【フローニンゲンからの便り】16863-16865:2025年6月24日(火)
- yoheikatowwp
- 6月26日
- 読了時間: 8分

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タイトル一覧
16863 | 場の励起としての諸存在/古書の入手 |
16864 | 今朝方の夢 |
16865 | 今朝方の夢の振り返り |
16863. 場の励起としての諸存在/古書の入手
時刻は午前7時を迎えようとしている。今日は少し空が曇っていて、朝日を拝むことはできない。昨日も涼しかったが、今日も涼しい1日になるようだ。今の気温は14度で、日中の最高気温は20度とのことである。明日からもしばらく20度前半の気温の日々が続くようなので、大変過ごしやすい一週間になることを嬉しく思う。
昨日、魚たちが海の中にいるのと同じく、人間を含めて全ての有情は普遍意識の中にいるのだろうということを思った。海の中にいる魚たちも結局は、普遍意識の中にいるのである。私たち人間が普遍意識の中にいることを自覚することが難しいのは、魚が海の中にいてそれを自覚することの難しさに似ている。普遍意識を自覚する方法として、瞑想実践などを通じた意識の深層に潜っていく実践が挙げられる。そうした実践をしない限りは、人間は決して自らが普遍意識の中にいることに気づけないのだろう。もう少し言えば、全ては場の励起状態なのである。ここで述べている場とは、仏教で言えば空であり、量子論で言えば量子ばである。物質的なものも物理的現象も、全ての有情存在もまた場の励起として諸行無常的に立ち現れる。私たちはそうした現象を見て実体化するが、それは結局縁起によってその場に借り立ち現れたものでしかない。全ては非物質的な普遍意識における励起として刹那滅を伴う現象として立ち現れる。そのようなことを考えていた。
今日もまた旺盛な学術研究に従事していこう。7月と8月にはそれぞれ日本から知人が来る予定になっており、それぞれの方に日本から研究に必要な専門書を持って来てもらうお願いをしている。7月に来られる方からはすでに承認を得ており、すでに書籍を受けてもらっている。それは仏教論理学に関する専門書である。8月に来られる方にも承認を取り、承諾を得たら、博士課程で研究する予定の良遍の『因明大疏私鈔』が収めれられた大日本仏教全書を持って来てもらえると有り難い。もう1冊は、日本の因明研究の道を開いた功績を持つ奈良時代の善珠の『因明論疏明燈鈔』という作品が収められた大日本仏教全書である。日本の古本屋から注文しようと考えていたが、大法輪閣のウェブサイトからオンデマンドで新品の形で注文できるようなので、以前は日本の古本屋から注文したが、今回は新品を購入しようと思う。オンデマンド注文の場合、海外発注を受け付けていなかったので、前回は日本の古書店から郵送してもらう必要があった。古書は古書の良さがあるが、新品には新品の良さがまたある。ここからまた少しずつ研究に必要な書物を揃えていこう。フローニンゲン:2025/6/24(火)07:10
16864. 今朝方の夢
昨夜、就寝をしてしばらくすると、まるで全身に電気が走るような体験をした。記憶にある限り、中学生ぐらいになってからこの体験を時折しているのだが、頻度は大人になってから、もっと言うと欧米での生活を始めてから増えている。それは全身のエネルギーが迸るような感覚であり、全身の細胞が活性化されるような不思議な体験である。身体からエネルギーが湧き起こるこの体験は、現象学的に何と名づけられているのかは知らない。いずれにせよ、昨夜は就寝してしばらくして、突然それがやって来たことが印象的である。そこから夢の世界に入っていくと、実際に通っていた中学校の体育館でバスケの練習をしている場面が現れた。まずスリーポイントシュートの練習をしようと思って、ある友人(KM)に手伝ってもらって、彼にディフェンス役をしてもらうことにした。最初はまず自分がシュートを打つ目の前に立ってもらい、そこから難易度を上げて、シュートブロックのために手を上げてもらい、最後はジャンプをしてもらうことにした。難易度を徐々に上げていっても、自分のシュートは面白いほどにスパスパと入った。いつの間にこんなに高度なシュートスキルを身につけたのだろうと思ったが、それまでの練習の賜物だと思った。全ての角度からシュートを決めると、体育館の全体に自分の身長と同じぐらいの高さのクッションの束、あるいは布団の束が現れた。それが所狭しと体育館の中に散りばめられ、それを交わしながらドリブルし、そしてスリーポイントシュートを放つ練習をすることにした。そこで場面が変わったが、次も体育館を舞台にした場面であったことには変わりないが、より広い見慣れない体育館だった。しかもその体育館からは海を見渡すことができた。バスケ部の友人や後輩を含め、ビーチからやって来た人たちと一緒に1対1の練習をすることにした。私は、その場にいた5歳になるかならないかの小さな女の子と練習をすることになった。彼女はバスケの天才なのだが、やはりまだ年齢が小さいこともあって、大人の体の自分には敵わない側面が多々あった。実際に彼女にオフェンス役になってもらい、自分が腰を落として彼女のドリブルについて行くと、一度も抜かれることなくコートの向こう側に辿り着いた。彼女は大人との挑戦を楽しんでいるようで、自分の技術が通用しなくても悲嘆に暮れることなく、笑顔を浮かべて始終練習を楽しんでいた。そんな彼女の楽しむ姿勢はその場にいた大人たちに伝播し、場はとても楽しい雰囲気に包まれ、みんな生き生きとして練習に取り組んでいた。フローニンゲン:2025/6/24(火)07:22
