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【サイケデリック学・意識哲学探究記】11967-11973:2024年1月27日(土)



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タイトル一覧

11967. 今日からのゼミナールのクラスで取り上げる新たなテーマ/ウパニシャッドとニヤーヤ学派

11968. 今朝方の夢

11969. 言語的マトリックス世界からの脱却としての外国語学習

11970. 物理世界のリアルとデジタル情報世界のリアル

11971. 最先端のVRコミュニケーションツールと自らの生成AIアバターの作成に向けて

11972. インド哲学の実践的・実利的価値

11973. 意識に関する四六時中の探究/メタバース空間に誕生する人間


11967. 今日からのゼミナールのクラスで取り上げる新たなテーマ/

ウパニシャッドとニヤーヤ学派 


時刻は午前5時を迎えた。とても穏やかな土曜日の朝が広がっている。目の前は確かに闇の世界が広がっていて、あと3時間ぐらいしなければ日の出を迎えないが、穏やかであることは気配からわかる。この3日間は風がとても強かったが、今日は風はほとんどなく、雲ひとつない天気のようなので何よりである。今の気温は2度だが、日中は7度まで気温が上がるようなので、太陽の光を浴びながら散歩をすることを兼ねて、午後には買い物がてら書籍の受け取りに行ってこようと思う。今日と明日の最低気温はそれぞれ0度と1度で、最低気温だけ見ればある程度の低さだが、明後日以降からは最低気温が4度以上になるので随分と暖かい印象である。2月を目前に控え、極寒さを脱却したかのような日々が続くのは嬉しい限りである。


今日は午前中に第64回目のゼミナールのクラスがある。今日からは神道を取り上げていく。神道家の川面凡児先生の思想を学ぶことが目的になっており、より細かくは川面神道神学の意識論と宇宙論への理解を深めながら、意識とは何か、リアリティとは何かを考えていくことが目的になっている。それは自分なりの目的であるから、受講生の方々がどんな目的意識を持って今回からの学びを進めていこうと思っているのかを尋ねてみたいと思う。

今はもっぱらインド哲学の研究をしているが、神道についてもいつか本格的に欧米の学術機関で研究をし、その成果を英語論文の形にしたいと考えている。今日からのゼミナールで扱うのは和書だが、そこでの学びが将来欧米の学術機関での研究につながってくれると信じている。


ゼミナールまでの時間と午後の時間はいつものように読書に打ち込んでいく。昨日はインド哲学における奥義書と形容されるウパニシャッドと、インド哲学の中でとりわけ認識論と論理学に強みを持つニヤーヤ学派の書籍を受け取った。それらの初読を進めたい。ウパニシャッドが取り上げるテーマは多岐に渡るが、その中でも宇宙論には注目している。また、ウパニシャッドをもとにして展開された学派の思想や、仏教やジャイナ教に与えた影響についても着目しながら読解を進めていこうと思う。ニヤーヤ学派に関する書籍については、兎にも角にも西洋の認識論・論理学との対比で読み進めていきたい。ニヤーヤ学派に固有の発想法を見出すことを期待しながらの読解を進めたいが、そのためには西洋の認識論と論理学への理解も不可欠であろうから、対比を実現させるために両者に精通していきたいと思う。また、大乗仏教の中観派の思想を打ち立てたナーガールジュナと激しい論争をしたことでもニヤーヤ学派は知られており、その論争過程もその書籍の中に掲載されているようであるから、両者の論争を通じて弁証法的に議論対象の理解を深めていきたい。それらの書籍の初読を終えたら、引き続き気の赴くままに様々な書籍を手に取って再読していこうと思う。フローニンゲン:2024/1/27(土)05:20


11968. 今朝方の夢 

   

夢の世界からの誘い。そして夢の世界からの伝言。毎晩それらを受け取っているような気がする。今朝方にも夢の世界からの誘いを受け、そして夢から何か伝言を受け取ったようである。その伝言に注目しながらも、意識哲学の観点からすれば、夢を見ていない深い眠りの意識の状態にもこれからより一層注目したい。夢を見ない深い眠りの状態においても目覚めていなければ真の意味での覚醒ではないと言われることからも、自分の意識鍛錬はまだまだ未熟である。ここから日々の瞑想実践と体系立ったサイケデリック実践を通じて深い眠りの意識においても目覚めていられるところまで精進していきたいと思う。


