本日生まれた8曲
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タイトル一覧
5120. 書道への関心:デッサン的な作曲実践
5121. 趣深い朝に:日々の時間の使い方
5122. 今朝方の夢
5123. 今朝方の夢の続き
5124. 微笑ましい世界に:自転車を漕ぐカップルとハーグに住む畏友を思い出して
5125. 排水管の詰まりが教えてくれたこと:年末の断食に向けて
5120. 書道への関心:デッサン的な作曲実践
時刻は午前6時を迎えようとしている。今、書斎の窓を開け、換気をしている。開かれた窓から、雨の滴る音と小鳥たちの清澄な鳴き声が聞こえてくる。
今日は昼前まで雨のようだが、午後からは雨が止むとのことである。午後から街の中心部のオーガニックスーパーに買い物に出かけようと思っていたのでそれは助かる。
先日言及していたように、オランダ人の友人を含め、外国人の友人に何か手紙やポストカードでメッセージを送る際に使おうと思っていた筆ペンを近々購入しよう。来週末にヴェネチアに行く前に、平日のどこかにもう一度このスーパーに立ち寄ることがあるだろうから、その際に街の中心部にあるアートショップに立ち寄ろうと思う。
一切公開していないが、作曲実践をして曲を生み出した際には、私は手元の作曲ノートに水筆色鉛筆で絵を描き、水筆ペンを使って滲み絵を描いている。このように絵を描くことも細々と毎日行っていると、言葉を通じた日記や音を通じた作曲とはまた違った形で、その瞬間の自分の内面を描き出しているかのようで面白い。
ここ最近は、書道にも関心を持ち始めていることは前にも述べた通りである。街の中心部のアートショップに書道道具が置いてあれば、書道を始めることを真剣に検討していいかもしれない。
書道を始めることになっても先生につくわけではなく、自分なりの方法で書道を楽しんでいく。幼少時代に書道を習っていたこともあり、基礎的な事柄は身についているだろうし、その時の感覚がまだ残っているのではないかと思う。
書道を通じて漢字を書くことになれば、昔の日本人が用いていた呪術的な漢字を復元するかのように描いてみたい。自分の気を漢字に込め、そこから文字本来が持つ呪術的な力を立ち込めさせるのである。そのようなことをしてみると面白いかもしれない、ということを考えている。
今日もまた作曲実践に大いに打ち込んでいこう。昨日から、手持ちの理論書を読み進めながら、そこに掲載されている譜例を基にして短い曲を作り始めた。
グスタフ·クリムトやエゴン·シーレが膨大な数のデッサンを通じて大量の習作を残しながら絵画技術を高めていったのと同様に、デッサン的な曲を大量に作っていくことを通じて作曲技術を高めたい。
とにかく、今このようにして文字を通じて自分の考えや感情、そして内的感覚を自然に表現できるまで作曲技術を高めたい。それは理想であり、望みでもある。それが実現の道を歩むにつれて、どこかで言葉よりも曲を通じての方が自分の内面世界をより精密に表現できるようになるだろう。
今日の作曲実践で参考にする理論書は、転調に関するものと、モードに関するものである。それら二冊を用いて、掲載されている譜例に自分なりにメロディーをつけたり、コード進行に工夫を凝らしながら曲を作っていく。
転調に関する書籍はコンパクトであるから、来週の土曜日から始まるヴェネチア旅行に持っていってもいいかもしれないと考えている。今日はどのような曲が生まれるのか、それが今から楽しみだ。フローニンゲン:2019/11/2(土)06:13
5121. 趣深い朝に:日々の時間の使い方
気温がマイナスに到達するかのような寒い二日間を終え、今日からはまた少し暖かさを取り戻したフローニンゲン。「暖かさを取り戻した」と言っても寒いことには変わりないが、昨日までの二日間と比較してみると随分とマシな寒さである。
今美しいさえずりをもたらしている小鳥たちも、今日からの暖かさを喜んでいるように思う。小雨の滴る音もどこか明るさがある。
