【フローニンゲンからの便り】17344-17351:2025年9月6日(金)
- yoheikatowwp
- 9月8日
- 読了時間: 23分

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タイトル一覧
17344 | 無水調理に関心を持って |
17345 | 今朝方の夢 |
17346 | 今朝方の夢の振り返り |
17347 | 第148回のゼミナールのクラスに向けた予習(その1) |
17348 | 第148回のゼミナールのクラスに向けた予習(その2) |
17349 | 冬の時代のランニングの服装について |
17350 | ブライアン・グリーンの『The Fabric of the Cosmos』 |
17351 | ルース・カストナーの拡張トランザクション的解釈 |
17344. 無水調理に関心を持って
時刻は間もなく午前7時半を迎えようとしている。今朝方起床した時に寒さを感じたところ、外気が10度を下回っていたことに起因するのだとわかった。9月を迎えて間もないが、すでに最低気温も着実に低くなりつつある。しかし今日から3日間は最高気温に関しては20度を超えるため、非常に過ごしやすい日々を送ることができるだろう。
今朝方も冷水シャワーを浴びて、すっきりとした気分でいる。この新たな習慣以外に、毎晩の夕食の調理法についても見直してみようと昨日思った。これまでずっと野菜を電子レンジで調理していたが、栄養を壊さずに摂るために無水調理を今夜から行ってみようと思った。無水調理とは、水を加えず、食材からにじみ出る水分や油分を利用して加熱する調理法である。特に野菜はその大部分が水分で構成されているため、適切に火を入れることで外から水を加える必要がなく、素材そのものの持つ水分と旨味を生かすことができる。この方法の最大のメリットは、栄養素や風味の保持である。野菜を通常の煮込みのように多量の水にさらすと、水溶性のビタミン(ビタミンCやビタミンB群など)やミネラルが煮汁に流出してしまうが、無水調理ではそれらが食材内にとどまりやすい。また、水を加えないことで味が濃縮され、野菜本来の甘みや香りが強く引き出される。さらに、調味料を控えめにしても十分な旨味が得られるため、減塩・減脂の効果も期待できる。では、毎晩食べているジャガイモ、にんじん、紫キャベツ、玉ねぎ、ニンニク、椎茸を用いた場合の無水調理の方法を具体的に考えてみたい。まず大前提として、重厚な蓋付き鍋(鋳物ホーロー鍋や厚手のステンレス多層鍋)が必要である。これらは加熱時に鍋内を密閉し、野菜から出た蒸気を逃がさず循環させるため、無水調理に適している。手順としては、まず野菜を一口大に切る。ジャガイモとにんじんはやや厚めにカットしても良いが、火の通りを早くしたいので小さく切る。紫キャベツはざく切り、玉ねぎはくし形、椎茸は石づきを取り薄切り、ニンニクは潰すかみじん切りにする。次に、鍋底に火の通りにくい野菜から順に重ねていく。最下層に玉ねぎを敷くと自然な甘みがにじみ出て全体の旨味を底上げする。次にジャガイモとにんじん、その上に紫キャベツと椎茸を載せ、最後に香りづけのニンニクを散らす。塩を軽く全体にふっておくと、浸透圧により野菜から水分が出やすくなり、調理がスムーズに進む。加熱は弱火から始め、じっくりと鍋を温める。数分で蓋の内側に水滴が付き始め、野菜自身の水分が蒸気となって循環し始める。水分が十分に出たら中弱火で15~20分ほど加熱し、その後火を止めて余熱で蒸らす。ジャガイモに竹串が通るほど柔らかくなれば完成である。この調理法によって、それぞれの野菜の個性が引き出される。ジャガイモはほっくりとした食感に仕上がり、にんじんは甘みが強調される。紫キャベツは鮮やかな色を保ちつつ、柔らかくなって独特の香りを増す。玉ねぎはとろけるように甘くなり、全体のベースとなる。ニンニクは香ばしい風味を添え、椎茸はグルタミン酸を含むため旨味を大幅に増幅させる。このままでも十分な副菜になるが、仕上げにオリーブオイルやバターを少量加えるとコクが増し、レモン汁やビネガーを振るとさっぱりした風味になる。無水調理は調味料をほとんど使わなくても深い味わいが得られるため、食材そのものの個性を味わう「素の料理」として理想的である。栄養学的にも利点は大きい。