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【サイケデリック学・意識哲学探究記】12007-12017:2024年1月31日(水)



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成人発達理論とインテグラル理論を基礎にして、様々な学問領域からサイケデリクスやその他のテーマについてお話しさせていただくチャンネル「インテグラル・サイケデリックラジオ」はこちらからご視聴いただけます。

タイトル一覧

12007. シロシビン・マッシュルームの5回目の収穫を終えて/インド哲学の8つの学派の横断的研究に向けて

12008. 東西の心の理論を自由自在に活用することへ向けて

12009. 唯識思想に関する今朝方の夢より

12010. インド哲学における意識哲学の価値

12011. 意識哲学の果てしない研究の旅/今朝方の夢の続き

12012. インドの論理学への関心:ニヤーヤ学派の創始者ガウタマの論理学に注目して

12013. 悟りと解脱を志向するニヤーヤ学派の論理学の魅力

12014. アートマンと汎心論/インド哲学の全てを貫く実践的な問い

12015. インド哲学における二元論と一元論/救済原理と救済方法の探究を通じて

12016. 知行合一の道/シンプルな実践/阿摩羅識の存在

12017. 六派哲学と仏教の相違点と共通点/アーユルヴェーダとサイケデリクス


12007. シロシビン・マッシュルームの5回目の収穫を終えて/

インド哲学の8つの学派の横断的研究に向けて 


時刻は午前4時半を迎えた。つい先ほど、シロシビン・マッシュルームの5回目の収穫を終えた。今、収穫したものをオーブンにかけている。まさか5回も収穫ができるとは思ってもおらず、嬉しい出来事であった。説明書には2~3回ほどの収穫が一般的と書かれていたのだが、きっと愛情を持って育てていたことによって5回もの収穫に恵まれたのかもしれない。4回目から5回目にかけてはマッシュルームの頭が出て来るのに時間がかったように思うが、それは途中で寒さが厳しくなったからだろう。ここ最近は比較的暖かい日が続いており、室温も十分なので栽培が促進された様子だ。今回の収穫量も十分で、想像を遥かに超える量の収穫ができた。栽培キットでの栽培も佳境に入っているためか、キットの地面の脇からマッシュルームが生えて来るようになってきており、そこからたくましく生えて来たマッシュルームを収穫していった。まだ数本ほど頭が見えているものがあり、それらはまだ小さいので、数日間ほど待って収穫に臨みたい。今日と次回の収穫を合わせれば、「英雄の服用量」分ぐらいにはなるのではないかと期待される。


今朝方起床した時に、ここからのインド哲学の研究に向けた意気込みがまた新たに高まっているのを感じた。インド哲学の六派哲学を全て1つ1つ押さえていき、大乗仏教の中観派と唯識派の2つも順に押さえていく。まずは合計8つの学派を踏破していくことを目標に掲げ、それぞれの学派が大切にしていた経典をまずは英語訳で読み、そしてサンスクリット語の原典で読んでいきたい。それら8つの学派を1つ1つ修めていきながら、それらを徐々に比較して線を作っていきたいと思う。線の数が増えてくれば面となり、最終的には立体的な理解が構築されるだろう。それができて初めて深い応用が実現されるのではないかと思う。もちろん点を作る段階から応用を意識し、絶えず自分の日々の生活に応用していくという姿勢を忘れないようにしたい。自分にとっての学問研究は、自分や他者や社会のためにあり、学んだことは絶えず実践的に応用していかなければならない。それが自分の喜びであり、楽しみでもある。そこには最上の喜びと楽しみが伴うため、今はVRゲームを購入しなくてもいいかとも考えていた。自分にとっては学問研究がゲーム以上に面白く、最も充実感と幸福感を感じさせてくれるものなのだ。夕方に集中力が落ちた時には瞑想実践をすることによって、そこでも意識探求をしていけばいいし、その時間帯においては過去に読んだ書籍の復習をするなどの工夫をしていけば、夕方の集中力が落ちがちな時間においても実りある学習を進めていくことができるだろう。当面はVR世界の探究をするためにゲーム機を購入するのではなく、まずはインド哲学の研究を通じた意識哲学の探究に没頭したいと思う。フローニンゲン:2024/1/31(水)04:46