程よい寒さ、小鳥の鳴き声、小雨の三者が一つになって、趣を作り出している。今この瞬間に顕現している何とも言えない趣は、それらが三位一体となったものである。
昨夜就寝前に、自分の残りの人生を何に対してどのように使っていくのかを改めて考えていた。何に対してどのように使うのかの方向性はもう見えており、どのような実践に従事していくのかも見えている。
もちろん、まだ見えていない実践に今後従事する可能性は十分にあり、自分が本当に変貌を遂げ、新たな自己が生まれたら、実践領域が変わり、従事する実践そのものが変わることは何らおかしなことではない。日記や作曲に関しては、変貌後も続けていくであろう実践であり、それは是非とも続けていきたい実践である。
言葉と音を通じてこの世界で生きる自己を表現する取り組みは、本当に一生涯続けていこうと思う。こうした実践に加えて、新たな取り組みとしてどのようなものが生まれるかは、今後の人生を生きる楽しみの一つである。
今後の取り組みへ思いを馳せながら、同時に、何に取り組まないようにする必要があるのか、つまり何に時間を使わないようにする必要があるのかも再度考えていた。今年1年間はその点を考える機会が多かったため、今は随分と無駄なことに時間を使っていない。
自分が本来果たす役割とは関係のない無駄なことに時間を使うことが本当に随分と減った。そのおかげで日記の執筆や作曲実践、さらには読書など、自分が担う活動に十分に従事することができている。
そうした日々が実現されているのは喜ばしいが、一日をもう少し細かく見てみると、まだ私は自分が従事しなくてもいいことに時間を使っていることが多少なりともあるように思える。今後はそうした無駄なことに時間を使わないようにより意識をしていき、それらに従事しないための仕組みを作り、その仕組みを回すことを習慣化させる。
ここで述べている無駄なことというのは様々な種類があるが、それは実践や人生を深めてくれるための迂回的な無駄のことを指しているのではなく、他者や社会が不必要に絡む本当に意味のない事柄のことを指す。自分の実践や人生を深めてくれる意義ある無駄は今後も継続的に行いたい。
それはもはや「無駄」という言葉で表現するのは適切ではないかもしれないが、いろいろな寄り道をしながら日々を過ごしていく。ゆとりと落ち着きの中で寄り道をしながら実践と人生を深めていこう。その一方で、自分が不必要だと思う無駄は根こそぎ排除していこう。
昨夜は、例えばある一つの無駄なことを取り上げ、それに年間何時間従事しているのかを計算するということをいくつかの無駄なことに対して行っていた。下手をすると、それを10年間続けていれば、何か一つの領域で専門家になれてしまうのではないかと思えるぐらいの時間を投じているものもあった。
今一度、自分はこの人生で何をなすことを役割として与えられているのかを考えよう。それを冷静に考えると、いくつかの無駄なことに時間を投じるのは本当に惜しいことがわかる。
この世界には時間泥棒や時間殺人者がたくさんいることに注意しなければならない。それは人の形を取ったものもあれば、社会の仕組みとして存在しているものもある。そうした人や社会とは断固関わらないという態度を堅持したいものである。フローニンゲン:2019/11/2(土)06:35
5122. 今朝方の夢
あと何年何日この場所で生活をするのだろうか。フローニンゲンでの生活も4年目を迎え、当初の予定では1年でこの地を離れることにしていたのが嘘のようだ。
人生は本当に何が起こるかわからない。今のところ、やはり来年にライデンに引っ越すことは保留にし、引き続きフローニンゲンで生活を送っていこうと思う。
ライデンは空港に近くで便利な街だが、来年はオランダ南部で生活をする時期ではないような気がしており、引き続きオランダ北部で生活をしていく。南部には人が多く集まる都市がいくつも存在しているが、それが故に私はオランダ南部で生活することを踏みとどまっているのかもしれない。
とにかく平穏で落ち着きのある場所で生活をしていくこと。次の居住地はより慎重かつ大胆に検討をしたい。