水溶性ビタミンの流出を防ぐだけでなく、短時間の蒸らし加熱によって加熱損失も最小限にとどめられる。例えばジャガイモのビタミンCは水に溶けやすいが、無水調理では多くが保持される。にんじんのβカロテンは油と一緒に摂ると吸収率が上がるため、最後に油脂を加えると理想的である。椎茸のレンチナンや紫キャベツのアントシアニンも、過剰な水分に流されず保持されやすい。無水調理の魅力は、単なる調理法の1つではなく、食材の声を聴く姿勢にあると言えるだろう。外から余計なものを加えるのではなく、野菜がもともと持つ水分・栄養・旨味を最大限に生かす。そのプロセスは、自然の恵みをそのまま享受する感覚につながる。ジャガイモやにんじんの素朴な甘み、紫キャベツの彩り、玉ねぎやニンニクの香り、椎茸の旨味が1つの鍋の中で調和する光景は、料理を超えて自然の縮図のようでもある。結論として、無水調理は健康面・味覚面・調理哲学のいずれにおいても大きな意義を持つ。特に多彩な野菜を組み合わせることで、栄養バランスに優れ、視覚的にも華やかで、満足感の高い一皿が得られる。つまり無水調理は、素材を信頼し、自然の力を借りることによって、最小限の手間で最大限の豊かさを引き出す方法なのである。早速今夜から試してみよう。フローニンゲン:2025/9/6(土)07:39
17345. 今朝方の夢
今朝方は2つの夢を見ていた。まず覚えているのは、おそらくどこかの大学だと思われる建物の中で、大学時代の先輩が3人ほど自分の前を歩いていたので話しかけた場面である。3人の先輩は同じサークルに所属していて、学年も1つしか違わなかったので、普段から親しくさせてもらっていた。3人のうち2人は同じ学部だったこともあり、授業の選択や試験問題についてよく話を聞いていた。ちょうど学期末の試験が近づいてきており、先輩から情報をもらおうと思って話しかけたところ、いつも通り親切に色々なことを教えてもらえ、近日中に勉強会を開こうということになった。先輩に情報や知識を与えてもらうばかりではなく、こちらからも見返りに何かを提供しなければならないと思い、少なくとも自分が得意な科目については先輩に何か教えれるようになっておこうと思った。
もう1つ覚えている夢は、見慣れない浜辺を歩いていた場面である。自分の隣には小中学時代のある女性友達(YN)がいて、彼女と楽しく話しながら浜辺を歩いていた。ちょうど浜辺の端っこの岩場にやって来た時に、彼女がある秘密を打ち明けて来た。それはとても重要な話のように思え、他の人に聞こえていないか心配になったので、人目がつかない岩場の上の方に移動して話の続きを聞くことにした。しばらくそこで彼女から話を聞いていると、彼女は話をしたことによって気持ちが落ち着き、すっきりしたようで満面の笑みを浮かべていた。彼女とそこで別れて以降も海辺の場面は続きており、そこからも夢が展開をしていたが、具体的にはその内容を思い出すことができない。見知らぬ人と何かについて話をしていたような感覚だけが残っている。フローニンゲン:2025/9/6(土)07:48
17346. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢の第一の場面は大学の建物で先輩と再会し、学期末試験に備えて知識を交換するという筋立てである。この夢の中心には「知の循環」というモチーフがある。先輩から学ぶことに加えて、自らも提供しようとする姿勢が芽生えている点に注目すべきだろう。夢の中の大学という舞台は、単なる記憶の再現ではなく、象徴的に「学びの共同体」や「知的成熟の場」を示していると解釈できる。そこでは、一方的に受け取る存在から、与える存在へと移行する主体的な意志が強調されている。つまりこれは、人生のある局面において、もはや「弟子」としての立場だけではなく、他者に影響を与え、知を返還していく「教師」としての萌芽が意識の中に現れてきたことを意味するであろう。次に、浜辺の場面である。海辺という境界的な空間は、心理学的に「意識と無意識のあわい」を象徴することが多い。陸と海の接点としての浜辺は、既知と未知の境界、個人と集合的無意識の境界を指し示すのである。そこに小中学校時代の女性友達が現れるのは、自己の中でまだ統合されていない「幼き感情的記憶」や「純粋な関係性」の再来を表しているように思える。