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6284-6288: アートの国オランダからの便り 2020年10月2日(金)


No.1459 朝の重力_Morning Gravity

本日の言葉

The present moment is completely beyond the before and after. The present moment is the present moment. Dainin Katagiri

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本日生まれた9曲

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タイトル一覧

6284. EUを客体化すること/現代人が患う不安症

6285. これまでの革命と現代の革命の特徴/GAFAの試み

6286. 今朝方の夢

6287.『A(1998)』と『A2(2001)』を見て

6288. ホテルの予約を終えて/オピオイド蔓延社会の到来


6284. EUを客体化すること/現代人が患う不安症

時刻は午前5時半を迎えた。起床してくすぐに寝室の窓を開けようとすると、窓に水滴が付着していた。どうやら外と内の気温差が随分とあるらしい。


確かに今日も非常に肌寒いのだが、暖かい格好をして、今も寝室と書斎の窓を開けて換気している。空気の入れ替えは様々な点で重要である。


起床直後にふと、日本だけではなく、EUも沈みゆく船なのではないかと思った。問題は違えど、どちらも共に茹でガエルようなような形で徐々に崩壊の方向に向かっていることを直感的に感じている。


その直感は、政治経済的な問題から来ているように思う。EUの政治経済的な状況は楽観視できるものでは決してない。


これまでの自分はEU内で生活をしていながら、EUの種々の問題に対してあまりに無自覚であり、それらの問題を生み出している構造を全く理解できていなかった。自分が所属している集団を客体視することはなかなか難しいということがここからもわかる。


ハーバマスを含め、EUの問題を指摘する論客たちの論考を参考にして、実際に今EU内で起こっている問題を見ていこうと思う。物理的にそこにいることによってその場に働いている力や問題に盲目的になり、そこから離れることによって初めてそれらが自覚できるようになってくるというのは過去にも起こっていたことである。


最初の体験は、日本を離れ、アメリカに渡ったことにより、初めて日本が客体化されたというものであり、そこから今度は欧州に渡ることによって、初めてアメリカが客体化されたというものだった。今度は、EUにいながらにしてそこで行なっている問題とそれを生み出す構造を客体化させていくことが求められている。今回は幾分新しい挑戦になるだろう。


沈みゆくのは日本やEUだけではなく、地球全体なのかもしれない。今回のコロナの世界的な蔓延を受けて、世界的に不安が渦巻いている。民衆の不安が鬱積することによって、ファシズム的な運動が起こったというフランクフルト学派の指摘を思い出す。


世界中の人々は、コロナだけではなく、今様々な不安を抱えて生きているように思えてくる。現代人は不安症という病を患っている可能性が高く、それが閾値を超えると、各国でファシズム的な運動が起こってくるかもしれない。


日本の状況を見ていると、日本も例外ではなく、むしろその危険性が高い国なのではないかと思う。コロナに対する民衆の反応や、孤独死や自殺などの不安と密接に関わった問題の状況を見ているとそのように思う。


私たち1人1人できることは何なのだろうか。個人としては、少なくとも何に対して不安を感じているのかという特定と、その不安が生じるメカニズムを明確にしていくことが求められるだろう。それは幾分認知的な力を要するが、それをしなければ、得体の知れない不安に苛まれ続けるだけである。


臨床心理学の観点で言えば、人は得体の知れないものに不安を覚えるのだから、得体の知れないものの姿を少しずつ明るみにしていく必要があるだろう。また、往々にして不安というものは、マスメディアを含め、社会が生み出すものでもあるから、社会からのメッセージには注意深くなり、社会から押し付けられる視点や世界観を対象かし、そこから抜け出していくことを絶えず意識することも大切だろう。決してそれらに埋没してはならないということを思う。フローニンゲン2020/10/2(金)05:53


6285. これまでの革命と現代の革命の特徴/GAFAの試み


昨夜ふと、革命について考えていた。先日、連合赤軍や三島由紀夫を描いた映画を見たことによって、革命についてふと考える瞬間が訪れたのだと思う。


古くはフランス革命など、革命と称される事件や、1970年代まで日本で行われていた革命的な運動は、どれも物理的な次元での武力行使が伴っていた。私が生まれたのは、そうした革命的な運動が沈静化し、革命なる言葉が死後になっていた時代である。


それゆえ、革命がなんたるかは体験を通じて理解できていないのだが、昨夜はふと、この10年、20年に社会で起こった革命的なことについて考えを巡らせていた。もはや現代の革命においては武力行使などは必要とせず、それはテクノロジーを用いた形で情報次元で行われているものなのではないかと思った。


