【フローニンゲンからの便り】18046-18051:2026年1月16日(金)
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タイトル一覧
18046 | 将棋や囲碁における盤面記憶とギターにおける指板記憶 |
18047 | 今朝方の夢 |
18048 | 今朝方の夢の振り返り |
18049 | 発達段階測定の科学──人間を「測る」ことの意味(その1) |
18050 | 発達段階測定の科学──人間を「測る」ことの意味(その2) |
18051 | 発達段階測定の科学──人間を「測る」ことの意味(その3) |
18046. 将棋や囲碁における盤面記憶とギターにおける指板記憶
クラシックギターの弦の配置、すなわち指板上に広がる音高・和声・運指の関係を覚えていく力は、将棋や囲碁の棋士が盤面を記憶する能力と、本質的にきわめて近い性質を持っているのではないかと考えていた。ただし、それは単なる記憶力の類似ではなく、構造化されたパターンを知覚し、身体化していく認知様式の類似である点に重要な意味がある。将棋や囲碁の熟達者は、盤上の一手一手を個別の駒や石として逐一記憶しているわけではない。実際には、盤面全体を「意味のある塊(チャンク)」として把握している。例えば、攻めの形、守りの形、勢力圏、死活の構造といった、関係性のネットワークとして盤面を見ているのである。このとき記憶されているのは、静的な配置ではなく、時間的に展開しうる力の構造である。クラシックギターにおける指板把握も、まったく同じ性格を持つ。初心者の段階では、6弦何フレットが何の音か、という点的・断片的な知識として弦配置を覚えようとする。しかし熟達が進むにつれて、指板は単なる音名の集合ではなく、スケールの地形、和声進行の流れ、声部の重なりとして立ち現れてくる。Cメジャー・スケールやAマイナー・スケールは、もはや暗記された情報ではなく、「この位置に立てば、この方向にこう展開する」という空間的直観として把握されるようになる。この点で、ギターの指板は囲碁盤や将棋盤と同じく、二次元的でありながら時間を内包した認知空間であると言える。囲碁盤は19×19の格子であり、ギターの指板は弦とフレットによる格子であるが、どちらも重要なのは「点」ではなく「関係」である。ある石が生きるか死ぬかは周囲との関係で決まり、ある音が安定するか緊張するかは和声文脈との関係で決まる。さらに重要なのは、両者ともに身体性を通じて記憶が成立する点である。棋士は盤面を眺めるだけでなく、長年の対局経験を通して「この形は危ない」「この配置は美しい」といった感覚を身体レベルで獲得している。クラシックギタリストも同様に、このポジションは自然に手が流れる、この運指は無理がある、といった判断を、理屈ではなく感覚として下せるようになる。ここでは、記憶は頭の中の倉庫ではなく、身体に沈殿した知覚様式である。したがって、クラシックギターの弦配置を覚えるとは、将棋や囲碁と同じく、「全体構造を一望しつつ、局所的に最適な手を選び取る力」を育てる過程であると言える。それは暗譜や丸暗記とは異なり、繰り返しの実践の中で、構造が自ずと浮かび上がってくるのを待つような学習である。最終的に、熟達者の指板把握は、棋士が盤面を一瞥して局面の本質を掴むのと同じく、ほとんど瞬時に、しかも言語以前のレベルで起こる。そのときギターの指板は「覚える対象」ではなく、「思考と感情が直接流れ込む場」となる。この意味において、クラシックギターの弦配置を覚えていく力は、将棋や囲碁の盤面認知と深く類似しており、いずれも人間の高度な構造的知覚能力を磨く営みであると言えるのである。フローニンゲン:2026/1/16(金)05:23
