまり、即興的要素はごく限られる。対して、ジャズの楽譜(リードシート)は、メロディとコードネームのみが書かれ、そこから演奏者が自由に解釈する余白を前提としている。同じ譜面を使っても、演奏者ごとにまったく異なる音楽が生まれる点に、クラシックとは正反対の文化がある。要するに、クラシックギターは「作曲家の内的構造を再現する芸術」であり、ジャズギターは「演奏者が瞬間的に構造を生み出す芸術」である。前者が譜面に内在する秩序を追求するなら、後者は音の流れの中で秩序を再創造する。クラシックの楽譜は「完成された絵画」であり、ジャズの楽譜は「即興の設計図」である。どちらも高度な音楽性を要するが、その方向は対照的だ。クラシックギターは静的な精密さによって永続する美を表現し、ジャズギターは動的な自由さによって瞬間の真実を描く——両者の差異とは、音楽が「記録されるもの」か「生まれ続けるもの」かの違いに他ならないのではないかと思う。フローニンゲン:2025/10/28(火)07:21
17603. 音楽理論の学び方の工夫
ギターに関する音楽理論の書籍を読む際に、実際にギターで音を鳴らしながら学ぶことは、抽象的な理論を体験知に変えるための極めて効果的な方法である。理論だけを読んで理解したつもりになっても、それは頭の中で完結する観念的知識に過ぎず、音楽的な実感を伴わない。音楽理論の本質は、音と感覚の関係を理解し、演奏の中でそれを即座に応用できるようにすることにある。ギターという触覚的・視覚的な楽器を介して理論を確認することで、知識が身体的な直感として定着していく。まず最も重要なのは、理論を読むことではなく鳴らすことで理解する姿勢である。例えば、スケール理論を学んでいるとき、紙上でドリアンやミクソリディアンの構造を眺めるだけでは、各音の個性や緊張感を実感することは難しい。実際にギターで弾いてみて、どの音が落ち着きをもたらし、どの音が不安定さや推進力を生み出すのかを耳で確かめる必要がある。理論書の一行を読むたびに、それを音に変換し、「この音がこのスケールの〇度なのか」「この和音はどんな響きを作るのか」と、五感を総動員して確認する。この反復こそが、理論の血肉化である。また、ギターで音を鳴らすことの利点は、音と形の結びつきを可視化できる点にある。ギターはピアノのように音が直線的に並んでいないため、同じ音が複数のポジションで現れる。この構造は一見複雑だが、音楽理論を実践的に理解する上でむしろ有利である。なぜなら、和音やスケールを異なるポジションで試すことで、音の構成と響きの多様な関係性を体感的に把握できるからである。例えば、同じCメジャーコードを異なる位置で押さえて鳴らしてみると、響きの密度や明るさが微妙に変化する。この微差の理解こそが、抽象的理論を実際の音楽表現に変える鍵となる。学習の工夫としては、「理論書の内容を一つの実験課題に変える」という発想が有効である。たとえばコード進行の章を読んでいるなら、実際にその進行をギターで弾き、異なるボイシング(和音の配置)を試してみる。スケールの章なら、1つのスケールを使って簡単なメロディを即興的に作る。リズムの章であれば、理論上の拍子の説明を読みながら、右手で異なるストローク・パターンを実践してみる。こうして「読む」「弾く」「聴く」を往復させることで、理論が静的な知識から動的な知恵へと変化していく。さらに、音を鳴らす学習では「内耳(inner ear)」の育成が大切である。ギターを弾く前に、理論で示されたコードやスケールの音を頭の中で鳴らす練習をする。次に実際に弾いて、予想した響きとのズレを確認する。この過程を繰り返すことで、理論的知識と聴覚的イメージが一致していき、音楽的直観が研ぎ澄まされていく。これは単に耳が良くなるということではなく、音楽理論を生きた思考として扱えるようになるということである。また、日々の練習の中で理論的テーマを設定するのも効果的だ。例えば、「今日はサブドミナント・マイナーを使ったコード進行を探求する」「今日はリディアンモードの響きを聴き比べる」など、小さなテーマを持って音を鳴らすことで、学習が具体的な探究の場となる。理論は正解を暗記するものではなく、音の性格を自分の耳で確かめるための羅針盤である。結局のところ、ギターで音を鳴らしながら理論書を学ぶとは、文字情報を音響体験へと翻訳する作業であり、思考と感覚を往復させる知的実践である。ギターという楽器は、その構造的複雑さゆえに、抽象理論を具体化する格好のメディアとなる。書かれた理論を音にし、響きを確かめ、再び理論に戻る——その螺旋的プロセスを通じて、理論はもはや外在的な知識ではなく、指先と耳に宿る「生きた理解」として結晶していくのである。フローニンゲン:2025/10/28(火)11:40
17604. クラシックギターのストラップを受け取って
