【フローニンゲンからの便り】17869-17873:2025年12月16日(火)
- yoheikatowwp
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タイトル一覧
17869 | 華厳宗だけでなく三論宗を併せて学ぶこと |
17870 | 今朝方の夢 |
17871 | 今朝方の夢の振り返り |
17872 | 慈悲と智慧の深まりに向けて |
17873 | 一を突き詰める生き方 |
17869. 華厳宗だけでなく三論宗を併せて学ぶこと
法相宗(瑜伽行派)を十分に探究した後に、華厳宗だけでなく三論宗を併せて学ぶことには、思想的にも修行論的にも深い意義があるだろう。これは単なる学派横断的知識の拡張ではなく、仏教思想そのものの立体構造を理解するための必然的な歩みであると考えられる。法相宗は、あらゆる経験世界を「識」の働きとして精緻に分析し、迷いがどのように構造化され、いかに転依によって清浄化されるかを理論化した学派である。八識・三性・三無性といった体系は、認識の発生条件や錯誤のメカニズムを驚くほど具体的に明らかにし、修行を心理的・発達的プロセスとして捉える強力な枠組みを与える。そのため、法相宗は「なぜ世界がこのように現れてしまうのか」という問いに対して、極めて説得力のある説明を提示する。しかし同時に、法相教学を深めるほど、「識」や「阿頼耶識」があたかも実体的基盤であるかのように理解されてしまう危険性も浮かび上がる。まさにこの点において、三論宗の思想的役割が決定的となる。三論宗は龍樹・提婆の中観思想を基盤とし、あらゆる存在論的立場や概念把握を徹底的に否定・解体する。「有でも無でもない」「一でも異でもない」という八不中道の論理は、法相宗が構築した精緻な分析体系そのものに対してさえ、「それもまた仮である」と鋭く問いを突きつける。この三論的視座を導入することで、法相宗の教理ははじめて自己相対化される。すなわち、識の分析は真理そのものではなく、あくまで衆生を導くための方便であるという理解が、理論としてではなく体感的に腑に落ちてくるのである。三論宗は、法相宗が描き出した認識の地図を、最終的には手放すべき「筏」として位置づけ直す役割を果たす。さらに、華厳宗が示す「事事無礙」「一即一切・一切即一」という壮大な全体論的世界観も、三論宗の否定論理を経由することで、実体化の危険を免れる。三論宗は、華厳的肯定が形而上学的実在論へと傾くことを防ぐ安全弁として機能するのである。したがって、法相宗→三論宗→華厳宗という探究の流れは、分析・解体・統合という仏教思想の基本運動そのものをなぞる道筋であると言える。三論宗を学ぶことは、法相宗を否定することではなく、むしろその深さを真に完成させるための不可欠な一歩であり、空を「理解する段階」から「執着しない段階」へと転換させるための決定的契機となるのである。そのようなことを考えていた。フローニンゲン:2025/12/16(火)05:14
17870. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、小中高時代のある親友(SI)が米国の税理士試験を受験し、その結果発表に一緒について行った場面があった。会場で彼は速やかに自分のパスポートを提出し、結果を受け取った。今回彼は理論系と計算系の科目をそれぞれ一科目ずつ受験し、どうやら片方の理論系科目が合格になっているようだった。彼としはもしかしたら両方とも不合格の可能性が高いと思っていただけに、片方合格していたことは彼に安堵をもたらした。実は私もかつて同じ試験を受けたことがあり、自分は計算系科目を合格し、理論系科目は不合格だった。そこから翌年受験すればおそらく全ての科目合格できていたかもしれないが、あえてもう勉強はやめて別の道に進んだというのが当時の自分の意思決定だった。彼は社会人の仕事を並行し、家族と過ごす時間も確保しながら継続して勉強し、来年また受験するとのことだった。試験会場を出ようとすると、そこが迷路のアトラクションのようになっていて面白かった。迷路を抜けようとしている最中に、前職時代の部署が違う税理士の知人の方に遭遇した。その方もどうやら誰かの合格発表の付き添いにやってきているようだった。その方はてっきり私が再受験したと思ったらしいが、自分はもう税に関しては関心はなく、別の道を歩んでいることを心の中で伝えようとした。会場を出ると、そこに小中学校時代のある友人(TM)がいた。彼は何やら高校受験の勉強に身が入らないと笑いながら述べており、しかし彼なら難関高校の理数科に合格するだろうと思った。するとそこにもう二人ほど友人が合流し、そこからは全員で一緒に歩いて帰ることにした。すでに辺りは暗くなり始めており、雨も降ってきた。しかし降りしきる雨がむしろ大変心地良く感じ、私たちは偶然見つけた大きな果物の果実をサッカーボール代わりにしてそれを蹴りながら自宅に向かった。ふと私は宙に浮き、平泳ぎやバタ足をしながら先に進んでいくことにした。しばらく宙に浮きながら進んでいると、逆立ちをしてみたくなり、それをしてみると、重力に引き寄せられて、そこから再び宙に浮くことがとても難しかった。なのでもう一度地に足をつけてから宙に舞うことにした。
