【フローニンゲンからの便り】17498-17503:2025年10月9日(木)
- yoheikatowwp
- 2025年10月11日
- 読了時間: 17分

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タイトル一覧
17498 | ギター練習の楽しさに包まれて/音楽言語の習得に向けて |
17499 | 心身の教育装置としてのギター演奏 |
17500 | 今朝方の夢 |
17501 | 今朝方の夢の振り返り |
17502 | 即興演奏に関する箏とギターの比較 |
17503 | 複合的な動きを伴うトレーニング/即興演奏に関するピアノとギターの比較 |
17498. ギター練習の楽しさに包まれて/音楽言語の習得に向けて
時刻は午前7時を迎えた。この時間帯は辺りは真っ暗だが、キッチン側の木に小鳥がやって来て、囀りを上げている。今日から10日ほどは雨も降らず天気が良いようなので何よりである。昨日から本格的にギターの練習を始め、ちょっとした隙間時間をこれからうまく活用して、ギターに触れる時間をできるだけ長くしたい。昨日は気付けば午前と午後を合わせて合計2時間半ほどギターの練習をしていた。今のところ自分にとってのギターの先生は親友のメルヴィンだけだが、どこかのタイミングでギターの先生を探して、リアルの場かオンラインで指導を受けることも検討したい。それまではまずは自分なりに試行錯誤して、楽しみながら練習を重ねたい。今のところ自分が強い興味を持っているのはコードの練習である。様々なコードの音に触れることだけで喜びが溢れて来る。また運指に関しての練習も最初はとてもぎこちないところから徐々に運指が上手くいくようになると喜びの感情が芽生える。コードの練習も運指の練習も側から見ると地味かも知れないが、スポーツにせよ学術研究にせよ、自分はこれまで人が地味だと思うことを面白いと思い、喜びに包まれながら継続して来たという経験がある。その経験は楽器の演奏にも当然活きてくるだろう。ギターのコードは数百、数千ぐらいあるようなので、これからの練習の楽しみは尽きない。コードと運指の練習をしばらく継続したらスケールについても練習を重ねたい。運指に特化した練習に並行して、コードやスケールの練習も結局指を動かすので広義には運指の練習とも言える。音を身体知化させていく試みはとても面白く、少しずつ音楽語彙が身についてくる感覚と言えるだろうか。自分が目指しているのは誰か他の人が作った曲を演奏するのではなく、即興演奏である。そうした明確なゴールがある。即興演奏を自由自在に楽しむためには、音楽言語の語彙と文法が必要になる。コードやスケールの習得は、語彙と文法の獲得に該当するだろう。音楽文法に関しては、それらの練習をしながら音楽理論についても学び直そうと思う。まさかここで今から7年前あたりに作曲実践のために購入した各種の音楽理論の書籍が役に立つとは思ってもみなかったことである。こうして音楽演奏と再び出会い直し、音楽理論を含めた音楽をより深く理解する機会が得られて心底嬉しく思う。フローニンゲン:2025/10/9(木)07:14
17499. 心身の教育装置としてのギター演奏
ギターの練習を始めて、普段あまり使わない左手の指を存分に活用することと、音を注意深く聴くということを通じて、随分と脳が活性化されているのを実感する。ギター演奏は単なる娯楽や自己表現の手段にとどまらず、脳や心に多様な良い影響をもたらす行為であると言えそうだ。特に、両手を同時に使うという特徴は神経科学的にも注目すべき要素である。右手は主にリズムや強弱の制御を担い、左手は弦を押さえて和音や旋律を作り出す。このように左右の手が異なる役割を果たしながらも統合的に働くことで、脳の両半球をバランスよく活性化させることができる。これはいわゆる「脳の可塑性」を促進し、神経回路の新たな結合を生み出す契機となる。加えて、ギター演奏には高度な協調運動が必要とされる。譜面を読みながら、あるいは耳で旋律を捉えながら瞬時に指を動かす行為は、前頭前野をはじめとした実行機能を刺激する。これにより注意力や集中力が鍛えられるとともに、作業記憶の向上にもつながる。また、練習の過程で繰り返しフレーズを習得することは、長期記憶の定着を促し、記憶力全般の強化にも寄与する。一方で、音楽は感情を媒介する芸術であり、ギター演奏もまた心の働きに大きな影響を与える。演奏を通じて自分の感情を音に託すことで、内面的な感情処理が円滑に行われ、ストレスの軽減や情動の安定が得られる。