【フローニンゲンからの便り】17542-17545:2025年10月17日(金)
- yoheikatowwp
- 6 時間前
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タイトル一覧
17542 | ギターとピアノの双方における自由自在な即興演奏の境地を目指して |
17543 | 楽器の習得にクリティカルエイジは存在するのだろうか? |
17544 | 今朝方の夢 |
17545 | 今朝方の夢の振り返り |
17542. ギターとピアノの双方における自由自在な即興演奏の境地を目指して
時刻は間もなく午前6時を迎える。今日も旺盛にギターの練習をし、それと並行して良遍の漢文文献の註釈論文の執筆に向けた準備を進めていく。先日ふと、ピアノとギターの両方で「自由自在に即興演奏できる境地」に到達することはどれだけ大変なのかについて考えていた。それは自分の理想的な姿でもある。しかし現実には、その境地に到達している人は極めて少数に限られるだろう。なぜなら、ピアノとギターは構造も奏法も理論的思考も大きく異なり、それぞれに独自の習熟プロセスが必要だからである。ピアノは横に広がる鍵盤で音階が直線的に配置され、和声の把握や両手の独立性を通じて豊かなポリフォニーが可能である。一方ギターは縦横に広がる指板上で同じ音が複数のポジションに存在し、ポジション感覚やフィンガリングの選択が即興性に直結する。この2つを同等に習得し即興に生かすことは、脳に2つの言語体系を同時にインストールするような試みである。実際に両方の楽器で高度な即興ができる人は、ジャズやフュージョンの世界でもごく限られており、たいていは一方をメインとし、もう一方を補助的に使うことが多い。クラシックやロックではさらに希少で、プロレベルで両方を即興的に弾きこなす演奏家はほとんどいないと言ってよいのではないだろうか。したがって目標は非常に高いが、到達すれば稀有な存在になれるのも事実である。自然言語と比較することは難しいだろうが、2つの外国語の双方でネイティブレベルになるようなイメージだろうか。それはあながち間違った比喩ではないだろう。では両楽器でその境地に達するには何が必要なのだろうか。第一に、共通の音楽言語としての理論力である。和声、スケール、モード、リズム理論を徹底的に習得し、抽象的な音楽地図を脳内に描く。これがあれば、ピアノでもギターでも同じ理論的基盤の上で即興を構築できる。第二に、身体感覚の統合。ピアノでは左右の手を独立して動かし、ギターでは左手のポジション感覚と右手のピッキング・ストロークを瞬時に同期させる必要がある。両楽器での練習は、単に指を鍛えるのではなく、音と身体の反応を結びつける「自動化」の過程を積み重ねることになる。第三に、耳と感性の徹底的訓練。即興の本質は理論を超えた瞬間の選択にあり、それを可能にするのは耳の反応速度と音への直観的理解である。ピアノとギターで同じフレーズを弾き、聴き比べ、調性や音色が変化しても感情的な流れを途切れさせない訓練が有効である。年数の目安を考えると、片方の楽器で即興的自由を得るには、毎日の鍛錬で最低でも5~10年は必要とされる。両方に取り組む場合、その時間は単純に二倍になるわけではないが、並行して学ぶには相当の覚悟が求められる。現実的には、一方の楽器で高い即興力を確立してから、もう一方に移行する方が効率的である。例えば、ピアノで和声的視野と両手の独立性を身につけてからギターに応用すると、理論の転用が容易になる。逆にギターでポジション感覚と微細なニュアンス表現を磨いてからピアノに移れば、音の選択に柔軟性が増す。両方を真剣に極めるなら、合計で15~20年ほどの修練を覚悟する必要があるだろう。結論として、ピアノとギターの双方で自由自在な即興演奏を実現することは極めて難しいが不可能ではない。その道は、音楽理論を共通基盤とし、身体感覚と耳の反応を二重に鍛える長いプロセスである。そしてその稀少な境地に到達した者は、文化や楽器の枠を超えた「普遍的な音楽家」として独自の存在感を放つことになるだろう。フローニンゲン:2025/10/17(金)06:02
17543. 楽器の習得にクリティカルエイジは存在するのだろうか?
