【フローニンゲンからの便り】18052-18056:2026年1月17日(土)
- yoheikatowwp
- 12 分前
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タイトル一覧
18052 | 社会正義の実現に向けた怒りの性質について |
18053 | 今朝方の夢 |
18054 | 今朝方の夢の振り返り |
18055 | 指先を硬直させる問題 |
18056 | スケール練習の意義 |
18052. 社会正義の実現に向けた怒りの性質について
唯識では怒りは悪の煩悩だとされているが、社会正義の実現に向けた社会問題に対する怒りも本当に悪の煩悩だと言えるのだろうかという点について考えていた。唯識において怒り(瞋・dveṣa)は、貪・癡と並ぶ根本煩悩の一つとされ、心を乱し、対象を歪め、業を増長させる否定的な心所として厳しく位置づけられている。そのため一見すると、社会正義の実現を求める怒り、すなわち差別や抑圧、不正義に対する強い憤りもまた、無条件に「悪の煩悩」と断じられるように思われる。しかし唯識の理論構造を丁寧に見ていくと、この問題は単純な二分法では捉えられないことが明らかになる。まず唯識における「怒り」とは、単なる強い感情一般を指すのではなく、「自己への執着(我執)」を基盤として、他者や対象を敵対的に把握し、排除・破壊へと向かわせる心の働きを意味する。すなわち瞋とは、阿頼耶識に蓄積された我中心的な種子が、条件を得て顕在化した結果であり、対象を「あるべき姿」から切り離し、「敵」「悪」として固定化する認識構造そのものを含んでいる。この意味での怒りは、たとえ動機が「正義」であっても、主観の歪曲と二元的対立を強化する限り、やはり煩悩的性格を免れない。しかし同時に唯識は、すべての心的現象を一律に善悪で裁断する硬直的倫理を採用してはいない。心所論において重要なのは、「同じように見える心の動きでも、その基盤となる認識構造と動機によって質が異なる」という点である。例えば、社会的不正に直面したときに生じる強い違和感、苦しむ他者への耐えがたい共感、現状を変えなければならないという切迫感は、必ずしも我執に基づく瞋とは同一ではない。それはむしろ、他者の苦を自己の苦として感受するところから生じる「悲(karuṇā)」や、「正しく見ようとする知(慧)」と結びついた心的エネルギーである場合がある。唯識的に重要なのは、その感情が「誰を中心に世界を構成しているか」という点である。もし怒りが、「なぜ自分が不快な思いをするのか」「自分の価値観が否定された」という自己中心的反応から生じているならば、それは明確に瞋の煩悩である。一方で、「この構造の中で誰がどのように苦しめられているのか」「この不正義はどのような無明と因縁から生じているのか」と因果的・関係的に事態を観察しつつ、それでもなお行動を促す強い内的推進力が生じている場合、その心はすでに単なる瞋のレベルを超えつつある。成唯識論の文脈では、煩悩は最終的に「転依」によって智慧へと転じうるとされる。瞋がそのまま智慧になるわけではないが、怒りとして立ち現れたエネルギーが、我執を照らし出し、自己中心的反応を自覚し、より広い文脈理解へと昇華されるならば、それは社会的実践を支える倫理的動因へと変容しうる。重要なのは、怒りに「正しさの免罪符」を与えることではなく、その怒りを通して自らの認識構造を問い直すことである。したがって、唯識の立場から言えば、「社会正義のための怒り」が自動的に善でも悪でもあるとは言えない。それは、我執に基づき他者を固定化し対立を増幅させる限り、やはり煩悩である。しかし同時に、その怒りが縁起的理解と慈悲に支えられ、自己中心性を相対化する契機として機能するならば、それは煩悩を素材として智慧へ向かう過程の一部となりうる。唯識は、感情を抑圧する思想ではなく、感情が生じる深層構造を見抜き、そこから解放へと至るための精緻な心の科学なのである。フローニンゲン:2026/1/17(土)06:06
18053. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、成人発達理論に精通している知人と一緒に成人発達理論に関するレクチャーを多くの人の前で行っていた。二人ともPPTを活用し、ビジュアル的にも訴えかける内容のプレゼンを行なった。まず知人からプレゼンがなされ、それを受けて自分の番となった。その方のプレゼンの内容は大変素晴らしく、聞き応えがあったが、当初予定していたよりも10分ほど延長したので、自分のプレゼンを少し短くしようと思った。だがその心配は杞憂に終わり、聴衆の方々も自分のプレゼンを楽しみにしていたようだし、オーガナイザーからプレゼン時間は心配しなくていいと言われたので、当初想定していた時間で話をしていくことにした。
もう一つ覚えている場面は、見慣れない教室で、小中高時代の後輩の受験・留学相談に乗っていた場面である。彼らとはまず大学受験について話をし、ちょうど後輩の一人が自分の母校の受験を検討していたので、自分が知っていることを出し惜しみなく伝えた。自分としても後輩が母校に入学してくれることは嬉しいことでもあったので、親身に彼の相談に乗った。すると、ある非常に有名な起業家の男性が私たちが話している場所の近くの席に座り、話に入ってきた。その方は自分の母校は入学難易度が高い割に知名度が低いのでコスパが悪いと指摘した。その指摘はごもっともであり、その点は後輩も念頭に入れておく必要があると思った。こうして突如現れたその方のおかげで、自分が伝えていなかった否定的な面についても後輩にきちんと伝えることができて有り難く思った。
