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5451-5452:フローニンゲンからの便り 2020年1月13日(月)


本日の言葉

Our speech can be ordinary. But if we are thinking in the ordinary way, that leads to tears. Ajahn Chah

本日生まれた2曲

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タイトル一覧

5451. 喉の痛み:今朝方の夢

5452. 自己超出体験と若々しい生命

5451. 喉の痛み:今朝方の夢

時刻は午前7時半を迎えた。昨夜から喉が少々痛く、今朝起きたときにも喉が痛かった。さらには体が少しだるさを覚えている。

ひょっとすると旅の疲れと季節の変わり目の影響が現れているのかもしれない。今日は活動のペースを落とし、療養に励もうと思う。

今朝方は次のような夢を見ていた。夢の中で私は、小中学校時代を過ごした町にいて、小学校の通学の際によく通っていた田んぼ道を歩いていた。

すると前方に、現在オンラインゼミナールに参加してくださっている1人の男性の方がとぼとぼと田んぼ道を歩いていた。私は背後から声を掛けて驚かせようと思い、空を飛んで後ろから追い越してみようと思った。

空を飛ぶ高さは電信柱ぐらいであり、ひゅっと後ろからその方を追い越してみた。その方の方を振り返ってみると、その方はそれほど驚いた表情を見せておらず、ただ笑みを浮かべているだけだった。私はその方に話しかけることをせず、私も笑みを浮かべて、引き続き空をゆっくりと飛んで移動することにした。

ちょうど田んぼ道が途切れる箇所に保育園があり、私はそこに通っていないが、友人の多くはその保育園に通っていた。保育園の校庭から子供たちがはしゃぎながら遊ぶ楽しげな声が聞こえてきた。

私はその声を聞きながら、保育園の前に止まっていた数台の車の上を飛び越していくことにし、ある1台の車を飛び越して行った時、おそらく保育園に子供を預けている母親だと思われる運転手の女性が私が空を飛んでいることに対して驚いていた。そこで夢の場面が変わった。

次の夢の場面では、私は実際に通っていた大学の生協にいた。午前中の授業が終わったのか、私は数人の友人たちと一緒に生協でランチを共にすることにした。

生協の食堂の端っこの席を確保し、私は一番端の壁際に腰掛けた。私の前には誰も座っておらず、右斜め前にゼミナールの友人(TA)がいて、その横には小中学校時代の友人(TS)がいた。私の右横にも誰か友人がいたのだが、その友人が誰かについては覚えていない。

各々食事を取ってきて、いざランチを始めてみると、最初のうちは会話を楽しんでいる自分がいたのだが、ものの数分以内に会話に飽きてしまい、今後はもう1人でランチを食べようと思った。

その後、それぞれ午後からの授業があるようであり、生協前で別れた。私は大学時代のゼミの友人と一緒に、生協とは反対側の敷地にあった講義棟に向かった。

その道中、彼は今日からブログか何かを通じて情報発信をすることに意気込んでいるようであり、私は彼を応援しようと思った。一方で、彼がどのような文章を書くのかは大体想像できたため、あまり面白くない可能性があり、さらにはどうせ長続きしないだろうというようなことを思っていた。そこで夢の場面が変わった。フローニンゲン:2020/1/13(月)08:00

5452. 自己超出体験と若々しい生命

時刻は午後3時を迎えた。今日は晴天に恵まれ、とても穏やかな太陽の光がフローニンゲンの街に降り注いでいる。そうした中、昨夜から痛めている喉の調子があまり優れず、起床直後に比べてましになったもののまだ安静が必要のようだ。

珍しく体にもだるさがあり、少々頭痛のようなものがする時がある。年末年始において心身をそれほど酷使したわけではなく、ひょっとしたら昨年1年間に堆積された体験が一つのまとまりに昇華していくときの一種の好転反応のように思えなくもない。端的には、自己涵養に不要な体験がふるいにかけられており、それが身体次元で喉の痛みや体のだるさに現れているように思えてくる。

昨夜、自己が自己の外に出ていくあの不思議な体験があった。それは数分ほど続いていた。

相変わらずこの体験は不思議だ。自己が自己を完全に超出したことによって、これまで自己だと思っていた自分が複製に思えてくるのである。そして、その複製に付帯している諸々の概念や社会的慣習などが見えてくると、幾分滑稽に思えてくる。

しばらく自己を超越したままの状態を保ち、複製としての自己を観察していた。そして再度自己に戻ってきたとき、自己の核ないしは本質とも呼べるものにまた一歩近づいた感覚があった。

この主観的体験についても様々な学問領域の知見を用いれば十分に説明できてしまうが、今はあえてそんな野暮なことはしない。今の自分に必要なことは、そうした説明ではなく、その体験そのものであり、その体験を積み重ねながら確かに自己を超出していくことなのだ。

体のだるさを押して、先ほどは近所のスーパーに買い物に出掛けた。昨日は雨が降っており、さらにはゼミナールがあった都合上、外に出ることができず、今日は少しでも外の空気が吸いたかった。

体がだるいと言っても寝込むほどでもないので、スーパーへの散歩は十分に楽しめた。その中でふと、自分の内側の感覚はどうやら15歳ぐらいの時の自分、いや10歳ぐらいの時の自分の感覚に等しいのではないかと気づいたのである。

これは未熟な感覚を今の自分が持っているということではなく、毎日の生活の捉え方、ないしは生そのものがあの当時の生き生きとした輝きを持っているということである。この気づきは、先週末のオンラインゼミナールの中で、ある受講生の方がシェアをしてくださったエピソードに触発されて得られたものかもしれない。

いずれにせよ、今の自分は若々しく、そして生き生きとした熱量に包まれた形で日々を生きており、何か特定の活動に没頭しているというのではなく、生そのものに没頭していると気付かされたのである。これは何気なく言葉として書き留めたが、自分にとっては極めて大きな意味を持つことである。

自分の生命力が常に創造を重ねながら治癒と変容を繰り返しており、生命そのものが若々しい質感を保ち続けていることに気づかされた。そうした気づきを得るために先ほど近所のスーパーに出かけたのだろうか。ひょっとしたらそのような因果があるかもしれない。

あの気づきを得るために、今日この瞬間の私はフローニンゲンにいるのだろうか。そうした因果があるかもしれない。

フローニンゲン上空の飛行機雲が、時空間を超えた因果律の流れのように思えるのは気のせいではないかもしれない。フローニンゲン:2020/1/13(月)15:12

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