【フローニンゲンからの便り】17844-17849:2025年12月11日(木)
- yoheikatowwp
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タイトル一覧
17844 | 成人発達理論の現在(その1) |
17845 | 今朝方の夢 |
17846 | 今朝方の夢の振り返り |
17847 | 成人発達理論の現在(その2) |
17848 | 夕食後のギタートレーニングについて |
17849 | 連続した脱力の美学としての演奏 |
17844. 成人発達理論の現在(その1)
昨年は冷夏かつ暖冬だったが、どうやら今年もその傾向となりそうである。確かに少し前にいったん寒い日が続いたが、寒さが和らいで以降はフローニンゲンの冬とは思えないような気温が続いている。
知人の鈴木規夫さんと共に、「成人発達理論の現在と未来」というテーマで対談本を一緒に執筆することになった。それは来年の秋頃の発売となる予定で、今日から実際の対談を収録していくことになった。全10回の対談は非常に充実したものになるだろう。初回の今日の対談では、「成人発達理論の現在」をテーマに扱う。成人発達理論の黎明期は、20世紀初頭の心理学が抱えていた限界を突破するための知的挑戦として始まったものである。当時の心理学は、行動主義が台頭し、人間の内的プロセスを軽視する傾向にあったが、その一方で、ジェームズ・マーク・ボールドウィンのような思想家は、発達を「社会的相互作用を通じた自己形成」として捉える視座を提示し、成人期にもなお発達が続くことを直観していた。ボールドウィンの視点は、後にピアジェの構成主義発達理論へと受け継がれ、さらにコールバーグによる道徳発達論やキーガンによる主体—客体構造発達論へと連続する知的流れを形成していく。つまり成人発達理論の確立は、子ども中心の発達観から脱却し、「人間は生涯にわたり構造を刷新し続ける」という視座を獲得したところに始まりがあるのである。欧米の動向に目を向けると、1970年代から90年代にかけて、成人発達研究は大きく制度化され、多様化していった。アメリカではハーバード教育大学院を中心に、ロバート・キーガンが人間の意味生成構造を段階モデルとして体系化し、成人期の発達が組織開発・教育改革と結びつく契機を作った。さらにスザンヌ・クック=グロイターは、発達の最上位領域を「自我の透明化」「文脈超越的認識」として整理し、段階モデルの精緻化を進めた。同時に、カート・フィッシャーのダイナミックスキル理論による領域固有性の強調、ジェーン・ロヴィンジャー以来の文章完成法研究、コールバーグ学派の道徳発達研究など、欧米では複数の系譜が並立しながら、成人発達理論の学術的基盤が整備されていった。90年代以降には、スパイラル・ダイナミクスやティール組織のように、文化・組織・文明論と成人発達を橋渡ししようとする潮流も生まれ、成人発達は“個人”を超えて“集合的発達”へと視野を広げ始めた。
他方、日本における成人発達理論の受容は、欧米とは異なる文脈で進展した。2013年に出版された『なぜ人と組織は変われないのか』以降、とりわけ企業研修やリーダーシップ開発の領域でキーガン理論やティール組織論が紹介され、「大人の発達」「マインドセットの変容」という言説が広まった。しかし日本では、段階モデルが単純化され、能力階層の指標やラベルとして使用される傾向が強く、「発達=上昇」「成熟=高い段階」という通俗的な理解が定着する場面も多かった。そこでは、キーガン理論の核である「主体—客体構造の転換」や「意味生成の深層構造」が十分に理解されず、実際には“能力の棚卸し”や“行動変容ツール”として利用されるという、欧米には見られない独特の受容が生じた。また、日本固有の組織文化——同調圧力、上下関係、長期雇用構造——は、個人が自律的に発達することを前提とする欧米の理論と摩擦を生み、成人発達理論の深部を理解するには構造的困難が存在したのである。導入期における主要理論の中でも、ロバート・キーガン、スザンヌ・クック=グロイター、オットー・ラスキーは特に中心的役割を担った。キーガンは人間の発達を「自分が把握できるもの(object)」と「自分を規定してしまっているもの(subject)」の関係の変化として捉え、成人期にも大きな意味変容が起こり続けることを示した。クック=グロイターはその枠組みを拡張し、高次の段階における内的複雑性、自己の流動化、パラドックス耐性、非二元的認識を記述しようとした。