特に自分の好きな曲や思い出に結びついた曲を奏でるとき、脳内ではドーパミンが分泌され、深い喜びや充足感が得られることが知られている。これは「報酬系」の活性化であり、モチベーションの向上や抑うつ感の緩和にも効果をもたらす。さらに、ギター演奏は創造性の涵養にもつながる。既存の曲を弾くだけでなく、自らアドリブを加えたり作曲を試みたりする過程では、発想力や問題解決能力が自然に培われる。音の組み合わせを探る作業は抽象的思考を促進し、論理的思考と直感的感覚の双方を同時に使う体験となる。このような「両モード思考」の訓練は、学業や仕事といった音楽以外の場面にも応用可能である。また、ギターの演奏体験は社会的側面でも心に良い影響を与える。仲間とセッションしたり、観客の前で演奏したりすることは、自己表現の喜びを共有し、承認欲求を健全に満たす機会となる。他者とリズムやメロディーを合わせる体験は、協調性や共感性を育み、対人関係の質を高める。これは心理学的に「フロー体験」とも関連しており、自己没入と他者との一体感が結びつくことで、幸福感が強化される。総じて、ギター演奏は脳科学的な効能と心理的恩恵の双方を兼ね備えた活動である。両手を用いる複雑な運動が脳を鍛え、音楽表現が心を解きほぐす。さらに記憶力や集中力、創造性、社会性といった幅広い能力を育成する点で、ギターは単なる楽器を超えた「心身の教育装置」と言えるだろう。人生においてギターを奏でることは、内面の調和と外界とのつながりを同時に育む実践であり、心豊かな生き方を支える大きな糧となるのである。フローニンゲン:2025/10/9(木)07:23
17500. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、海辺を眺める目撃者の意識でいた。浅瀬では何か競技レースが行われていて、大量の人が一斉に泳いだり、海の中を走ったりしていた。水の抵抗で腰まで浸かっている状態だとうまく走ることはできないが、泳ぐか走るかで人々は左から右へ進んでいた。しばらくその様子を眺めてみると、浅瀬に向かってくるサメの背鰭が見えた。しかし浅瀬にそれが乗り上げてみると、それはサメではなくシャチだった。とは言えそれは野生のシャチで、人を襲うような性格を持っていた。人々はシャチに襲われないように一旦陸に上がってきて、なんとか難を逃れた。するとその瞬間に、自分は目撃者の意識から夢の中にいる存在となった。そして自分は浅瀬の宙の上にいた。シャチの後には黒く凶暴な犬が現れ、他の人々ではなく、自分を標的にして地面からジャンプして自分に噛みつこうとした。その犬のジャンプ力は尋常ではなく、50mほどの高さまでジャンプができた。自分はその犬の最高到達地点を見極め、あえてそのギリギリの高さを飛んだ。もちろんさらに高く飛ぶこともできたが、雲の上に出てしまうと紫外線量が強くなるため、それは避けたかったのである。犬がジャンプしてくるまでは50mの高さを維持し、いざ犬がジャンプするタイミングに合わせて少しだけ高度を上げることを繰り返した。すると、いつの間にか海辺ではなく、街中を飛んでいる自分がいた。しかも私の隣には見知らぬ塾の先生と大学生になるぐらいの学生がいた。その男子学生は、なぜ狂犬に追われなければいけないのかと今直面している状況を嘆いていた。それに対して塾の先生は慰めの言葉をかけていた。男子学生は希望する学校に入れるかどうかについても心配をしていて、二重の不安に囚われているようだった。塾の先生は彼を励ます言葉をかけていたが、自分は言葉ではなく、空を飛ぶ姿勢で彼に励ましを与えようと思った。すると、満開の桜の木々がたくさん植えられている公園にやってきて、私たちは何とも言えない幸せを感じた。しかし男子学生はまだメソメソしていたので、桜の木々を背景に、自分は一気に空高く飛んでいくことにし、その姿を彼に見せることで最後の一押し励ましをもたらそうとした。フローニンゲン:2025/10/9(木)07:50