もう一つ覚えているのは、小さな博物館のフロアで何組みかの親子が楽しそうにギターの練習をしていた場面である。彼らはみんな熱心にギターの練習をしており、親と子が楽譜を眺めながらあれこれ意見交換しながら上手く演奏する方法を探求している姿に感銘を受けた。自分の手元にも三つのランクに分類された三冊の楽譜があり、それらは全て自分にとって懐かしいゲームやアニメの音楽で、自分もそれらの曲を弾きたいと指が、全身が、そして心が疼き始めた。そこで目を覚ました。フローニンゲン:2025/12/16(火)05:28
17871. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は、自分の人生における「選択の分岐」と「成熟した自由」を多層的に映し出しているように思われる。冒頭の税理士試験の場面は、資格や制度に代表される社会的評価軸を象徴している可能性がある。親友SIが理論と計算という二領域を同時に受験し、そのうち一方のみ合格したという事実は、人生が常に部分的な達成と未完を併せ持つことを示唆しているように感じられる。自分自身がかつて逆の結果を経験し、再挑戦という合理的な可能性をあえて選ばず別の道へ進んだ記憶が重ね合わされている点から、この夢は「正解だったかどうか」ではなく、「自分が引き受けた選択」を静かに再確認する場であったとも考えられる。会場が迷路のようになっている構造は、社会的キャリアの内部にいる限り、出口が複雑で見えにくいことを象徴しているのかもしれない。前職の知人に再受験者と誤解される場面は、過去の役割や肩書きが他者の認識の中では依然として生き続ける一方で、自分の内側ではすでに意味を失っているというズレを示しているように思われる。その場で言葉にせず「心の中で伝えようとした」点は、他者の理解よりも自己理解がすでに完了している状態を暗示している可能性がある。後半で時代の異なる友人たちが合流し、年齢や受験段階の違いが混在する構図は、時間軸が水平化され、自分の内面に複数の発達段階が同時に存在していることを表しているように感じられる。暗闇と雨の中での帰路が不安ではなく心地良く感じられる点から、困難や不確実性そのものが、もはや敵ではなく環境の一部として受容されていることが示唆される。果物をボールにして蹴る遊びは、実用や成果から解放された純粋な遊戯性の回復を象徴しているようである。宙に浮く体験は、思考や精神が重力から自由になった感覚を示していると考えられるが、逆立ちによって再び重力に引き戻される場面は、視点を極端に反転させるだけでは持続的な自由は得られないという暗示にも見える。一度しっかり地に足をつけてから再び宙に舞おうとする選択は、現実との接地を保った上での超越を志向している姿勢を象徴しているように思われる。最後の博物館での親子のギター練習は、学習が競争や評価ではなく、関係性と喜びに根ざした営みであることを示している可能性がある。三段階に分類された楽譜が懐かしいゲームやアニメ音楽である点から、自分の内奥にある原初的な喜びや遊び心が、再び身体全体を通して呼び覚まされつつあることが示唆される。この夢全体は、社会的成功の迷路を一度抜けた自分が、過去の自分や他者の時間を統合しながら、重力と遊戯、努力と喜びの均衡点を探している過程を映しているように思われる。人生における意味としては、何かを証明するために生きる段階から、地に足をつけたまま自由に舞う生き方へと移行しつつあることを、静かに告げている夢であった可能性がある。フローニンゲン:2025/12/16(火)07:13
17872. 慈悲と智慧の深まりに向けて
