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7320-7324: フローニンゲンからの便り 2021年9月12日(月)



No.2689 休息への誘い_Invitation to a Rest


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.894, The Trio

Serenity, equanimity, and fecundity are the trio in my life.

They are always existing together and getting along very well.

Groningen; 08:01, 9/12/2021


No.895, A Groyne of Time

I’m standing in front of a groyne of time.

What would happen if it were broken?

I suppose that the influx of infinity would come.

Groningen; 16:22, 9/12/2021


No.896, Continuous Journeys

Today’s journey will end soon.

But a new journey will come soon again.

A dark night is celebrating the new beginning.

Groningen; 20:58, 9/12/2021


下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(4つ:コメント付き)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。

本日の3曲


全ての楽曲はこちらのMuseScore上で公開しています。

楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

7320. 今朝方の夢

7321. 死の恐怖を超越する夢

7322. 不思議な大学に入学する夢

7323. 技術知とテクノロジー/無意識化・ハイパーオブジェクト化するテクノロジー/美学とテクノロジー

7324. ピーター·スローターダイク、フリッチョフ·シュオン、ヘンリー·ルフェーヴラの思想より


7320. 今朝方の夢


時刻はゆっくりと午前7時に近づきつつある。ここ最近は日の出がすっかり遅くなり、辺りはまだ薄暗い。今朝は風もなく、とても静かな朝の世界が目の前に広がっている。


今朝はいくつか印象に残る夢を見ていた。


夢の中で私は、どこか見慣れた場所にいた。そこは、小中学校時代を過ごした社宅の寝室のようだった。その部屋の壁にボールをぶつける遊びをしていると、部屋に大学時代のサークルの先輩が現れた。


その先輩は、私よりも3つ学年が上で、私が入学したときにはすでに4年生だったが、その方は大学院にも進学したので、サークルでは3年間一緒に過ごした。その先輩はとても頭脳明晰であり、経済や統計、さらには金融に関する難しい授業の内容について色々と教えてもらっていた。


そんな先輩が目の前に現れ、今からボールを使ったあるトレーニングをしてみようと持ちかけてきた。そのトレーニングのルールはシンプルで、掌を上下に重ね合わせ、その上にボールを置き、手をその形で維持したままボールを壁にぶつけ、体を反転して、掌を重ねたその手の形でボールをキャッチするというものである。


まず手本に先輩がやってみた。すると、1回目は失敗し、「なんだ、そんな簡単なこともできないのか(笑)」と私は心の中で笑ったが、誰でも1回ぐらいは失敗するかもしれないなと思い、先輩の2回目のトライを見守ることにした。2回目で先輩はなんとかボールをキャッチした。


そこから私が挑戦する番となり、こんな簡単なことは1回で成功するだろうと思っていざ壁にボールをぶつけて反転してみると、なんとボールがキャッチできなかったのである。ボールが手に当たってキャッチできないような場所に飛んでいってしまったのだ。


そんな馬鹿なと思ってもう一度挑戦してみたところ、またしても失敗だった。そこからさらにもう2回ほどトライしてみたが、結局4回とも失敗に終わった。先輩は黙ったまま少しニコニコしていた。


そこで私は、5回目のトライをする前に、なぜ失敗したのかの要因を冷静になって考えてみることにした。念のため、もう一度ルールの確認として、反転するときにも両手の掌を上下に重ねたままにしないといけないのか、そしてボールをキャッチするときもその手の形でなければならないのかを先輩に確認した。すると、ルールはやはりそうなっているとのことだった。


その姿勢を維持して反転すると、反転する時間がコンマ数秒ほど遅くなることが制約条件であり、ボールをキャッチするときにも、それはキャッチというよりも、掌の上に載せないといけないので、ボールの落下に対して少し工夫が必要だった。サッカーのトラップのコツはボールの落下に合わせる形で足を下に下げることを思い出し、その要領で掌を下げながらボールを受け取る必要があると思った。