ラスキーは構造的複雑性とパフォーマンスの文脈依存性を強調し、発達を「認知構造の洗練」ではなく「文脈との相互作用パターンの成熟」として捉えた点で独自性を持つ。また、スパイラル・ダイナミクスやティール組織論は、段階的発達を文化や組織のレベルに拡張し、集合的成長の可能性を描いたが、同時にそれらはしばしば単純化され、イデオロギー化する危険も孕んでいた。とりわけティール組織論は「進化型組織=理想的組織」という短絡的理解を招き、組織の歴史性・経済構造・権力関係といった複雑性を十分に扱いきれない課題も露呈した。フローニンゲン:2025/12/11(木)05:13
17845. 今朝方の夢
今朝方の夢の中で、両親と一緒に車で旅行に出掛けていた。目的地はどこかわからなかったが、感覚的には東のどこかの県に向かっていた。高速のサービスエリアで休憩することになった時に、愛犬を降ろして散歩しようと思った。すると愛犬が二匹になっていて、雄だけではなく雌の愛犬がそこにいた。しかも雌の愛犬の方が体が大きく、同じトイプードルだったこともあって意外性があった。私は雌の愛犬の方を連れて散歩に向かった。売店で何か食べ物を買っていこうとなった時に、父が母と自分に強い口調で指示を出して来て、同じ家族であっても丁寧な物言いがあるだろうと思ってそのことを伝えた。さらに、もし仮に今後もそのような態度や口調で自分達に接してくるのであれば、もう旅行はやめてここで帰ることも父に伝えた。すると父は少し反省した表情を浮かべていた。
次に覚えているのは、見慣れないマンションの一室で決められた短い時間の中で二人の女性とそれぞれ話をした場面である。二人は雰囲気が似ており、年齢も近く、好感を持った。片方の女性は女医を務めていて、なかなか良い出会いがないということを嘆いており、そこから彼女の専門性に関する話になった時には、部屋にあったホワイトボードを使って専門的な話を楽しそうにしていた。そうした姿は自分の中にもある特性を表しており、非常に興味深い人だと思った。すると気づけば自分はアパレルショップにいて、服を選んでいた。一つ良さそうな長袖の服があったので試着してみることにしたところ、裾が長すぎてサイズが合っていないようだった。するとハーフのモデルのような小柄な女性が現れ、彼女が選んだ女性用の服を私に試着してみることを勧めた。明らかに今度はサイズが小さいように思えたが、女性用の服を着る機会もないので着てみることにした。すると案の定、裾が短く、腹部が冷える感じがして思わず笑ってしまった。
もう一つ覚えているのは、地元の遠浅の海水浴場を小中学校時代の二人の友人と泳いでいる場面である。厳密には最初私たちは浜にいて、そこで少し話をしてから海に入ることになった。そこは遠浅だったのでどこまでも浅い感じが続いているかと思いきや、自分達が泳ぎ始めたエリアは意外と深くなるのが早くて驚いた。私はそこで引き返すことにし、一人浜の方に戻った。すると潮が引き始めており、そこに現れたのはたくさんのカゴに入ったソースや保存食だった。一体誰が海底にこのようなものを落としたのだろうかと不思議に思った。海が汚れてしまう心配をしたが、幸いにもそれは汚染物質を出している様子はなかった。しかし誰かがそれを撤去しないと海洋生物の迷惑になるような気がした。フローニンゲン:2025/12/11(木)05:32
17846. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は、旅というモチーフが一貫した背景となり、自分の内面の発達過程や価値観の調整を象徴的に映し出しているように思われる。両親と車でどこか東へ向かう旅は、自分の原初的な家族関係を引き受けつつ、その枠組みを超えて新しい方向へ進もうとする心理的推移を示している可能性がある。目的地が不明であったことは、現在の人生の進路が明確に設定されているというより、より深い内的動因に導かれながら前へ進む段階にいることを示唆しているのかもしれない。サービスエリアで愛犬が二匹に増えている場面は、自分の中にある複数の気質や欲求が同時に現れてきていることを象徴するようである。雄と雌という対比、そして雌が意外にも大きいという点は、自分の内部に存在する受容性や感情性といった陰的側面が予想以上に成長し、主導権を握り始めていることを示している可能性がある。雌の愛犬を連れて散歩へ向かった行動は、その内なる柔らかな側面を進んで肯定し育てようとする方向へのシフトを表しているように感じられる。