彼女が打ち明けた秘密は具体的に思い出せないが、夢において重要なのは言葉の内容そのものではなく、その「告白の場面」に付随する心的経験である。秘密の共有は、他者と自己の境界を越える親密さの象徴であり、また「聴く」という行為を通して自らの存在が相手に癒しを与えることを示している。さらに、彼女が笑顔で去る場面は、自己が他者に安心や解放をもたらし得る存在であるという深層的自覚を表す。その後に続く「見知らぬ人との会話」の感覚は、意識が既存の人間関係を超え、より広い人間世界との交流へと拡張していることを物語っている。具体的な内容を思い出せないという点こそ、無意識が未来の出会いや未知の対話を暗示的に孕んでいる証左である。すなわち、過去の記憶に根ざした親密さから出発し、それを超えて新たな関係性へと開かれていく心的旅路が展開されているのである。この2つの夢を総合すると、ひとつは「学びの共同性」において与える存在へと変化すること、もうひとつは「関係性の親密さ」において他者を癒す存在となること、という二重の成長が読み取れる。前者は知的次元での成熟、後者は情的次元での成熟を象徴している。そしてそれらは、いずれも「循環性」という根本原理に結びついている。知識は受け取るだけでなく与えることで循環し、感情は打ち明けられ、受け止められ、そして笑顔となって返されるのである。この循環の意識は、人生を一方向的な消費や獲得として捉えるのではなく、往還と相互作用の中で深まっていく存在理解へと導いている。したがって、この夢の象徴する人生的意味は、自らが「受ける者」から「与える者」へと移行しつつある転換点に立っていることにある。学びの場においても、人間関係の場においても、その中心には「循環を生み出す存在」としての自己が浮かび上がっているのである。すなわち、夢は「自己の成熟は与える行為によって完成される」という人生の深い真理を映し出しているのである。フローニンゲン:2025/9/6(土)08:10
17347. 第148回のゼミナールのクラスに向けた予習(その1)
今朝方は快晴に恵まれ、これから朝のジョギングに出かけるのが楽しみである。朝の冷水シャワーと朝のジョギングないしは散歩は、自分のウェルビーイングの根幹を支えている。
今日の第148回のゼミナールのクラスで扱う予定の5つの問いについて予習をしておきたい。まず最初の4問について見ておこう。問いとしては、「課題論文で用いられている「ミクロ発達(microdevelopment)」とは何を意味するか、マクロ発達(macrodevelopment)との違いを踏まえて説明せよ」というものだ。ミクロ発達とは、人間の認知や技能が瞬間ごと、あるいは短期的な学習過程の中でどのように変動し、再構成されるかを捉える概念である。これに対し、マクロ発達は年齢や発達段階といった長期的な時間スケールに基づき、比較的一貫した成長の流れを描き出すものである。従来の発達研究は主としてマクロ発達に焦点を当ててきたが、本論文は学習者が現実の課題に取り組む際の微細な変動を捉えることで、発達のダイナミックな性質を明らかにしている点に特徴がある。2つ目の問いは、「この論文で示された「動的変動(dynamic variation)」は、従来の発達理論が「誤差」や「ノイズ」として扱ってきた変動とどのように異なるかを説明せよ。また、それが発達研究においてなぜ重要なのかも述べよ」というものである。従来の発達理論においては、学習や課題遂行の中で観察される変動は、測定誤差やランダムなノイズと解釈されることが多かった。しかし本論文で論じられる「動的変動」は、そうした偶発的要素ではなく、むしろ発達過程そのものを反映する本質的な現象であるとされる。すなわち、変動は技能の崩壊と再構築を通じて学習が進展していることの直接的な証拠であり、学習者が文脈や支援に応じて柔軟に適応していることを示すものである。この視点を導入することで、発達研究は人間の認知が持つ非線形的かつ自己組織化的な性質を捉えることが可能となり、発達理論の枠組みを刷新することにつながるのである。3つ目の問いは、「ダイナミックスキル理論の構築過程において提示された「嗅覚で進む」「目を開く」「二本の足で歩く」「手を取り合う」という4つのメタファーは、単に理論発展の比喩にとどまらず、科学的知の構築観や発達観そのものを象徴していると考えられる。