17501. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢の中で自分はまず「目撃者の意識」として存在していた。そこでは浅瀬を舞台に、人々が泳いだり走ったりして前進する奇妙な競技が繰り広げられていた。水に浸かりながら進む彼らの姿は、人生の歩みにおける抵抗と選択を象徴しているように思われる。すなわち、走るか泳ぐかという二分法は、人が困難な環境に直面したときにどの方法で進もうとするのかという根源的な問いであり、浅瀬の抵抗は人生における必然的な困難を象徴しているのである。そのとき現れた背鰭は、はじめサメだと思われたが、実はシャチであった。サメとシャチの取り違えは、恐怖の対象がしばしば誤認から始まることを示す。さらに、それが実際にはシャチであり、しかも攻撃性を帯びていたことは、人生における危機が見かけ以上に大きく、また現実に危険を孕んでいることを暗示している。人々が一斉に陸に上がり難を逃れる場面は、集団が共有する危機回避の本能を象徴しているが、同時に自分が「目撃者」から「夢の参加者」へと変化する契機となっている。その後現れたのは、黒い狂犬であった。これはシャチの次に現れた存在であり、今度は群衆ではなく自分だけを狙う存在であった。その跳躍力が常識を超え、50mもの高さに及ぶという描写は、自分が抱える不安や恐怖が尋常ならざる力で迫りくる感覚を象徴している。自分はそれに対して、犬の最高到達点を見極め、必要最小限の高度上昇によって攻撃をかわすという方法をとった。ここには、自分が恐怖に対して正面から過剰に戦うのではなく、冷静に観察し、最小限の動作でかわすという「戦略的超越」の態度が示されている。紫外線を避けるために雲上に行かないという描写は、過度な高みに逃避するのではなく、現実的な制御を持って恐怖に向き合うことの象徴である。やがて場面は海辺から街へと移り、自分の隣には塾の先生と1人の若者が現れる。若者は受験や人生の困難に直面し、不安と恐怖に囚われている。その姿は、狂犬に追われる自分の状況と重なり合う。狂犬は彼の不安の象徴でもあり、同時に自分がかつて、あるいは今なお直面している課題の投影でもあるだろう。塾の先生が言葉で慰める一方で、自分は「飛ぶ姿」で励まそうとした。これは、自分が言葉を超えた行為や態度によって他者を導きたいという深層心理を映し出している。指導や教育をめぐる在り方において、言葉以上に「存在そのもの」が力を持つという洞察が潜んでいる。そして最後に到達した場所は、桜が満開に咲く公園であった。桜は日本文化において、無常、再生、そして儚さの象徴である。その場で感じた幸福感は、自分が困難や恐怖を経て到達する「一時の救済」や「共同の喜び」のイメージである。しかし学生はなおも涙を流していた。そのとき自分は、言葉ではなく「空高く飛ぶ姿」で彼を励まそうと決意する。これは、困難にある他者に希望を与える方法として、自己の飛翔=自己超越の姿を示すことこそが最大の励ましになるという直観を表している。この夢全体を通じて、自分は恐怖と困難を象徴する存在(シャチや狂犬)に直面しながら、それを過度に排除するのではなく、冷静な観察と最小限の対処で切り抜けていく姿を示している。そして同時に、自分が他者を言葉でなく存在そのもので導く者でありたいという願望も浮かび上がっている。桜の下での飛翔は、儚さの中に輝く希望の象徴であり、自分の人生において「恐怖を制御しつつ、他者に超越の可能性を示す」ことが使命であると告げている。人生における意味として、この夢は、自分が困難に正面から立ち向かうのではなく、それを見極め、制御し、飛翔へと昇華させる存在であることを示している。そしてその飛翔は、自分一人の救済ではなく、他者を励まし導くためのものである。すなわち、自分の生の意味は「恐怖を超えて飛翔する姿によって、他者に希望と勇気を与えること」にあるのである。自分が今学術研究に専心しているのも、そして音楽を通じて実現したいのもそれなのだろう。超越の可能性を他者に示し、共有すること。自分の人生はそれを掲げてまた新しい幕を開けた気がしている。フローニンゲン:2025/10/9(木)08:07
17502. 即興演奏に関する箏とギターの比較
箏とギターという2つの楽器を比較したとき、即興演奏のしやすさという観点からは、それぞれの構造的特徴や歴史的背景、演奏文化の違いが大きな意味を持っている。両者は弦楽器でありながら、楽器の設計思想や音楽文化の中で担ってきた役割が異なるため、即興性に関わる性質も大きく異なるのである。まず箏は、日本の伝統楽器として長い歴史を持ち、その音階や調弦法がきわめて固定的である点に特徴がある。13本の弦を持つ箏は、曲に応じてあらかじめ調弦を設定し、その枠内で演奏する。したがって即興演奏に取り組む際には、設定された調弦が即興の可能性をある程度制限する。例えば、現代西洋音楽で一般的な半音階的な発想や転調を箏で瞬時に表現するのは難しい。