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4157-4164:フローニンゲンからの便り 2019年4月15日(月)


タイトル一覧

4157. 断食四日目の早朝に

4158. 全ての活動の根幹にある身体を支える食事

4159. ピカソから励ましをもらう夢:西海岸時代のルームメイトが現れる夢

4160. オランダ語への関心の再燃

4161. 郷に入っては郷に従え:外国で外国語空間に浸る意義

4162. 今朝方の夢の続き

4163. 断食四日目の夕方に:音楽的な集合意識としての「音の海」

4164. 仮眠中のビジョンと超越・包摂運動

4157. 断食四日目の早朝に

今朝もまた三時あたりに目が覚めたが、そこで起床するのではなく、結局五時を回ったところで起床した。すると、私が起床したのとほぼタイミングを同じくして、小鳥たちが鳴き声を上げ始めた。

闇の世界の中に、小鳥たちの清澄な鳴き声がこだましている。今日から断食四日目を迎える。

前回断食を行った期間は三日間であったから、今日からの世界は初めて足を踏み入れるものとなる。断食三日目と同様に、今朝もまた心身の状態は良好だ。

ただし、起床した直後に、いつもと同じように立ち上がったところ、血が頭から全身にいきなり降りてしまったからか、立ちくらみのようなものを少し感じた。それを受けて今日からは、一つ一つの動作をゆっくりと進めることが大切だと思った。

おそらく今日からは、昨日以上に脳と体がケトン体で動き始めるのだと思う。起きてすぐに自分のふくらはぎを見ると、無駄な脂肪が削られており、血管がこれまで以上に浮かび上がっていた。

それを見て、脂肪を燃焼する形でケトン体を作ろうとしている自分の身体の動向を窺うことができた。これと同じことが身体の他の部位の脂肪で起きていることが予想される。

日中の動作に関しては一つ一つゆっくりと進めていくことが大切だが、思考運動に関してはこれまで以上に冴えたものになるのではないかと思う。断食をして集中力が高まるというのはよく言われていることだが、これは実体験上本当だと思う。

一昨日、昨日の二日間に集中的に監訳書のレビューを行えたこと、そしてそれに加えて、日記の旺盛な執筆、集中的な読書、作曲実践に従事することができたことがそれを裏付けている。監訳書の本文のレビューが無事に完成したため、後は注釈の初校を待ち、それが近日中に届いたら、そちらのレビューも集中して進めたいと思う。

この件に関しても編集者の方に、半ば冗談交じりで(当人は真剣だが)、断食中に注釈の初校を送っていくださいとお願いしておいた。一応こちらの要望として水曜日までに送ってもらうようにお願いし、仮に日本時間の水曜日の夜に届いたら、断食を終了する木曜日の朝から集中してレビューをしたいと思う。注釈のレビューは一日あれば十分かと思う。

この二日、監訳書のレビューに多くの時間を充てたので、今日は他の活動に多くの時間を充てていく。具体的には、読書と作曲実践に多くの時間を充てたい。

読みたい本については、ここ数日間に列挙したものであり、だいたいが音楽関係のものである。読書と作曲実践を行き来することによって、今日の多くの時間を過ごしていきたい。

今日は午前中に一件ほど協働プロジェクト関係のミーティングがあり、一年以上温めてきたプロジェクトがようやく形になろうとしていることは大変喜ばしい。それは再来月から本格的に動き始める予定のものだ。

今回は人間発達に関する新しいテーマと領域を扱うプロジェクトであるから、これからがとても楽しみだ。

今週はその他にも一件ほど、別の協働者の方とオンラインミーティングがある。ちょうど先月落ち着いたプロジェクトに引き続き、新しいプロジェクトを今年度も行うことになり、そちらの協働も非常に楽しみである。

今の私は、着実に、そして絶えずこの世界になんらかの形で関与している実感があり、そうした実感を生み出してくれているのは協働者の方々のおかげであり、協働プロジェクトのおかげだろう。自分がこれまで学んできたことは、実践の中で活用して初めて個人的・社会的に意味のあるものになるのだということを改めて感じる。フローニンゲン:2019/4/15(月)06:04

No.1858: Floating on the Ocean of Life

This morning is extraordinarily peaceful. Today is the fifth day of my fasting.