これら4つを統合的に解釈したとき、ダイナミックスキル理論が従来の発達段階論や静的能力観と根本的に異なる点は何であり、それは発達科学にどのような新しい研究パラダイムをもたらすと考えられるか」というものである。ダイナミックスキル理論の構築過程で提示された4つのメタファーは、それぞれ科学的知の生成過程と発達観の根幹を象徴している。「嗅覚で進む」は、固定的な理論枠に従うのではなく、観察と経験に基づき試行錯誤を繰り返す探索的科学観を示す。「目を開く」は、多様な学問領域や文化的視座を柔軟に取り込み、理論を閉じた体系ではなく開かれたシステムとして維持する態度を意味する。「二本の足で歩く」は、理論と方法の相補的統合を強調し、抽象的構造と経験的分析を不可分の関係として結びつける姿勢を表す。「手を取り合う」は、科学的知が個人の業績ではなく、共同体的・協働的営為として成立することを指し示す。これらを統合的に解釈すると、ダイナミックスキル理論は従来の発達段階論や静的能力観と根本的に異なり、発達を直線的・一方向的な進歩としてではなく、複数の要因が相互作用する中で非線形に生成されるプロセスと捉える点に特徴がある。発達は固定的な段階的移行ではなく、文脈・情動・社会的関係に応じて変動し続ける「動的構成」であると理解される。この転換は発達科学に新しい研究パラダイムをもたらした。すなわち、発達を「変動と安定の相互作用」としてモデル化し、学際的・協働的な探究を通じて多次元的に分析する方向性を切り開いたのである。4つ目の問いは、「ダイナミックスキル理論は、理論と方法の相互補完的統合を強調し、発達の不連続性や変動性を分析するために動的モデリングや微小発達研究を導入した。このアプローチは発達を「個人の内的成熟」として捉える従来の観点をどのように相対化し、また教育や臨床実践において「発達の評価」と「介入の設計」を再定義する可能性をどのように拓くと考えられるか」というものだ。ダイナミックスキル理論は、理論と方法の統合を強調し、発達を動的過程として分析するために動的モデリングや微小発達研究を導入した。これにより、従来の発達観、すなわち発達を「個人内部の成熟過程」として捉える静的理解は相対化される。発達は単なる生物学的成熟の結果ではなく、環境・文脈・感情・協働的相互作用が織り成す構成的プロセスであることが示されるのである。このアプローチは、教育や臨床実践における発達評価と介入設計の在り方を再定義する可能性を拓く。評価に関しては、固定的テストによって一度限りの能力を測定するのではなく、最適レベルと機能レベルの間に広がる発達範囲を捉える動的アセスメントが求められる。介入に関しては、学習者やクライアントの現在の水準を固定的に判断するのではなく、支援や文脈の調整によって潜在的能力を引き出す方向で設計する必要がある。つまり、発達は「すでにある能力」を測るのではなく、「環境との関わりの中で立ち上がる可能性」を開く過程として理解されるべきである。このように、ダイナミックスキル理論は発達科学を静的・段階的理解から解放し、変動性と不連続性を基盤とする新しい研究と実践の枠組みを提示しているのである。フローニンゲン:2025/9/6(土)09:47
17348. 第148回のゼミナールのクラスに向けた予習(その2)
今日は雲ひとつない快晴に恵まれたので、朝のジョギング兼ウォーキングは大変心地良かった。朝の冷水シャワーのおかげか、代謝が上がっていたために外に出かけた時の寒さは和らいでいた。朝に冷水シャワーを浴びれば、冬の時代も半袖半ズボンでランニングに出掛け、朝日をより体に浴びれるかもしれない。
今日のゼミナールのクラスで扱う最後の問題は難問で、「課題論文『Always Under Construction』における「成人の微小発達に見られる変動性」と、『The Development of Dynamic Skill Theory』における「ダイナミックスキル理論の構築過程(嗅覚で進む・目を開く・二本の足で歩く・手を取り合う)」という2つの論文の主題を比較せよ。その上で、「理論の構築過程における動的変動」と「成人学習における微小発達の変動」とが、どのように相似的であり、またどのように異なるのかを批判的に論ぜよ。さらに、この比較を通して、発達研究における「理論と実践の共進化」という視座をどう位置づけることができるかを答えよ」というものだ。