一方で、父の強い口調に対して丁寧さを求め、場合によっては旅をやめるという意思表示をした点は、家族関係における境界設定の成熟を暗示しているようである。自分の尊厳を守るために必要な線引きを実践し始めていることが、父の反省の表情に象徴されているように思われる。このやり取りは、自分が家族の中で受動的であった過去から一歩抜け出し、自律的な関係性を築こうとしている心理的転換点を示すのかもしれない。場面がマンションの一室へ移り、時間制限のある中で二人の女性と向き合う場面は、自分の中の知性や専門性、対話的な側面がどのように他者とかかわるかを試行錯誤している様子を映しているようである。特に女医が専門性について楽しそうに語る場面は、自分自身が持つ分析性や学術的関心を投影した姿とも読め、親近感や好感は自己理解の深化に近い感覚を象徴しているのかもしれない。アパレルショップで服を試着し、サイズが大きすぎたり小さすぎたりする場面は、自分が新しい役割や自己像を模索している過程を示す象徴のようである。女性用の服を勧められ、実際に着てみるという展開は、ジェンダーを超えた柔軟性や、多様な自分の可能性を試す遊び心が活性化していることを示すとも考えられる。腹部が冷えた感覚に笑ったことは、その探索が深刻ではなく、むしろ軽やかな自己実験として行われていることを表している。最後の海の場面は、無意識の領域への潜行と、その中で見つかる異物の発見を示す象徴である可能性がある。遠浅だと思っていた海が意外に深くなるという感覚は、自分がこれまで軽視していた内面的深さが実は急激に広がっていることを示唆しているようである。引き返した自分が、潮が引いた浜で保存食の入ったカゴが大量に現れる光景に出会ったことは、無意識の底に沈んでいた古い記憶や感情、あるいは自分がこれまで蓄積してきた“保存された経験”が一斉に露わになりつつある状態を象徴しているのかもしれない。それらが汚染物質ではないという安心感は、内面の未処理の素材が必ずしも有害ではなく、むしろ今後の成長の資源となり得るという予兆とも読める。この夢全体が示す人生的意味としては、自分が今まさに家族関係の再構築、内面の陰的側面の受容、新しい自己像の探索、そして無意識的資源の再編という複数のプロセスを同時に進めている段階にいることを映し出しているように思われる。それらは一見バラバラの場面として現れているが、深層ではすべてが一つの方向へ向かっており、自分自身の成熟と自由度の拡張へと繋がっている可能性がある。フローニンゲン:2025/12/11(木)07:05
17847. 成人発達理論の現在(その2)
現代思想家ケン・ウィルバーが果たした役割は、成人発達理論の地平を“心理学”から“統合理論”へと押し広げた点にある。ウィルバーは、精神分析、構造主義、東洋思想、宗教研究、進化論などの膨大な知的資源を統合し、人間意識の発達を「個人的・文化的・生物的・社会的」四象限から理解する包括的モデル(AQAL)を構築した。この統合的な枠組みは、成人発達理論に対し、三つの重要な影響を与えた。第一に、発達を“段階的構造の上昇”から“複数領域の並行的発達”として捉える視点を提供したことである。ウィルバーは、認知的発達と倫理的発達、自己の深層成長と社会的複雑性などが同じ速度で発達するわけではないという非同期性を強調し、成人発達の理解に多次元性を持ち込んだ。第二に、精神性や覚醒経験を発達学的枠組みの中に組み入れ、従来の心理学が扱いきれなかった“意識の深度”を対象化したことである。これにより、成人発達理論は自己超越や霊性の問題を排除しない、より広い存在論的視座を獲得した。第三に、ウィルバーのモデルは、発達理論を個人主義的成長論や自己啓発ビジネスの枠に飲み込ませることなく、科学・宗教・哲学を架橋する“メタ理論”としての可能性を提示し、発達研究の思想的基盤を拡張した。もっとも、ウィルバーの統合理論は抽象度の高さゆえに誤解も生みやすく、実証研究や臨床的知見との慎重な往還が求められるという課題も併存している。以上の歴史的・理論的展開を踏まえるなら、現代社会において成人発達理論が強く求められる背景は、単なる“成長願望”ではなく、時代構造そのものが大きな変容期に入っていることに起因する。第一に、複雑化した社会は、従来の線形的思考では対応しきれない問題群(気候危機、テクノロジーと倫理の矛盾、地政学的不安定性)を生成しており、個人が認知的・情動的・倫理的に高度な視座を必要とされる状況が増えている。