The peacefulness of the external world synchronizes that of my internal world. Groningen, 08:46, Tuesday, 4/16/2019

4158. 全ての活動の根幹にある身体を支える食事

今朝もまた味噌汁を一杯飲んでいる。街の中心部のオーガニック食品専門に昨日足を運んだ時、切れかかっている玄米味噌を新しく購入した。その際に、私が購入したので最後だった八丁味噌が新たに幾つかストックされていた。

意外にも、オランダの地における味噌の売れ行きは良く——この店だけの現象かもしれないが——、中でも八丁味噌や玄米味噌の人気は高いようだ。

繰り返しになるが、味噌汁というのは日本が誇る酵母ドリンクであり、その酵母の質にこだわることは非常に大事であるとつくづく思う。世の中では、劣悪な酵母や酵母が化学物質によって死滅しているものが売られているのだから、それには注意が必要である。

昨日も改めて、心や精神を司る身体という器が健全なものでなければならないことについて考えていた。ちょうどウィルバーの監訳書をレビューしていたからか、まさに身体という物質圏を司る低次のホロン階層がしっかりしたものでなければ、その上に積み重なっていく精神圏などが全てなし崩し的に崩壊してしまう。

世間では自己の治癒と変容に関して、サイコセラピーやコーチング、あるいはエネルギーワークのようなものが盛んに実践されるようになってきているが、そうしたことを行うよりもまず先に、食生活の見直しと改善を行わなければならないように思う。

それは上述の通り、サイコセラピーやコーチングの多くの手法が行うように、精神圏に対して働きかける前に、そしてエネルギーワークのような高次元の身体に働きかける前に、その土台となる物理的・肉体的な身体を健全なものにしていく必要があるからである。

食というのは調べてみれば調べてみるほどに、そして食生活を改善すればするほどに、身体の活動エネルギーの質と量に驚くほどの影響を与えることがわかる。まずは食事を通じて適切な量のエネルギーを確保し、良質なエネルギーを身体に巡らせておくことが先決であり、自己の治癒と変容はそこから始まるように思える。

適切な量のエネルギーと良質なエネルギーを確保することができたら、それに並行して、グロスのボディワークを緩やかに実践していくことが大切だろう。私が実践しているのは、激しい運動というよりも、ヨガやゆっくりとしたウォーキング、自分の体重を活用した適度な負荷がかかった筋力トレーニングなどである。

食事の抜本的な見直しと、こうしたグロスのボディワークを継続させていくことによって、それが心身へ好影響を及ぼし、日々の活動に思う存分に従事することができている。自己の治癒と変容に向けての実践は、様々な領域(ボディ、マインド、スピリット、シャドーなど)と様々な種類があるが、何はともあれ全ての実践の根幹をなす身体の活動エネルギーとなる食事を見直すことが真っ先に優先されるべきであることを、この歳になってようやく気付かされたのである。

これまでの私は、確かに食事に配慮しているつもりであったが、勉強が全くもって不十分であり、無知は心身を滅ぼしかねないという怖さを改めて知った。今後も引き続き、食に関する学習と実践を続け、個人的な実践のみならず、そこで得られた知見を何かの形で世に共有していければという思いがある。

また、先日の日記で書き留めたように、オーガニック食品を扱うオランダ企業、ないしは欧州企業への投資を真剣に考え始めている。フローニンゲン:2019/4/15(月)06:24

No.1859: A Sketch at Dusk

Today is also gradually approaching the end.