しかもそれは、私たちの目には見えないところで起こっていて、気がつけば人々の認識と行動が変わっていたという類の革命である。おそらく、一昔前の革命は、物理的な次元における武力の行使を通じて、社会の仕組みという情報次元の革命を実現しようとしたが、現代の革命は、物理次元から情報次元の働きかけを通じてなされるようなものではなく、情報次元で完結し、革命が実現されたら物理次元の我々の発想や行動がガラリと変わっていたというような類のものなのではないかと思う。


GAFA(Google、Apple、Facebook、Amazon)などのプラットフォーマーの動きを見ていると、まさにテクノロジーを通じた革命を起こそうとしているように思えてくる。それは、最先端テクノロジーを活用することによって、人間と社会を変革していく試みである。


人間は制度に従うという性質だけではなく、制度に抗うという二律背反的な性質を内在的に持っていて、制度から内面を変えていくのは難しいだろうが、テクノロジーであれば制度改革よりもそれが実現しやすいのではないかと思えてくる。もちろん、テクノロジーに対しても抵抗する力が働くこともあるだろうが、テクノロジーの利便性や誘惑に私たちはついついすぐに乗ってしまう。


そうした点を利用する形で、実際に今、GAFAたちが目指していることは、テクノロジーを通じた世界規模での革命を実現することなのではないかと思う。成人発達理論を学び、そしてそれを活用した成長支援の実践に長らく携わっていると、人が内面から変わっていくことがどれだけ難しいかがわかる。


確かに私たちの中には変容を遂げていく人もいるのだが、はっきり述べると、それはごくごく少数である。現実を直視すると、大多数の愚民は愚民のままであるというのは、疑いようのない事実ではないかと思う。


民主主義に基づいた社会運営をしていくためには、少なくとも人々が人間としての知性を兼ね備えていることが条件となる。だが実際は、大衆はそうした知性を持ち合わせない。そして、それを発達させていくことは極めて困難であり、実効性に乏しい。


GAFAたちもそれを理解しているのか、それでは愚民は愚民のままで、大衆は下等生物のままでも社会が回るようにしていこうという発想で、種々の試みを始めているように映る。小さな実験として自動運転を例に挙げると、あれはチンパンジーのような人間——チンパンジーの方が知性が高いのではないかと思えるような人間がたくさんいることを考えると、少しチンパンジーに失礼かもしれない——を運転席に乗せても事故が起こらないようにという実験のように映る。


それ以外にも、確かカリフォルニア州かどこかにおいて、AIの裁判官が法廷で裁くということがすでに行われていて、それもまた自動運転に似たようなことを目指す試みのように思えてくる。おそらくここからは、欲望にまみれたゴリラのような人間に政治を任せるのではなく、そしてそのような人間が生み出す政策を下等生物に判断させるのではなく、ゴリラや下等生物のような人間がいたとしてもうまく回っていく仕組みをテクノロジーを通じて実現させていくようなことをGAFAたちは考えているのかもしれない。


彼らのようなプラットフォーマーは、水面下でプラットフォームをガラリと変えて、既存のルールとは全く異なるようなルールを社会にもたらす。しかもその変革は、気がつかないうちに実現されていて、私たちはふとした瞬間に新しいプラットフォームの上で、新しいルールに基づいて生きていくことになる。この10年、20年を振り返ってみると、自分を取り巻く社会の中でそのようなことが行われていたように思う。


アメリカでは、現在様々な州が大麻を合法化し始めており、それとヴァーチャル技術の開発の現状と上記の話題を併せて考えてみると、大衆を啓蒙し、彼らの発達を促すのとは逆向きの、つまり彼らをより下等生物化させ——大麻を吸わせ、ヴァーチャルな世界にどっぷり浸かって生きてもらう——、それでいて社会が回っていくような仕組みをテクノロジーを使って実現させていくような発想がGAFAたちにはあるのではないかと思う。フローニンゲン2020/10/2(金)06:26


6286. 今朝方の夢


時刻は午前6時半を迎えた。自分は左翼(過激な革新派)でも、右翼(排外的な保守派)でもなく、西部邁先生が言う、右翼とは違った意味での保守派の考え方を持っていることに気づいたのはここ最近のことだった。


ここからは、上記の3つの政治思想の大まかな括りだけではなく、より詳細に政治思想を探究していこうと思う。先日購入した政治学の専門書は、そうした探究に有益であろうし、昨日日本のアマゾンを経由して購入した、西部先生の8冊の書籍もまた探究を深めてくれるだろう。