18047. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、高校時代に住んでいた社宅の自室にいた。ガラスドアから外を眺めていると、高校時代の友人が木に何かをぶら下げているのが見えた。どうやら彼は種々のフルーツが入ったビニール袋をいくつか木に吊るしているようだった。それが何のためか最初わからなかったが、彼がその場を離れた後に小鳥たちがやってきてその意味がわかった。小鳥たちはビニール袋を突き、中に入っているフルーツを美味しそうに食べ始めた。小鳥たちはとても可愛らしく、その姿を見ているだけで癒されてきた。バードウォッチングを楽しむ人の気持ちがよくわかった気がした。気がつくと私は外国の大きな美術館にいた。その美術館は立派で、時間はまだ昼の時間帯だったのだが、想像以上に人は少なかった。ただし、美術館のレストランで行われているパーティーには正装した客たちの姿を見かけた。彼らはいずれも業界の大物のようだった。そこで前職時代の二人の知人と遭遇し、話は腕時計の話題となり、自分が中学校三年生の時にインドネシアの露天で父にロレックスの偽物の時計を買ってもらった話をした。すると二人はロレックスと聞いただけで反応し、その若さでロレックスを腕にはめていたことを驚いていた。そこから二人と別れて散策を続けると、美術館の裏にある広いテニスコートで小中高時代の友人たちがテニスをしているのを見かけた。彼らのところに歩み寄ってみると、テニスのネットが通常よりも遥かに高く張られていた。それは二階建ての家ぐらいの高さであった。そんな場所で友人たちは普通にテニスを楽しんでいた。テニスがひと段落した時に、友人の一人が埼玉県産と言われているりんごを一つくれた。どうやらそれは産地偽装のりんごのようだったが、味はとてもジューシーで美味しかった。
もう一つ覚えている場面として、小中高時代のある親友(NK)と隣り合わせに座ってそれぞれのデスクトップからインターネット検索をしていた場面である。自分は学術研究に関するリサーチをしており、彼は私生活に関するリサーチをしていた。すると女性の先生がやって来て、私たちに何のリサーチをしているのかを尋ねてきた。親友の彼は少し恥ずかしそうに答え、自分は堂々とした様子でリサーチ内容を答えた。フローニンゲン:2026/1/16(金)05:40
18048. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は、自分の人生における時間の層と価値基準の変容が、象徴的な風景として連なって現れているものと考えられる。高校時代の社宅の自室にいるという場面は、自分の人格や志向が形成され始めた原点への回帰を示しているようである。ガラスドア越しに外を眺めるという距離感は、当時の世界を懐かしみつつも、すでにそこから一段引いた位置に立っている現在の自己を暗示しているのかもしれない。友人が木に吊るしたフルーツの袋は、直接的な見返りを求めない善意や、環境を整えることで自然に生命が集まる仕掛けの象徴のように思われる。小鳥たちがそれをついばむ光景に癒やしを感じたことは、自分が近年、成果や評価よりも、静かな循環や無垢な営みに価値を見出し始めている兆候である可能性がある。場面が一転して外国の大きな美術館に移るのは、知的・文化的成熟への志向を表しているようである。人が少ない昼の美術館は、喧騒から離れた思索の空間であり、一方でレストランのパーティーに集う業界の大物たちは、社会的成功や権威の世界を象徴していると推測される。前職時代の知人と腕時計の話になる展開は、時間や価値の測り方に関する無意識の問いであろう。ロレックスの偽物の記憶は、外見的価値と実質的価値のずれ、あるいは若い頃に無邪気に身につけていた「大人の象徴」が、実は借り物であったという気づきを示しているようにも感じられる。美術館裏の異様に高いテニスネットは、人生の難易度やハードルが常識外れに高まっている現状を示唆している可能性がある。それでも友人たちが普通にプレーしている姿は、自分が感じている困難が、他者にとっては日常であるという相対化を促しているのかもしれない。産地偽装とされるりんごが美味であったという点も、肩書きや由来ではなく、実質そのものを味わう姿勢への移行を象徴しているように思われる。最後に、親友と並んで異なるリサーチを行う場面は、自分と他者の関心の方向性の違いを際立たせている。学術研究を堂々と語る自分と、私生活の検索を恥じる友人の対比は、自分が知的探究を人生の中心に据える覚悟をすでに固めつつあることを示している可能性がある。この夢全体が示している人生における意味は、外的評価やラベルから距離を取り、静かな価値、実質、そして自分固有の探究に軸足を移しつつある現在の歩みを、無意識が肯定的に映し出している点にあるのかもしれない。フローニンゲン:2026/1/16(金)07:24