The sixth day of my fasting will begin tomorrow. Groningen, 17:38, Tuesday, 4/16/2019

4159. ピカソから励ましをもらう夢:西海岸時代のルームメイトが現れる夢

今朝方の夢についてまだ振り返っていなかったので、その振り返りを行っておきたい。

昨夜は就寝前に、パリの国立ピカソ美術館で購入した、ピカソのドキュメンタリーDVDを視聴していた。二時間弱のドキュメンタリーのうち、半分ほど視聴したところで就寝した。

その影響があってか、最初の夢はピカソの絵に関するものだった。夢の中で私は、絵画を制作するためのアトリエの中にいた。それはオランダではなく、フランスかスペインの片田舎の町のアトリエだった。

そこで私は絵を描いており、描いている最中に、「この絵はピカソの絵にそっくりだ」と驚きを持ちながら思った。すると突然、私の横にピカソ本人が現れ、「なかなか個性的な絵だ」と述べた。

私からしてみれば、自分が描いた絵はピカソの作品の模倣品に過ぎないように思っていたのだが、ピカソは私に対して、その絵には私の個性が滲み出していると言う。それを聞いて私は励ましを受けたように思え、そこから引き続き絵画の制作に没頭した。

最初の夢はそのような内容だった。ピカソが夢の中に現れたのは初めてのことであり、これは間違いなく、就寝前に見ていたドキュメンタリー番組の影響だろう。

だが、この夢は重要なことを示唆しているように思う。それは何かというと、現在私が行っている作曲実践と照らし合わせてみたときに、仮に過去の芸術家の作品を参考にして創作活動を営んだとしても、形として出来上がったものの中には、少なからず自分の個性のようなものが滲み出すということだ。

まさに夢の中のピカソはそれを指摘してくれていた。このことは、少なくとも10,000曲作るまでは、過去の偉大な作曲家に範を求め続けようと思っている今の自分に対する大きな励ましとなった。この励ましを受けて、今日からも地道な実践と学習を継続させていく。

次の夢の中では、私はサンフランシスコ時代に住んでいた家にいた。当時は、私よりも15歳ほど年上のスコットという日本語の話せない日系三世のアメリカ人とルームシェアをしていたのだが、なぜか夢の中の家では、ロサンゼルス時代のルームメイトがいた。

その方は日本人であり、私よりも20歳近く年上の女性である。私が家に帰宅すると、まだルームメイトは帰ってきておらず、その代わりに家のオーナーの女性がいた。

私はてっきり、ルームメイトがこの家のオーナーだと思っており、二人オーナーがいることをその時に初めて知った。私とオーナーは初対面であったから、お互いに自己紹介し、リビングのソファに腰掛けながらしばらく話をしていた。

話を聞きながらわかったのは、どうやらこちらのオーナーは、私のルームメイトとあまり仲が良くないということだった。共同でこの家を管理しているはずなのに、あるいはそうだから、はたまた他の要因からか、二人が不仲であることを不思議に思った。

しばらく話をしていると、ガレージに車が入ってくる音が聞こえ、ルームメイトが帰宅したのだとわかった。すると私たちは立ち上がり、キッチンの方に向かって、テーブルの上に置かれていた和菓子の箱を開け始めた。

それはオーナーが持ってきてくれたものであり、オーナーは私にあんこ餅が入ったお菓子を一つ手渡してくれた。私がそのお菓子の包みを開けようとした時、部屋につながるガレージの扉が開き、ルームメイトが部屋に入ってきた。

すると、先ほどまで明るい表情だったオーナーの顔が曇った。そんなオーナーに対して、ルームメイトはオーナーに話しかけ、開口一番、「私、日本に帰ることになったの」と述べた。

どうやらこの物件の所有権を手放すとのことであり、今使っている車も売却するとのことだった。突然のルームメイトからの話に、オーナーも驚いていたが、ルームメイトが日本に帰ることを知って内心喜んでいるようだった。

私はルームメイトに、「日本のどちらに帰るんですか?」と尋ねた。すると、最初私は聞き間違えてしまったが、どうやら千葉に帰るらしい。しかしよくよく話を聞いてみると、ルームメイトは日本で生活することに伴う精神的息苦しさを前々から強調していたこともあって、物件の所有権を手放すとは言いながらも、結局またロサンゼルスに戻ってくるとのことだった。