これらの場面以外にも、勇気を試される場面があったのを覚えている。自分の勇気が試されたのではなく、夢を眺める観察的自己として、夢に現れた若者たちの行動を観察していたのである。そこはドリームアイランドと形容していいような、まるで桃源郷のような場所だった。そんな平穏な場所の一角に、底なしの巨大な崖があった。数人の男女の若者たちは目の前の断崖絶壁を超えて向こう岸に行こうとしていた。そこで彼らが取ったのは、超巨大な箸を何本も崖にかけたのである。それは「橋」ではなく、食事に使う「箸」だった。まるで如意棒のように長く伸びた箸が何本も崖に架けられ、彼らはそれを伝って崖をよじ登ろうとしていた。すると一人の男性がしがみついていた箸が倒れ、彼は崖の下に落ちていった。しかし、彼は再び別の箸にさっと飛び移り、一命を取り留めた。彼を愛する女性もその様子を見て深く安堵しているようだった。そこから彼らは勇気を振り絞り、箸をよじ登る形で少しずつ崖のてっぺんに向かった。フローニンゲン:2026/1/17(土)06:30
18054. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢全体は、自分がこれまで培ってきた知的・実践的成熟が、他者との関係性や次世代への継承、そして未知の領域への移行という三層構造で再編成されつつあることを象徴しているように思われる。最初の成人発達理論のレクチャーの場面は、自分がすでに「学ぶ側」から「語る側」「構造を提示する側」へと立場を移していることを示唆しているようである。知人の優れたプレゼンに対して萎縮するのではなく、時間配分を気にしつつも最終的には本来の構成で話すことを許されている点は、自分の知が他者の知と競合するものではなく、並び立ち、補完し合う段階に入っていることを表しているのかもしれない。聴衆やオーガナイザーの反応は、外的評価というよりも、自分の内側にすでに根づいている「語ってよい」「価値がある」という確信の投影である可能性がある。次の後輩への進路相談の場面は、自分が単なる理論の語り手ではなく、具体的な人生の分岐点に寄り添う役割を担い始めていることを象徴しているように見える。母校への愛着と同時に、利点だけでなく限界や欠点も含めて伝えようとする姿勢は、理想化を超えた成熟した関わり方を示していると考えられる。そこに突如現れる著名な起業家の存在は、自分の視野の外側にある現実的・功利的な視点、あるいは「別の合理性」を体現した象徴であり、それを排除せず、むしろ有り難いものとして受け取っている点に、自分の内的世界の包容力の広がりが窺える。肯定と否定の両方を引き受けた助言こそが、後輩にとって本当の意味での支援になるという理解が、夢の中で形を取ったのだろう。最後の断崖と箸の場面は、この夢の中でもっとも象徴性が高い。桃源郷のような安定した世界に突如現れる底なしの崖は、これまでの延長では測れない未知の段階、あるいは大きな跳躍を要する人生局面を示しているように思われる。その崖を渡る手段が「橋」ではなく「箸」である点は、既製の制度や完成された方法論ではなく、日常的で脆弱に見える道具を即興的に拡張しながら進む必要性を象徴しているのではないか。如意棒のように伸びる箸は、自分や若者たちが持つ潜在的な能力が、状況次第で大きく展開しうることを暗示しているようでもある。一人の若者が落下しながらも別の箸に飛び移って生き延びる場面は、失敗や危機が即終焉を意味するのではなく、柔軟な移行や再選択によって乗り越えられることを示唆しているように感じられる。それを観察者として見守る自分の立場は、もはや自らが試される段階を越え、他者の勇気と成長を信頼して見届ける段階に入っていることを象徴しているのかもしれない。この夢が人生において示している意味は、自分が知の実践者として成熟しつつあるだけでなく、その知を他者に手渡し、未知の領域へ向かう人々を見守る役割へと移行しているということであるように思われる。確かな橋が見えない時代にあっても、手元にある箸のような知恵や経験を信じて架け渡し、落ちてもなお進み続ける力を、すでに自分は理解し始めているのではないだろうか。フローニンゲン:2026/1/17(土)08:04
18055. 指先を硬直させる問題