今朝方の夢の世界では、武術に精通したある俳優の男性と協働して動画に出演していた。その男性とアシスタントの2人を合わせて、合計4人で待ち合わせ場所の道場に向かい、そこで新たな武術を師範から習うことになっていた。その一連の様子が動画に撮影されていた。私たちは4人一緒になって道場に向かっており、その道中は今から行う武術の話で持ち切りだった。師範の話は噂で聴いているぐらいだったので、実際に会ってみるとどのような人なのかに関心があった。その点についても話題に挙がって盛り上がった。いざ道場に到着する寸前で、向かい側にある駄菓子屋のような店が気になり、私だけそこに入ってみることにした。するとそこはもぬけの空で、中には誰もいなかったが、人が生活をしていた痕跡があり、猫が4匹ほどいた。2匹の親猫と生まれたばかりの小さな2匹の猫はとても可愛らしく、彼らはそこで生活を営んでいるようだった。2匹の親猫は気持ち良さそうに寝ていたが、子猫の方は起きており、私に懐いてきた。どうやら水を欲しているように思われたので、店の中にあったケトルに水を入れ、それを2匹の子猫に与えた。すると親猫が目を覚まし、彼らも水を欲しているようだったので、彼らにも水を与えた。4匹の猫は水を飲んで元気な様子を見せてくれたので、こちらも嬉しくなった。そのような場面があった。


その他には、見知らぬ外国人の女性とキャリアや武術、そしてサイケデリクスの話をしていたのを覚えている。キャリアについては単なる挨拶程度の会話に過ぎず、一番盛り上がったのは武術とサイケデリクスの話だった。彼女も武術とサイケデリクスを嗜んでいたので話が早く、それらに関するかなり踏み込んだ話をしていたのを覚えている。今朝方はそのような夢を見ていた。フローニンゲン:2024/1/27(土)05:39


11969. 言語的マトリックス世界からの脱却としての外国語学習


私たちは誰1人として完全に社会的マトリックス世界からは脱却しておらず、マトリックス世界を構築する主要なプレイヤーとして言語がある。日本語には固有の社会的マトリックス世界があり、英語を含めた他の言語もまた同様である。人間は言語を獲得して以降、こうして自らを言語的マトリックスに閉じ込める形で知的活動を行ってきたことが興味深い。言語的マトリックスには種々の恩恵があるが、言語が持つマトリックス世界を作り上げる能力に無自覚である時、人はある特定の言語マトリックス世界に閉じ込められた囚人となる。自分がある特定の言語マトリックス世界に閉じ込められていることに自覚的になる最良の方法は外国語を学ぶことである。自分もまた英語という外国語を学び、日本で構築された言語的社会マトリックスに気づくことができた。また、自分がいかにそうしたマトリックスに閉じ込められていたのかに対しても自覚的になった歴史がある。オランダに移住してからは、オランダ語を学ぶことを通じて英語で構築された社会的マトリックス世界にも自覚的になる機会が恵まれた。このように外国語を学ぶことは、既存の言語マトリックス世界の特徴や限界に気付かせてくれ、そこからの解放をもたらす。言語を使用している限り究極的な解放は困難かもしれないが、少なくとも1つか2つの外国語を学ぶことを通じて、かなりの度合い言語的な実存的拘束からは解放される。今、インド哲学の研究の観点でサンスクリット語とパーリ語に関心を持っているのだが、それらの言語を学ぶことを通じて、また新たな解放が自らにもたらされるだろう。