それを聞いて、オーナーの顔が再び曇ったのを見たところで夢の場面が変わった。フローニンゲン:2019/4/15(月)06:46

4160. オランダ語への関心の再燃

時刻は午前七時を迎えた。今朝は空に雲がかかっているが、雲の切れ間から朝日の輝きがうっすらと見える。

小鳥の鳴き声と、昨日から聴き始めたフリードリヒ・グルダが演奏するバッハの平均律クラヴィーア曲集を聴きながら、今日の活動にゆっくりと従事したいと思う。

昨日の午後にオーガニック食品専門店に訪れた時、会計をしている最中に、二、三オランダ語で店員とやり取りをして最後にレシートの有無を聞かれ、それに対してもオランダ語で返答したのだが、最後の最後に全く聞き取れないセンテンスがあり、店員の女性は優しい笑みを浮かべながら、英語で説明をしてくれた。

どうやら、スタンプを集めてオーガニックの卵がもらえるキャンペーンを行っているらしく、そのキャンペーンに参加するかどうかの話だった。私は、「卵はできるだけ食べないようにしているんです」と英語で述べると、「それではこのキャンペーンはあなたに必要ではありませんね」と笑顔で英語で答えてくれた。

店から出た後に自宅に戻っている最中、店でのこのやり取りがどうも忘れられず、やはりオランダ語を真剣に学びたいという気持ちになってきた。私はフローニンゲンにやってきた最初の年に、フローニンゲン大学が提供する初級のオランダ語コースを修了し、その初級レベルのオランダ語しか持ち合わせないままこの三年間オランダで過ごしてきた。

もちろん、この国は英語が話せれば基本的に不自由はしないのだが、それは「不自由がない」というだけであって、決して「自由である」という意味ではない。オランダという国の真の良さを味わい、この国の問題を冷静に見極めるためには、オランダ語の習得は不可欠であると改めて思う。

今の私はオランダ語を習得しているとは言えないのだが、なぜか帰り道、今後仮に他の欧州諸国で生活をすることになれば、そこの国の言葉を習得しようという気持ちが芽生えた。例えば、フィンランド語やノルウェー語、仮にスイスで生活をするのであれば、ドイツ語とフランス語などである。

これまでの人生で私は色々な場所を転々としてきたが、やはり一番話すことができるのは日本語の標準語、次に英語、今となってはその次に山口弁、その次にオランダ語、最後に関西弁だと思われる。社会人時代に二年間ほど大阪で生活をしたのだが、関西弁に関してはオランダ語よりも身につかなかったと思われる。

ここからは、少しずつオランダ語を学んでいきたいのだが、その手段をどうするかを少し考えている。話すことを主眼にしたいと思う一方で、オランダ語の読解力も高めたいという思いがある。

最初に私がアメリカで生活をした時に失敗したなと思ったのは、当時大学院に留学していたこともあってか、読解力を高めることばかりに集中していたことである。その際に、テレビでニュースを見るだとか、アメリカのテレビドラマを見るようなことは一切なく、最初の一年間は、英語のスピーキングとリスニングの伸びが遅かったように思う。

そうしたことも踏まえて、オランダ語のニュースやテレビドラマを見るというのは良い手段かもしれない。だが、番組として面白いものがあるかどうかというのが問題であり、自分の関心を引かないものをいくら視聴していても、オランダ語の力は高まらないように思う。何よりも、コンテンツが面白くなければ、学習が続かない。

以外と、オランダ語で放送されている子供向けのアニメなどが面白いかもしれない。それに付随して、オランダ語の読解力を高めていくためには、まずは絵本から入ってみるのも手だろし、ゆっくりとオランダ語を味わうという意味では、短い詩集を購入してみるのもいいだろう。

