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6357-6359: 日本滞在記 2020年10月28日(水)


No.1518 無意識の現れ_The Appearance of the Unconsciousness

本日の言葉

Do every thing with a mind that is able to let go. Our battles with the world will come to an end. Ajahn Chah


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タイトル一覧

6357.【金沢滞在記】金沢滞在3日目の朝に

6358.【金沢滞在記】行雲流水としての自己

6359.【金沢滞在記】西田幾多郎記念哲学館を訪れて


6357.【金沢滞在記】金沢滞在3日目の朝に


時刻は午前5時半に近づきつつある。昨日は午前2時過ぎに起床したが、今日はゆったりと午前4時半頃に起床した。


金沢滞在の3日目がゆっくりと始まった。起床直後に絵を一枚描き、その後朝風呂にゆったりと浸かって今に至る。


ホテルの自室の窓から金沢の街を眺めると、街はまだ眠りについていることがわかる。金沢に流れる、どこか悠久さを感じさせる時間の中で、この世界を豊かに生きていくことと、この世界を効率良く生きていくことは多分に異なることを思う。


私たちは両者のせめぎ合いの中で生きているのだろうか。本来は前者の生き方を心の内では望みながらも、この社会が後者の生き方を迫って来ているのだろうか。


それにしても金沢の時の流れは緩やかだ。高野山とはまた異なる時の流れがある。鞍馬山のそれとも当然ながら異なる。


自分にとって日本は、もはや異国情緒をもたらす場所になった。端的に述べると、欧州各地を旅しているときには、もはや見慣れた安心感のようなものがある。もちろん、初めていく場所においては新鮮さがあるのは確かだが、欧州は異国情緒を喚起するような場所ではもはや無くなっている。


一方、不思議なことに、異国情緒をもたらすのは日本なのだ。これは一体どのような感覚変容なのだろう。


今年日本に帰って来て、日本の受け取り方がまた少しばかり変化があったことに気づく。毎年日本に帰ってくるごとに、感覚変容が起きていることに気づく。そうした内的な感覚の変容こそ、自己の本質的な変容の証左だろう。


刻一刻とオランダに戻る日が迫っている。正直なところ、確かにそろそろオランダが恋しくなっている頃だ。


日本の地方都市にも落ち着きがあるのだが、それはオランダのそれとは根本的に何かが違う。昨日も金沢の街を歩きながら、日本という国が、非居住者として観光するには最も心を落ち着かせてくれる場所であることを思った。


一方、この国には決して住むことはできないと改めて思ったのである。その理由は以前からあまり変わりない。


オランダに帰るのはちょうど来週の今日だ。今回はアムステルダムで少しゆっくりする。


久しぶりにアムステルダムを観光し、訪問予定の2つの美術館には数年振りに訪れる。日本で得たのと同じように、そこでもまた感覚変容に関する気づきを得ることができるだろう。


金沢滞在の3日目の今日は、西田幾多郎記念哲学館に足を運ぶ。偶然ながら、2020年となる今年は、日本を代表する思想家の西田幾多郎と鈴木大拙の生誕150年である。


2人は、旧制第四高等中学校時代から生涯に渡って親友であったことを昨日知った。昨日は鈴木大拙館に訪れ、今日訪れる西田幾多郎記念哲学館は、2人の生誕150周年を記念して、片方の記念館の半券を用いれば無料で入館できる。


ゆったりと朝食を摂り、少しばかり休憩をしたら、西田幾多郎記念哲学館に向かう。今日もまた、これからの感覚変容の基礎をなす様々な体験を積むことができるだろう。金沢2020/10/28(水)05:37


6358.【金沢滞在記】行雲流水としての自己


——全宇宙が聞いたから、あなたが聞いたのである——鈴木大拙


時刻は午前5時半を迎えた。金沢の街はまだ暗い。


幸いにも今日もまた天気に恵まれるようであり、日中は20度にまで達する。紅葉の美しい今の時期の金沢は、街そのものが1つの芸術作品であるかのようだ。


そうなのだ、本来素晴らしい街というのはそこに芸術性がある。いや、街が成り立つ前の土地そのものは、いかなる場所においても聖なるものであり、芸術性を超えたものだと言えるかもしれない。