時刻は午前7時に近づきつつあるが、まだ夜が明けぬフローニンゲン。窓ガラスが雨滴で濡れ、小雨の音と小鳥のさえずりだけが辺りに響いている。
早朝の作曲実践に取り掛かる前に、今朝方の夢について振り返っておきたい。夢の中で私は、日本と欧州のどこかの国が混在した街を歩いていた。その街は、それほど人が多くなく、過度にビルなども建っていなかったため、それほど嫌な感じを私にもたらさなかった。
しばらく道を歩いていると、左の方から誰かが私に英語で話しかけてきた。そちらの方を向くと、メキシカンの小柄な男性だった。
その男性は、これから特急列車でシンガポールまで行きたいとのことであり、列車が発車するプラットフォームの番号を教えて欲しいと私に述べた。ちょうど私も駅に向かっている最中であり、過去に一度その列車を使ったことがあったので、なんとなくプラットフォームの番号を覚えていたが、それは定かではなかった。
そのため私は、少し幅を持たせて、「確か、1番から3番あたりのプラットフォームだったと思います。確実に5番以降ではないですね」と述べた。するとその男性は嬉しそうな笑顔を浮かべ、私にお礼を述べた。すると、そこから彼は日本語を話し始めた。
メキシカンの小柄な男性:「日本人の方ですか?」
私:「ええ、そうです。日本語がお上手ですね」
メキシカンの小柄な男性:「ありがとうございます。大学で日本語を習っていたんですよ」
私:「そうでしたか。日本語を学ばれたきっかけは何だったんですか?(彼の日本語は確かにうまかったが、まだネイティブの日本語運搬能力とは差があるようだったので、できるだけゆっくり話すようにした)」
メキシカンの小柄な男性:「日本を好きになったきっかけですか?もう一度···」
私:「いえ、どうして日本語を学ぼうと思われたのですか?」
メキシカンの小柄な男性:「実は大学時代に日本人の友人がいまして、彼の影響です」
そのようなやりとりをした後、その男性は、日本語を学ぶきっかけとなった友人について話をしてくれた。どうやらその友人は、大学に入学してすぐに、お洒落なオーガニックレストランを経営し始めたそうだ。
だが毎年赤字続きで、数年後にようやく黒字になろうかという年に急逝してしまったとのことだった。日本人の大切な友人を亡くしてしまったことにより、彼ともっと日本語で話をしておけばよかったという後悔の念が生まれ、彼との思い出を風化させないためにという理由から日本語を真剣に学び始めたそうだ。
そうした話を聞いたところでちょうど私たちは駅に到着し、その場で別れた。私はこれから埼玉県のある市に向かうことになっていた。
ちょうどそこは、友人が住んでいる市であり、過去に何度もその市には足を運んでいたため、どの列車に乗ればいいのかは把握していたつもりだったが、その駅がどこか見慣れないものに思えた。念のため駅員の方に尋ね、乗るべき列車のプラットフォームを教えてもらった。
なぜかエスカレーターを下る際に、エスカレーター脇に雨が滴り落ちていて、雨にかからないように注意する必要があった。エスカレーターの半ばに差し掛かった時に、ちょうど列車がプラットフォームに到着していることに気づいたので、私は少し急ぎ足でエスカレーターを下り、列車の開いているドアから中に入った。
すると、予想外に電車が混んでいることに驚いた。立っている人はいないのだが、国外で生活している者からすると、列車に空席がないことが珍しいことに思えたのである。
私は空いている席を探しながら車内を歩いていると、まず一つ空席を見つけた。だが、その横には男性がゴロリと横になっていて、何かぶつぶつと独り言を述べていた。その姿を見た時に、その男性は精神異常者だとわかり、彼の近くに座ることをやめた。
そこから車両を変えて移動していると、ようやく一つ席が空いていることに気づき、そこに向かおうとした。すると、私の背中を押し、私を払いのけるかのようにその席に向かおうとする人がいた。
私はその人の存在に気づいていたが、あえて気づかないふりをして、前に行かさない形で空いている席に座った。すると後ろから追い越そうとしていたのは、中学生ぐらいの小さな少年であることがわかった。