意外と幼児向けの絵本というのは、大人が読んでも面白く、大人の想像力を開いてくれるものになりうるのではないかと思う。また、オランダ語の絵本を読むことは、オランダ文化の背景にあるもの、ないしは絵本の背後にあるオランダ固有の神話構造やナラティブ特性のようなものを理解することに有益かもしれないと思う。

絵本に関しては、街の中心部の書店に行って良いものがないかをちょっと見てみよう。また、オランダ語の短い詩集に関しては、行きつけの古書店のオーナーのテオさんに相談してみよう。フローニンゲン:2019/4/15(月)07:19

4161. 郷に入っては郷に従え:外国で外国語空間に浸る意義

よくよく考えると、今日は月曜日だ。今日が何曜日であるかを知るために少しばかり考えなければならないというのは非常に面白いことだ。

こうした状態こそ、ある意味健全な時間感覚の中で生きていることの証かもしれない。平日と休日の区別があるのは人間ぐらいであり、今鳴き声を上げている小鳥たちに平日と休日という二元論的発想はない。

私たちの人生の時間を平日と休日で区切ってしまうのは、実にもったい無いことであるように思う。そうした区別が生まれた瞬間、どちらかに優先順位が置かれ、片方はもう一方に劣後した形で扱われるのがオチではないだろうか。

実際のところ、平日と休日の区別をしている人は、なんと一週間に二日しかない休日を大切なものとして扱い、五日もある平日を気乗りのしない活動に充てる時間だと見なしている傾向にあるのではないかと思う。

平日と休日に区別がある段階は、まだ自分の真の人生を生きているとは言えず、人生を生きる真の充実感や幸福感を感じるには程遠いと言えるだろう。

先ほどオランダ語の学習について書き留めていた。アニメと絵本だけでどれだけオランダ語が理解できるようになるのか、オランダ語のリスニングとスピーキングがどれほどできるようになるのかについて、ちょっと本腰を入れて実験してみようかと思う。

アニメについては、かかりつけの美容師のメルヴィンが非常に詳しく、彼にお勧めのアニメを尋ねてみようかと思う。また、アニメのDVDやブルーレイを持っていればぜひ貸してもらうようにお願いをしてみたい。

オランダ語の学習に向けて再び熱が高まってきており、それに付随してか、国外で生活をする日本人が陥りがちなことについてあれこれと考えていた。「郷に入っては郷に従え」という言葉があるが、私は国外に生活する多くの日本人はあまりこの言葉通りに生きてないように思える。

それは、オランダで三年間も生活をした自分がまだオランダ語の初級程度で留まっていることからも、自分に関しても当てはまることかもしれない。ただし私は、外国で過ごすことの醍醐味が何であり、それをいかように味わうかの道については、これまでの経験を通していくばくか理解しているように思う。

日本から海外に留学や駐在する際や、永住に近い形で国外で生活をする際に重要なこと、そして国の外で生活することの一つの醍醐味は、日本語とは全く異なる言語空間で精神生活を営むことだと思う。だが、実際には大学に留学する人であっても、洋書のテキストは読んでいるとしても、それ以外は日本語の情報に過度に依存する形で生活を過ごしてしまう人が多いというのが実情ではないだろうか。

学術機関に所属せず、洋書を読む機会が少ない状況に置かれている人であればあるほど、日本を離れたにもかかわらず、結局一日の多くは日本語の情報に触れ、日本語で思考をしていることが多いのが実情だろう。

日本語空間で構築されたメディア情報や和書から離れ、外国語のメディアや洋書を通じて異質な言語空間に浸ることは、日本という国そのものの客体化、日本語および日本語空間そのものの客体化、そして何より、日本語で構築された自我そのものを客体化することにつながる。

逆に言えば、ゲーテが「外国語を学ばない者は母国語を知りえない」と述べているように、外国語を学び、外国語空間に真に浸らなければ上記のことを実現させていくことは極めて難しいということが、自分の体験上言える。端的に述べれば、国外で生活をする多くの日本人にとって、外国で生活することの真の意義が骨抜きにされてしまっているのが実情だろう。