『Always Under Construction』における成人の微小発達研究は、スキルの形成と変動が決して安定的・直線的なものではなく、常に範囲(range)、経路(pathway)、非同期性(asynchrony)を含みながら進行することを明らかにしている。成人の認知的活動は、課題や文脈に応じて頻繁に上下動を示し、スパートやドロップを経て再組織化される。これは学習者が常に「未完成」であり、状況に応じて構築し直され続ける存在であることを示すものである。一方で、『The Development of Dynamic Skill Theory』に描かれる理論構築の過程も、固定的な手順に基づくものではなく、「嗅覚で進む」「目を開く」「二本の足で歩く」「手を取り合う」というメタファーで表現されるように、探究と修正、方法と理論の往還、そして協働を通じた動的な生成過程であった。すなわち、理論それ自体が人間発達のように「常に建設途上」であり、観察・洞察・方法論的工夫・社会的協働によって支えられてきたのである。両者を比較すると、共通する相似性は明確である。成人の学習プロセスと理論構築プロセスはいずれも非線形であり、偶発性や変動を含みながら進行する。また、どちらも文脈や協働関係によって大きく左右される点で一致する。しかし、相違点も存在する。成人の微小発達における変動は主に個体の認知的・情動的資源と課題文脈との相互作用から生じるのに対し、理論構築における変動は研究者共同体の知的資源・学際的交流・歴史的文脈といった学術的生態系の中で現れる。したがって、前者は発達主体の内部における資源の統合を焦点とし、後者は科学共同体における知の統合を焦点とするという違いがある。この比較から導かれる重要な視座は、発達研究における「理論と実践の共進化」という観点である。すなわち、成人の学習と発達を理解するための理論そのものが、学習と発達のプロセスを映し出す鏡であるという認識である。人間の学びが常に変動し続けるように、理論もまた変動し続ける。研究者は学習者を分析するだけでなく、自らの理論形成を発達的営みとして省察する必要がある。これにより、理論と実践は一方向的に適用されるものではなく、互いに影響を与え合いながら成熟していく「共進化的プロセス」として捉え直されるのである。フローニンゲン:2025/9/6(土)10:20
17349. 冬の時代のランニングの服装について
午前中に考えていた冬の時代に極寒の中で半袖・半ズボンでランニングすることについて、それは確かに冷水シャワーと類似した「冷刺激(cold exposure)」の効果をもたらすが、まったく同一ではないと言えるだろう。冷水シャワーは水の高い熱伝導率により、皮膚から急速に熱を奪い取るため、短時間で強烈な交感神経刺激と代謝反応を引き起こす。皮膚血管は急速に収縮し、心拍数と血圧が上昇し、ノルアドレナリンやエンドルフィンの分泌が促される。この「急冷」の体験は、瞬時のストレス負荷として作用するのが特徴である。一方、氷点近い環境でのランニングは、空気を介した冷却であるため、水中ほどの急激な熱喪失はない。その代わり、筋運動による発熱が同時に起こるため、身体は冷却と発熱のバランスを取り続けようとする。このため、冷水シャワーよりは穏やかで持続的な冷刺激となり、末梢血流の収縮と筋肉の熱産生が同時進行する。心理的にも「冷たさに耐える受動的体験」である冷水シャワーに対し、「冷気の中で能動的に身体を動かす」体験は違った負荷となる。共通点としては、いずれも交感神経系の活性化、ノルアドレナリン分泌、免疫応答や代謝の刺激、メンタルの覚醒感などが報告されている。相違点は、冷水シャワーは短時間で急激なストレスを与える「瞬間的なリセット」の性格を持ち、極寒ランニングは心肺機能や持久力と結びついた「持続的な負荷訓練」の性格を持つ点にある。したがって、極寒ランニングは冷水シャワーの「一部の効果」を共有するが、それに加えて運動負荷・心肺持久力・代謝亢進の要素が強く絡み合うため、むしろ両者は補完的であると理解すべきだろう。冬のランニングは、冷刺激と有酸素運動の複合トレーニングであり、冷水シャワーは即時的な自律神経のスイッチとして機能する。結論として言えば、冬の極寒ランニングは冷水シャワーと似た覚醒・免疫・代謝の効果をもたらしつつ、さらに持久力訓練の要素を伴った「動的な冷刺激」であり、両者を組み合わせることでより幅広い効果を得ることができるのである。フローニンゲン:2025/9/6(土)13:37