12008. 東西の心の理論を自由自在に活用することへ向けて      


インド哲学の六派学派と大乗仏教の2つの学派を加えた8つの学派をそれぞれ修めたら、今度は上座部仏教の教えも学びたい。そうすれば、まずは大乗仏教と上座部仏教の比較ができるだろうし、原始仏教の意識論にも上座部仏教を通じて触れることができるだろう。それらは全て哲学思想として扱う形で研究を進めていく。インドにおけるヒンドゥー教は六派哲学と相互に影響を与え合っているが、ヒンドゥー教の意識哲学と呼んでいいのかどうかはまだ分類が整理されていない。今はインド哲学という括りを採用し、その中にある六派哲学を修めていくことをしたい。もちろん六派哲学はそれぞれ関心対象と強みが違うため、純粋に意識について言及しているわけではない学派もあるが、それでも六派はそれぞれ交流があり、論争があったことは確かなので、相互の影響を鑑みた時にそれら全てを1つ1つ学んでいくことは知識の体系化に不可欠なのではないかと思う。まずは意識に関する事柄を直接述べている学派から学んでいき、そこから関心の赴くままに他の学派を探究していこうと思う。


大乗仏教の意識哲学研究においては、兎にも角にも中観派と唯識派は外せない。それら2つを外して仏教における意識論を語ることなどできないだろう。中観派においては絶対無や空などを扱うため、より形而上学的な探究要素が強く、リアリティの性質について深く考えさせてくれるだろう。一方の唯識派は、ここまで人間の心を詳細に分析したものは東西の思想や心理学において見られないのではないかというぐらいに素晴らしい体系がある。心理学を幅広く学んできた自分が唯識派に惹かれたのは、西洋の心理学にはない広さと深さを持って詳細に心の性質について論じている点だ。こうした特徴は、六派哲学のうちのヨーガ学派においても見られる。それが自分にとってのヨーガ学派の魅力でもある。これまで長らく心理学に親しむことによって、西洋を出発点とした心理学の用語体系を活用できるようになって来たが、東洋の心理学の巨頭ともいえる唯識派とヨーガ学派は必ず修めておかなければならない。それらの用語体系に慣れ親しみ、徐々にそれを活用することができるようになって初めて、自分は東西の心の理論を自由自在に活用することができるようになるだろう。それができるようになったら、自分を含めた人々の幸福に何か貢献ができるのではないかと期待感が高まる。先日の夢にあったように、仏教を含めたインド哲学は人々を幸せにするために存在するのだと思う。その点を絶えず胸に収めながら日々の探究に全身全霊で打ち込みたい。フローニンゲン:2024/1/31(水)05:00


12009. 唯識思想に関する今朝方の夢より


早朝5時の段階の今の気温は3度で、ここからもう1度ほど下がるが、午前9時からゆっくりと気温が上昇していき、今日の最高気温は7度に到達するようだ。これくらいの気温が一番過ごしやすく、室内はとても暖かい。暖房と家の耐熱構造に感謝である。


今朝方の夢をいつものように振り返り、夢からの学びとしてどのようなものがあるかを書き留めておきたい。夢の教えは阿頼耶識からの教えでもあり、それに虚心坦懐に耳を傾けるということをしたい。自分の無意識と集合意識からの声を聞くことは、非常に深い学びをもたらすであろうから。