つい先ほどUPSを経由して届けられたクラシックギターのストラップを受け取ってきた。そこまで行くのに歩いて片道1時間と表示されていたので、家のオーナーのペイトラさんに連絡し、今は亡きフレディさんの自転車を貸してもらった。そのおかげで片道15分に短縮され、今日は天気が良かったので、フローニンゲン郊外の牧歌的な風景を楽しみながらサイクリングがてらそれを受け取りに行った。久しぶりに放牧されている馬や牛を見て随分と心が和まされた。フレディさんの自転車に乗りながら、彼から見守られているような感覚がし、フレディさんとかつて盛り上がった幾度にもわたるクラシック音楽話を思い出していた。無事に受け取ったストラップはスペイン産のもので、「RightOn! Straps」というメーカーが作っている。それはヴィーガン仕様で、動物の命を一切傷つけておらず、仏教徒としての自分の考え方と合致したゆえにそれを購入した。早速ストラップをつけて演奏をしてみると、指板がこれまでとは違った景色で見えて驚いた。そして、難解なFコードも以前よりも弾きやすくなっており、これまではギターの位置と角度が最適なものではなかったことに気付かされた。これからは学術研究の時と同じくずっと立ってギターの練習ができることが有り難い。兎にも角にも座ることは寿命を刻一刻と縮め、健康を害することがすでに科学的にも明らかになっているため、ギター演奏も立って行うことができて有り難く思う。
クラシックギターで「クラシックの曲のように即興演奏する」ことと、ジャズにおける即興演奏とは、見た目にはどちらも自由に弾いているようでいて、その自由の成り立ちがまったく異なる。両者は即興という同じ言葉を共有しながらも、その背後にある音楽的文法、目的、時間感覚が根本的に違う。クラシック的即興は「構造の中で自由を見いだす芸術」であり、ジャズ的即興は「自由の中に構造を生み出す芸術」である。まず、クラシックギターにおける即興とは、既存の作品を模倣・変奏・再構築する形で行われる。例えば、ソルやタレガのエチュードを基盤にしながら、テンポ、和音、アルペッジョの型を変えて即興的に展開する。これは「作曲家の思考を追体験する」行為に近い。クラシックの即興では、あくまで調性・和声・形式という枠組みが存在し、その中で旋律や装飾を変化させていく。したがって、演奏者は無秩序に音を選ぶのではなく、クラシック音楽の文法に忠実な自由を行使している。例えばモーツァルトやバッハも、演奏会で即興的にカデンツァを弾いたが、それは曲の構造を壊すものではなく、むしろその内部から新たな可能性を引き出すものであった。クラシック的即興とは、秩序に内在する創造である。これに対し、ジャズギターの即興は、秩序を自らの感性によってその都度構築していくプロセスである。クラシックが形式を前提に自由に動くのに対して、ジャズは自由の中に形式を瞬間的に作る。その根底にはブルースのリズム、スウィング、テンション、モード理論などのリアルタイム生成の文法がある。ジャズの即興者は、与えられたコード進行を参照点にしながら、スケールを瞬時に選び、音の方向性を決める。旋律はその瞬間に生まれ、同じ曲でも二度と同じ演奏はない。ジャズの即興では感情と知性の瞬間的統合が重視され、演奏そのものが作曲行為に等しい。クラシックギターでの即興とジャズの即興のもう1つの違いは、音の時間的扱い方にある。クラシックの即興では、時間は構造的時間であり、作品全体のバランスと調和を壊さないように構築される。演奏者は一音一音を空間に配置し、時間を彫刻するように扱う。一方ジャズの即興では、時間は流動的時間であり、リズムの流れの中で音を投げ込み、相互作用を生む。クラシックが静的な建築なら、ジャズは動的な対話である。クラシックでは次に何が来るかは形式によって予期されるが、ジャズでは何が来るかは音が導く。この時間の質の違いが、聴き手に与える感覚の差を決定づけている。さらに、クラシック的即興は旋律の変奏に重きを置くのに対し、ジャズ的即興は和声とリズムの再構築に重きを置く。クラシックではモチーフを展開し、変奏曲や即興的カデンツァとして流れを生む。これはベートーヴェンやショパンの「即興曲(Impromptu)」にも通じる考え方で、音の展開は常に主題との関連性を保っている。一方ジャズでは、コードの機能(トニック、ドミナント、サブドミナント)を即興的に置き換えたり拡張したりして、同じ進行を無限に変化させる。クラシックが旋律を中心に世界を構築するのに対し、ジャズは和声とリズムの化学反応から世界を創造するのである。そして決定的な違いは、「即興がどのように記譜されるか」にも表れる。クラシックの即興はしばしば記録され、後に定型化して楽譜となる(例えばタレガの《アルハンブラの想い出》もトレモロ練習から生まれた即興的発想だった)。一方ジャズの即興は、原則として楽譜に完全には定着しない。リードシートにはコード進行とテーマがあるだけで、その瞬間の演奏が本質である。つまりクラシックの即興は保存される芸術、ジャズの即興は消えていく芸術だと言える。総じて、クラシックギターでの即興とは、長い伝統の中で培われた形式と和声を身体に刻み、その内部で自由に呼吸する行為である。ジャズの即興は、外的形式を解体し、音そのものの流れの中で新しい秩序を創る行為である。前者は構造の中の自由、後者は自由の中の構造。クラシックギターが音の宇宙を再発見する即興であるなら、ジャズギターは音の宇宙を創造する即興なのである。フローニンゲン:2025/10/28(火)14:40
Today’s Letter
I am captivated by impromptu playing. With continuous practice, I will be able to do it at will in the future. Once I reach that realm, I am curious to see and feel what awaits there. Groningen, 10/28/2025

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