17350. ブライアン・グリーンの『The Fabric of the Cosmos』
今日もまた1冊書籍を受け取った。それはイギリスから届けられたバーナード・デスパーニャの量子論哲学に関する専門書だった。先日注文した量子論・宇宙論関係の専門書の30冊のうち、これで27冊ほどを受け取ったことになる。
ブライアン・グリーン(Brian Greene)の『The Fabric of the Cosmos: Space, Time, and the Texture of Reality』は、現代物理学が描き出す「時空の本質」に迫る一般向けの科学解説書であり、彼の代表作『エレガントな宇宙』(The Elegant Universe)に続く大著である。本書の目的は、相対性理論から量子力学、弦理論、宇宙論に至るまでの最先端の知見をつなぎ合わせ、空間と時間という最も根源的な存在がどのような「織物」として成り立っているのかを描き出すことである。グリーンは、専門的な数式を排しながらも、精緻な比喩や物語的な語り口を通じて読者を物理学の核心へと導いている。冒頭でグリーンは、空間と時間が単なる「舞台装置」ではなく、物理的に実在するダイナミックな存在であることを強調する。ニュートン以来、空間は「空虚な容れ物」として、時間は「絶対的な流れ」として理解されてきた。しかしアインシュタインの相対性理論は、この直観を根底から覆した。空間と時間は独立したものではなく「時空」として一体化しており、物質やエネルギーによってその幾何が歪む。この視点によって重力は「万有引力」という力ではなく、時空の曲率として説明されるようになった。さらに量子力学は、時空の理解に新たな難問を突きつける。微視的スケールでは、粒子は確率的に振る舞い、位置や運動量は同時に確定できない。真空ですら「量子揺らぎ」に満ち、何もない空間が無限のエネルギーを潜在させていることが示唆される。この量子論的世界像と相対論的世界像をどのように統合するかが現代物理学の大きな課題であり、本書の中心的テーマでもある。グリーンはその統合理論の有力候補として「弦理論」を紹介する。弦理論によれば、物質の最小単位は点粒子ではなく振動する一次元の「弦」であり、その振動モードが異なることで電子やクォークといった多様な粒子が生じる。重要なのは、弦理論が自然に高次元空間を要請する点である。私たちが経験する三次元空間に加え、理論はさらに六次元や七次元が「コンパクト化」された形で存在しているとする。この発想は直観を超えるが、宇宙の統一的理解のために不可欠な要素とされている。また本書では「時間の矢」や「エントロピー増大則」にも大きく紙幅が割かれている。なぜ時間は過去から未来へと一方向に流れるのか、という古典的問題に対し、グリーンは熱力学第二法則と宇宙論的初期条件を結びつけて考察する。宇宙がビッグバンという極めて秩序立った状態から始まったために、エントロピーは増大し続け、私たちは時間の非対称性を経験するという説明である。この議論は「なぜ宇宙はこのように始まったのか」という哲学的問いとも直結し、本書の思索的側面を強めている。さらにグリーンは、ブラックホール情報パラドックスやホログラフィック原理など、量子重力論の先端的アイデアを紹介する。ブラックホールは情報を消失させるのか、それとも何らかの形で保存されるのか。この問題は量子論と一般相対論の矛盾を浮き彫りにし、ひいては「時空そのものの構造とは何か」という根源的問題に行き着く。ホログラフィック原理は、三次元的な宇宙の情報が二次元的な境界に符号化されている可能性を示唆し、時空の理解を一層深める視座を与える。総じて『The Fabric of the Cosmos』は、空間と時間を「与えられた背景」としてではなく、「動的で量子的な織物」として描き直す壮大な試みである。グリーンは物理学の最前線を紹介しながら、読者に「現実とは何か」という哲学的問いを突きつける。私たちが日常的に当然視している空間と時間は、実は不安定で多層的な構造を持ち、その背後には未だ解き明かされていない深淵が広がっている。本書は、その深淵を垣間見るための知的冒険であり、科学と哲学を架橋する稀有な案内書だと言える。フローニンゲン:2025/9/6(土)14:44
