【フローニンゲンからの便り】18344-18349:2026年3月12日(木)
- 2 時間前
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タイトル一覧
18344 | エディンバラ大学への進学の意向を固めて |
18345 | 今朝方の夢 |
18346 | 今朝方の夢の振り返り |
18347 | 論文を書くための読書へ |
18348 | 仏教研究を本業として |
18349 | 引っ越しに際しての本の断捨離 |
18344. エディンバラ大学への進学の意向を固めて
時刻は午前5時半を迎えた。今の気温は5度で、昨日よりも気温が低い。一昨日にエディンバラ大学からオファーをいただき、その翌日の昨日にはオックスフォード大学から連絡があり、今回はご縁がなかったようである。ロンドン大学SOASとエディンバラ大学は共に魅力的な研究環境を提供しているため、昨日はどちらの大学院に進学しようかと悩んでいた。今日も午後には十分に時間を取って、じっくりと進学先を検討したい。今の所、ロンドン大学SOASからはルシア・ドルチェ教授が異動してしまうことと、それに伴って日本仏教の授業がなくなってしまったこともあり、エディンバラ大学が提供する研究環境により魅力を感じている。エディンバラ大学では仏教思想のみならず、日本思想の授業まで提供されており、さらには関心を寄せ続けている仏教倫理に関する授業もある。そうしたことからエディンバラ大学の仏教プログラムからは得るものが非常に多そうである。仮にオックスフォード大学に進学していたら、授業として古典中国語の授業を二つか三つ履修する必要があり、それは漢文読解能力を高める上で非常に有益だと思うが、その分自分の関心に真に寄り添った研究に従事することは難しかっただろう。オファーをいただけなかった理由はわからないが推測するに、日本仏教の専門家がオックスフォードには一人もおらず、部分的にであれば他分野の教授からも論文執筆の指導をしてもらえたのだろうが、その点おいて指導教官とのマッチングがうまくいかなかったのではないかと思われる。ウェスターホフ教授やシャニ博士から指導をしていただくことは非常に魅力的だったが、二人はそもそも仏教学科には属しておらず、神学科所属であり、仏教学科の方に自分の研究をサポートしてくれる教授がいなかったことがオファーをいただけなかったことの大きな理由の一つかもしれない。博士課程と同様に、今回の大学院出願においては、とりわけ論文執筆における指導教官の存在が大きな鍵を握っていたように思われる。エディンバラは非常に素敵な街であり、落ち着いて学問に打ち込める環境があることを昨年の訪問の際に実感していた。今日の午後には指導教官候補の先生に連絡をし、そこから家探しなど、できることを始めていきたい。また、すでにどのような授業を履修するかも決めているので、シラバスに沿って早速必読文献を購入して読み始め、エディンバラ大学に進学する前に、履修予定の授業のファイナルペーパーのドラフトを執筆してしまおうと思う。それくらいに論文執筆に飢えている。それらのファイナルペーパーは、担当教授の指導を受けて、査読付き論文まで質を高めていきたい。フローニンゲン:2026/3/12(木)05:49
18345. 今朝方の夢
昨夜はどの大学院に進学するかについてあれこれと考えていたため、少し寝つきが悪かったが、知恵熱のようなものを感じながら次のような夢を見ていた。まず覚えているのは、現在ゼミで一緒に学んでいるある受講生の方と学術研究についての話をした後に、その方が赤いドレスを着た綺麗な女性と一緒に晩餐会に出かけていく姿を見届けていたことである。その方も正装をし、とても格好良く着飾っており、二人はお似合いのカップルのように見えた。その女性についても顔見知り程度ではあったが知っていたので、二人のこれからの幸せを願った。すると、ゼミの別の受講生の方と帰り際に遭遇した。驚いたことに、何とのその方も自分と同じくエディンバラ大学へ留学をすることになったそうだった。私にとってみればそれはとても嬉しい知らせだった。その方の人柄と知性には本当に敬意を表しており、その方と仮に同じ大学で学ぶことになれば、時折話をすることを通じてお互いの研究がさらに前に進んでいくことを思った。その方と私の専攻は異なっていたので、お互いの研究分野についてより知れる最良の機会でもあった。その方と別れた後に、気づけば実際に通っていた中学校の校舎の中にいた。そこでもある友人(SS)と遭遇し、彼が留学するかどうかについて考えていたことを思い出し、彼にその結果について尋ねた。彼曰く、今年は留学ではなく、まずは出願に向けて英語の勉強に力を入れるとのことだった。きっと彼であれば、ここから努力を継続していけば、いつ必ず留学の道が開かれるだろうと思った。