また、ボールを壁に当てて反転する際に、一度ボールから目を離さないといけないので、ボールの軌道をイメージすることが重要であり、同時に視線を上げて、ボールが落下して来る姿をいち早く視野に収めることも重要だと思った。


最後に、反転するときも足を素早く動かして、反転する時間をコンマ数秒でいいので縮めようと思った。いくつか意識しないといけない変数があることは大変だったが、それら全てを意識しようと思って、次のトライに望もうとした。


私の仮説を聞いていた先輩は相変わらず笑顔だったが、自分は次のトライでは成功できそうな予感がしていた。いざトライしようとすると、そこに小中高時代の女性友達(NI)が現れた。彼女は偶然そこにやって来たようだったが、ちょうどいいと思って彼女にもこのトレーニングに挑戦してもらうことにした。


彼女は中学校時代に卓球部だったので、動体視力もいいだろうし、小学校と高校はバレーボールをしていたので、ボールをレシーブする感覚でうまくキャッチできるのではないかと思った。彼女に少しプレッシャーをかける意味で冗談を言うと、彼女に軽くこづかれた。


そんなやりとりをした後に彼女がいざトライすると、なんと1回で見事にボールをキャッチしたのである!私は彼女ならもしかしたらできるかもしれないと思ったが、自分があれほど苦労したものだったので、まさか1回で本当にキャッチできるとは驚きであった。


そこから私は、先輩と彼女に次は必ず成功させると誓い、2人に成功を見守ってもらおうと思った。いざ壁にボールをぶつけようとしたところで夢の場面が変わった。フローニンゲン:2021/9/12(日)07:11


7321. 死の恐怖を超越する夢


時刻は午前7時を迎えた。再び肌寒い日々が始まったフローニンゲン。


今日は曇りがちのようであり、最高気温は19度までしか上がらない。最低気温も10度を少し超えたぐらいだ。


今月末のドイツ旅行の際にはもう随分と気温が下がっているかもしれない。旅先のドイツのボンとトリアーの気温も確認し、どのような格好が最適なのかを追って考えておこう。


今朝方見ていた夢の続きについて書き留め、今日もまた読書と創作活動に励む。今日は正午過ぎに、両親とZoomを通じて会話をする。2ヶ月に1度話をすることになっていて、今日もどのような話になるのか楽しみである。


今朝方の夢。夢の中で私は、ひとが誰もいない未来都市の上空を飛んでいた。それは空を飛びながら行う実践トレーニングだった。


そのトレーニングの内容は、2つの班に分かれてもう一方の班をを攻撃するものだった。トレーニングを指揮する司令官の女性から、「相手を殺せ」という指令が出て、最初私は冗談だと思った。


しかし、司令官の表情を見ると、そのようには思えず、それは死ぬ気で実践トレーニングをしろという意味だろうかと解釈した。だがそうではなく、死ぬ気を持ちながら、同時に相手を本当に殺せというものだということにすぐに気づいた。


それを気づかせてくれたのは、近くにいた少し年上のメンバーの男性のおかげだった。司令官は前々からこのグループを解体させようと思っていたとその人から聞いた。


それは上層部からの命令という止むを得ない理由があるとのことだったが、トレーニングで仲間を殺し合うことによってグループを解体させるというのは、自分にとって信じがたいことだった。だがもうそのトレーニングは始まっており、腹を括る必要があった。


私は、相手のグループのメンバーを殺す覚悟を決め、そこからは慎重かつ大胆に行動していこうと思った。すると、私の後ろから、小中高時代の親友(SI)がやって来て、彼はこちら側のメンバーだったので、私は彼とタッグを組んで行動することにした。


まずは空高く飛び上がり、相手の位置や様子を伺うことにした。近未来都市のビル群はとても無機質で、それもまた不気味であったし、時刻は黄昏時であり、いつもは美しく見える夕日もどこか薄気味悪く見えた。それは死に縁取られた薄気味悪い輝きを放っているかのようであった。