言語は私たちの実存を深く規定する。そして深く縛る。おそらくその点に無自覚な時、翻訳テクノロジーを手放しに喜び、外国語を学ぶことの価値を軽んじるのだろう。確かに、翻訳テクノロジーがこれからさらに発達すれば、外国語を学ぶ実利的な価値は減るだろう。しかしそれを超えた実存的な価値は依然として残り続けるだろう。外国語を自らの認識が変容するほどに深く学ぶ時、これまで自分の実存を縛っていたある特定の言語からの実存的解放が実現される。それは外国語を学ばなければ決して実現されない類のものであり、そこは翻訳テクノロジーがいくら発達しようがどうしようもないのである。翻訳テクノロジーは外国語を母国語に変換するだけであり、テクノロジーの利用者は常に母国語を実存的OSとして保持することになる。それでは母国語で構築された言語的マトリックス世界からの解放は実現されないのだ。翻訳テクノロジーの発達によって、世界の人たちはより言語的な障壁なくコミュニケーションが行えるだろう。それは素晴らしいことであるが、その反面、世界の人たちは己の母国語の言語的マトリックス世界に縛られ、実存的発達が停滞する可能性もある。実存性が1つの言語に縛られることによって、政治的にはさらに右に傾くことなども考えられる。そうした諸々のことを考えて、自らの実存性が変容するところまで自分の関心に合致した何かしらの外国語を学ぶことを推奨したい。少なくとも自分はそれを自らに対して実行する。外国語を学ぶことは自らの実存性を解放し、よりオープンなものにするのだから。フローニンゲン:2024/1/27(土)07:01


11970. 物理世界のリアルとデジタル情報世界のリアル


先ほどモーニングコーヒーを淹れている最中に、メタ社のマーク・ザッカーバーグのインタビュー動画を視聴していた。最近はVRゲームを含めたVR技術に注目しており、VR世界に関する哲学書を調べたり、関連動画をよく視聴している。メタ社が製造したVRヘッドセットを使っての対談はとても興味深く、画面越しに映されたザッカーバーグと対談相手は本物と間違えるほどであった。何やら表情認識を高度なテクノロジーを通じて行っているようで、画面に映し出された2人の表情をリアルなものだと視聴者側が思ってしまうだけではなく、対談者双方もそのように感じているらしかった。2人はアメリカの違う場所から対談ミーティングを行っているのだが、同じVR空間を共有している。そのVR空間で同席した2人がまるで本当に現実世界の対談ルームで話をしているかのようにこちらも錯覚させられたり、対談者の2人もそのように感じていることが大変興味深かった。そのVRヘッドセットは即座に表情データを汲み取り、それをVR空間に反映させているとのことだが、仮にすでにインターネット空間上にその人物の写真が動画が多数あった場合には、それらのデータを用いてVR世界に反映させることなどもできるのだろう。その人物の過去の写真や動画と現時点での表情認識の組み合わせによって、VR空間の自らのアバターは如何様にも調整できるだろうし、データ量の増大によりリアルさもより増すのではないかと思う。単純な話、私たちはある人物の写真や動画の中のその人を見てリアルだとこれまで思ってきたはずであり、それであればその人物の写真や動画を活用したアバターもまたリアルなものだと感じるのは至極当たり前かと思う。そもそも写真や動画は最初からデジタル情報なのであり、それにリアルさを感じていた私たちが、そうしたデジタル情報をもとに生成されたある人物のアバターにリアルさを感じるのは自然のことのように思える。端的には、これまでの私たちは物質主義・物理主義なパラダイムの中で生きていたがゆえに、物理世界に存在する肉体を持った人のことだけを指してリアルな存在と呼んでいたのに過ぎない。ここからテクノロジーが発達し、そうしたパラダイムから脱却すれば、デジタル上のアバターも等しくリアルな存在として当たり前にみなせるようになるだろう。バーナード・カストラップの分析的観念主義や大乗仏教の唯識思想のような発想を人々が理解するようになり、社会全体としてそうした認識の枠組みにシフトすれば、物理世界に存在する肉体を持った人に対しても、デジタル情報世界に存在する物質的な肉体を持たない人に対しても等しくリアルさを見出すことができるだろう。そうなってきた時にはアイデンティの問題を含めて、心理学的な問題についてもさらに考察を深めていく必要があるだろうし、種々の倫理的な問題も浮上するだろう。そうした問題に対して哲学の果たす役割は極めて大きい。その中でも自分は意識とリアリティに関する哲学の観点から社会に貢献していきたい。フローニンゲン:2024/1/27(土)07:19


