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8632-8634: フローニンゲンからの便り 2022年6月19日(日)



No.3735 宇宙のほこら_A Hokora of the Universe


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.1622, Words

Words come from my body.

The quantity and quality of words depend on my body condition.

Groningen; 10:00, 6/19/2022

No.1623, Ontology of Knowledge

Where does my knowledge exist?

I’m curious about ontology of knowledge.

Some knowledge is here, and other knowledge is there.

Groningen; 16:09, 6/19/2022


No.1624, The Privilege of Humans

One of the most important privileges of humans is living a contemplative life.

Wild animals cannot enjoy such a life because they disperse their attentions to survive.

Modern people who do not live a contemplative life are equal to wild animals.

Groningen; 20:57, 6/19/2022


下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(3つ)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。

本日の3曲


全ての楽曲はこちらのMuseScore上で公開しています。

楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

8632. 今朝方の夢

8633. ファスティングを終えて

8634. 内省と表現/天皇と国王


8632. 今朝方の夢


時刻は午前8時半を迎えようとしている。ファスティング の3日目が始まり、起床した時には体にだるさがあった。これはおそらく、カロリーを一切摂取していないので、身体が省エネモードになっていることと関係しているだろう。どれだけデトックスができたのかは定かではないが、2日間にわたって胃腸を休めたことにより、胃腸の働きは健全なものになったのではないかと思う。一応今夜までファスティングを続け、夜に回復食として果物を食べようと思う。その時に食べる果物は、さぞかし美味しく感じられるに違いない。


今朝方は確かに夢を見ていたのだが、それを想起する力が弱まっていた。これもファスティングによる影響なのだろうか。夢の中で私は、見慣れない体育館にいて、そこでバドミントンをしていた。私は経験者ではなかったのだが、大会に参加していて、意外なことに、トーナメントを勝ち上がっていた。自分の中にある隠れた才能を発見したかのようで、プレーの楽しさと相まって喜びの感情を抱いていた。一方で、それは才能というよりも、事前に結構練習を積んでいたかもしれないと思い、逆にそうした練習熱心な姿勢にも我ながら感心した。トーナメントの次の相手は相当に手強いということを事前に知っていて、その選手と対戦することが楽しみだった。そのような夢を見ていた。


次の夢の場面では、見慣れない外国の街をさすらっていた。あてもなく街をぶらぶらと歩き、目に入る全てのものが真新しく、新鮮な気持ちでいた。しばらく歩いていると、見知らぬ若い日本人の男性に声を掛けられ、彼と少し立ち話をした。そのような場面があったことを覚えている。実際には、それらの夢以外にもまだ何か重要な夢を見ていたように思う。夢の中の言語は日本語で、日本語でもう少し誰かとやり取りをしていた場面があったはずである。残念ながらそれらの夢はもう逃げ足早くどこかへ行ってしまった。ファスティングが明けた明日の朝の夢はちゃんと記憶に残っていることに期待をしたい。フローニンゲン:2022/6/19(日)08:39


8633. ファスティングを終えて


先ほど、3日間のファスティングを終え、回復食として果物を摂った。まさに果物をいただくという言葉がふさわしいほどに、果汁と果肉が自分の身体に染み渡っていった。グレープフルーツとリンゴをいただき、果糖のおかげか、少しずつ活動エネルギーが回復しているように思う。今朝方は、ファスティング中の影響で、言葉も省エネモードになっているような感覚があった。昨日も含め、日記の執筆量が自然と減っていることからも、言葉もまたファスティングに応じて省エネモードになっていたようなのだ。先ほど回復食を摂ったことにより、ここから言葉にもまた活力が戻ってくるだろう。


先ほど、知識の存在論について考えていた。突如として、ある知識とまたある知識が別の場所に存在しているように思えたのである。これは単に、知識が脳の中で記憶されている場所のことを言っているのではない。目には見えない知識空間の中における知識の保存場所について考えていたのである。知識の存在論は、自己の存在論とも関係するテーマである。夕方の空をぼんやりと眺めながら、引き続きこのテーマに思いを馳せてみようと思う。ファスティング後の今は、とにかく万事ゆっくりと進めていくことが大切だ。フローニンゲン:2022/6/19(日)16:22


8634. 内省と表現/天皇と国王


小鳥たちの鳴き声が心を洗ってくれている。そして、それは自分の背中をそっと後押ししてくれている。そんな環境の中で、自分は日々、内省を続けている。それは自己に対する内省でもあり、世界に対する内省でもある。だが、この内省が表現として外側に出てこなければ、内省が真に自分の内側に定着することはないだろう。また、表現を伴わない内省は、結局のところ曖昧模糊とした存在のままどこかに雲散霧消してしまう。内省と表現は、必ず足並みを揃えて行われるべきことである。そのようなことを考える。


夕方のフローニンゲンはすこぶる優しい。明け方には雨が降っていたが、それはすぐさま止み、今はこのようにして青空が広がっている。オランダの落ち着き。これはいつも旅に出かけて帰ってくる都度思うことである。デカルトが晩年に生活拠点を置いたこの国で、自分もまたデカルトと同じく内省を主軸にした観想的な生活を営んでいる。静けさと共にあれ。落ち着きと共にあれ。目の前の世界はその大切さを伝えている。


天皇のいる日本。国王のいるオランダ。天皇も国王もいないアメリカ。それらの国で生活をする中で、天皇や国王に対する印象は随分と変化した。彼らの存在があるからこそ守り、育まれる秩序があるということが、具体的な生活を営む中で確たる実感としてある。目には見えない秩序維持機能を果たしているそれらの存在を見た時、それらの不要論を見聞きすると驚いてしまう。そうした論客たちは、目には見えないそれらの価値や働きが決してわからないのだろう。結局彼らは、物質主義的な、そして計測可能性という虚偽の客観性を信奉する輩らなのだろう。


それにしても、フレディさんから教えてもらったエストニアの作曲家アルヴォ·ペルトの音楽は見事である。ピアノ曲、交響曲、コラールと、秀逸な曲が続く。朝からずっとペルトの曲に耳を傾けている。今自分がオランダという西欧諸国で感じていることが体現された音楽がそこにある。こうした生活に密着した西洋のクラシックの伝統に基づいた音楽を聴きながら、自分はそこに箏の演奏を加える。それによってもたらされる実存的化学反応はいかなるものだろうか。フローニンゲン:2022/6/19(日)16:58

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

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