夢の中で私は、大乗仏教の唯識思想の奥深さに心を打たれていた。感極まって涙が出て来てしまうぐらいに、その思想の奥深さに打たれていた。しばらく言葉を失っている状態で、ただただ脳内に唯識思想の塊のようなものがイメージされており、それが温かみのある波動を放っていた。その波動に包まれていると、心が安らぎながら、同時に知的好奇心が烈火の如く溢れて来るかのようであった。自分の内側には燃えたぎる探究意欲があり、それと同時に心温まる優しい心があった。探究的激しさと心の平穏さをもたらしてくれていたのは、その温かい波動を放つ塊としての唯識思想であった。唯識思想に対して思いを馳せながら、ずっと私は意識について考えていた。意識そのものについて考えれば考えるだけ、自分が純化していくのを感じた。意識について思索を深めることの実践的な価値は意識の純化なのではないかと思ったのである。意識の探究を単に学問的な研究で留めてしまってはもったいなく、それは自らの意識を見つめ、自らの意識を純化させていくという実践的な価値を本来有しているものなのだと思うし、そうするべきだという考えが強まっていた。そこから私は、唯識思想に関する重要な経典を片っ端から原典のサンスクリット語で読み進めていこうと決心した。そこで夢の場面が変わった。


この夢が教えてくれたことは本当に今の自分にとって重要だ。とにかく唯識思想について深く学ばなければならない。それをしなければ、意識研究は必ずどこかで頭打ちになる。それくらいに意識哲学の研究において唯識思想は外せないのだ。絶対に外せない存在というのはどのような分野にもあるはずで、意識哲学の研究において唯識思想はそれに該当する。また、唯識思想を学ぶことを通じて、自分の心に関してこれまで見えていなかったものや事柄がより鮮明に見えて来るだろう。唯識思想は心を解像度高く眺める最良の手段を私たちに提供してくれる。そして兎にも角にも、唯識の思想の真髄に触れた時、世界の見え方は一変するだろう。全ては識の中の出来事であるという驚愕の真理に目覚める時、日々の在り方や生き方が変わらないはずはない。そのような変化が起きないのであれば、それはきっと真理を表面的に頭だけで理解しようとしている段階で、真理を体得していないからなのではないかと思う。少なくとも現代を取り巻く認識論的・存在論的パラダイムの中で、「全ては識の中の出来事である」という教えは相当に大きなインパクトを学習者にもたらすはずである。唯識思想の学徒として、この教えを深く自らに体得させていきながら、世の中の物の見方の変容に尽力したいと思う。フローニンゲン:2024/1/31(水)05:21


12010. インド哲学における意識哲学の価値


無上の喜び。意識哲学を探究できるこれ以上にないほどの喜びが身体の内側から込み上げて来ている。今日は午後に「インテグラル・サイケデリックラジオ」の第52回の収録がある。今はもっぱら西洋の意識哲学をラジオの中で扱っているが、ラジオを離れた場所ではもっぱらインド哲学における意識哲学の研究に明け暮れている。今の探究の比重はインド哲学における意識哲学研究にあるが、これからも西洋の意識哲学の過去の研究および先端的な研究に触れていく。


昨夜、自分の中で両者の明確な違いに気づいた。西洋の意識哲学も射程が広く、非常に参考になるのだが、そこには悟りや解脱への志向性はほとんど見られない。「悟り」や「解脱」が東洋的な言葉であれば、そこには「解放(emancipation)」を志向する姿がほとんど見られないと言い換えることができるだろう。この点が実は自分が西洋の意識哲学に対して気がかりに思っていることであり、物足りないと思っていることなのだ。確かに西洋の意識哲学の研究は素晴らしい。その精緻な議論にはいつも驚かされる。しかし本来は学術研究上、意識そのものを探究するという目的があったはずなのだが、その目的から離れ、どうも重箱の隅をつつくような議論に終始している節がないとも言えない。また、意識の本質を理解することの実践的な目的というものがどうも学者たちの中に共有されていないようで、その本質が解明したことによってもたらされる個人の苦からの解放と幸福の実現という実践的な側面が見出せないのが西洋の意識哲学の特徴である。それではなぜ意識哲学など研究しているのだろうかと言いたくなる。