目覚める直前に見ていた場面として、自宅の風呂場に現れた黒く大きな蜘蛛が現れた場面を覚えている。その蜘蛛はとても大人しく、こちらに危害を加えてくる様子は全くなかった。毒蜘蛛ではないようだったので、いつものように放置しておき、害虫を駆除してもらう仲間および共存者としようと思ったが、幾分大きかったこともあり、水をかけて小さくして排水溝に流すことにした。ところが水をかけてもあまり小さくならず、ぬるま湯をかけたところ、ようやく大きさが小さくなり、それによって排水溝に流れていくかと思いきや、突然姿を消した。その瞬間に夢から覚めた。フローニンゲン:2026/3/12(木)06:21
18346. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢の全体構造は、進路選択という知的緊張の只中にある精神が、自らの未来像と人間関係、そして内面的な不安や潜在的課題を象徴的な物語として編み上げているもののように思われる。寝つきの悪さや知恵熱のような感覚は、思考が過度に活性化した状態を示唆しているようであり、その状態のまま眠りに入ることで、意識の深層が研究者としての未来を様々な象徴に託して表現した可能性があるように思われる。最初の場面で印象的なのは、ゼミの受講生が赤いドレスの女性と晩餐会へ向かう光景である。この場面は、学術的共同体の中でそれぞれが異なる人生の方向へ進んでいくことを象徴している可能性があるように思われる。赤いドレスという華やかな色彩は、知的世界の外側にある人生の豊かさ、すなわち愛情や社交、成功などを示しているのかもしれない。自分はその二人を見送る立場にあり、その幸福を静かに願っているのであるから、これは他者の人生を祝福しつつも、自分自身は別の道、すなわち研究という道へと歩む覚悟を確認している場面であるとも解釈できそうである。研究者という存在はしばしば華やかな社交の中心にいるわけではなく、むしろそれを少し離れた場所から見つめながら自分の道を進む者である。その姿勢がこの場面に象徴されている可能性がある。続くエディンバラ大学への留学を巡る場面は、未来の知的共同体の象徴であるように思われる。同じ大学で学ぶ可能性を知ったときに喜びが生まれるのは、研究という営みが本質的に孤独でありながら、同時に対話によって豊かになる営みであることを示しているようである。専攻の違いがむしろ刺激となり、互いの研究を前進させる契機になると感じている点は、学問が単なる専門知識の蓄積ではなく、異なる知の交差によって深まるものであるという理解を反映している可能性がある。この場面は、自分の未来における理想的な研究環境のイメージを示しているように見える。その後に舞台が中学校へ移ることは、時間の層が過去へ遡る象徴的な移動のようである。中学校という空間は、多くの場合、人間が自己形成の初期段階を過ごした場所であり、人生の原点を象徴することが多い。そこで友人と再会し、留学の準備について語り合う場面は、努力の時間と成長の過程を象徴している可能性があるように思われる。すぐに留学するのではなく、まず英語の勉強を続けるという選択は、遠回りのようでいて実は最も確かな道を歩む姿勢を示しているようにも感じられる。夢の中でその努力を信じている自分の感情は、研究や人生の道においても同様に、時間をかけた積み重ねが最終的に道を開くという確信を映し出している可能性がある。夢の最後に現れる黒い大きな蜘蛛は、この夢の中でも最も象徴性の強い存在のように思われる。蜘蛛は多くの文化において、知恵や運命の編み手を象徴する存在であることがある。特に蜘蛛が巣を張る姿は、思考や知識を糸のように編み上げる知性の象徴として理解されることがある。この蜘蛛は攻撃的ではなく、むしろ静かにそこに存在しているだけである。そのため、この蜘蛛は外的な脅威ではなく、自分自身の内面に存在する知的エネルギーや問題意識を象徴している可能性があるように思われる。最初は共存しようと考えている点から、この存在は本来は自分の味方であり、研究や思索を支える力であると感じているようにも見える。