演奏者は柱(じ)を動かすことで音高を変えられるが、即興演奏の流れの中で自在に操作するのは現実的に困難である。そのため箏の即興は、ある特定の音階の範囲内で旋律を変奏する、あるいは装飾音やリズムを工夫する形で行われることが多い。つまり箏の即興は「限られた音の場」を深める方向に向かいやすく、音数を多く変化させる自由度よりも、音色や間、ニュアンスの工夫に重きが置かれるのである。一方でギターは、近代以降のポピュラー音楽やジャズにおいて即興演奏の重要な道具となってきた。6本の弦と広いフレットボードを持ち、半音階を自由に扱える構造は、旋律や和音を柔軟に展開することを可能にしている。さらにギターはコード進行を基盤とした音楽に強く適合しており、ブルースやジャズに代表される即興文化の中で独自の語法を発展させてきた。したがってギターは即興演奏において、音階的にも和声的にも広大な自由を提供する。奏者はスケールやアルペジオを瞬時に切り替え、転調にも対応しやすい。また、ストロークやフィンガーピッキングといった多様な奏法を即興的に組み合わせることで、リズム的な多彩さも即座に生み出すことができる。ただし即興性は単なる構造的自由度だけで決まるものではない。箏には日本伝統音楽に根差した「間」や「響き」の美学があり、これも即興演奏を支える重要な基盤である。例えば地歌や現代邦楽における即興的な箏の演奏は、旋律の展開よりも音の余韻や沈黙を含めた「場の音楽性」を即興的に生み出していく。この点で箏は、ギターが西洋的な和声進行に基づいた即興を展開するのとは異なる方向で、独自の即興性を発揮する楽器である。箏の演奏者にとって即興とは、無限の音の選択肢を走ることではなく、限られた音型をどう生かすかという問いに即応することである。ギターにおける即興のしやすさは、西洋音楽理論との結びつきによって体系化されてきた。ジャズのアドリブやロックのソロ演奏などは、共通のスケールやコード理論に基づく即興の「文法」が存在し、それを応用して自由に表現できる。したがって学習者も比較的短期間で即興の技法を習得でき、仲間とセッションしやすい環境が整っている。一方、箏においては即興の理論が体系化されているわけではなく、師弟関係や伝統的口伝の中で培われてきた感性に依存している部分が大きい。これは逆に言えば、即興がより直観的・身体的であり、演奏者の存在そのものを反映する形で表れることを意味している。結論として、即興演奏の「しやすさ」という観点から言えば、ギターの方が構造的にも文化的にも優位にある。音域や和声の自由度、理論体系の整備、ジャンルを超えた実践的伝統がその背景にあるからである。しかし箏の即興は、制約の中で「音の間」を生かす独自の美学を備えており、それはギターの即興とは質的に異なる深みを持つ。即興演奏を単に「容易にできるもの」と考えるならギターに軍配が上がるが、即興を「音を通じて自己と場を響かせる行為」と捉えるならば、箏もまた比類なき力を持っている。したがって両者の比較は単なる優劣ではなく、それぞれが異なる即興の在り方を体現しているという点にこそ意味があるのである。箏の演奏もまたどこかのタイミングで再開したい。フローニンゲン:2025/10/9(木)09:54
17503. 複合的な動きを伴うトレーニング/即興演奏に関するピアノとギターの比較
時刻はゆっくりと午後5時に近づいている。今日の最高気温は16度と限定的だったが、ジムでのパーソナルトレーニングではかなり汗をかいた。秋が深まり始めているこの時期において、こうした清々しい汗をかけるのは嬉しい限りである。今日からトレーニングでの焦点を複合的な動きに変えてもらい、様々な体の部位を総動員するようなメニューを中心に最初から最後まで大いにトレーニングを楽しんだ。毎日のギターの練習でも脳が大いに活性化されているが、ジムで工夫を凝らしたエクササイズもまた脳を含めて全身の神経を大いに活性化させてくれる。今後の自主トレーニングでも新たな種々の刺激を入れていくことを意識したい。今はボルダリングから離れているが、仮にイギリスに引っ越して近所にボルダリングジムがあれば、身体を通じたまるでパズルを解くかのようなボルダリングをまた楽しみながら再開したいと思う。