今ここで明確に自分の立場表明をしておくと、自分の中ではインド哲学における意識哲学が主で、西洋における意識哲学は従である。そうした主従関係を明確に定めておくことによって、自分の主たる研究目的を見失わないようにしたい。とにかく自分は意識の本質の解明と、それを通じて自分を含めた他者、そして社会の幸福の実現を行いたいのである。その目的と照らし合わせて見たときに、西洋の意識哲学は全くもって物足りないのである。本来西洋世界においては、神学から哲学が派生したはずであり、神学は神を敬い、神の御加護を授かりながら人々の救済を説くもののはずである。西洋における哲学は今一度、その根本にある神学が大切にする思想に立ち返るべきではないだろうか。仮にここから西洋の意識哲学が、東洋の意識哲学のように救済や解放を希求するようになれば、西洋の意識哲学はもっと魅力的なものになるだろう。きっとそのような問題意識を持っている西洋の意識哲学者もいるはずなので、同時代にそのような哲学者が生きていればぜひとも交流したいものである。

最後にまとめに代えて、インド哲学における意識哲学の価値は何と言っても、私たちの心と意識の本質を理解することを通じての苦からの解放であり、幸福の実現なのだということを明記しておく。悟りと解脱の実現を志向するという実践的な側面がそこに見出せる。自分は随分と遠回りをしてインド哲学に出会うことになった。しかし、今こうしてインド哲学と深層的な出会いを果たしてみると、これまでの長い探究上の歩みがあったからこそ、インド哲学の持つそうした価値に気付けたとも言えるのではないかと思う。悟りと解脱への道を明瞭に示しながら意識と心の本質を説くインド哲学の魅力を多くの人に共有したい気持ちで一杯である。フローニンゲン:2024/1/31(水)06:18


12011. 意識哲学の果てしない研究の旅/今朝方の夢の続き


今日も旺盛な読書を午前中に行っていこう。まずは、“The philosophy of the Brahma-sutra: An introduction”という書籍に取り掛かり、その次に現代の日本思想の概要を掴むために“Contemporary Japanese philosophy: A reader”を読み進める。昨日に閃いたように、日本という土地に注目し、日本において花開いた意識哲学の研究も粛々と進めていきたい。日本に固有の意識哲学を浮き彫りにしていくためには、日本ではない土地で花開いた意識哲学の研究を進めていく必要があり、今の自分はそれに本腰を入れて取り掛かっている。いつか神道の意識論を含め、母国日本の大地に芽生えた意識哲学の研究に本腰を入れる日がやって来るのではないかと思う。学術研究上、そのように日本に帰ってこれる日を夢見ながら、今は日本ではない土地に芽生えた意識哲学の果てしない研究の旅に出かけたい。

今朝方の夢の続きをふと思い出す。夢の中で私は、小さいペットの熊を亡くした画家の夫婦のところに両親と一緒に訪問していた。それは夫婦を励ますためだった。励ますと言っても何か特別なことをするわけではなく、彼らがペットの熊と過ごした思い出を親身になって聞くということを目的にして訪問した。夫婦の家に到着した時に、亡くなった熊に似たぬいぐるみをプレゼントした。すると、夫婦はそれを心底喜んでいて、そのぬいぐるみにペットの熊の魂が宿っていると感じているようだった。2人の喜ぶ姿を見て、両親も私も嬉しくなった。特に両親は愛犬との別れを経験しているため、尚更2人の夫婦の気持ちを理解しているようだった。そこからしばらく彼らからペットに関する思い出話を聞いた。そろそろおいとまをしようと思って身支度をしたときに、帰りはベランダから両親と一緒に飛び降りる形で帰っていくことになった。随分と変わった形の帰り方だなと思ったが、特にそれがおかしいとも思わず、ベランダに行き、そこからポールを伝ってするすると下に降りていくことを想像した。その瞬間に、手袋の片方を部屋に置き忘れていることに気づき、それを取りに帰ることにした。右手の手袋がどこになるかなと探していると、ぬいぐるみを入れていた箱の上に置いていることを思い出し、無事に手袋が見つかってホッとした。手袋を無くしてかと思って少し心が動揺していたこともあってか、ベランダから地面に降りていく体力がないような気がしたので、両親には階段を使って帰ろうと提案した。そのような夢を見ていた。ペットロスとそこから立ち直る方法に関する主題の夢だったように思う。それをペットロス以外の事柄に当てはめてみるとどのようなことが言えるかを考えさせられている。探究上、物理的にも精神的にも日本から離れることは、ある種の実存的喪失体験とも言えるのではないかと思うので、きっとこの夢が示唆することは今の自分にとっても重要なことなのだと思う。フローニンゲン:2024/1/31(水)06:37