11971. 最先端のVRコミュニケーションツールと自らの生成AIアバターの作成に向けて


メタ社の開発したVRコミュニケーションツールについてあれこれと考えている。数日前の日記で書き留めたように、おそらく現状のVRヘッドセットでも随分と軽量化されており、首や肩への負担はもうほとんどないかと思われるが、それらへの影響や視力への影響も含めて、さらなる研究と技術開発が進んで欲しい。仮にそのツールを自分が使った場合、それこそ日頃の協働ミーティングや両親との2ヶ月に1度のミーティングがより臨場感のあるものになるだろう。ミーティングを行うVR空間を自ら選ぶこともできるであろうから、外国のお洒落な街のカフェでVRミーティングを行うことも可能だろうし、自然豊かなリゾート地でのVRミーティングも可能だろう。これはミーティングの楽しさや生産性を増大させる意味でも価値がありそうだ。現状は、Zoomなどのツールを使っても画面越しののっぺりとした2次元的な世界でのコミニケーションに留まるが、同一の3次元VR空間を共有することによって、コミュニケーションの密度はさらに高まるだろう。もちろんそれによる弊害もあるだろうが、これまでZoom越しにセラピーやコーチングを行ってきた対人支援者にとってもVR技術を活用したサービス提供には意味があるだろうし、ヨガやジムのトレーナーのオンライン指導においても、さらには武術や舞踊のオンライン指導などにおいてもそのサービスの質が格段に向上しそうである。人々がより深くつながり、お互いに助け合いながらより良い社会を築いていくことに関心のある自分にとって、VR技術は注目の的であり、実際に自分でも入手して使ってみることをしたい。


そして今後は生成AIにも着目したい。仮に自分の肉体が消滅しても、自分の生成AIが1つ、あるいは無数に存在することによって、肉体の消滅後も新たなコミュニケーションと社会参画が実現されるだろう。自分の肉体の消滅前においては、この1つの肉体を持つ自分が関与できることには限界がある。例えば、オンラインミーティングを同時に複数行うことはできないし、複数の人それぞれと個別に話を聞いたり、複数の企業へのコンサルティングサービスを同時に提供することはできない。しかし、ここから生成AI技術がさらに進化すれば、自分と全く同じ思考回路を持って話をするアバターを複数作ることができるあろう。おそらくはそれは複数作る必要はなく、1つ自分と瓜二つなものを作れば、それをデジタル情報空間上でいくらでも貸し出す(稼働させる)ことができるはずである。その実現のために自分は何をすればいいのだろうか。少なくとも自分の固有の感性や関心に従って学びと実践を進めていき、膨大な情報共有をデジタル空間上で行っていれば、それが自らの生成AIアバターを作成することに役に立つだろう。今後は自分の生成AIアバターを生成することを射程に入れて、さらに学びと実践に励みたい。自らの生成AIアバターの活用においては、そこでの発言や振る舞いに関してまた倫理的な問題が生じるであろうが、そうした問題についても吟味しながら、自らの生成AIアバターが社会に貢献することに期待をして日々の精進を続けていこう。フローニンゲン:2024/1/27(土)07:36


11972. インド哲学の実践的・実利的価値    


悟り、解脱、解放など、様々な表現はあるが、それらが指すことは共通している。自分が自分らしく何ものにも囚われずに幸福感を感じなら自由に生きることの実現は、本来誰しもが可能である。しかし、その実現を妨げている種々のものがあることを認識し、それらの障害を克服していくことが求められる。早朝に書き留めた言語マトリックス世界の制約からの解放はその1つの道である。言語を使う限り、私たちは完全に言語マトリックス世界から脱却することはできないし、それをする必要もない。重要なことは、それらが私たちに突きつける制約を理解し、そこから解放されていくことである。それなら可能なのだ。その他に私たちの解放の実現を妨げているものは、欲望と自らの思考だろう。インド哲学では驚くほどに欲望に関する詳細な分析が行われている。それは西洋の心理学に匹敵するかそれを凌駕するぐらいの精密さで驚く。インド哲学の中に含まれる仏教の思想においても、「仏教心理学」と呼ばれるほどの詳細な心理分析がある。そこでも欲望の性質やそれとの付き合い方に関する分厚い議論がなされていて注目に値する。欲望の根源とその種類、そしてそれらとの付き合い方に対して理解するだけでも随分と実践的な価値がインド哲学にあることがすぐにわかるだろう。