しかしその蜘蛛を水で流そうとする場面は、知的な緊張や不安を処理しようとする心の動きを象徴している可能性がある。水をかけても小さくならず、ぬるま湯をかけるとようやく縮むという過程は、問題や不安が単純な方法では解決せず、少し柔らかいアプローチを取ることで初めて変化することを示唆しているようにも見える。そして最終的に蜘蛛が突然消えるという展開は、問題が消滅したというよりも、意識の視界から一時的に退いたことを意味しているのかもしれない。この夢全体を通して見えてくるのは、人生の分岐点に立つ研究者の心の風景であるように思われる。他者の幸福を祝福しながら自分の道を歩む姿勢、未来の学問共同体への期待、努力を重ねる時間への信頼、そして内面に潜む知的緊張との向き合い方が、一つの物語として編み上げられているのである。人生における意味として考えるならば、この夢は、自分がこれから歩む学問の道が単なる進学やキャリアの問題ではなく、人との出会い、時間をかけた成長、そして内面の知性との対話によって形づくられていく長い旅路であることを静かに示唆しているのかもしれない。フローニンゲン:2026/3/12(木)07:19
18347. 論文を書くための読書へ
自分は博士課程への進学を真剣に検討しており、今回で四つ目の修士号となり、さらには仏教に関する文献も数多く読んできた。おそらくエディンバラ大学の一年間の修士課程では、もちろん課題文献はしっかり読むが、読むよりも論文を執筆することに力を入れたほうが賢明であるように思われる。博士課程への進学を真剣に視野に入れている場合、修士課程の一年間をどのように使うべきかという問題は極めて重要である。とりわけ仏教学のような人文学分野では、知識の量だけでなく、それをどのように論証として構成できるかが研究者としての評価を決定づける。その意味において、修士課程の時間配分を読むことに重点を置くのか、それとも論文を書くことに重点を置くのかという判断は、研究キャリア全体に影響する戦略的な選択であると言える。一般的に、博士課程の選考において最も重視される要素は三つである。研究テーマの独自性、指導教員からの強い推薦、そして研究能力を直接示すライティングサンプル、すなわち論文である。人文学の分野では、とりわけこのライティングサンプルの質が決定的な意味を持つ。どれほど多くの文献を読んできたとしても、その読書量そのものは審査者には見えない。しかし、論文は研究者の思考力、論証力、そして資料の扱い方を具体的に示す成果として提示される。そのため、博士課程への進学を目指す場合、修士課程の期間は単なる知識の蓄積ではなく、論文を書く能力を集中的に鍛える時間として位置づけることが合理的である。もちろん、文献を読むこと自体の重要性は言うまでもない。仏教学の研究は、一次資料と既存研究の精密な理解の上に成り立つ。しかし、研究の実践において重要なのは、読むことそのものではなく、それをどのように論文の中で活用するかという点である。研究者の読書は必ずしも網羅的である必要はなく、むしろ明確な問題意識に基づいた選択的な読書であることが多い。つまり、論文を書く過程の中で必要となる文献を集中的に読むという形で読書が行われるのである。この意味において、読むことと書くことは対立するものではなく、むしろ後者に従属する形で前者が機能するのが理想的である。特に一年制の修士課程では時間が限られているため、研究活動の優先順位を明確にする必要がある。もしすでに相当量の基礎文献を読んできている場合には、新たに読書量を増やすことよりも、論文を書く経験を積み重ねることの方が研究者としての成長に直結することが多い。実際、質の高い論文を書くためには試行錯誤が不可欠であり、最初から完成度の高い論文を書くことはほとんど不可能である。多くの場合、最初の論文では論点の整理が十分ではなく、二本目、三本目と書く中で議論の構造が徐々に明確になっていく。このような経験を積み重ねることによって、はじめて博士課程出願に耐えうるライティングサンプルが完成する。また、修士課程の大きな利点の一つは、指導教員から継続的なフィードバックを受けながら研究を進められる点にある。博士課程では研究の自由度が高まる一方で、指導の密度は必ずしも高くない場合も多い。そのため、修士課程の段階で積極的に論文を書き、その過程で指導教員との議論を通じて研究を磨いていくことは、研究者としての訓練として非常に有効である。とりわけ仏教学の分野では、修士論文の一部がそのまま学術論文として発展する例も少なくない。