外国に来たにもかかわらず日本語空間に過度に依存する人たちを見ると、「何のために外国に来ているのだろうか?」と思ってしまうことがよくある。往々にしてそうした人たちは、諸々の理由から単に日本から逃げてきたのである。

そしてそうした態度では、決してその国の文化を真に理解することや自己を真に理解することなどできず、再び日本に逃げ返すか、外国での生活を通じて自己を深く理解することをしないままに生涯を閉じていくというのが多くのケースなのではないかとよく思う。

仮に私が、自分自身をさらに深く知り、日本とアメリカで構築された自我を客体化するためには、欧州の言語、とりわけ今生活をしているオランダ語の学習はやはり不可欠なのだと思う。私は、怠惰を本質とするれっきとした人間であり、これまでの自分はオランダ語の学習に関してとても怠惰だったのだと思う。

これから工夫を凝らし、楽しみながらオランダ語を学習していきたいと思う。楽しみながら語学を学ぶという点においては、今のところアニメと絵本が最良の手段だろう。フローニンゲン:2019/4/15(月)07:45

4162. 今朝方の夢の続き

時刻は午前八時に近づいてきている。起床から三時間ほど経ち、この間には日記の執筆しかしていないように思う。

言葉の形になろうとするものが溢れている限りは言葉にし、音楽の形になろうとするものが溢れている限りは曲にしていくことが大切だ。この日記を書き留めたら、作曲実践を行いたい。

今朝方の夢の続きについて改めて思い出している。夢の中で私は、ある広場でサッカーをしていた。その広場はだだっ広く、雑草が生えていながらも、それはサッカーは楽しめる程度のものだった。

私は広場の一角で、著名なプロサッカー選手の小野選手と稲本選手と三人でリフティングの遊びをしていた。興味深いことに、その遊びに興じている場所の周りには、プラスチック製の薄い仕切りが二、三立てかけられていた。それらは全て私の背後にあった。

小野選手も稲本選手もプロサッカー選手であるから、リフティングがとてもうまく、私は足手まといにならないように努めた。ある時、小野選手が私の背後に立てかけられている仕切りの上にボールを当て、その跳ね返りが緩やかに自分の右の太ももあたりに落ちてくるような絶妙なボールコントロールを見せた。

仕切りの厚さはわずか数cmであり、その数cmのうちの手前側にボールを当てるようにしなければ、私の眼の前にボールが落ちてこないことを考えると、そのボールコントロールは言葉を失うほど見事なものだった。

それは小野選手から私への絶妙なアシストであり、それを受けた私は何回かリフティングをして、稲本選手にボールを返した。ところが、間違ってかなり高くボールを蹴ってしまい、それに対して稲本選手も対応が難しかったようであり、なんとかボールを拾ったものの、稲本選手も天高くボールを蹴り上げた。

そこで再び小野選手が見事なボールコントロールをして、その場を落ち着かせた。私たち三人は、絶えず笑顔が絶えず、楽しみながらこのゲームをしていた。

ゲームを終え、私は二人にお礼を述べると、二人もまた笑顔で別れの挨拶をしてくれ、二人はどこかに消えていった。だだっ広い広場に一人残された私は、帰宅しようと思ったが、ふとサッカーゴールが置かれている場所を見ると、そこに小学校時代のサッカーチームの先輩と、同じチームに所属していた同学年の親友(YU)がいた。

二人に話しかけてみると、何やらサッカーの戦術のことで話し合いをしているようだった。あまり英語が話せないはずの親友が、なぜだか突然英語で戦術の話をし始め、そこで先輩もまた私に英語で意見を求めてきた。

正直なところ、二人が英語をあまり話せないことを知っていた私は、英語を話すことがためらわれたが、そこから一気呵成に英語で戦術に関する話を始めた。数分間ほど私は英語で話し続け、あるところで二人の表情を確認した時、“Can we continue to speak English?”と一応二人に確認した。