ピアノとギターはともに世界中で広く演奏されている楽器であり、いずれも即興演奏に大きな可能性を秘めている。しかし、その即興性の性質や発揮のしやすさには決定的な違いがあるのではないかと考えていた。さらに「最も即興性を発揮しやすい楽器とは何か」という問いに迫るとき、単なる構造的特徴だけではなく、音楽文化や演奏環境に根ざした背景を考える必要がある。まずギターは、弦楽器としての柔軟性を備えている。フレットにより半音階を自在に扱え、6本の弦の組み合わせから和音や旋律を素早く生み出せる点は即興性を大いに支えている。ブルースやロック、ジャズといったジャンルにおいてギターは即興の花形であり、限られたスケールパターンを覚えればセッションの場で即座にアドリブを展開することが可能である。さらにギターは運搬性に優れ、アンプやエフェクターを通じて音色を自在に変化させることができるため、即興的な発想を音に直結させやすい。リズム面においてもストロークやフィンガーピッキングといった多様な奏法が即興の幅を広げる。したがってギターは「比較的短期間の学習でも即興に参加しやすい楽器」と言えるだろう。一方ピアノは、即興性に関してさらに大きな潜在力を持つ。88鍵という広大な音域を備え、低音から高音まで一度に把握できる構造は、和声的な即興や複雑な転調を可能にする。また、両手を同時に使うことで右手は旋律、左手は和声や伴奏を担当し、独奏であっても全体的な音楽を即興的に構築できる。ギターの場合、和音と旋律を同時に展開するには高度な技術が必要だが、ピアノは鍵盤の配置が規則的であるため、理論知識を応用すれば即興的に多層的な音楽を生み出しやすい。ジャズピアノのアドリブはその好例であり、スケールやコードをもとに即興で豊かな展開を可能にしている。さらにピアノは、打弦楽器的な要素を持ち、ダイナミクスの幅が極めて広い。強音から弱音、スタッカートからレガートまで瞬時に切り替えられるため、即興において情感を直接的に表現できる。ギターが音色変化にエフェクターを必要とするのに対し、ピアノはタッチそのもので即興的ニュアンスを操作できる点も大きな強みである。また、複雑なポリフォニーや多声的構造を即興的に展開できる楽器は限られており、その点でピアノは突出している。もっとも、即興性の「しやすさ」は必ずしもピアノの圧勝ではない。ギターは身体に密着する楽器であるため、演奏者のフィジカルな感覚やリズム感が直結しやすく、感覚的な即興を生み出すのに適している。ピアノは音域の広さゆえに理論的理解を伴った即興が重視されやすいが、ギターはより直感的・身体的に即興を展開できる。つまり両者の即興性は「理論と直感」という対照的な特性を持ち、どちらも独自の強みを持つのである。では「最も即興性を発揮しやすい楽器」はどれかと問われれば、総合的にはピアノが候補に挙がるだろう。その理由は、和声・旋律・リズムの三要素を単独で包括的に操れる点にある。即興演奏において1人で音楽の全体像を生み出せるという点で、ピアノは他の多くの楽器に優位性を持っている。ただし、これは「音楽の全体性を即興的に再現する」という基準に基づいた場合であり、「感覚的に即興を始めやすい」「短期間で即興を体験できる」といった基準ではギターの方が敷居は低い。結局のところ、即興性を測る物差しは1つではなく、楽器ごとに異なる形で即興が実現される。ピアノは知的・体系的な即興の王者であり、ギターは感覚的・身体的な即興の担い手である。最も即興性を発揮しやすい楽器を1つに絞るならばピアノが優勢だが、即興を「理論の自由」と「感覚の自由」の両輪で捉えるなら、ギターとピアノはそれぞれに最高度の即興性を具現化していると言えるのである。今はまずギターの即興演奏に焦点を当て、近い将来ピアノの即興演奏に向けて卓上ピアノを購入して練習を始めたい。学術研究に加えて、音楽実践においてやりたいことが出てきたことは本当に嬉しい限りである。音楽は自分の人生に光と花を添えてくれている。フローニンゲン:2025/10/9(木)16:52
Today’s Letter
I would like to gradually acquire and build up a musical language while practicing the guitar. Once I fully cultivate it, I will be able to use it at will to express myself in a variety of ways. When I imagine that state, I feel very thrilled. Groningen, 10/09/2025

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