12012. インドの論理学への関心:ニヤーヤ学派の創始者ガウタマの論理学に注目して    


インドの論理学はギリシャで生まれた論理学と同じく、世界を代表する2大論理学の1つである。これまではギリシャの論理学に触れることはよくあったが、インドの論理学に触れることはほとんどなかったように思う。今、意識とリアリティの研究におけるインド哲学への関心の高まりから、その発想の根幹にあるインドの論理学にも注目している。インドの論理学も歴史的系譜があり、サンスクリット語の文法規則にまで遡って論理学を研究していく動きから出発し、そこからインド哲学の六派学派の1つであるヴァイシェーシカ学派の原子論に影響を受けて発展し、ニヤーヤ学派の創始者であるガウタマと大乗仏教の中観派の創始者であるナーガールジュナの論争によってさらに発展を遂げていったという歴史がある。自然哲学に強みを持つヴァイシェーシカ学派も今後は探究の範囲に含めていこうと思っているが、今はニヤーヤ学派の論理学を骨格として探究していき、ガウタマとナーガールジュナという2大思想家の論争とそこでのやり取りを丁寧に追っていきたいと思う。


ギリシャの論理学にはない発想としてどのようなものがあるかを探ることがインドの論理学を学ぶ上での自分なりの最初の問題意識であり、それを通じて自分の思考がどのように変化し、世界を見る目がどのように変わり、そして何を新しく見るかということを期待して探究を進めていく。


例えば、ナーガールジュナが提唱した「四区分別」は、ギリシャの論理学にはあまり見られないものなのではないだろうか。それは存在の定義の仕方に関わるもので、「Aである(肯定)」「Aではない(否定)」「AでありかつAではない(肯定かつ否定)」「Aであるのでもなく、Aでないのでもない(肯定でも否定でもない)」という区分になる。こうした発想に関しては、かつて師事をしていた発達心理学者のオットー・ラスキー博士とも対話をしたことがあり、非常にユニークな存在規定をインドの論理学が行っていることがわかる。


ガウタマが執筆した『ニヤーヤ・スートラ』を先般入手し、初読を終えたのだが、その方法論は実に興味深かった。それはインド哲学をさらに発展させていく上で非常に重要な役割を果たしたことが読解過程の中でわかったし、そこに記載されている方法論を修めていけば、悟りと解脱への道を瞑想実践に加えて論理を活用した道でも歩むことができると思わせてくれた。西洋哲学がアリストテレスの論理学に大きく依拠して発展したのと同じく、インド哲学はガウタマの論理学に大きく依拠して発展していった。いつかアリストテレスとガウタマの論理学を比較するということもしてみたい。時代的にはガウタマは紀元前6世紀ごろの生まれとされており、アリストテレスは紀元前4世紀ごろの生まれであるから幾分時間的な隔たりがある。ひょっとしたらアリストテレスは、インドからギリシャに伝えられたガウタマの論理学に影響を受けて自身の論理学体系を打ち立てた可能性もあり、そう考えると、西洋の哲学思想の背後にはガウタマの論理学があると述べてもあながち間違いではないのではないかと思う。フローニンゲン:2024/1/31(水)07:17


12013. 悟りと解脱を志向するニヤーヤ学派の論理学の魅力


ガウタマが創始したニヤーヤ学派の論理学の魅力にますます惹きつけられている。ニヤーヤ学派は認識論と論理学に強みを持つ六派哲学の1つなのだが、なぜ認識論と論理学の統合的な組み合わせを大切にしていたのかがようやく見えてきた。早朝の日記で書き留めた通り、インド哲学の自分にとっての魅力は、それが単に意識とリアリティの本質解明にあるのではなく、解明を通じた目覚めによる解放を志向している点である。すなわち、悟りと解脱という実践的な側面に絶えず眼差しを向けている点が自分にとっての魅力なのだ。ニヤーヤ学派はその本分を忘れることなく、解脱を志向している。ではどのように解脱を志向しているかというと、確かな知識を得ることが私たちを苦悩から解放する唯一の道であると説く点においてである。私たちは不確かな知識や歪んだ知識によって迷い、苦しむ。そのような迷いや苦しみから救われるためには、正しい知識を獲得していくことが重要になる。ニヤーヤ学派はまさにその道を方法論と共に示しているのである。ニヤーヤ学派の実践的な価値はそこにあると言えるのではないだろうか。すなわち、正しい知識を獲得するための方法論を学び、正しい知識を得ながら悟りと解脱に向かっていくという点に実践的な価値があると自分は考えている。