第二に、デジタル化・AI化の進展が、人間の判断力・意味生成力・関係性能力を問い直し、“人間とは何か”という根源的問題を突きつけている。こうした環境下では、単にスキルを増やすだけでは不十分であり、自己の枠組みそのものを再編する「発達的変容」が不可欠になる。第三に、近代以降の成長主義が限界に達し、成果・効率・生産性の論理では測りきれない“成熟”の価値が再評価されている。成熟とは、内的安定、関係性の深まり、倫理的判断、複雑性への応答能力などを含む広い概念であり、この成熟こそが成人発達理論の中心テーマである。このように、成人発達理論の現在とは、個人の内面成長をめぐる心理学的探究を超え、社会構造・文明論・倫理の視座を統合する知のプロジェクトへと進化した状態を指すと言える。黎明期から現在に至るまで、発達理論は「高い段階」を目指す技法ではなく、「よりよく世界と関わりうる存在へと変化するプロセス」を描き出す枠組みとして発展してきた。その結果、今日の成人発達理論は、教育・組織開発・臨床心理・リーダーシップ研究のみならず、人類が直面する文明的危機を読み解くための“統合的思考の基盤”として、かつてない重要性を帯びつつあるのである。フローニンゲン:2025/12/11(木)07:13
17848. 夕食後のギタートレーニングについて
夕食後のギタートレーニングを、クロマティックスケール、バレーコード、そして親指のフリーストロークと他の指のレストストロークの組み合わせといった基礎練習の時間として確立することは、身体的・精神的なルーティンの観点から極めて理にかなっている。この時間帯は食後の安定した状態と静かな集中が得られやすい点で、細かな感覚を研ぎ澄ます基礎練習に最適である。ただし、これらの練習の質を高めるためには、単なる反復に陥らず、意識の使い方や負荷の調整、身体操作の微細な観察が重要になる。まずクロマティックスケールの練習において大切なのは、「動かす指」よりも「動かしていない指」の管理である。クロマティックは一見すると単なる四本の指の順番運動のように見えるが、実際には非動作指の脱力、左手の各指の独立性、さらには右手の均等なタッチを磨くための絶好の訓練になる。したがって、押さえていない指に不要な力が入っていないか、押さえている指が「押しつける」のではなく「支える」ように接弦しているか、といった点を丁寧に観察する必要がある。音の粒立ちを揃えるためにメトロノームを用いるとよいが、テンポを上げることより、均質な音色と滑らかなポジション移動を維持できるかどうかを優先させる方が上達は速くなるだろう。次にバレーコードの練習では、力任せに人差し指を押しつける癖を避け、重力と角度を利用して「効率よく押さえる」感覚を育てることが重要である。夕食後の練習時間は筋疲労が出やすいが、逆にいえば不必要な力がかかっている部位を特定しやすい。人差し指の関節の位置、手首の角度、肘の向き、肩の脱力など、力の流れを全体的に見直す好機である。特に、バレーの圧は「指を立てて押さえる」のではなく、指全体の“重さ”を弦に預けるように落とし込むことが推奨される。この微細なコントロールができるようになると、コードチェンジの際の疲労が格段に少なくなり、バレーを含む長時間の演奏でも安定性が増すはずだ。さらに、親指のフリーストロークと他の指のレストストロークを組み合わせる練習は、右手の分離・独立性を磨く高度な基礎である。ここで大切なのは、親指と他の指が互いに干渉せず、それぞれが独立したリズムとタッチを持てるようにすることである。親指が強すぎると低音が浮き、他の指が強すぎると旋律が過度に主張してバランスが崩れる。したがって、音量バランスを「耳で」調整する習慣を養う必要がある。また、親指を弦から弾き飛ばすように使わず、弦に寄り添いながら前方へ滑らかに抜ける感覚を育てるとよい。レストストロークについては、弦の振動を阻害せずに深く弾き、音の立ち上がりに明確な芯が生まれるよう意識する。夕食後の練習は一日の締めくくりでもあるため、精神的な集中の質も整いやすい。この時間帯を「身体操作の観察」と「微調整」の時間と定義すると、日々の成長が格段に加速するだろう。練習前に軽く深呼吸をし、手の重さ、肩の脱力、指先の温度、弦の感触といった微細な情報に意識を向けることで、身体が練習モードへスムーズに移行する。これは音楽的集中の基盤となる。練習の終盤には、その日最も改善を感じたポイントを一つだけ言語化し、翌日の基礎練習に活かすサイクルを設けることで、無意識的な学習が深まるだろう。総じて、夕食後の基礎練習を単なる反復の時間ではなく、指先と耳と身体の統合を磨く精密な訓練として捉えることで、演奏全体の質は着実に向上していくはずだ。この時間帯が静かで安定した自己調整の場となり、長期的な技術発達を支える礎となることを期待する。フローニンゲン:2025/12/11(木)09:50
