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5814-5817: アートの国オランダからの便り 2020年5月10日(日)


No.333 正午の精霊_Spirits at Noon

本日の言葉

If we can reach the understanding of what we actually are, there is no better remedy for eliminating all suffering. Kalu Rinpoche

下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(13点:コメント付き)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。

本日生まれた15曲

本日生まれた曲はこちらのMuseScore上で公開しています。

本日生まれた曲はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています(2020/4/26より、投稿を再開しました)。

タイトル一覧

5814. 月での生活:意識の拡張と意識の超出をもたらす美的体験

5815. 地球の命と遠い未来の生命体

5816. 今朝方の夢

5817. 絶えず破滅の縁に立ち続ける人間と人間社会

5814. 月での生活:意識の拡張と意識の超出をもたらす美的体験

時刻は間も無く午前6時を迎える。辺りはすっかり明るくなり、たくさんの小鳥たちが鳴き声を上げている。今朝方の彼らの鳴き声は、いつも以上に澄み渡っているように聞こえ、瞑想的な意識にしてくれる。

遠くの空は薄ピンク色をつけていて、上空にはまだ満月が見える。もう30分前であれば、満月がもっとはっきりと見えていた。

ふと、月での生活においては、こうした小鳥たちの鳴き声が聞こえないのだなと思った。もちろん、音源として小鳥たちの鳴き声を聞くことはいくらでもできるが、彼らの生の鳴き声を聞くことは難しい。今こうして彼らの鳴き声に包まれていることの有り難さが身に染みてくる。

月での生活に少しばかり思いを馳せていた。仮に月で生活をすることになったとしても、おそらく今と行っていることは変わらないだろう。自分のライフワークを月でも続け、今と同じような生活を営んでいくに違いない。

言葉·音·絵による創作活動。月の上でもそれに従事し続けていく自分の姿が想像できた。

月の上で生活をし、月から地球を眺めている自分。そして地球について思いを巡らせている自分を想像した。そこで浮かんできた考えは、地球という巨大な命の延命を単にしているだけではならないというものだった。地球が健全な形で生き続けることを支え、その中で自らの生を営んでいくことの重要さを思った。

仮に地球の外で生活できるようになったとしても、地球という命を見捨ててはならないように思う。そこで暮らす多様な生物を考えると、そのようなことを思う。

今自分の耳に届けられる小鳥たちの鳴き声。その美しさを思うと、なおさら彼らを見捨てることはできない。

先ほどヨガの実践をしている最中には、ビジョンが生起する意識状態になり、目をつぶるとそこに多種多様なイメージが現れ、その中に、地球からどんどんと意識が離れ、月に向かっていくイメージがあった。

外に立つこと。それについて先日言及していたように思う。

意識の発達とは、意識が内側に向かい、認識が深まっていくプロセスであるのと同時に、意識は既存の認識の枠組みを超出していくというプロセスでもある。その時に、外に立つということが鍵を握る。

エクスタシス(ecstasis)、それは恍惚的な体験であるのと同時に、語源としては超出することを意味する。芸術による美的体験は、自己を超越させるもの、つまり自己を既存の認識の枠組みの外に立たせる体験なのだ。

芸術を通じた美的体験は、自己を外に連れ出してくれる役割を果たしうる。それは、意識の拡張と意識の超出をもたらしてくれる。

そうした体験を日々積んでいる自分。日々は、意識の拡張と超出の連続的な過程として進行している。今日もそのような1日になるだろう。

今日もまた創作活動に打ち込んでいきたい。おそらく今日の午前中をもってして、ウォルター·ピストンの600ページほどにわたる理論書の1周目が終わる。掲載されている譜例を1つ1つ写譜し、そこからさらに自分なりの工夫を凝らして曲を作るということをしていたので時間は掛かったが、大いに実りある実践であった。

1周した後にすぐさま2周目に入るのではなく、他の理論書を用いて同じことをしていこうと思う。同じようなことをしたい理論書は、今手元に15冊ほどある。その中でも今日からは、“Contemporary Harmony”を参照したいと思う。その次に、アーノルド·ショーンバーグが執筆した初期の理論書を参照していく計画だ。昨日イギリスから届いた書籍を参考にし始めるのはもう少し後になるだろう。フローニンゲン:2020/5/10(日)06:15

5815. 地球の命と遠い未来の生命体

時刻は午前6時を回った。朝日が赤レンガの家々に照り始めている。辺りはすっかりと明るくなり、満月はもうかすかにしか見えない。輝く満月を眺めることができるというのは、早起きの特権なのだということを改めて思う。

日中は、日光浴をしながら太陽から直接エネルギーをもらっているのだが、早朝に月が見える日には、太陽の光が月に反射したエネルギーも享受させてもらっている。月に反射することによって、それは太陽と月の双方のエネルギーが融合したものになっているように感じられる。