16865. 今朝方の夢の振り返り
就寝直後に訪れた全身を貫く電撃のような感覚は、生理学的には入眠時随伴運動や睡眠麻痺の一種とも考えられるが、夢の象徴的文脈においては「潜在的エネルギーの解放」を示す兆しであるとChatGPTは述べる。思春期以降に始まり、欧米生活の開始とともに頻度が高まったという事実は、身体‐文化環境の変化が内なるエネルギー循環に影響を与え、抑圧されていた感覚や活力がより自由に顕現し始めたことを物語る。すなわち、身体が長年蓄えてきた潜在能力が外的刺激——異文化・異言語・異習慣——を触媒にして一気に開路を得たのである。夢の第一場面は、実際に通っていた中学校の体育館である。そこは「自己形成の原点」すなわち過去の基盤を象徴する舞台であり、バスケットボールの練習は自分がこれまで培ってきた技量・努力・習慣を再確認する儀式に相当する。友人KMに段階的にディフェンス難易度を上げてもらう展開は、「試練を自ら設計し、達成感を通じて自己効力感を強化する」という主体的学習モデルの視覚化である。シュートが面白いほど決まるという描写は、現実世界での継続的鍛錬が無意識下で「完成体」として統合されつつある証左であり、同時に過去の自己像を超える自己に対する驚嘆——すなわち自己超越の萌芽——を示唆する。全方位からシュートを成功させた直後、身長ほどのクッション束が体育館全体に出現する。これは挑戦を安全に受け止める「心理的セーフティネット」を象徴し、失敗への恐れを緩衝する装置として機能する。クッションを交わしながらのドリブルは、複雑化した環境においても柔らかな支援基盤が存在するという確信のもと、自由に創造的行動を試みる姿勢を映している。場面が切り替わり、見慣れない広大な体育館が現れ、そこから海が望める。体育館は依然として「訓練と鍛錬」の象徴であるが、未知の空間と海の眺望が加わることで、領域が内面(体育館)から外界・無意識(海)へと接続される拡張次元を示す。海は集合的無意識や無限の可能性のメタファーであり、そこに面した練習は「自己の技術と未知なる世界との対話」を意味する。ここで登場する5歳ほどの天才少女は、自己の内なる「プエリル・スピリット(永遠の子ども)」を具現化する存在である。すなわち好奇心、遊戯性、学びへの歓喜を担う元型的エネルギーであり、大人である自分がこの子と1対1で向き合う構図は、「成熟」と「無垢」の協働を物語る。少女は技術的には卓越しているが身体的に劣るため勝負には及ばない。その非対称性は、理知的・社会的に成熟した主体がなお幼児的創造性を取り込みながらも、それを力で抑え込むのではなく共に楽しみ高め合うべき段階に来ていることを示している。少女が敗北を悲しまず笑顔で挑戦し続ける様子は、失敗と成功を等価値の経験として歓迎する「学習する無垢」の態度であり、その姿勢が周囲に感染し場を活性化させる描写は、自己の内面だけでなく外的コミュニティへ肯定的波及効果を与える資質が開花しつつあることを暗示する。全体構造を俯瞰すれば、夢は「潜在エネルギーの解放」→「原点回帰と自己効力の再確認」→「心理的安全装置を伴う複雑環境での創造的挑戦」→「未知との接続と内なる子どもの統合」という四層で進行している。これはヨーガにおけるクンダリニー覚醒過程や、ユング心理学の個性化プロセスに相似する螺旋的成長のビジョンであり、最終的に自己と世界、成熟と無垢、努力と遊びが統合された姿を提示する。したがって本夢は、欧米生活を経て高まったエネルギーが過去の自分を凌駕し、新たな自己像を編成していく途上で、「安全かつ遊戯的に挑戦を続けよ」という無意識からの助言である。同時に、外的成果のみを追うのではなく、それを可能にする内なる子どもの歓喜を忘れず抱擁し続けよというメッセージが核に据えられている。電気のような昂揚感はその序章であり、海へと開かれた広間は、これから拡がっていく未知の世界への招待状に他ならない。フローニンゲン:2025/6/24(火)07:45
Today’s Letter
For fish, everything happens in the sea. What the sea is to fish is probably what universal consciousness is to all sentient beings. For all sentient beings, everything happens in universal consciousness. Moreover, everything is not merely a material or physical thing that only appears to be so, but rather a state of emptiness and a field of potential. Groningen, 06/24/2025
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