18049. 発達段階測定の科学──人間を「測る」ことの意味(その1)
先週に引き続き、共著の執筆に向けて今日もまた知人の鈴木規夫さんとの対談がある。今日は五回目の対談であり、ちょうど折り返しの回数を迎えた。今日のテーマは、「発達段階測定の科学──人間を「測る」ことの意味」というものである。今回扱う中心問題は、「人間を測る」とは何をすることなのか、という根源的問いである。測定という言葉は、温度や長さのように対象が安定しており、同じ条件なら同じ値が得られる世界を想起させる。しかし人間は、文脈に依存し、揺らぎ、学習し、意味づけを変え続ける存在である。ゆえに人間の測定は、物理量の測定とは本質的に異なる。にもかかわらず、教育・組織・臨床の現場では、「測定しなければ支援できない」「測定があるから対話できる」という現実的要請も存在する。ここでの課題は、測定の可能性と限界を同時に引き受けながら、測定を“支配の道具”から“発達支援の言語”へと再定義することにある。この再定義を支えるのが、計量心理学的基盤である。計量心理学は、直接には見えない心理特性を、観察可能な反応(回答、発話、行動)のパターンから推定する学問である。その中核となる概念が信頼性と妥当性である。信頼性とは、測定結果がどれほど安定しているかを示す。もし同じ人が似た条件で測定されるたびに結果が大きく変わるなら、その測定は偶然の影響が大きく、利用に耐えない。信頼性は、測定が何らかの一貫した情報を捉えているという最低条件である。他方で妥当性とは、その測定が「測りたいもの」を本当に測っているかという問題である。信頼性が高くても、測っている対象がズレていれば意味はない。例えば文章の長さで知性を測ってしまえば、測定は安定していても、知性そのものを捉えているとは言えない。妥当性は、理論・データ・解釈・利用目的が一致しているかを問う総合的な概念であり、測定の倫理とも直結する。この計量心理学的基盤の中で特に重要なのがRaschモデルである。Raschモデルは、テスト理論の一種であり、回答データから「人の能力」と「項目の難易度」を同一の尺度上で推定しようとする枠組みである。直観的に言えば、難しい項目に正答できる人ほど能力が高く、同じ能力の人でも難易度の高い項目ほど正答しにくい、という関係を数学的に整合的に表現するモデルである。Raschモデルの重要性は、単に数理的に洗練されている点だけではない。第一に、尺度の構成が透明であり、「なぜこの点数になるのか」を説明しやすい。第二に、項目集合が変わっても同じ尺度を保てる可能性があり、測定の比較可能性が高まる。第三に、測定を「点数」ではなく「尺度」として理解する道を開き、心理学における“測る”の意味を一段深めた。発達段階測定が科学として成立するためには、こうした尺度構成の哲学と技術が不可欠である。だが、測定が科学として成立すればするほど、その利用には政治性が生まれる。ここで区別すべきなのが、「ハイステイクス文脈」と「ローステイクス文脈」である。ハイステイクス文脈とは、測定結果が採用、昇進、報酬、資格、選抜といった重大な意思決定に直結する文脈である。この文脈では、測定は個人の人生や組織の権力配置を左右するため、測定の誤差や偏りが深刻な不正義につながり得る。他方でローステイクス文脈とは、測定結果が主として学習支援、自己理解、対話促進、成長計画のために用いられ、即時の利害が比較的小さい文脈である。この文脈では、測定は評価よりも学びに奉仕し、本人の主体性が尊重されやすい。発達段階測定は、本来ローステイクスでこそ最も健全に機能するが、現実にはハイステイクス文脈で利用されやすい。この緊張関係をどう扱うかが、今回の対談の倫理的核心である。フローニンゲン:2026/1/16(金)07:38