それでは、そもそも正しい知識とは何なのか?そして私たちはそれをどうすれば知り得るのか?そう、まさしくそれらの問いに答えるのが認識論なのである。正しい知識の性質を明らかにし、それを獲得する方法を研究していくのが認識論なのである。とりわけ後者の正しい知識を獲得していく方法に関して、私たちは言葉を用いてそれを行っていく必要があり、言葉の使用と論理の使用は不可分に結びついているゆえに、ニヤーヤ学派は正しい知識の性質を明らかにした上で、論理の研究に向かったのだろう。それは悟りと解脱を目標に掲げた場合、必然的な研究プロセスと言えるだろう。


正しい知識にとって不可欠なのは確かな根拠であり、ニヤーヤ学派がその根拠の性質を分類していった点にまずは注目したい。ニヤーヤ学派の認識論においては、知識の根拠を4つに分類し、直接知覚、推論、類比、言葉とする。これらを通じて得られた知識は確かなものである場合もあるし、そうでない場合もある。そのため、ニヤーヤ学派の学者たちはそれぞれの根拠に関して、その根拠が確かな知識をもたらすためには何が必要かを見極めるために様々な説明図式を作り出していった。それらをこれからじっくりと時間をかけて学び、学びながら即座に日々の自分の知識獲得プロセスの中に応用していきたいと思う。フローニンゲン:2024/1/31(水)07:30


12014. アートマンと汎心論/インド哲学の全てを貫く実践的な問い   

   

やはりウパニシャッドの後に誕生した六派哲学の思想を押さえ、そこでの様々な議論をさらに定式化していった大乗仏教の中観派と唯識派の思想を学んでいくというのが、歴史的な思想展開と同様の歩みとして学習上も望ましいように思う。


ふと、ウパニシャッドの根幹にあるアートマンとブラフマンについて、それを汎心論と絡めてみるとどのようなことが言えるだろうかと考えていた。アートマンは人間を含めた被造物の認識主体のことを指し、そこで言う被造物というのは認識主体としての主体性を持つことが鍵になり、それで言えば動植物はアートマンを持つと言えそうだが、物質的被造物としての物にはアートマンを認めることはできないように思えてくる。このあたり、アートマンという概念と汎心論を絡め、アートマンの適用範囲をより明らかにしていきたいと思う。量子にもアートマンを認めるのかどうかという観点で考えてみると思索が進むだろうか。


アートマンは認識を司る認識主体であるから、それは常に「ネティ、ネティ」なのだ。それは 「Aにあらず、Bにあらず、・・・Xにあらず」なのである。この認識することを超えた主体としての存在がアートマンなのである。それは言葉で言い当てることはできず、それゆえに本来は全てを超えていて、全ての存在と同一になれる性質を持つ。しかしながら、唯識思想の言葉で言えば私たちには末那識があるゆえに、何かに執着する形でそれを自己だと錯覚してしまう。この錯覚から徐々に目覚めていき、自己の本質は常に何か特定の対象を超えたより大きな存在であることに気付いていくことが重要かと思う。


インド哲学の全てを貫く実践的な問い。それは「どうすれば解脱は可能か?」というものである。インド哲学においては、輪廻から解脱し、苦悩から解放されることを実践的な目標に据える。仏教もまたその問題意識を引き継ぐ形で教義を発展させてきた。