楽器の習得には、確かに年齢による生理的・神経的な差は存在するが、それが「クリティカルエイジ(臨界期)」のような絶対的な制約として働くわけではないようだ。言語の獲得においては、脳の可塑性が高い幼少期に音韻認識や文法処理の神経経路が形成されるため、臨界期を過ぎると母語並みの発音や流暢さの獲得は難しくなるとされる。これに対して、楽器演奏は運動技能と知的理解、感情表現を統合する活動であり、成人以降も脳の可塑性が保持されている領域が多く、特に意図的な練習を通して神経回路を再編できることが研究でも示されている。したがって、40歳以降であっても適切なアプローチを取れば、確実に上達することができる。まず意識すべきは、「量より質」への転換である。若年期は反復練習によって自動化を促すことが容易だが、成人期では短時間でも集中した練習を設計的に行うことが重要になる。具体的には、「何を」「なぜ」「どのように」弾くのかを常に意識し、エラーを無意識に繰り返さないようにする。これは心理学者アンダース・エリクソンが提唱した熟達理論にも通じ、明確な目標と即時フィードバックを伴う練習が脳の再編成を促進する。次に重要なのは、身体感覚と注意の統合である。40歳以降になると筋肉や関節の柔軟性が低下しがちだが、その分、身体感覚に対する自覚的コントロールが高まる傾向にある。したがって、若者のように速さを追求するのではなく、動きの「効率性」や「余分な力の抜き方」を学ぶことで、滑らかで持続的な演奏を実現できる。演奏を単なる動作の連続ではなく、呼吸・重心・意識の流れとともに1つの全体的プロセスとして体験することが大切である。さらに、メタ認知的な学習姿勢を持つことが上達の鍵となる。成人は抽象的な理解力が高く、音楽理論や構造分析を通じて「なぜそのように弾くのか」を論理的に把握できる。コード進行やスケールを理解し、それを即興や表現に結びつけると、単なる模倣から創造的演奏へと進化する。このとき、理論を知識としてではなく「身体化された知」として実践に結びつけることが重要である。また、感情表現とモチベーションの源泉を明確に持つことも大きい。年齢を重ねると、自己の感情世界がより深く、複雑に発達しているため、単純な技巧よりも音への想いや物語性を込めることで、演奏の深みが生まれる。これは若年期には得難い成熟の表現であり、音楽を「自己理解と他者への共感を媒介する言語」として捉えることができるようになる。最後に、継続の仕組み化が上達を左右する。40歳以降は時間的制約が増えるため、短時間でも「毎日触れる」ことが習慣化の鍵となる。神経可塑性の観点からも、頻度の高い刺激が学習の定着を支える。したがって、親友のメルヴィンが行っているように、1日15分でも構わないので、同じ時間帯に練習するリズムを作り、達成感を得ながら少しずつ負荷を上げていくのがよいだろう。要するに、40歳からの楽器学習は、若者のように速さや量で競うのではなく、意識・身体・感情・知性を統合した全人的な学びとして展開することでこそ深まると言えるのではないだろうか。音楽は脳の若さを取り戻す最良の「精神のジム」であり、人生経験を音に変える芸術的修行でもある。今自分はその修行に楽しく日々従事している。フローニンゲン:2025/10/17(金)06:13
17544. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、小中学校時代のある友人(AW)と穏やかな雰囲気の空間の中で話をしている場面があった。彼には兄弟姉妹が多く、彼は上から2番目で、下の子供たちの世話を家の中で行っていた。彼は兄弟姉妹に対してとても優しく面倒を見ていて、その姿勢に心を打たれるものがあった。彼は兄弟姉妹の面倒を見ることに並行して、自分の勉強をしっかりと毎日進めており、その姿勢にも感銘を受けた。彼と話をしていると、こちらも色々と考えさせられることが多く、今の自分には面倒を見るような人はおらず、自分の探究に専心できるのだから、もっと没頭して探究活動に取り掛かろうと気持ちを新たにした。