ブランダン・エイカー氏の助言は、クラシックギターにおける音色形成の核心を、極めて身体感覚的かつ的確に言語化したものである。その要点は、「音色の荒さや硬さは、しばしば運指やフォーム以前に、指先の微細な緊張から生じている」という洞察にある。まず、「指先が硬直すると音色が損なわれる」という指摘は、右手のタッチが単なる弦の弾発動作ではなく、弦との接触過程そのものであることを示している。指先の関節、とりわけ第一関節(指尖関節)が固定されている状態では、弦に触れた瞬間からエネルギーが逃げ場を失い、衝突的な接触が起こる。その結果、弦は必要以上に乱され、音の立ち上がりに雑音が混入しやすくなる。これはフォルテよりも、むしろピアノやピアニッシモといった弱奏時に顕著であり、音が「薄く」「ざらついた」印象になりやすい。これに対してエイカー氏が勧めるのは、「指先の関節を能動的に使わない」という、一見逆説的な態度である。指先をコントロールしようとする意識を手放し、関節を受動的(パッシブ)な状態に保つことで、弦に触れた瞬間、指腹がわずかにたわみ、弦の抵抗を受け止める余地が生まれる。この「わずかに譲る」動きこそが、音色を柔らかくし、倍音を自然に引き出す鍵である。音は「押し出される」のではなく、「熟した果実が自然に離れる」ように解放される。ここで提示される「引っ掻く(scratching)」と「撫でる(petting)」という比喩は、単なる詩的表現ではない。引っ掻く動作は、対象との摩擦と断絶を前提とし、力と緊張を伴う。一方、撫でる動作は、対象の存在を感じ取りながら、接触の連続性を保つ行為である。ギターの音色においても同様で、硬い指先は弦を「引っ掻き」、柔らかい指先は弦を「撫でる」。この差は、音量ではなく、音の温度や密度として現れる。重要なのは、この調整が決して大がかりなフォーム修正や筋力強化を必要としない点である。エイカー氏が述べるように、音が荒く感じられるとき、確認すべきは「正しく弾けているか」ではなく、「指先がどれほど柔らかく在れているか」である。多くの場合、指先の不要な緊張を一段階ほど緩めるだけで、音は即座に変化する。この即効性は、音色が技術の最終成果ではなく、身体状態の反映であることを雄弁に物語っている。総じてこの助言は、クラシックギターの上達を「より強く」「より正確に」弾く方向へと追い立てるのではなく、「より聴き、より委ねる」方向へと導くものである。音色とは、制御の産物ではなく、関係性の質であるという理解が、ここには含まれている。その意味でこの助言は、テクニック論であると同時に、演奏者の身体観そのものを問い直す、深い示唆を含んでいると言える。フローニンゲン:2026/1/17(土)09:32
18056. スケール練習の意義
スケール練習は単に指を速く動かすための訓練ではない。それは、楽器と身体、そして音楽的判断力を一体化させるための基礎的かつ本質的な営みである。多くの場合、スケールは退屈で機械的な練習として捉えられがちだが、その内実は、演奏のあらゆる側面を下支えする「深層構造」を形づくる行為に他ならない。第一に、スケール練習は音程感覚と指板認知を身体化するために行われる。スケールを繰り返し弾くことで、どの音がどの位置にあり、次にどの音へ向かうのかを、思考を介さずに把握できるようになる。これは単なる暗記ではなく、空間的・運動的な感覚として音列が内在化される過程である。この段階に至ると、演奏中に「次の音を探す」必要がなくなり、意識は音楽表現そのものへと解放される。第二に、スケール練習は運動制御の洗練を目的としている。均等な音価、安定したテンポ、左右のタイミングの一致、余分な力の排除といった要素は、すべてスケールの反復の中で磨かれる。とりわけクラシックギターにおいては、左手のポジション移動、右手の弦間移動、アタックの角度や深さといった微細な要素が複雑に絡み合う。スケールは、それらを一つの文脈の中で統合的に調整するための、最も純度の高い素材である。第三に重要なのは、スケール練習が音色とタッチの探究の場であるという点である。スケールは音楽的意味を最小限に抑えた素材であるがゆえに、逆に一音一音の質が際立つ。同じ音列であっても、指先の柔らかさ、弦への入り方、リリースの仕方によって、音は驚くほど変化する。スケール練習とは、音楽から一度意味を引き剥がし、純粋な「音そのもの」と向き合う時間なのである。さらに、スケール練習は将来の自由度を拡張するための投資でもある。曲の中で求められる運動や音型は、見かけ上は多様に見えても、その多くはスケールの断片や変形に還元できる。日々のスケール練習によって基本構造が身体に刻み込まれていれば、新しい楽曲に出会ったとき、その難所は「未知の壁」ではなく、「既知の要素の再配置」として知覚されるようになるだろう。最後に、スケール練習は演奏者自身の状態を映し出す鏡でもある。集中できている日、力んでいる日、呼吸が浅い日、それらはスケールの音に如実に表れる。ゆえにスケール練習は、技術練習であると同時に自己観察の実践でもある。音が整うということは、身体と意識の関係が整っていることの証左である。総じて言えば、スケール練習とは、速さや正確さを得るための手段ではなく、演奏という行為そのものを成立させる基盤を静かに耕す作業である。その価値は即時的な成果では測れないが、長期的には、音楽的自由度、表現の深さ、そして演奏の安定性として確実に結実する。スケールを弾くという行為は、音楽へ向かう最短距離ではないかもしれない。しかし、最も確かな道である。フローニンゲン:2026/1/17(土)10:01
Today’s Letter
A couple of birds are chirping in the morning. Their singing soothes both my mind and body. I deeply appreciate the peacefulness of this city. Groningen, 1/17/2026

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