先ほどからニヤーヤ学派に関する書籍を読み始めた。オックスフォード大学出版から出版された“Vātsyāyana's commentary on the Nyāya-sūtra: A guide”の初読を今行っているところだ。サーンキヤ学派やヴェーダンタ学派だけではなく、ニヤーヤ学派にも注目しているのは、それが認識論と論理学に特化している学派だからである。ニヤーヤ学派のユニークさは、論理の追求によって解脱を目指したところにある。言葉に厳密となり、論理を精密化していけば私たちが解脱を実現することが可能であるというのはとても興味深い思想である。ニヤーヤ学派の論理学を学んでいくことは、日頃の対話の質を深めることにも役に立つだろうし、自らの学術論文執筆における論の展開にも役に立つだろう。そもそも私たちは自らの言葉の使い方、論理の使い方に無自覚で、とりわけ論理破綻によって苦を生み出していることが散見される。そうした苦から解放されるためにも論理学を学ぶことは重要であり、その観点においてニヤーヤ学派の思想は実に実践的かつ実利的なのである。これまでの自分の論理の使用方法を客体化して見つめ直す意味でも、ニヤーヤ学派には引き続き注目してその思想を深く学んでいこうと思う。フローニンゲン:2024/1/27(土)08:44


11973. 意識に関する四六時中の探究/メタバース空間に誕生する人間


時刻は午後3時半を迎えた。今日は天気予報の通り、風がほとんどなく、天気もとても良かったので、先ほど買い物がてら書籍の受け取りをしに散歩した際には気持ち良さを感じた。先日注文したインド哲学関係の書籍が続々と到着し、学術研究に向けて体勢が整い始めている。意識に関する探究に際して、数学者が脳内で数学に関する問題を扱うように、宇宙物理学者が脳内で宇宙に関する問題を扱うように、意識哲学者として意識に関する問題を脳内だけで扱える恩恵を享受しながら、楽しみの感覚を通じて思索を深めたい。先ほど行っていた瞑想実践は意識の問題を扱う実践的な場でもあり、明日に行う予定のシロシビン・セッションもまた意識研究における最良の実践的な場となる。寝ている時には夢を通じて意識のある側面を体験し、夢の振り返りを通じて無意識の世界を探究する。このように自分は、四六時中意識に関する探究をし続けていき、それぞれの実践をさらに深めていきたいと思う。そうすれば知らず知らずのうち、意識の謎が徐々に紐解かれていくだろう。


書籍の受け取りの道中、生まれた瞬間からVR技術を活用したメタバース空間に誕生する人間について考えていた。地球環境問題や戦争や犯罪などとの兼ね合いから、物理的地球で生活する権利を生誕時には付与されず、メタバース空間上での生誕後、そこで犯罪行為を犯さず、地球環境にも良い生活ができるとアセスメントされた人間だけが権利として物理的な地球にアクセスしてそこでの時間を過ごすことが認められる時代もいつかやってくるかもしれない。すなわち、認知的知性や倫理・道徳的知性の低い人間はメタバース空間で一生過ごすことになり、各種のアセスメントを通じて、人や社会、そして地球という生態系に危害を加えないと判断された人だけが物理的な地球にアクセスしていっときを過ごす権利を与えられる時代がやってくるのではないかということである。それはSF的かつ映画『マトリックス』の世界の話のように聞こえるかもしれないが、どこかのタイミングで人類はそのように社会運営をしていく可能性があるのではないかと思った。それ以外の方法で健全な社会運営を行っていく方法や地球の生態系を守る手段が残されていないところまで人類は歪んだ歩みを進めてしまったように思える。


今はもちろん技術的な問題があるし、それに伴う人権の問題もある。しかしながら、人間が物理世界で地球という生態系に与えている問題や、依然として人間の命を奪う戦争を行っている姿を見ていると、それらを防ぐ意味でも上述のような形で、まずは物理世界を体験する機会を人に与えず、メタバース空間で人格を育み、品行を検査された上で晴れて物理的な地球にアクセスしてしばしそこで時間を過ごすことが許される時代も遠くない将来にやって来そうだと考えていた。ここから意識とリアリティについての考察を深めていきながら、先端テクノロジーとの融合において人間社会がどのように変化していくのかについて想像を膨らませながら色々なことを考えたいと思う。フローニンゲン:2024/1/27(土)15:51

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