すると、ここからは日本語で話をしようということになった。日本語での説明を全て終えると、そこで先輩は帰宅し、残った親友と私は今からどうするかを考えていたところ、小中学校時代の友人が続々と広場にやってきて、今からゲームをしようと述べた。

私は友人たちと行う草サッカーが本当に好きであり、小中学校時代は、学校の休み時間のみならず、週末に友人と遊ぶ際にもテレビゲームはほどほどに、ほぼ必ずサッカーをして遊んでいた。そうしたこともあり、久しぶりに旧友たちとサッカーができることをとても嬉しく思った。

そこから実際に試合が始まり、私は右サイドボールを受けて、ドリブルをしながらボールを運び、中央にいた友人(KM)にボールを渡し、「逆サイドに大きく展開してくれ」と指示を出した。そうした場面があったのを覚えている。

実際には、この試合が終わった後、高校時代の倫理の先生がその場に現れ、広場の使用許可について私に質問してきた。先生は優しい人であり、広場の使用に関して別に詰問してきたわけではなく、念のための確認のようだった。

私はなぜか先生の質問に対しても英語で答えようとしており、途中でそれに気づいて日本語で回答することにした。今朝はそのような夢を見ていた。フローニンゲン:2019/4/15(月)08:10

4163. 断食四日目の夕方に:音楽的な集合意識としての「音の海」

時刻は午後の六時を迎えた。夕方の西日が強いため、書斎のカーテンを閉めている。

今、玄米味噌と八丁味噌を混ぜた具なしの味噌汁を一杯飲んでいる。今日にて断食の四日目が無事に終了する。

思っていた通り、断食の三日目を超え、四日目を迎えると、心身に辛さが現れるどころか、より快調になっていくのを感じた。これは胃腸が十分に休まり、消化ではなく、身体の回復にそれらの器官が働けるようになったからであろう。

さらには、ブドウ糖(ガソリンのレギュラー)を用いて脳と体が動くのではなく、脂肪を燃焼することによって生み出されたケトン体(ガソリンのハイオク)によって脳と体が動いているからだろう。

また今朝方は、この四日間何も固形物を食べていないのだが、宿便が出た。これもまた一つのデトックスの兆候である。

明日からの断食はより一層楽になると思われる。この調子であれば、七日間の断食は全く問題ない。

ちょうど明日の午後は、かかりつけの美容師のメルヴィンの店に行く。メルヴィンの店に行くと、いつもすぐにメルヴィンガ一杯のエスプレッソを作ってくれるのだが、明日からはティーをお願いしようと思う。

その際に、自分が断食をしていることを伝え、メルヴィンもこうした実践に関心がある人間であるから、断食や一日一食生活について話をしたいと思う。また、オランダ語の学習を兼ねて、オランダ語でアニメを見ようと思っていることも合わせて伝えたい。

何かお勧めのアニメを教えてもらえればと思う。それともう一つ、メルヴィンに是非とも伝えておきたいのは、今年の夏からデン・ハーグに移住するのではなく、引き続きフローニンゲンに残ることにしたことだ。

私もまだまだメルヴィンと話したいことがあり、メルヴィンもそのように思ってくれているようであるから、この知らせはお互いにとって朗報であるはずだ。

今日は大変天気が良く、非常に穏やかな一日だった。計画通り、シュタイナーの“The Inner Nature of Music and the Experience of Tone (1983)”の再読を終えた。

最後のページのメモを見ると、どうやら前回に読んだのはちょうど一年前のようだった。明日からは、シュタイナーの音楽思想に影響を受けた著者が執筆した“Human Hearing and the Reality of Music(2013)”という書籍の再読を行う。

明日も十分な時間があるため、再読を明日中に行うことができるだろう。基本的に、音楽関係の書籍を再読する際には丁寧に読み進めていこうと思う。

本日、音と光の関係について調べていると、“The Physics of Music and Color (2011)”という興味深い書籍を見つけた。アマゾンの購入ページで中身を確認していると、なんと偶然ながら、ラヴェルも作曲上の最大の難しさは「選択」であると述べていた。これはまさに、私が数日前に日記で書き留めていたことと全く同じである。