友人と私は誰よりも一際高く空を飛べる能力があったので、自分たちがいるところまで相手は追って来られないようになっていた。また、相手の視野に入るよりもさらに高い場所に私たちは身を潜め、相手の動きを見ていた。


すると、遠くのビル群の方で、数名が抗戦をしているようだった。何かがキラッと光り、それはレザー光線か閃光弾かのどちらかのようだった。


友人と私はそこに向かって仲間を助けに行くか、あるいは別の場所に潜んでいる相手を倒すかどちらかを選ぼうとしていた。すると、眼下に数名ほどの女性の姿が目に入った。


彼女たちは相手のメンバーであり、その中には、前から邪魔だと思っていた権威的な中年女性がいたので、彼女を標的にすることにした。


彼女たちは自分1人で片付けると友人に伝え、友人には別の場所に向かってもらうようにお願いした。というよりも、友人にはどこかに身を潜めて命を守ってもらいたかった。


友人と私は涙ながら、お互いの無事を祈りあった。いざ眼下に急降下していこうすると、突然、それとは反対に、自分は雲よりも遥か上の天高き場所にいた。


目の前がまるで天国のような場所になったのである。しかしそこは、どこかの家の天井裏のようにも思えた。


そこでは天国の高貴な住人たちがいて、人数の多い家族が平和そうに夕食を食べていた。私も声を掛けられ、夕食の席に着いたが、今はそれどころではなかったので、彼らと少し話をしたところで、早々とお邪魔することにした。


少し広めの天井裏のような部屋の扉を開けると、そこはまたしても無機質な空間が広がっていて、再び地上に戻るためのワープホールのようなものがあった。ワープホールを通過しようと思って、無重力状態のその空間を泳ぐかのような格好で進んでいると、2人の少し年上の女性に声を掛けられた。


彼女たちに記念撮影を求められたが、今はそれどころではなかったので、彼女たちがいるのとは反対の方向に向かって行き、ワープホールの中に入った。そこで夢の場面が変わった。


この夢はとても印象に残っている。人を殺せと命じられて、自分も殺されるかもしれないという死の恐怖を超越したときに見た世界の光景。それは通常の意識状態では知覚できないようなものだった。


死を意識し、それを超越した途端、自分の感覚は極度に研ぎ澄まされ、脳も最大限に活性化しているようだった。そうした身体·精神的な影響もあって、世界が全く違った形で知覚されたのだと思う。フローニンゲン:2021/9/12(日)07:33


7322. 不思議な大学に入学する夢


この日記を書き終えたら朝風呂に入ろうと思う。辺りは少し霧がかかっているが、朝日がようやく見えて来た。小鳥たちの鳴き声がどこからともなく聞こえて来て、彼らも朝の清々しい世界を楽しんでいるようだ。


正午過ぎからの両親とのZoomミーティングまでは、読書と創作活動に励みたい。昨日は結局6冊ほどの書籍の初読を終えていた。ひょっとしたら今日もそれぐらい読めるのではないかと思う。


ドイツ旅行から帰って来たらまた30冊ぐらい購入したい書籍がある。先月に250冊注文し終えた後に、当分は書籍の一括注文はしないと思っていが、探究は探究を呼び、良き文献はまた新たな良き文献を呼び込むという流れがあり、新たに購入しておきたい良書との出会いがあった。


それらの書籍は今後長期にわたる研究において重要だと思われるので、また来月の初旬にドイツから戻って来たら注文をしようと思う。


先ほど、今朝方見ていた2つの夢について振り返っていた。実はもう1つ印象の残る夢を見ていた。


夢の中で私は、プロテスタントと仏教が融合した大学に入学することになっていた。その大学は世界でも有数の名門校であり、晴れてその大学に入学できることは私にとっても大変嬉しいことであった。


私は新入生だったので、大学主催のオリエンテーションに参加する必要があった。私はその大学の寮で生活することになっていて、寮でのこれからの生活にも期待が高まっていた。