ちょうど私が座った席の真ん前にも中学生の男の子が座っていて、どうやら私を追い越そうとしていた彼は、その男の子と友達のようだった。また彼は、空いている席に座ろうとしたのではなく、その男の子に話しかけに来たようだった。私は悪いことをしたと少し思った。
すると、彼は特段それを気にしているわけではなさそうであり、私の目の前の男の子と話を始めた。そして、元々彼が座っていた席に戻っていった。
すると、私の目の前の男の子が携帯を取り出し、それについて私に話をしてくれた。どうやら新機種の携帯らしく、容量と処理速度がコンピューター並みになっているとのことだった。
また、ある暗号資産とも連携している製品らしく、その暗号資産のプロジェクトのロゴが携帯に掲載されていた。しばらく私は、その子との会話を楽しんでいた。フローニンゲン:2019/11/2(土)07:10
5123. 今朝方の夢の続き
時刻は午前7時を迎えた。ようやく空がダークブルーに変わり始め、新たな一日の始まりを告げ始めた。幸いにも小雨が止んだようだ。
起床直後に引き続き、小鳥たちが清澄な鳴き声を高らかに上げている。その泣き声は辺りに響き渡るだけではなく、天高くに上昇しているかのようだ。
つい先ほどまで今朝方の夢について振り返っていたのだが、夢にはまだ続きがあったことを思い出した。覚えている範囲のことを全て書き切ってから早朝の作曲実践を始めたい。
夢の中で私は、ある二人の男女がパラシュートで空高くから降りていく姿を眺めていた。そう、夢の中の私は夢を眺める者としてそこに存在していたのである。
その二人の男女がどのような経緯でパラシュートを使って空から降りてきたのかはわからない。だが何となく、どこかから脱出したのだということはわかった。それは空の国かもしれない。
最初二人は、同じような場所を飛んでいたのだが、ある時風向きが変わったのか、二人は離れ離れになった。男性の方は無人島のような方向に向かって落ちていき、女性の方は大きな都市の方に向かって落ちていった。
するとまず私の意識は男性の方を追いかけており、男性は無事に無人島のような場所に着陸したことに気づいた。その男性は、ひとまず無事に大地に降り立ったことを喜んでいたが、「何を喜んでやがるのかな?」という低い声がした。
声の方を見ると、骨だけの大きなクロコダイルがそこにいた。そのクロコダイルは人間の言葉を話せるようだった。
その姿は不気味であり、明らかに人間を襲うような見てくれをしていたのだが、私はあまり恐怖心を感じなかった。クロコダイルからずっと離れたところの後方には、これまた骨だけの巨大な恐竜がいて、それも人間を襲うような種類だとわかったが、それを見てもあまり恐れの感情を抱かなかった。
クロコダイルを前にした男性の表情を見ていると、私と同じことを感じていたようだったので、とりあえずこの男性は大丈夫だろうと思った。そこで私は、もう一人の女性のことが気になり、そちらに意識を向けてみた。
すると、私の意識は移動し、その女性が降り立った街に向かった。不思議なことに、その街とその無人島は意外と近い距離にあることがわかった。空を飛んで移動すれば、ほんの数分の距離であった。
街に降り立った女性を見つけようとすると、すぐに見つけることができた。するとそれまでは夢を観察している意識としての私が、夢の世界の中に入り込んでしまった。
私はその女性の目の前に立っており、その女性に話しかけた。見るとその女性は、まだ若いある有名な画家だった。
私はその方に、無人島に着陸した男性の状況を伝え、その無人島がどこにあるのかも伝えた。そしてその無人島は、ここからそれほど遠くないということを伝えた。
するとその女性は、無人島の場所を教えて欲しいとのことだったので、私は場所を教えるだけではなく、そこへは空を飛んでいく必要があったので、飛んで連れて行ってあげましょうということを述べた。すると、その女性は嬉しそうな表情を浮かべ、そこから私はその女性の手を取り、手を繋いで空に上昇した。