18050. 発達段階測定の科学──人間を「測る」ことの意味(その2)
ではそもそも、人間を測定することはできるのか。答えは「ある意味でできるが、物理量のようにはできない」である。人間の測定は、対象そのものを直接測るのではなく、特定の理論にもとづいて観察可能な反応を解釈し、推定する営みである。つまり測定とは、世界を数で写す行為ではなく、世界に尺度という言語を導入する行為である。ここに測定の創造性があると同時に、危険性もある。尺度は現実を説明するが、同時に現実を切り取り、見えなくする部分を生む。ゆえに「何のために測るのか」という目的が、測定の正当性を決める。測定の目的は大きく二つに分かれる。第一は、比較と選抜のためである。これは教育や人事の領域で頻繁に用いられる。第二は、理解と支援のためである。発達段階測定が本質的に志向すべきなのは後者である。発達段階測定は、優劣の序列をつくるためではなく、その人がいまどのような意味生成の枠組みで世界を捉えているのかを推定し、その枠組みに即した支援や対話を可能にするためのものだからである。測定の倫理は、測定を序列化の道具として使うか、成熟の言語として使うかという選択に深く関わる。この選択に関わる技術的論点が、一次元的評価と多次元的評価の違いである。一次元的評価は、対象となる能力や特性を一つの尺度に還元し、一本の軸で位置づける。Raschモデルも基本的には一次元尺度の構成を目指す枠組みである。一次元評価の利点は、説明が単純で、比較が容易である点にある。しかし、人間の発達は本質的に多元的である。認知、倫理、情動、対人関係、自己理解などは、同一の軸に無理なく還元できない場合が多い。多次元的評価は、こうした多様性を複数軸で捉え、領域ごとの非同期性を表現しようとする。だが、多次元評価は複雑で、利用者に誤解を生みやすいという難点もある。ゆえに、測定は常に「単純さ」と「現実への忠実さ」の間で、緊張関係を引き受ける必要がある。同様に重要なのが、形成的評価と総括的評価の区別である。総括的評価とは、学習や訓練の結果をまとめて判定し、合否や達成度を示す評価である。形成的評価とは、学習の途中でフィードバックを与え、次の学びを支援する評価である。発達段階測定が本来持つべき性格は形成的である。なぜなら、発達段階とは固定的な能力の証明ではなく、変化しうる意味生成の構造であり、その構造を理解し、次の経験を設計することこそが測定の価値だからである。総括的評価として発達測定を使うと、測定は烙印になりやすい。形成的評価として使うと、測定は対話の足場になり得る。ここでもまた、測定の技術は倫理と分かちがたく結びついている。さらに、発達段階測定とは何かを明確にする必要がある。巷にある多くの能力測定、例えば知能検査、性格検査、適性検査、コンピテンシー診断、360度評価などは、行動特性や傾向、能力の有無・強弱を測ろうとするものである。それに対して発達段階測定は、行動の背後にある「意味生成の構造」を捉えようとする。つまり「何ができるか」ではなく、「どのように世界を解釈し、何を前提に判断しているか」を推定する測定である。ここに本質的な違いがある。近年、人事文脈で用いられるハイエンド測定商品は、多くが予測精度(パフォーマンス予測)や選抜効率(適合度)を売りにする。それらは組織の合理性には貢献し得るが、個人の成熟や倫理を必ずしも支援しない。発達段階測定は、予測よりも理解、選抜よりも支援に重心を置くとき、独自の価値を発揮するのである。フローニンゲン:2026/1/16(金)08:19
18051. 発達段階測定の科学──人間を「測る」ことの意味(その3)