17849. 連続した脱力の美学としての演奏
ギター演奏においてリラックスは、技術、音色、スタミナ、表現力のすべてを左右する最重要要素である。上達が進むほど実感されるようになるが、練習の質を根本から決めるのは「どれほど脱力できているか」であり、力みが残っていると、音色は硬くなり、運指はぎこちなくなり、長時間の演奏も難しくなる。特にクラシックギターでは、脱力の巧拙がそのまま音楽の深みにつながるため、左手と右手のリラックスをいかに確保するかが極めて重要である。まず左手の脱力では、「押さえる瞬間以外は手を軽くする」という原則が鍵となる。多くの演奏者は、弦を押さえていない瞬間にも無意識に力が入り続けてしまう。しかし実際には、音が鳴るのは押弦した瞬間だけであり、その後の保持に過剰な力は必要ない。理想的には、押さえた後の指は乗っているだけの状態で、力を使って押し込む必要はない。これを習得するためには、スローテンポのスケール練習で、自分がどの瞬間に力みを生んでいるかを丁寧に観察することが重要である。また、左手の脱力を妨げるのは指だけではなく、肩・二の腕・前腕といった上流の緊張であるため、肩が上がっていないか、肘の向きが不自然になっていないかを常にチェックする必要がある。特にバレーコードでは、押しつける力でなく「腕全体の重さを指に預ける」という意識が効果的である。これにより局所的な力みを防ぎ、持続可能な押弦が可能となる。右手のリラックスでは、手首・甲・指の付け根の柔軟性が音色を左右する。右手は弦を弾く動作が多いため、脱力が不十分だと動きが鋭くなりすぎ、音が固くなり、微妙なタッチコントロールが難しくなる。良いリラックスの目安は、弾いた直後に右手の指が自然に元の形に戻ることである。もし戻る動きが硬い、あるいは弾いた後に指が固まるような感覚がある場合、それは力みのサインである。また、親指と他の指が互いに干渉していないかもチェックしたい。親指が緊張していると低音が過度に強くなり、他の指の動きを束縛してしまう。親指は弦の下で自然に待機し、弾くときだけ最小限の動きで前へ抜けるように動かすのが理想的である。右手のリラックスは腕全体の脱力と深く関係している。特に注意すべきは、腕をギターのボディに乗せる位置である。肩や上腕の力が入っていると、手首や指先にまで緊張が伝播してしまうため、腕をボディに置く際には、腕の重さを自然に預け、肩を下げることを意識する必要がある。また、右手が弾く瞬間だけ軽く力を使い、その直後にふっと力を抜く“波”のような力の使い方を習得すると、音がより深く、柔らかく、しかも芯のある響きになるだろう。さらに、リラックスを支えるのは身体の姿勢である。背中や腰が固まると左右の手の動きに余計な緊張が生まれやすいため、演奏中に身体の中心軸が揺れないように保ちながらも、筋肉が常に微細に動ける柔らかさを残すことが大切である。深い呼吸もまた脱力に欠かせない。呼吸が浅くなると肩が上がり、手の動きが硬くなるため、フレーズの切れ目で自然に息を吐き直し、身体全体の余白を取り戻す習慣を持つと良いかと思う。総じて言えば、左手も右手も「力を入れる瞬間」と「抜く瞬間」を明確に分け、力を入れる量を最小限に抑えることがリラックスの核心である。演奏とは連続した脱力の美学であり、力むほど自由が失われる。したがって、日々の練習の中で細かな身体感覚を観察し、不要な緊張を削ぎ落とす姿勢を持ち続けることが、ギター演奏における本質的な向上につながるはずだ。フローニンゲン:2025/12/11(木)15:28
Today’s Letter
A mirror-like mind reflects everything as it is. The more I polish my mind, the more clearly I can see everything. Groningen, 12/11/2025

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