二元論のサーンキヤ学派においては、精神原理としてプルシャ、すなわちアートマンがどのように解脱するのかに関しては、正しい知識を得ることの重要性を説く。私たちが一切の誤謬なく自らの存在性質についての知識を獲得する時に、プルシャは肉体への囚われを含め、様々な執着から解放され、輪廻を終わらせる形で解脱に至るとされる。サーンキヤ学派でも正しい知識の重要性が問われていることからも、認識論と論理学の探究の大切さが見えてくる。フローニンゲン:2024/1/31(水)08:29


12015. インド哲学における二元論と一元論/救済原理と救済方法の探究を通じて   

   

サーンキヤ学派とそれに影響を受けたヨーガ学派の共通点、それは自我と外的世界を区別し、それぞれが別に存在しているという二元論をもとに、無知を克服して意識が内面と外面の現象の全てをありのままに見れるようになることを解脱の条件とした点である。そうしたサーンキヤ学派とヨーガ学派の後に誕生したのがシャンカラが切り開いたヴェーダーンタ学派である。ヴェーダーンタ学派では、サーンキヤ学派とヨーガ学派の二元論的な発想を批判し、自我と外的世界はそもそも最初から同一であるとする梵我一如の思想を説く。シャンカラが説いた解脱への道は、煩悩を超克していくことではなく、そもそも私たちが世界全体と一体であるという梵我一如に気づくことにあるとする点が重要である。


普遍意識としてのブラフマンは現象世界全体でもあり、私たちの自我は現象世界全体と本来同一のものであるがゆえに、経験主体と経験対象は元来同一のものなのだ。こうした発想は非二元の認識に繋がる。私たちの自我は現象世界そのものであること。リアリティ全体そのものであること。そのような梵我一如の思想を通じて日常世界を捉え直してみるとどのようなことに気づくであろうか。


シャンカラの誕生から数百年後の11世紀に誕生したラーマーヌジャはシャンカラの思想を大いに学びながらも、シャンカラが説く解脱への道には欠点があると指摘する。端的には、アートマンとブラフマンが一体であることに知的に気づくだけではダメで、それらを瞑想を通じて体得することが重要だと説いたのである。自分自身はシャンカラが説くように、まずはアートマンとブラフマンとの梵我一如に気づくことが重要だと考えていて、その気づきを定着させるために瞑想実践が重要だと捉える。その点においてラーマーヌジャの指摘に賛同する。現代においては幸いにも、瞑想実践に加えてサイケデリック実践があり、それらの実践を経て、直接体験としてアートマンとブラフマンの一致を体得することを積み重ねていくことが解脱の道において重要なのではないかと思う。


どのような宗教もそうであるが、本来宗教は救済を目的にしており、それを可能にする原理の探究とそれらを実現する方法論の探究を伴う。そうした観点でインド哲学と仏教の思想を見ていくことは重要であり、そこに存在する救済原理と救済方法を見出すことを通じて、自己と他者、そして社会の救済の実現に向けた試みに従事したいと思う次第だ。フローニンゲン:2024/1/31(水)08:52


12016. 知行合一の道/シンプルな実践/阿摩羅識の存在 


シャンカラが開いたヴェーダーンタ学派の後期に登場したラーマーヌジャは、瞑想によってアートマンとブラフマンが同一であることを体験することの重要性を説いた。それに対して批判を加えたのが、認識論と論理学を専門とするニヤーヤ学派のヴァーツァーヤナだった。ヴァーツァーヤナは、瞑想の技法の曖昧性を問題視し、解脱において重要なことは、自らの認識を正していくことだと述べた。さらには、アートマンを直接的に知ることではなくでも、推論や類比などの論理学的な方法論を通じてアートマンがなんたるかを徐々に明らかにしていくことが重要であると説いた。ニヤーヤ学派の論理学の方法論の1つに直接知覚というものがあり、その観点で言えば瞑想は直接知覚をもたらすものであるから、瞑想実践そのものをヴァーツァーヤナは批判したわけではないことが見えてくる。あくまでも瞑想は正しい知識を得るための実践のうちの1つなのであり、それだけでは解脱は実現できないことをヴァーツァーヤナは伝えようとしていたのだろう。まさに知ることと行うことの知行合一が解脱の道の鍵なのだ。