発達段階測定を支える基本的な理論と方法の中核には、「発話内容と発達構造」の関係を読むという発想がある。発達段階は頭の中に直接見える形で存在するわけではない。そこで測定は、インタビュー、文章、自由記述など、言語的産物を素材として、その背後にある構造を推定する。ここで見るべきは語彙の難しさや知識量ではなく、概念の組み立て方、因果関係の捉え方、矛盾の扱い方、他者視点の統合の仕方、価値葛藤の処理の仕方といった、思考の深層構造である。同じ「多様性が大事だ」という発言でも、それが単なる規範的スローガンなのか、複数の価値体系の緊張を具体的に扱う思考なのかで、構造は異なる。この構造差を、訓練されたルーブリックやスコアリング規準を用いて、できる限り一貫して判断することが発達測定の骨格である。代表的手法は大きく三つに分かれる。第一がインタビュー型である。コールバーグの道徳判断面接はその典型であり、ジレンマ課題に対する理由づけを深掘りすることで、道徳判断の構造を推定する。キーガンの主体客体インタビューも、経験の意味づけの仕方や、自己と他者の関係の捉え方を問うことで、主体—客体関係の段階を読み取ろうとする。第二が文章完成型である。これはロヴィンジャーの系譜に代表され、断片的な文章の続きを書かせることで、自己理解や対人理解の枠組みを抽出する。クック=グロイターはこの手法を洗練し、高次段階の識別を試みた。第三が自由記述型である。これは与えられたテーマに対して自由に文章を書かせ、その中に現れる概念操作の複雑性を評価する。Lecticaはこの自由記述を計量心理学的枠組みと接続し、スコアの尺度化や信頼性確保の技術を発展させた。これらの手法はいずれも、発達を「話し方の巧さ」や「教養の量」で測るのではなく、意味生成の構造で測ろうとする点に共通性がある。しかし、測定には限界がある。第一に、発達は文脈依存的であり、同じ人でも状況によって示す複雑性が変動する。ゆえに測定値は、その人の固定的本質ではなく、特定条件下での推定である。第二に、言語的表現は文化・教育・職業経験によって大きく影響されるため、発達構造の推定が言語資本の差を反映してしまう危険がある。第三に、スコアリングには必ず判断が介在し、完全な客観性は不可能である。だからこそ訓練、二重採点、ルーブリックの改善、統計的検証が必要になるが、それでも残る不確実性を「残余」として認める誠実さが求められる。この限界は倫理に直結する。発達段階測定は、誤用されれば強力な支配装置になり得る。人を一つの数値に還元し、序列化し、自己像を固定し、差別を正当化する道具になりうるからである。ゆえに測定倫理には少なくとも四つの原則が必要である。第一に、測定目的の明確化である。第二に、本人の同意と理解である。第三に、結果の利用範囲の制限である。第四に、測定結果を評価ではなく学習支援へ接続する設計である。特にハイステイクス文脈では、測定の透明性、フィードバックの丁寧さ、データの扱い、差別的利用の防止が不可欠である。最後に、測定結果をどう活用するのかが問われる。測定結果は、単に報告して終わるものではない。まず結果は、本人が理解できる言葉に翻訳されなければならない。点数や段階名を渡すだけでは、本人はそれを自己評価の材料として消費するか、防衛的に拒絶するだけになりやすい。必要なのは、結果を「いまの意味生成の傾向」として示し、強みと盲点を具体的行動のレベルに落とし、次の経験設計へ結びつけることである。誰にどう報告するかも重要である。本人以外に共有するなら、その範囲と目的を明確にし、本人の主体性と尊厳が損なわれない手順を整える必要がある。発達測定が目指すべき目的は、選抜の正当化ではなく、成熟の促進である。測定は人を縛る檻ではなく、人が自分の発達を理解し、よりよく生きるための地図であるべきなのである。フローニンゲン:2026/1/16(金)08:37
Today’s Letter
It has been warm over the past couple of days. The warmth gently soothes my whole being. I can hear a beautiful bird chirping. Groningen, 1/16/2026

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