オリエンテーションが行われるのは学校の敷地内の教会とのことだったので、早速教会に向かうことにした。この大学は街と調和をなしていて、街の中に色々とキャンパスがある作りになっていた。その街はヨーロッパの街並みを思わせ、欧米での暮らしの長い自分にとっては心地の良い雰囲気であった。


教会の前の建物までやってくると、どうやらそこでオリエンテーションの受付が行われているようだった。若い女性の先生と、大学2年生だと思われるボランティアスタッフが数名いて、受付を切り盛りしていた。


受付の建物の前には二車線の道路があり、そこを渡ろうとすると、凄まじい速度で高級車がやって来て、受付の前で止まった。すると、高級車から1人の女子学生が降りて来た。


するとそれとは対照的に、今度は同じ方向から凄まじい勢いでオンボロの車がやって来たのである。そして、車からアフリカ系の男子学生が降りて来た。


私はそこで、入学する生徒たちの経済的格差を目の当たりにした。そこは世界でも有数の大学だったから、金持ちは金の力で子供を入学させ、貧しい家庭の能力のある子供たちはなんとか奨学金によって入学しているようだった。


そのようなことを考えながら受付に到着すると、そこで水をもらった。どういうわけか、自分の口の中に泥が入っていたので、それをゆすぐためにその水の大半を使い、受付の外で水を吐いた。幸いにも水がまだ少し残っていたので、残りは飲むことにした。


すると、受付裏の教会がざわつき始め、どうやら学長直々オリエンテーションにやって来て激励の挨拶をするようだった。いざ教会に向かおうと思ったら、私の横にインド人の学生がいて、彼が受付の中のチューターのような学生に、これからの学習プランについて説明をしていた。


彼はとてもしっかりしていて、頭も良さそうだった。非常に流暢に自分の学習プランを語り始め、彼はどうやら学士号取得後はすぐに博士課程に進学したいようだった。


私は彼の話を聞きながら、自分はここからキリスト教と仏教の色が強いこの大学で、それらの宗教を学びながら、同時にマルクスの思想についても学ぶことが大切だと思った。この大学はマルクスの思想も色濃く反映されていたので、何か自分に合う大学だなと改めて思った。フローニンゲン:2021/9/12(日)07:49


7323. 技術知とテクノロジー/無意識化・ハイパーオブジェクト化するテクノロジー/

美学とテクノロジー


時刻は午後11時を迎えた。静かな日曜日の朝の世界が引き続き顕現している。


人間が創造性を働かせて自己産出を繰り返すのと、機械が自らを複製していく形での自己産出の間には、何か違いがあるように思える。前者には絶えず何かしらの意味的差異のような質的差異が内包されていると言えるだろうか。


しかしながら、仮に機械がそれらの微細な差異を内包する形で自己産出を繰り返すことができたら、それは人間の自己産出と何が違いがあるのだろうか?そのようなことを考えていると、ハイデガーのテクノロジー思想についてふと思い出したことがあった。


ハイデガーは、「技術知(techne)」と単なるテクノロジーを峻別しており、その峻別の基準の1つして、自己産出的な力を挙げていた。まさに今自分が考えていた切り口である。技術知は自己産出的な力があり、一方テクノロジーにはそうした力が基本的に備わっておらず、可能なのは複製であり、量的拡張である。


そこからは、テクノロジーがほぼ対象化されないぐらいに生活の隅々に存在している様子に思いを馳せていた。そうした光景を見ると、テクノロジーは気づきの意識に対象化され難い無意識のようなものになっているのかもしれないと思った。


テクノロジーが無意識を構成し、ただでさえ広大無辺の無意識がさらに拡張されてしまっている時代に私たちは生きている。そうした人間の無意識は、ティモシー·モートンが述べるところの「ハイパーオブジェクト」のようなものに変化していると言えるかもしれない。


それに加えて、例えば現代人の多くはもはやスマホ無くしては生きられなくなっており、人間と非生物としてのテクノロジーの結びつきが極めて強く、人が存在するところにテクノロジーありというような状況について考えていた。