すると、街の上空は風が強く、繋いだ手が離れそうになってしまった。手が離れて彼女が地上に落下することを防ぐために、私は彼女を抱き抱えることにし、その姿勢のまま空を飛んでいくことにした。
そこで私は、自分の意識が先ほどまであちらこちらを移動しており、移動していたのは意識だけなのだが、ひょっとすると汗をかいているかもしれないと思い、念のため汗臭くないかをその女性に確認した。するとその女性は笑いながら、汗臭くはないと述べ、私も笑った。フローニンゲン:2019/11/2(土)07:32
5124. 微笑ましい世界に:自転車を漕ぐカップルとハーグに住む畏友を思い出して
この世界には残虐なことが多々あるが、同時に微笑ましいことも多々ある。ちょうど今、バイオダイナミクス農法で作られた四種類の麦のフレークに豆乳とハチミツ、そして大匙一杯のピーナッツバターを加えたものを食べ終えた。
ここのところは午前中には果物だけを摂り、昼時にはビタミン豊富な麦類のフレークを食べている。これがまた美味であり、日本に一時帰国した際に実家で両親がオーガニックのオートミールを食べていたおかげでこうした麦類のフレークに出会えた。
質素ではあるが、そんな美味の軽食を食べていた時に、一つ微笑ましいことがあった。午前中の早い段階に雨が止み、しばらくは晴れ間が広がっていたのだが、昼食どきになると突然激しい雨が降り始めた。
外にいた通行人が思わず雄叫びを上げてしまうぐらいに激しい雨だった。私は激しく降り注ぐ雨を眺めながら、雨の美しさに見入っていた。
しばらくするとまた雨が止み、変わった自転車で通りを走っていくカップルを見た。この自転車はあまり日本では一般的ではないため、説明が難しいのだが、車体がとてつもなく低く、それでいて運転席が前に二つあり、二人で自転車を漕ぐタイプのものだ。車体が高く、前後にペダルがあるものなら想像しやすいかもしれないが、そのタイプのものではない。
カップルの二人は、晴れ間が見えた空の下、笑顔で自転車を漕いでいた。私はもちろんそれを見て微笑ましく思ったのと同時に、「全然進んでないじゃないか!笑」と思わず独り言を述べた。
二人は一生懸命にペダルを漕いでいるのだが、進む速度が極めて遅く、思わず笑ってしまったのである。それを見て私は、「私たちの人生というのは、あのように空回りしながらでも前に進むものなのだ」と納得してしまった。そんな微笑ましくも、教えに満ちた光景を目にした。
私は現在、数年前から付き合いがあり、前回のオンラインゼミナールにも参加してくださった二人の友人の方のブログを毎日楽しみに拝読している。二人に対しては大変敬意を評している。
一人の友人はオランダのハーグに住んでおり、想像するに、同じような想いで異国の地で生活をしているように感じている。その方のブログを見ると、そうしたことがひしひしと伝わる。
昔から私は、敬意を表する人に対して、敬意とは似ても似つかない言葉でその人を捉える傾向があり、逆にそのおかげで親しみが増すということがある。その友人は女性であり、尚且つ異国で暮らす同志かつ尊敬している人なのだが、あえて親しみを込めて思い浮かんだ言葉というのが、「惰眠を貪る食いしん坊」だった。
自分でもその言葉が突発的に自ずから出てきた時には驚いた。その言葉は、一般的に見れば失礼極まりない言葉だが、私にとってはとても人間味のある可愛らしい言葉である。逆にその方が自分をどのような言葉で捉えているのか今度聞いてみようかと思う。
その方も食に関してかなり気を遣っており、色々と試行錯誤をしているようであり、その過程と奮闘ぶりがわかる日記を読むたびに、上述の言葉が芽生えて微笑ましくなる——おそらく本人は真剣に食と向き合おうとしているのだと思うが。
実は私は、食実践を今の自分にとって健全なものに変えていくに際して、食に関する自分の無意識的な抑圧や幼少期の頃の体験などを思い出すようにしていた。これは前回実家に帰った時にも母から聞いた笑い話なのだが、私は幼少期の頃、一人っ子とは思えないほどに食に関してがめつかったそうだ。