日々私たちは無数の業を知らず知らずのうちに積んでいる。過去からの業だけではなく、現在もまた刻一刻と新たな業を積んでいるのだ。自分がどのような業を積んでいるのかをできるだけつぶさに観察していく時、徐々に私たちが日々積んでいく業は清純なものとなり、解脱の実現に近づいていくのではないかと思う。シンプルには、善い言動を自分や他者、そして社会に対して行うこと。そうした心がけをして日々を生きたいものである。それが別に解脱に至らなくても、それを通じてきっと人生はより良い方向に導かれていき、より豊かで従事した人生を送れるのではないかと思う。


日々自分が知覚する全ての現象は、8つの識の相互作用によって生み出されたものに過ぎないとする唯識の思想。自らの知覚現象の全てが、形を持たない8つの識を通じて表象として仮に生み出され、それは絶えず変化していく。唯識思想においては、煩悩によって汚れた識を清らかなものにしていくことを通じて悟りに至ると説く。唯識思想について調べていると、どうやら8つの識を超えて、阿頼耶識の次に「阿摩羅識」という9番目の識を立てる考え方もあるそうだ。それは私たちの生命の根源にある清浄な識であり、その識を立てた華厳宗と天台宗についてもさらに調査をしていこうと思う。フローニンゲン:2024/1/31(水)09:43


12017. 六派哲学と仏教の相違点と共通点/アーユルヴェーダとサイケデリクス 


確かに仏教はインド哲学に包摂される特徴を持つが、インド哲学における六派哲学と仏教との間には大きな違いがある点には注意が必要である。その主たる違いは、聖典であるヴェーダの権威性を認めるかどうかである。六派哲学はヴェーダの権威性を認め、その聖典解釈から思想を展開させていった。一方、仏教を含め、ジャイナ教と唯物論的思想を持つローカーヤタ派(順世派)は、ヴェーダの権威性を認めないという特徴を持つ。今後ヴェーダも読解してみたいと思うのだが、その際にはヴェーダの六派哲学への影響に注目し、仏教がヴェーダとどのような点で思想的乖離があるのかも注目したいと思う。六派哲学と仏教との間には上記のような相違点はあるが、一方で共通点としては、根本経典を自ら作り上げ、輪廻からの解脱を究極目標とした点を挙げることができる。六派哲学と仏教が明らかにした解脱を妨げる原理の詳細な説明を辿ることと、解脱に至るための正しい知識の獲得、そして各種の方法論を学び、それを実践することを日々の生活に体現させていきたい。


インド哲学の聖典であるヴェーダから派生したアーユルヴェーダは医学を司るが、そこでは数千種類の薬草を活用していたことが知られており、アーユルヴェーダとサイケデリクスの関係性で言えば、朝鮮朝顔やヒヨスという植物の使用が言及されている。アーユルヴェーダを起点にし、インド哲学とサイケデリクスとのつながりについても引き続き関心を持って探究を進めていこうと思う。


つい今し方仮眠から目覚め、ここから午後の取り組みに従事する。この日記を書き終える頃にはラジオの収録が始まる時間になるだろう。今日のラジオでの意識探究に関する対話が楽しみである。


唯識思想においては、識は認識対象を区別して知覚する精神作用として定義づけられる。私たちの言葉は世界を分節化する働きを持っているが、その働きと呼応するかのように、識もまた分節化作用を持つ形で対象を区別して私たちに知覚させる。驚いたことに、パーリ経典のアビダルマに関する構成の注釈書には、89種類もの識を明らかにしているものがあるらしい。それぞれの識が異なる業の結果をもたらすという教えのもと、識をそれだけ詳細に分析していることに驚く。パーリ経典を読み解くためのパーリ語の力をつけていくこともまたサンスクリット語の力をつけていくことに加えての楽しみにしたい。学問研究は本当に自分の人生を豊かにしてくれる最良の実践であり、こうした楽しみが毎日あることに本当に感謝したい。フローニンゲン:2024/1/31(水)12:41

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