シュタイナーの言葉で言えば「音の海」、武満徹の言葉で言えば「音の河」から、いかような音を選択してくるかが作曲上のカギを握る。まさに、大海や大河の中からどのような一滴を選び出すかに作曲の難しさがり、醍醐味がある。

私は、音の海や音の河というのは、何か音楽上の集合意識のようなものなのではないかと思う。そうした音楽的な集合意識から選び抜かれた音で作られた音楽が、多くの人の心に響くというのはとても納得がいくのである。

今後も継続して、音楽的な集合意識の探究、および技術的には、音の海からいかように一滴を選択していくかの学習と実践を行っていく。フローニンゲン:2019/4/15(月)18:27

4164. 仮眠中のビジョンと超越・包摂運動

時刻は午後七時を迎えた。断食四日目がゆっくりと終わりに向かっていき、断食五日目の明日への橋渡しをしている。

フローニンゲンの寒さは相変わらずであり、日中も基本的にはヒーターをつけ、夜は湯たんぽを使って寝ている状態だが、日だけは随分と伸びた。午後九時半を迎えてようやく闇の世界が始まるぐらいに日が伸びている。

今、小鳥たちが心地良い鳴き声を上げており、夕日を浴びることがさぞかし気持ちいいのだろうと思われる。

昨日の日記の中で、仮眠中のビジョンについて書き留めていたように思う。やはり昨日の仮説通り、五分間ほど仮眠時間を延ばしてみたところ、ビジョンを最後まで見てから仮眠から目覚めることができるようになった。

今日の午後の仮眠中に見ていたビジョンは、まず最初に白い洗濯機が現れ、そのスタートボタンに焦点が当てられており、全体を見たいという意思に応じて焦点が広がっていった。その後は、顔の定かではない見知らぬ二人の男性が何かを話していたビジョンを見た。

ここでは視覚的な映像のみならず、話し声も聞こえていたのを覚えている。断食を進めていくと意識がクリアになり、その結果仮眠中においてもこうしたビジョンを見るのだろうか。そのあたりのメカニズムについては不明だが、明日以降もまた観察を続けてみたい。

昨日まで、監訳書のレビューを行っていた。ウィルバーのインテグラル理論の中で、「超えて含む」という概念は非常に有名であり、この概念を基にして、私はふと、自分のこれまで辿ってきた職業上の超えて含むというプロセスを少し振り返っていた。

振り返ってみると、この10年間の中で、私はかなり多くの実務領域を行き来していたことに気づく。ある時期は、その仕事に専念にし、ある時は幾つかの実務領域における仕事を掛け持ちしていたのだが、過去の仕事を列挙すると、国際税務コンサルタント、ヨガインストラクター、発達支援コーチ、数学・理科教師、大学及び研究所での研究者という職業に従事していた。

現在においては、多様な領域でのコンサルティング業務と発達支援コーチングに従事しながら、企業との協働研究に従事するという研究者の側面もある。これらの一つ一つの職業に従事する過程の中で、その仕事を超え、新たな仕事を包摂する中でそれを再び超えて行き、また新しい仕事を包摂していくというような運動を見て取ることができる。

こうしたことは、何も職業上に限らず、自分の関心においても当てはまる。ここ最近では、作曲と食(オーガニック食品、断食、ハーブティー、スパイス)の探究及び実践をしていることも(あえてもう一つ加えるならば投資である)、新たな超越・包摂運動の始まりだと言えなくもない。

こうした運動を引き起こしているのは、おそらく魂の要求であり、結局今後自分がどのような仕事をしていき、どのような事柄に関心を持っていくのかは全く予測できない。こうした予測不可能性こそが人間の本質なのかもしれない。フローニンゲン:2019/4/15(月)19:27

4月15日(月)に誕生した曲たち

Op.1048 断食四日目の朝の気分

Op.1049 魂に流れる冷水

Op.1050 魂の休息

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

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