昨日は、悲観論では決してなく、地球というのが1つの生命であるのなら、やはり最後は死が待っていることについて考えていた。太陽ですら寿命があり、何十億年かそれよりも先かわからないが、太陽ですら死滅するらしい。そう考えると、地球が今後も永遠に生き続けると考えることはできないように思う。

生命は死があってこその生命である。死がなければ生はない。

地球の寿命を早めるような愚行を行っているのが現代人及び現代社会であり、そうした愚行をやめ、地球が本来の寿命をまっとうできるように、地球と寄り添いながら生きていくことが求められる時代にますますなってきている。その際に重要なことは、個人としては凡夫からの脱却であり、社会としては凡夫を大量生産し、凡夫によって回る仕組みから脱却していくことだろうか。

地球が命を終えた後の世界、ないしは宇宙について考えていた。仮に人間という生命が地球外で生活を始めたとしても、もっと優秀な知的生命体が生まれてくるように思えた。

以前から再三述べているように、人間は欠陥だらけの生き物である。身体としても心としても実に欠陥の多い生き物だ。

心の欠陥に関しては昨日の日記の中で言及していたように思う。端的には、心には絶えず隙があり、心の闇があり、そこから様々な欠陥ないしはバグが思考空間に生まれる。だから人間はそうした欠陥まじりの思考から馬鹿な意思決定と愚行を犯すのだ。

身体的な欠陥についてもこれまで何度も言及していたように思う。そもそも他の生き物を貪り食らう形で生きていかざるを得ない身体を人間は持っており、しかもその消化に膨大なエネルギーを使っているという実に非効率的な身体を持っている。

昨日ぼんやりと考えていたのは、人間の後に生まれてくる知的生命体は、そうした欠陥を乗り越えて、身体上においては、太陽の光だけで生きていけるようになるのではないかと思った。水と空気がある惑星は限られるであろうから、太陽の光だけで生きていける生命について考えを巡らせていた。

だがそこから、太陽の光で生きていくことも不都合があるように思えた。なぜならそれは、太陽の光が届く場所でしか生きていけないことを意味しているし、太陽が消滅した後に生きていくことができなくなってしまうからだ。

そうなってくると、もう想像がつかないほど先に誕生する究極的な生命体は、宇宙に偏満するダークマターだけを摂取して生命活動を維持できるようになってくるのではないかと思えた。そのようなことを考えながら昨夜は就寝に向かった。フローニンゲン:2020/5/10(日)06:33

5816. 今朝方の夢

時刻は午前6時半を迎えた。つい先ほどまで見えていた満月が消えた。

改めて、早朝未明に満月を眺めることができたことを嬉しく思う。満月を眺めることができるというのも仮そめのことだったのだとわかる。

今日もまた創作活動に励むことを通じて、自己を超えていこうと思う。今朝方にふと、自分が望むものを望む形で生み出していく創作活動に従事することは、学校教育によって調教された心を解放させることにつながっていると思えた。

発達心理学者のハワード·ガードナーの言葉を用いれば、「脱学校化された心」を獲得する営みとしての意味も創作活動にはあるように思えた。しかし、そもそも心が学校化、つまり調教されるようなことがなければ、そうした概念は生まれ得ないことを考えてみると、つくづく学校システムに対しては疑問の目を投げかけざるを得ない。そのようなことを先ほど考えていた。

それでは、今朝方の夢について振り返りをしたら、絵を少々描き、そこから早朝の作曲実践に取り掛かっていく。今日も昨日に引き続き、充実した創作活動が実現されるだろう。

それがもう事前にわかっていること。重要なことはそれだ。

もう自分は知っているのである。前もって知っていること。自分にとって重要なことはもう前もってわかっているのだ。あとはそれが現実世界で形となって現れてくるように行動するだけである。

形なきものは常に形に先行して存在している。自分はそれをいつも察知している。ここのところはその察知力がより鋭敏になってきている。言葉の形にならないものであったとしても、多くのことを自分は前もって察知しているようだ。

今朝方の夢。夢の中で私は、実際に通っていた中学校の体育館にいた。いや、その体育館よりも綺麗な印象を受けたので、別の体育館かもしれない。いずれにせよ、そこで私は、親友(HS)と他校の2人とバスケの2on2をしていた。

親友と私は同じチームであり、他校の2人が相手だった。そのうちの1人は、少し離れた街の学校のエースであり、もう1人は近くの他の学校の後輩であり、彼もまたバスケが上手かった。

私たちは、1ゴール1点の換算で、20点先取のゲームをしていた。ちょうど10対10の点数になったところで、2人の警察官が体育館のドアから顔を覗かせた。

20点先取のゲームは思いのほか時間がかかるため、ちょうどそこで私たちは小休憩に入った。私たちは警察官たちの方に歩み寄り、話を聞いてみると、何やら近くのスポーツショップでウェアが盗まれたとのことだった。