もう1つ覚えているのは、小中学校時代のある女性の友達(MK)と男性の友達(KM)と大きく開放的な大学教室のような場所で話をしていたことである。2人としばらく話していると、教室にある中年の仏教僧がやって来た。どうやらその人は海外の大学院に行って仏教を専門的に学び直したらしく、そこでの体験と自らの専門分野について講演をしてくれた。その話は自分にとって大きな刺激となった。その方いわく、確かにその方は仏教僧としてこれまで長らく研鑽を積んでいたが、大学院に留学することによって、これまでと違う環境で、特にアカデミックな環境で深く仏教と向き合えたことは自分にとっての最大の財産であると述べていた。特に仏教書の原著とじっくり向き合ったことによって初めて気づいた事柄や得られた洞察が無数にあったとのことで、その方の話はまさに自分が考えていることと合致していた。講演を聴き終えた後、やはり自分も海外の大学院に留学して、そこでしっかりと仏教を研究していこうと気持ちを新たにした。講演の後に同じ建物の2階にあるカフェに立ち寄った。そこでは2人の女性友達と遭遇したので、彼女たちの席の横に座ることにした。すると、オーダーしていないスイーツが届けられ、普段スイーツを全く食べない自分はどういうわけか、久しぶりにスイーツを食べてみたいという気持ちになっていた。フローニンゲン:2025/10/17(金)06:46
17545. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は、自分の内面的成熟と探究心の深化を二重の構造で示している。前半の場面では、小中学校時代の友人AWが象徴的存在として現れる。彼は多くの兄弟姉妹を世話しながら、自らの勉学にも励む姿を見せていた。そこには「他者への配慮と自己探究の両立」というテーマが潜んでいる。つまり彼は、自分の内面世界の中で、すでに統合されつつある「利他」と「自己実現」の両極を体現している存在である。自分がその姿勢に心を打たれたのは、他者への献身を通じて自らの成長を促すという仏教的な慈悲のあり方が、自己の中で再び意識化されようとしているからである。彼が子どもたちを見守る姿は、まるで自分の内にある未熟な部分や発達途中の心的要素を育てる“内的教師”のメタファーでもある。自分が「彼のように面倒を見る人はいない」と感じた瞬間、それは外的な他者への依存を離れ、自己の内的子どもを養う段階に入ったことを意味する。したがってこの場面は、自己統合への道程の初期段階を映し出しており、内的ケアと知的精進の融合を促す呼びかけであると読めそうだ。後半の場面では、大学教室という「知の空間」において、過去の友人たちと共にいる自分が描かれる。そこへ現れるのは、海外の大学院で仏教を学び直した中年の仏教僧である。この僧は、自分の未来像、あるいは成熟した自己の投影として登場している。彼が語る「異なる文脈の中で原典と向き合う重要性」は、まさに自分がいま歩もうとしている学問的旅路そのものを肯定している。その言葉を聴くことによって「自分も留学し、学問として仏教を探究する」という決意を新たにする場面は、内的啓示の瞬間である。夢の中での講演は、実際の学問的出来事ではなく、象徴的な“通過儀礼”としての意味を持つ。それは、仏教的修行者から学術的研究者へという「知の位相の転換」であり、伝統的修養の道と現代的探究の道を架橋するための内的通行証として現れたものである。講演後に登場するカフェの場面は、知の場から感覚と享受の場への移行を意味している。ここで“スイーツ”が差し出されるという出来事は、理性優位な自分の内面に、感覚的充足や遊びの要素が再び流れ込む徴である。普段スイーツを食べない自分が「食べてみたい」と感じたことは、抑制されていた感性の回復を象徴する。つまり、知的追求に偏りがちな自己に、生命的な甘味=「味わうこと」を再び許すという心理的緩和のプロセスである。この瞬間、探究と享受、知と感性が調和を取り戻し、全体的な自己が再び呼吸を始める。総じてこの夢は、「知的成熟と感性的再統合」という二重のテーマを軸に展開している。前半の友人AWは、内なる慈悲の側面と自律的努力の調和を象徴し、後半の僧侶とスイーツの場面は、知の深化と感性の再生を表している。自分は今、外界の喧騒を離れ、内なる慈悲・知性・感性の三層を再統合する局面にいる。夢の最後に示された「甘味を受け入れる自分」は、学問や修行の厳しさの中にあっても、人生を“味わう”余裕と柔らかさを取り戻した新たな段階への通過を意味している。この夢の人生的意味は明瞭である。すなわち、自分は他者を支える慈悲の心と、自らを探究する知の志、そして生を味わう感性とを三位一体として統合すべき段階にいるということである。学問も修行も最終的には「生を深く味わう智慧」に還る。したがってこの夢は、今後の人生において、学問的精進と感性的充足を対立させることなく、両者を1つの流れとして生きるよう促す啓示的夢である。フローニンゲン:2025/10/17(金)07:10
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