このように考えると、修士課程における研究活動の理想的な形は、読むことを減らすことではなく、読むことを論文執筆のための手段として位置づけることであると言えるだろう。つまり、研究テーマを明確に設定し、その問題を論証するために必要な文献を精密に読むという形で研究を進めるのである。この方法によって、読書は単なる知識収集ではなく、論文の議論を強化するための具体的な作業となる。特に、すでに複数の修士課程を経験し、多くの仏教文献を読んできた研究者にとっては、新しい知識を増やすこと以上に、国際的な学術論文として議論を構成する能力を磨くことが重要な課題となる。その意味において、修士課程の一年間を「読書中心の時間」として過ごすよりも、「研究成果を形にする時間」として活用する方が、博士課程進学に向けた準備としてはより効果的である可能性が高い。結局のところ、研究者にとって読むことは不可欠な基盤であるが、それ自体が目的ではない。読書は思考の材料であり、論文はその思考が形を取った成果である。博士課程を目指す研究者にとって、修士課程の一年間は知識を増やすための時間というよりも、自らの思考を論証として組み立て、それを学術的な文章として表現する能力を鍛えるための時間であると考えることができるのである。フローニンゲン:2026/3/12(木)09:46
18348. 仏教研究を本業として
仏教研究を本業として位置づけ、成人発達理論の研究と出版を趣味的な領域として扱うという判断は、研究キャリアの構造という観点から見ると十分に合理性を持つと考えられるのではないかと思った。むしろ、長期的な学術活動を安定して継続するための戦略としても理解できる。まず学術界の基本構造を考えると、研究者としての専門性は通常、一つの明確な領域によって定義される。大学や研究機関において研究者が評価される際には、専門分野がはっきりしていることが重要である。仏教学、とりわけ唯識や法相といった特定の思想史領域を中心に研究を展開する場合、研究テーマ、使用する言語能力、一次資料の読解力、そして学術コミュニティとの関係が一つの体系として形成されていく。そのため、研究者としての「本業」を仏教研究に置くという方針は、専門性を明確にするという意味で非常に自然な選択である。仏教研究は、特に文献学的研究や思想史研究の場合、長期的な蓄積を必要とする分野である。サンスクリット、漢文、日本語の古典文献などを扱いながら思想体系を精密に分析するためには、継続的な研究時間が不可欠であり、研究テーマも数十年単位で深まっていくことが多い。このような分野では、研究者が自らの主要テーマを早い段階で定め、それを軸に研究を進めることが望ましい。その意味で仏教研究を中心に据えるという判断は、学術的キャリアの構造とも整合している。一方で、成人発達理論の研究や出版を趣味的な活動として位置づけることにも十分な意義がある。成人発達理論は心理学、教育学、リーダーシップ研究などと関係する学際的な領域であり、学術研究としても重要な分野ではあるが、仏教学とは研究コミュニティも方法論も大きく異なる。もし両方を同時に本業として扱おうとすると、研究者としての専門領域が曖昧になる可能性がある。しかし趣味的あるいは副次的な研究として扱う場合には、むしろ自由度の高い知的活動として活用することができる。このような二層構造にはいくつかの利点がある。まず、知的活動の多様性を保つことができる点である。仏教研究は文献解釈や思想史的分析が中心となることが多いが、成人発達理論は現代社会の問題や人間の成長に関わる理論であるため、研究のアプローチや思考のスタイルが異なる。この二つを並行して考えることは、思考の柔軟性を維持することにもつながる可能性がある。さらに、成人発達理論は社会との接点を持ちやすい分野である。書籍の出版や講演、教育活動などを通じて社会に知識を伝えることができるため、研究成果を社会に還元する一つの方法にもなる。仏教研究は学術的な深さを追求する分野である一方で、成人発達理論は実践的な知見として広く応用されやすい。そのため、本業と趣味の研究領域が相互に補完し合う形になる可能性もある。また、知的創造の観点から見ると、趣味としての研究活動は研究者にとって重要な役割を果たすことが多い。専門分野の研究は厳密な方法論や学術的基準に従う必要があるが、趣味的な研究はより自由な発想を許す。そうした自由な思考の中から新しいアイデアが生まれ、それが結果として本業の研究にも刺激を与えるということは珍しくない。歴史的にも、多くの研究者が複数の知的関心を持ちながら研究を続けてきた。このように考えると、仏教研究を中心とする学術的キャリアを構築しつつ、成人発達理論を趣味的・実践的な知的活動として続けるという構造は、専門性と自由な知的探究の両方を維持する方法として理解できる。それは単に時間配分の問題ではなく、研究者としての知的生活をどのように設計するかという問題でもある。専門分野を軸として深い研究を積み重ねながら、別の分野を通じて社会との接点や思考の広がりを保つという形は、長期的な研究活動を持続させるための一つの成熟した選択であると考えられる。フローニンゲン:2026/3/12(木)10:02