17351. ルース・カストナーの拡張トランザクション的解釈
ルース・カストナー(Ruth Kastner)の著作『Understanding Our Unseen Reality: Solving Quantum Riddles』は、量子力学に潜む不可解な謎を「トランザクション的解釈(Transactional Interpretation, TI)」という視点から解き明かそうとする試みである。従来の量子論解釈においては、コペンハーゲン解釈のように「観測が結果を決定する」といった立場が主流であり、あるいは多世界解釈のように「観測ごとに宇宙が分岐する」とする極端な見方もある。しかしカストナーは、これらが直観的理解を阻む要因となっていると批判し、代わりにジョン・クレイマーが1980年代に提唱したトランザクション的解釈を発展させた「拡張トランザクション的解釈(Possibilist Transactional Interpretation, PTI)」を提示している。TIの基本発想は、量子プロセスを「発信波(offer wave)」と「確認波(confirmation wave)」の相互作用として捉える点にある。粒子が放射する波は時間的に前方にも後方にも進み、受信者からの応答波が返ることで「取引(transaction)」が成立する。その結果として私たちが観測する現実の出来事が確定するというのである。カストナーはこれをさらに拡張し、量子レベルでの「可能性(possibilities)」を実在的なものとして捉え、私たちが日常的に経験する現実はその中から成立した1つの結果にすぎないと説く。つまり、量子の世界には「未観測=非実在」という従来の図式ではなく、「観測前に多様な可能的存在が実在している」という見方を導入するのである。本書の特色は、抽象的な数式議論に偏らず、一般読者にも理解可能な形で量子論の難題を解説している点にある。例えば、シュレーディンガーの猫や二重スリット実験といった古典的なパラドックスを、TIおよびPTIの枠組みで捉え直すことにより、「なぜ観測が結果を生み出すのか」「そもそも現実とは何か」といった根本的問いに答えようとする。また、彼女は量子現象を「時間を越える因果性」によって説明する。すなわち、過去から未来へと一方向に流れる因果律に加え、未来から過去への影響をも考慮に入れることで、観測時の不思議な相関を説明できるとする。この時間対称性は直感に反するが、量子エンタングルメントや非局所性といった現象を合理的に整理できる点で重要な役割を果たす。さらにカストナーは、この「見えない現実」の枠組みを哲学的にも広げる。PTIは、私たちが経験するマクロな世界が、背後に広がる可能性の場から選択的に顕現しているというモデルを提示する。ここでは「存在」と「可能性」の境界が曖昧になり、従来の物理主義的な実在論に揺さぶりをかける。彼女は現実を「多層的な実在の階層構造」として理解しようとするのであり、それは物理学と形而上学の橋渡しを意図する営みとも言える。総じて『Understanding Our Unseen Reality』は、量子力学の解釈問題に対して、観測者中心の世界像でも無限分岐する多世界像でもなく、「可能性としての実在」から現実が形成されるという新しいビジョンを提示している。読者にとって本書は、量子論を理解するだけでなく、日常の現実そのものを捉え直す契機となる。すなわち「私たちが生きる世界は、見えざる可能性の海から編み上げられた取引の結晶である」という視座を与えてくれるのである。フローニンゲン:2025/9/6(土)18:31
Today’s Letter
When I went running in the morning, I was able to fully take in the shining morning sunshine. It boosted both my physical and psychological well-being. The sun is my greatest supporter. Groningen, 09/06/2025

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