今、「がめつかったそうだ」と推量形で書いたが、数々のエピソードを覚えている。今はそれについて一つ一つ列挙することはしないが、いずれにせよ、幼少期の頃には食にがめつくなる何かしらの力ないしは抑圧が存在しており、私はその根源を辿っていくということをしばらくの間行っていた。
そうしたことを続けていると、自然とそうした抑圧が紐解かれていき、自然な形で今の自分にとって健全な食生活が実現された。それは全く無理のない形で本当に自然になされる食実践だ。
ちょうど先日、その友人と二人に共通の友人の方がフローニンゲンに遊びに来てくれることがあった。一緒にボルダリングを楽しみ、カフェでくつろぎながら楽しいひと時を過ごしたことが懐かしい。
実はその頃からすでに上述の言葉でその友人を認識しており、「意外と食いしん坊」という点を微笑ましく思っていた。これはぜひ今度、その友人に尋ねてみたいのだが、実はカフェで私はある実験を思いつき、それを行ってみた。
ちょうど私は、日帰り旅行の時や数日程度の旅行の初日に食べるプロテイン豊富のクラッカーをその時持参していた。ちょうどボルダリングを終えた後だったので、その8枚入りのクラッカーのうち、二人の友人に1枚ずつ渡した。
それは紛れも無く善意に基づく行為だったのだが、女性の友人に1枚を渡した時に、ある実験観察をしてみようと思ったのである。それは何かというと、意識的にせよ無意識的にせよ、直感的にその方に付した上述の言葉が正しければ、必ず後ほどもう1枚クラッカーが欲しい目をするだろうという考えが芽生え、その瞬間を目撃したいと思ったのである。
それはとてもいじらしい実験なのだが、私はその結果が気になってしょうがなく、そしていかなる結果を迎えるかが楽しみであった。そこから私たちは各々カフェで注文した飲み物を飲みながら、楽しく会話をして過ごしていた。
もう一人の男性の友人は、特にもう1枚クラッカーを欲しがるような目を見せず、それもまた自分の当初の考え通りだった。ちょうどその前に、その友人は「ドイツではついついポテトチップスを食べながらビールを飲んでしまうことがよくあったんですよ」という話をしていたが、その方に対しては「食いしん坊」という言葉が芽生えることはなかった。
数年前にも二人はフローニンゲンまで遊びに来てくれ、その時はドイツからわざわざ車で来てくれた。その時も時間を忘れるかのように話をしており、先日もまたそうした形で時間が過ぎていった。
そして、ついにその瞬間がやって来た。女性の友人がついに私の手元にあるクラッカーを見たのである!——私の目にはそのように見えた。
その8枚入りのクラッカーは見た目は大した量ではないように見えるのだが、実際にはプロテインを含めた栄養が豊富であり、カロリーも多い。8枚のうち6枚食べただけでも今の私にとっては一食分になりそうなぐらいのボリューム感がある。
そうであれば、6枚のうちもう1枚ずつを二人にあげても良いかと思ったのだが、私はあえてそれをしなかった。それは二人が食に対して無意識的に見せる反応の違いを確かめたかったのである。
この点はぜひその友人に確認したい。私はカフェで思わず笑そうになり、それを堪えていた。というのも、彼女が見せた仕草は、「もう1枚クラッカーが欲しいなぁ。加藤さんもう1枚くれないかなぁ〜」というな気持ちが滲み出た、3歳児ぐらいの可愛らしくも物欲しげな表情だったからである。
その表情を見た瞬間、私は思った通りの反応だと思って笑いが込み上げてきて嬉しくなってしまったのだが、その時はそれを悟られないようにして会話を続けた。
その友人とは以前にコーチングの交換セッションをしており、こうした話も笑いながら共有できるとは思うのだが、食に関して人は意外と無意識的な反応をしてしまい、それはもしかすると、幼少期の何らかの体験に基づいているものなのではないかと考えさせられる。
その方には、お兄さんと妹さんがいるらしく、もしかすると一人っ子の私とは違った形で、何か食に関する出来事が幼少時代にあったのかもしれないと想像していた。そのようなことを想像しながら麦類のフレークを食べ終える頃には燦然と輝く太陽の光がフローニンゲンの街に降り注いでいた。世界は本当に微笑ましい。フローニンゲン:2019/11/2(土)13:19