死に向かう間際に、自分の人生を振り返り、「慈悲と智慧を最後まで深めようとし、それらをできるだけ共有しようとし続けた人間であった」と思って人生を終えたいという志向が自分の中に強く根ざしていることに気づく。それは、仏教の修行論と救済論が生の全体において統合された生き方を端的に表していると考えられる。そこでは、悟りは死後や彼岸に回収される抽象的理念ではなく、日々の態度と実践の積み重ねとして、この一生のうちに具体化されていく。仏教の修行論において、智慧とは単なる知的理解ではなく、無常・無我・空を体得的に見抜く洞察である。それは自己中心的な執着をほどき、世界をあるがままに見る力を育てる。一方、慈悲は感情的な優しさにとどまらず、他者の苦を自分事として引き受け、苦の軽減に向けて応答し続けようとする実践的態度である。仏教においてこの二つは常に対として語られ、智慧なき慈悲は盲目的となり、慈悲なき智慧は冷たく空虚になるとされてきた。人生の最終局面において「慈悲と智慧を深め続けようとした人間であった」と回想できる生き方は、完成や到達を誇るものではなく、むしろ未完成であり続けることを引き受ける姿勢に立脚している。最後まで「深めようとした」という未完了形の自己理解は、修行を自己完成の物語へと回収せず、常に開かれたプロセスとして生き切る態度を示している。この点に、仏教的修行観の本質がよく表れている。また、「できるだけ共有しようとし続けた」という姿勢には、救済論が内在している。救済とは他者を一方的に救い上げる行為ではなく、苦と無明のただ中にある世界に身を置きながら、理解と気づきを分かち合う関係的営みである。教えを説くことだけでなく、聴くこと、寄り添うこと、沈黙を共にすることもまた、慈悲と智慧の共有である。このような救済は、特別な宗教的役割を担う者に限られず、日常を生きる一人の人間として誰もが体現しうる。この生き方は、生の価値を成果や成功によって測るのではなく、どのような心で世界と関わり続けたかによって測ろうとする点で、現代社会の価値観に対する静かな批判ともなっている。死の間際に誇るべきものが地位や達成ではなく、慈悲と智慧への誠実さであるとするならば、その人生はすでに救済的であり、同時に深く修行的であったと言えるであろう。フローニンゲン:2025/12/16(火)07:18
17873. 一を突き詰める生き方
「One in all & All in one」という華厳の根本的発想を生の指針として、一番になることを目指す競争的な志向を若い頃に手放し、いまは「全てに真に深く貢献するために一を突き詰める」という在り方へと転じている自らの姿勢は、華厳思想を実存の次元で生き直す試みであると考えられる。そこでは、自己の卓越性を他者との比較によって証明する生き方から、関係全体の中で自分が果たしうる固有の働きを徹底的に深める生き方への質的転換が起きている。華厳における「一即一切・一切即一」とは、部分が全体に従属するという意味でも、全体が部分を呑み込むという意味でもない。一つひとつの存在が、そのまま全体を映し出し、同時に全体の働きが一つの存在に余すところなく宿っているという、相互内在・相互貫入の世界観である。この視座に立つと、「一番になる」という発想は、他を押しのけて突出することではなく、むしろ関係網の中で孤立した一点を作り出してしまう危険を孕むものとして見えてくる。そこで選び取られるのが、「一を突き詰める」という態度である。これは視野を狭めることではなく、むしろ一点を極限まで深めることで、その一点が全体と接続し、全体に波及する働きを持つようにする生き方である。音楽であれ、学問であれ、対人関係であれ、一つの行為や関心に誠実に没入することは、結果として他の無数の領域に共鳴を生み出す。華厳的に言えば、その一点はすでに全体を含み、全体を動かす結節点となる。この生き方において重要なのは、貢献が可視的な成果や評価に還元されないことである。全てに貢献するとは、全てを直接的に支配したり関与したりすることではない。むしろ、自分が深めた「一」が、見えないところで他の「一」を支え、照らし、可能性を開いていくことを信頼する姿勢である。その信頼は、華厳が説く法界縁起、すなわち世界はすでに網の目のように結ばれているという理解に根ざしている。このように、一番を目指す競争から降り、一を突き詰める献身へと転じる生き方は、自己実現と利他を対立させず、むしろ同時に成り立たせる成熟した在り方であると言える。それは目立たぬようでいて、実は最も深く世界に関与する道であり、華厳の思想が生き方として結晶化した姿なのである。そのようなことを考えていた。フローニンゲン:2025/12/16(火)12:46
Today’s Letter
A sense of humor is a fundamental source of my life. It makes my life joyful and rich, and with it, my life becomes tremendously colorful. Groningen, 12/16/2025

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