あらゆるものが相互に働き関わり合っているという重々無尽の精神が今の自分を襲う。今この瞬間の自分もまた、重々無尽による縁起の働きによってここに存在している。


自分が足を動かすと自分は移動するのだが、絶えずそこに自己がいる。自分は一度たりとも自己と離れたことはなかった。


ここで言う自己とは、決して小さな自我のことを指しているのではなく、それを超えた存在である。それは絶えずそれとして今ここに居続けている。


その自明かつ驚愕の事実を噛み締める。それを噛み締める自分もまたそれであるということがおかしくてしょうがない。


今日もまた秋のちぎれ雲を金沢の青空に見ることができるだろうか。流水の如き時間の流れを今日もまた感じることができるだろうか。


どちらもできるだろう。なぜなら、それらはいついかなる時も自分の内側にあるからである。


行雲流水。自分はそれであり、自分はそのように日々を生きている。


物事や自己に深く執着することなしに、自然の成り行きに任せて自己が呼吸を続けている。自己は自然な呼吸でもあるのだ。


自己は何にでもなれる。そして全ては自己なのだ。自己は一定の形を持たず、自然の移り変わりによって淀みなく変化する。


魂は渇きを癒すようにして育まれていくものなのかもしれない。そのようなことを改めて昨日思った。


魂の渇きそれそのものは否定的なものでは決してない。魂を生み出すそれは、魂の渇きを微笑ましく眺めている。


今日もまた自分の魂は、渇きを癒すようにして水と養分を求めるだろう。ゆっくりと魂を育んでいくこと。とにかく焦らずゆっくりだ。


昨夜就寝する際に消灯し、目を閉じてみると、まぶたの裏に色鮮やかな千変万化するイメージが浮かび上がった。それは過去の諸々の体験と新たな体験の記憶が混じり合った極彩色のイメージであった。そのイメージ、ないしはビジョンの運動をしばらく静観していた。


今朝方は、少しばかり夢を見ていたのを覚えている。夢の中で私は、幼少時代に見ていたアニメのキャラクターと話をしていた。そこでの言語は日本語だったが、途中から見慣れない外国人と話をしていたのを覚えている。


その外国人と一緒に、何か謎解きのようなことをしていた。総じて、高揚感のあるような夢だった。


金沢の街が薄明るくなって来た。街もまた就寝し、起床し、そして絶えずゆったりとした呼吸をしている。金沢2020/10/28(水)05:53


6359.【金沢滞在記】西田幾多郎記念哲学館を訪れて


——哲学の動機は「驚き」ではなくして、深い人生の悲哀でなければならない——西田幾多郎


時刻は午後5時を迎えようとしている。少しばかり早いが、つい今し方夕食を摂り終えた。


今日の金沢もまた天気に恵まれ、午前中より西田幾多郎記念哲学館に足を運んだ。端的には、昨日の鈴木大拙館と並んで、この記念館もまた素晴らしい体験をもたらしてくれた。


午前9時半頃にホテルを出発し、金沢駅から宇野気駅に向かった。西田幾多郎は、1870年にこの地に生まれた。


金沢駅から宇野気駅までの道中はとても長閑であり、黄金色に輝く稲穂と、立派な柿をつけた木々を見た。宇野気駅に到着し、駅員の方に記念館の方向を尋ね、そこから15分強の散歩を楽しむと、非常に立派な建築物が見えて来た。


西田幾多郎記念哲学館は、建築家の安藤忠雄氏によって作られたものであり、昨日訪れた鈴木大拙館と同様に、見応えのある建築物であった。


早速館内に入り、昨日訪れた鈴木大拙館のチケットを見せ、無料で館内に入った。今日は平日であったこともあり、また現在のコロナ下もあって、入館から1時間半ほどは私以外に来館者はいなかった。そこから私は、3時間以上に渡って、館内に所蔵している資料を文字通り一言一句眺めていった。


昨日と同様に、館内をくまなく見た後に、ミュージアムショップで3つほど文献資料を購入した。今夜はそれらにじっくりと目を通したい。


いくつか列挙する形で、記念館で書き留めたメモをこの日記に書き連ねておく。伝統と創造性に関して、伝統があるからこそ高い意味での創造が生まれるという西田の指摘が印象に残っている。


西部邁先生が述べるところの保守派が大切にするのは、そうした伝統なのだろう。そうした伝統に立脚する形で行われる創造活動は、高きものに向かっていく。


西田幾多郎と自分に共通していることは、紫色を好むということと、創作活動を愛しているということだった。西田の書き残した文章の中で、赤でもなく青でもなく、紫の色鉛筆で修正が施されていることが印象的だった。


西田は、愛する子供たちが病気に罹り、生活が危ぶまれる危機的な状況において、短詩の創作に癒しを求めた。哲学者西田幾多郎は、短詩、さらには書など、創作人でもあったことが印象に残っている。


西田が述べるところの「絶対無」という考え方は、ロイ·バスカーが述べる「実在世界(the real)」と相通じるものがある。そこは何も無いのではなく、全てがあるということ。あるいは、未だ不在のものも含めた全てが生じ得る場としての意味を持つ。


「経験世界(the empirical)」や「現実世界(the actual)」において未だ経験や言葉にならないものが絶対無から生じ得るということをぼんやりと考えていた。


館内を十分に見学した後に、建物の外の「思索の道」を歩いた。そこはさながら京都の哲学の道のようであった。静けさが汪溢していて、秋のそよ風が頬を伝っていった。


今日もまた、なんという素晴らしい体験をすることができただろうか。そのことにただただ祈るような感謝の念を捧げたい。金沢2020/10/28(水)17:12

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