5125. 排水管の詰まりが教えてくれたこと:年末の断食に向けて
今日は早朝に雨が降り、正午にも突発的な雨に見舞われたが、午後からは晴れ間が顔を覗かせ、総じてとても穏やかな土曜日であった。午後に街の中心部のオーガニックスーパーに行き、必要なものを購入した。
先日言及したように、このスーパーの真ん前の映画館で、ちょうど1週間前の朝に殺人事件があった。犯人は犯行後、その横のサンドイッチ屋で数時間ほど休憩をしていたそうだ。
映画館にせよ、そのサンドイッチ屋にせよ、1週間も経てば以前と何も変わらずに営業がなされている点がどこか不気味に思えた。道ゆく人たちも、この場所で殺人事件があったり、犯人が休憩をしていたことを知っているのかいないのか、全く何も気にしない様子で普通にその前を通ったりしている。
あのような残虐な事件がいともたやすく風化してしまうことを私は恐れる。現代人は本当に、何が異常で正常なのか、何が日常で非日常なのか、そのあたりが錯綜してしまっているのではないかという不安を私は持つ。
買い物から自宅に戻ってきて手洗いうがいをすると、排水溝に流れる水がゆっくりであることに気づいた。これまでこうした事態に見舞われると、私はすぐに不動産屋に連絡をし、いつもお世話になっている便利屋に来てもらっていた。
だがちょうど前回便利屋に来てもらった時、彼と私はもう長い付き合いであることもあって、彼が作業をする様子をそばで見させてもらうことにした。その時私は、「なるほど、排水管の詰まりはそのように直すのか」と理解した。
そのため今回は、自分で排水管の詰まりを直してみようと思ったのである。端的には、排水管の曲がり角あたりにヘドロが付着し、そのヘドロが流れを滞らせているのである。
そのため、それを取り除き、排水管をきれいにすればいいとわかっていた。実際に排水管のネジを手で回していき、排水管が外れた瞬間にヘドロが床に流れ出てしまうことは過去の観察からわかっていたため、使わない古びた鍋でヘドロを受け、無事に排水管を綺麗にすることができた。
排水管からヘドロを取り出す作業と、排水管の中をブラシで磨くことに時間を要したが、これらの日曜大工的なことが自分一人でできたことに幾分誇らしくなり、誇らしさを感じた自分に対して微笑ましく思った。次回からも自分で排水管の詰まりを直すことができることを嬉しく思う。
次回に向けて少しばかり覚えておきたいのは、排水管のプラスチックのネジを回すことにコツがいるということであり、そのコツをうまく掴めていないと、しっかりと排水管が固定されず、水が漏れてきてしまうことが今回わかった。こうした学習事項をきちんと頭に入れておこう。
そこから私はヘドロをトイレに流し、トイレも合わせて綺麗にした。そこでふと、「新しい年を迎える前に、年末近くに一度断食をしよう」と思ったのである。
以前言及したように、自宅の水回りの汚れは口内環境の汚れと対応しており、排水管の詰まりは胃腸のような消化管の詰まりと対応していると思った方がいいかと思う。そこからさらに拡張させて考えると、そうした物理的な環境の汚れは、自分の心理的な内面環境の汚れにも繋がっているように思えるのである。
そうしたことから、こまめに水回りや、それだけではなく部屋全体を綺麗にすることを心掛けることは大切かと思われる。少なくとも汚れが自然と溜まりやすい水回りやトイレの掃除は定期的にして行こう。
今回排水管が詰まったことを受けて、いくら食生活に気をつけているとはいえ、食生活や運動だけを通じてデトックスできないものがそろそろ自分の身体に蓄積しているのではないかと考えた。排水管の詰まりというメッセージを受けて、来月に数日間ほどの断食をしようと思う。
前回断食をしたのは随分と前であり、監訳書の最初のレビューをする時だったと思われるため、もう7~8ヶ月前のことになるだろうか。今回は前回のように1週間ほど断食をする必要はなく、3日ぐらいに留めておこうかと思う。調子を見て、5日ぐらいの断食を敢行しようかと思う。フローニンゲン:2019/11/2(土)17:01