18349. 引っ越しに際しての本の断捨離
引越しの準備を進める中で、本の整理について考える時間があった。フローニンゲンからエディンバラへ移るにあたり、すべての本を運ぶのは現実的ではないため、いらなくなった本は寄付できないかと思い調べてみた。しかし、どうやら書き込みのある本は受け取ってもらえない場合が多いらしい。最初は少し意外にも感じたが、考えてみればそれはごく自然なことなのかもしれない。多くの寄付された本はチャリティーショップなどで再販売されることが前提となっており、ページに多くの線引きやメモがある本は一般の読者が手に取りにくい。特に学術書の場合、マーカーや書き込みが多く残っていることが珍しくないため、寄付としては受け取られにくいという事情も理解できる。とは言え、すぐに紙として処分するしかないわけでもなさそうだ。ヨーロッパの街には、誰でも自由に本を置いたり持ち帰ったりできる小さな共有本棚が設置されていることがあり、そこでは書き込みのある本でも問題にされないことが多いという。また、大学の学生コミュニティなどで「free books」として譲る方法もある。研究分野が近い人であれば、多少の書き込みがあっても気にしないどころか、むしろ前の持ち主の思考の痕跡として興味を持ってくれる場合もあるようだ。もしそれでも引き取り手が見つからなければ、最終的には紙としてリサイクルに出すことになる。オランダでは紙資源の回収と再利用の仕組みが整っているので、本も基本的には紙資源として循環させることができる。海外に移動する研究者の多くは、こうした機会に本棚を見直し、持っていく本と手放す本を選別していくという。確実にこれからの研究で使う本だけを輸送し、状態の良いものは寄付や譲渡に回し、再利用が難しいものはリサイクルに出す。そうすることで引越しの重量や費用も抑えられる。段ボール三十箱、あるいは四十箱に及ぶ本を前にしていると、これまでの読書や研究の時間が一つの形として積み重なっていることを実感する。しかし同時に、すべてを抱えて次の場所へ持っていく必要はないのだとも思う。本棚というものは、時間とともに少しずつ蒸留されていく知識の層のようなものなのかもしれない。また、書籍を紙としてリサイクルに出すという行為も、単なる処分ではなく、一種の「お布施」のような意味を持つのではないかとも感じる。紙は再び資源として循環し、また新しい本や紙製品として生まれ変わる。その循環の中に本を送り返すことは、知の素材を社会へと返納する行為のようにも思える。仏教的な感覚で言えば、これは執着を手放す小さな実践でもあるだろう。長く手元に置いてきた本に感謝しつつ、それを次の循環へと送り出す。その過程は、物理的な引越しの準備であると同時に、心の中の整理でもあるように思える。エディンバラでの新しい生活を前にして、本の断捨離は単なる作業ではなく、自分の研究のこれからを見つめ直す小さな儀式のようにも感じられている。フローニンゲン:2026/3/12(木)14:24
Today’s Letter
Establishing a harmonious rhythm between writing academic papers and playing the guitar before matriculating at the University of Edinburgh is essential. Once this rhythm is established, both my academic and creative pursuits will flow naturally and continuously. Groningen, 3/12/2026


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