日本で現在どのような政治思想が展開されていて、それがどのような政策に結実しているのかにはもちろん関心があるが、今自分が住んでいるオランダ、そしてEU諸国の政治家たちの政治思想と政策により関心を持って理解に励んでいこうと思う。政治は日々の生活と密接に結びついており、私たちの命とも極めて強い結びつきがあるのだから、政治思想と政策の理解は不可欠だろう。


今朝方は印象的な夢を見ていた。夢の中で私は、フローニンゲンの自宅の書斎にいた。外は冷たい雨が降っていて、時刻は午前中ようだった。


突然、外から犬の悲鳴が聞こえてきた。何事かと思って窓際に駆けつけて通りを見ると、1匹の大きな犬が血だらけになっているではないか。そしてその犬の横に小さな犬が1匹、そして黒い孔雀のような鳥がいた。


どうやら、犬たちは孔雀の散歩をしていたようであり、悲鳴をあげた犬は孔雀をリードでつないでいた。その大きな犬の体に傘が突き刺さっていて、血が垂れ流されていた。


推測するに、自転車に乗った通行人とぶつかってしまったらしく、その時に傘が犬の体に突き刺さってしまったようだった。それはとても残酷で、痛々しい姿だった。


大きな犬は鳴き声をしばらく上げ、その後、なんとか立ち上がり、小さな犬と一緒に、黒い孔雀をリードで引きながら通りを渡ろうとしていた。もしかすると子犬の方は大きな犬の子供なのではないかと思い、子犬は怪我をした大きな犬を心配そうな眼差しで見つめていた。


こんな雨であるし、傷口の様子からすると、命はもう長くないだろうと思ったが、どこかで雨宿りをして安静にすることによって、なんとか命が助かって欲しいと祈った。そこで夢の場面が変わった。


次の夢の場面では、私は見慣れない小さな会議室の中にいた。その会議室にはホワイトボードがあり、そこには何やら数式やグラフなどが書かれていた。


会議室の円卓テーブルには、私を含め、小中高時代の親友(HO)と大学時代のサークルの先輩、そして父と見知らぬ外国人がいた。私たちはそこで、株式投資の話をしていた。具体的には、現在のマーケットの様子を分析し、これから何に投資したらいいかの話し合いだった。


数ある投資手法、そして投資対象の中でも、私は結局、長期保有によるインデックス投資を選んだ。それに対して大学時代の先輩は、従業員持株制度を使って自社株の購入に資金を充てるようだった。


そこからも引き続き投資に関する話題で盛り上がった。今朝方はそのような夢を見ていた。フローニンゲン2020/10/2(金)06:56


6287.『A(1998)』と『A2(2001)』を見て


時刻は午後3時半を迎えた。今日は昼から今の時間にかけて、2つの優れたドキュメンタリーを見た。それは、ドキュメンタリー作家の森達也氏が作った『A(1998)』とその続編の『A2(2001)』である。


この一連のドキュメンタリーは、オウム真理教事件後の信者たちに密着取材を通じて浮かび上がってくる彼らの生活の様子や、彼らに対する市民の反応を映し出している。オウム真理教やオウム信者を外側から映し出す番組は、幼少の頃から今にかけていくつも見てきたが、オウムの内側から映し出す映像はこれまで見たことがなかったように思う。


当然ながら、いかなる創作物も作り手の観点や思想が入り込み、それが生み出す盲点もあるが、オウム真理教を内側から映し出しているとても貴重なドキュメンタリーだと思う。


マスコミの報道が極めて偏ったものであることは周知の事実であり、私たちはマスコミが生み出す限定的な情報によって世界観や観点が作られていく。これもまたある種の信念操作であり、カルト教団的な行いのように思えてくる。


そもそも、人間は自分が見たいものしか見ない弱き生き物であり、現代人はますますその性向を強めている。SNSなどの情報テクノロジーにより、その傾向が拍車をかけているのは目に見えて明らかだろう。そうした状況に危機感を覚える。


私たちの内的発達や変容を実現させてくれるのは不在を捉え、不在を不在化させることなのだから、偏った情報に観点が固着化してしまうのは、発達上の停滞であり、下手をするとそれが退化をもたらしかねない。


まさにこの一連のドキュメンタリーは、マスコミの情報に踊らされてきた私たちには知り得ないオウムの内部事情と状況を知る上で、不在の不在化、すなわちこれまで見えていなかった隠された真実や観点を明るみにしてくれる優れた作品だと思う。


2000年に入ってからもまだオウムの活動は続けられており、同時に彼らの活動拠点の周りでは、撤去を求める運動が続けられていた。その中でも印象に残っているのは、マスメディアでは信者と近隣住民が激しい対立を成しているという報道がありながらも——実際に多くの地ではそうだったが——、いつの間にか信者と近隣住民が親しく日々交流している姿が映し出されていた点である。