警察官たちは、私たちのことをそれほど疑っているようではなかったが、念のため、私たちのウェアを確認させて欲しいと述べた。私は自分のウェアを1人の警察官に渡した。

すると、その警察官が、どうしてウェアに名前を入れていないのか、と尋ねてきたので、そのウェアは名前を入れる必要のあるものではない、と私は答えた。2人の警察官たちは納得したような表情を見せて、体育館を後にした。

体育館に残った私たちは、そこからゲームを再開しようと思ったが、警察官たちと話をすることによって、随分と時間が経ってしまい、体育館の時計を見ると、昼時に迫っていた。そこで一旦昼食休憩を挟もうということになった。

私はあまりお腹が空いていなかったが、他校の後輩が意気揚々として昼食を買いに行ってくれると述べた。彼はどうやら寿司弁当が食べたいようであり、私も同じものをお願いした。そこで彼に自分のクレジットカードを渡そうと思ったが、後から現金を渡す方がいいだろうと思った。そこで夢の場面が変わった。

そこからはまた別の夢を見ていた。3人の親友と彼らの奥さんが現れる夢だったことを覚えている。フローニンゲン:2020/5/10(日)06:51

5817. 絶えず破滅の縁に立ち続ける人間と人間社会

時刻は午後7時半を迎えようとしている。日曜日がゆっくりと終わりに向かっている。

今日は午前中の途中から空に薄い雲が覆い始め、今も空は雲に覆われている。この分だと今日は夕日が沈む姿を眺めることができず、夜空の星を眺めることは難しそうだ。それらの光景を拝むのは明日以降になるだろう。

本日、バッハのコラール全440曲を参考にし終えた。楽譜に記録されている日付が、一番最初に範を求めた日から今日まで約2年間の時が過ぎたことを伝えている。

ほぼ毎日バッハのコラールを参考にして曲を作り、ようやく1巡を終えたことを少しばかり感慨深く思った。いつも1冊の楽譜を参考にし終えた時には、過去にそうした曲を残してくれた作曲家への感謝の念と、自分が一歩前に歩みを進めた感覚の双方がある。先ほどもそうした感情と感覚を味わっていた。

本日をもって全てのコラールを参考にしたが、今後も4声のコラールを作っていきたい。バッハのコラールを基にした新たな原型モデルを作ることはしばらくしないが、これまで作った原型モデルを活用してコラールを引き続き作っていく。4声のコラールは、とりわけハーモニーの観点から様々な実験ができるため、今後もコラール形式の曲を作ることを通じて作曲技術を磨いていこう。

今日もまた雑多なことを考えていた。1つには、私たち人間存在と人間社会は、常にカオスの縁に立っており、絶えず破滅と隣り合わせにあるのではないかというものである。

この社会に山積みとなっている問題の複雑性を考えると、いずれも残念ながら根本的な解決案などないように思える。仮にある特定の問題が根本から解決したとしても、問題というのは問いと同様の性質をもっていて、1つの問題が解決されると、その問題は新たな問題を生み出す。しかもそれは、以前の問題よりもさらに複雑な形となって提示されるのだ。

まさに私たち人間が、固有の発達課題を乗り越えて発達し、以前よりもさらに過酷な課題を突きつけられるのと同じである。

問題は問題を呼ぶ。あるいは、問題に対する解決策は、解決策を提示するだけではなくて、なんと新たな問題まで提示するのである。

この世で完全なる真空を作ることができないのと同じように、この社会に山積みの問題を完全に解決することはできないようだ。しかしだからと言って、破滅の道を歩むことしか私たちに残されていないかというとそうではない。

私たちは、破滅に至るギリギリの縁に立ち続けることができる。おそらくできることはそれしかないのではないかと思う。

破滅に至らしめる要因を完全に取り除くことはできないが、破滅の一歩前に絶えず立ち続けることだけが人間と社会にできることなのかもしれない。そして一歩間違えば、そこには破滅が待っている。どうも人間はそれを宿命に背負って生きているようなのだ。

そうした考えの元になっているのは、今から8年ほど前にサンフランシスコの坂道を歩いていた時の気づきだった。人は絶えず狂人に至る縁の前に佇んでいるという気づき。そんな気づきが突如降ってきたことを思い出す。

人間は問題を新たに生み出しながら、今よりもさらに過酷な問題と対峙することを宿命づけられている。それと対峙することをやめた時、それは破滅の側に足を踏み出してしまったことを意味するのだろう。

その一歩を踏み出さないために、破滅の縁に佇み続けること。そして絶えず課題と向き合っていくこと。人間と人間社会は、いつもそれを宿命として抱えながら存在している。フローニンゲン:2020/5/10(日)19:43

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