この状況は、フンランスの社会学者ブルーノ·ラトゥアーが提唱した「アクターネットワーク理論」が指摘するような、人間と非生物としてのテクノロジーがネットワークを形成するような社会形態の有り様を映し出している。


様々なテクノロジー哲学者たちの仕事を辿っていると、彼らが一様に美学に言及している点が興味深い。美学と結びつくテクノロジー。


悪と結びつく美。異常さと結びつく美。


テクノロジーを礼讃する者は、テクノロジーを歪んだ形で美化していると言えるかもしれない。そこにはテクノロジーを異常に美化する何かがあり、それは精神的な歪みなのだろうか。


いずれにせよ、テクノロジーだけではなく、人間が何かに取り憑かれた形で対象に美を見出す例は枚挙にいとまがない。ナチスにおいては、民族中心主義的な政治を美化していたことは記憶に新しく、現代では最新テクノロジーを美化する動きが如実である。


美に内包された危険性。美とは本質的に危険なものなのかもしれない。


美とは危うさと表裏一体のものなのではないだろうか。以前探究を進めていた美学をまた新しい観点で深めていく時期がやって来ているようだ。フローニンゲン:2021/9/12(日)11:21


7324. ピーター·スローターダイク、フリッチョフ·シュオン、ヘンリー·ルフェーヴラの

思想より


時刻は午後4時を迎えた。今、穏やかな夕方の世界が広がっている。


つい先ほど、ドイツの哲学者ピーター·スローターダイクの文明批判書を読んだ。彼の書籍はもう数冊ほど積読状態になっているので、また近々それらを読もう。


今日は正午過ぎに両親とZoomで会話をした。愛犬を含め、元気そうで何よりであった。2ヶ月に1度の会話はお互いにとって良いリズムを生み出しているようだ。


社会的関係の構築、そして関係性の治癒としてのコミュニケーション。今日読み進めていた書籍の内容と絡めると、そのようなことを思う。


スローターダイクの書籍の前には、スイス人の形而上学者フリッチョフ·シュオンの書籍を読んでいた。シュオンは永遠の哲学の創出に大きな貢献を果たしたことで有名であり、彼の“The Essential Frithjof Schuon”という550ページほどの大著からは得るものが多かった。


シュオンの主著と詩集は全て持っていたため、彼が形而上学者だけではなく詩人としても活動していたことは知っていたが、絵画まで描いているとは知らなかった。コロラド大学の美術館にシュオンの作品が展示されているらしく、いつかアメリカに足を運んだ際にその美術館に訪れてみたい。


シュオンの詩集は今後じっくりと読み解いていくことになるだろう。それは他の偉大な形而上学的詩人の詩集についても同じである。


詩の探究と音楽の探究は今後の人生のどこかで必ず本腰を入れて行うことになるだろう。今はまだその時期ではない。それをするところまで自らの精神的成熟さらには美意識の成熟が実現されていない。


フランスの哲学者ヘンリー·ルフェーヴラは、“The Production of Space”の書籍の中で、人間は社会関係や使用価値を生み出すだけではなく、社会空間そのものを生み出す生き物であると指摘している。


今注目しているメタバースの世界の拡張によって、人間はそこにどのような社会空間を生み出していくのだろうか?それそのものは“pharmakon”であり、良薬にも毒薬にも働くものである。


最近は自分の多岐に渡る関心と書籍の内容が芋づる式につながっていく。先ほどぼんやりと外を眺めていると、木の枝たちが自分の脳のシナプスに思え、自然と自分のフラクタル関係を見た。


これまで学んできたこと、そして今学んでいることと自らの関心が、木の枝たちのような関係性のネットワークを作っている姿を見る。


本日の読書はこれくらいにして、今から曲の原型モデルをいくつか作り、ゲームのシナリオを作成して、少し早めの夕食を摂りたい。夜はゆっくりと映画を見よう。フローニンゲン:2021/9/12(日)16:19

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