その中でも特に、ある住民が、「最初は激しく撤退を抗議していましたよ。でもね、もう何が正しいのかわからなくなってきているんです」と述べていたことが印象的である。さらに別の住人が、「今はもう見えない敵と戦っているような感じですかね」と笑いながら答えていたことも印象的だ。


この一連のドキュメンタリー作品には、クリント·イーストウッド監督の善悪を超えた世界を描く発想と似たものが込められているように思えた。今回の森氏のドキュメンタリーが非常に興味深かったので、引き続き、『311(2011)』『FAKE(2016)』『i-新聞記者ドキュメント(2019)』のドキュメンタリー作品も見ていこうと思う。


今日の予定では、『ハンナ·アーレント(2013)』と『彷徨える河(2015)』をみようと思っていたので、それらは明日以降見ようと思う。フローニンゲン2020/10/2(金)15:45


6288. ホテルの予約を終えて/オピオイド蔓延社会の到来


時刻は午後8時を迎えた。今日もまたとても充実した1日だった。


夕方から今にかけて、途中で夕食を挟みながらも、日本での滞在期間のホテルと、オランダに戻ってきてからのアムステルダムのホテルを確保した。色々と吟味しながら、京都、石川、福井、そして関空近くのホテルの予約をし、アムステルダム空港直結のホテルを予約した。


結局今回は、アムステルダム空港内のホテルに宿泊し、アムステルダム観光を丸1日した上で、その翌日にのんびりとフローニンゲンに戻ることにした。その方が移動の疲れも軽減されるだろうし、滅多なことではアムステルダムに足を運ばないのでちょうど良いかと思う。


振り返ってみると、最後にアムステルダムに訪れたのは、2018年の5月に開催された国際ジャン·ピアジェ学会に参加した時である。そこでの学会で発表をしたことを最後に、アカデミアの世界から離れたという思い出がある。


あの時は学会会場の近くに宿泊し、学会の前日に、ヴァン·ゴッホ美術館を訪れた。今回は、アムステルダム国立美術館とレンブラント美術館(レンブラントの家)を訪れようと思う。


両者を訪れたのは、実に4年前のことになる。4年前に訪れた時の記憶は薄れており、どのような作品があったかを思い出すことが難しい。そうしたこともあり、2つの美術館に足を運ぶのは好ましいように思えた。


何よりも、この4年間の自らの歩みを確認するべく、所蔵されている作品から喚起される感覚の変化を確認したいと思う。4年前の自分と今の自分の内的感覚を比較する上でそれは貴重な機会になるだろう。


夕方の日記で書き留めていたように、今日は2時間を越すドキュメンタリーを2本見た。ここ最近はとても良いペースで映像作品を見ることができている。


1時間半や2時間の映像作品の中に、これほどまでに多くの学びがあることや、多くの考えさせられることがあることに改めて驚かされる。また、視覚的映像が内側の感覚や感情に訴えかけてくる働きも見過ごすことができない。


そうした学習·変容機会を与えてくれる映像作品をこれまであまり見てこなかったことが逆に不思議になってくるぐらいである。明日からも引き続き、自己と社会に関する理解を深めていく作品を見ていこう。


現代社会は、オピオイド(鎮痛薬)蔓延社会とでも形容できるだろうか。ドラッグの使用やヴァーチャル世界を体験させる技術の発展により、人間として生きていく上で不可欠な現実世界の痛みと向き合わない、あるいは向き合うことを奪われた人間が大量に生産されていく世の中がもうやってきている。


鎮痛薬というのは、確かに手っ取り早く痛みを抑えてくれるが、それはあくまでも対処療法的なのである。人間の発達には葛藤が不可避であり、発達プロセスは死と再生のプロセスと喩えられる。人間の発達はそうした性質を持つにもかかわらず、痛みを得る体験が剥奪されてしまうというのは危険なのではないかと思う。


そしてそれは倫理的な問題にもつながるのではないだろうか。私たちが他者を理解する時、痛みに関する共通体験は重要になるであろうし、そうした共通体験が希薄になればなるほど、人同士の理解や交流が困難になってしまわないだろか。私はそうした状態を憂う。


誰もが痛みのない社会というのは聞こえがいいが、そうした無痛社会の到来は、長期的な観点で言えば、人間の精神性をますます貧困なものにし、人類の滅亡を加速させてしまうのではないかと思う。フローニンゲン2020/10/2(金)20:25

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