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4140-4143:フローニンゲンからの便り 2019年4月12日(金)


タイトル一覧

4140. 小鳥たちよりも早く目覚めた朝に:断食の始まりに対する高揚感

4141. 今朝方の夢の断片

4142. 己の書法

4143. 行動を変えてくれる読書:自分の音楽の根幹にある体験

4140. 小鳥たちよりも早く目覚めた朝に:断食の始まりに対する高揚感

今朝は早朝の四時に起床し、四時半から活動を始めた。やはりこの時間は、小鳥よりも早い目覚めのようだ。

小鳥たちがまだ鳴き声を上げないこの時間に、まずは早朝の味噌汁を一杯飲んでいる。オーガニック八丁味噌をコップ二杯の白湯に溶かしたものをゆっくり飲んでいる。

睡眠中に奪われたであろう水分などが補填されるように味噌汁が身体中に染み渡っていく。

今日の目覚めは、確かに私の人生におけるある一日の始まりを意味しているが、今日の目覚めはそれ以外にも、断食の始まりを意味している。起床してすぐにゆっくりとヨガをしている最中に、今日から断食が始まることに心底喜びを感じている自分がいた。

これは幾分滑稽であるが、断食の始まりに対して高揚している自分がいたのである。そうした様子を見ていると、やはり私の心身は断食を必要としており、そうした高揚感は心身の要求から生み出されたものなのではないかと思う。

実は昨夜は、残りの食材だけを食べるという軽めの夕食を摂ったためか、消化活動にエネルギーを使う必要もなく、頭が冴えていた。ただし、そうだからと言って寝付けなかったかというとそうではなく、すぐに寝付くことができた。

興味深かったのは、昨夜の段階から既に今日に対する期待感があり、断食が始まることに対して高揚している自分がいたのである。こうした状態を観察するにつけ、今日から断食を始めることは適切だったのだと思われる。

今日から五日間以上の断食を行うに際して、特に大きな注意点というのはないのだが、とにかく心身の状態を絶えずモニタリングするということを行っておきたい。心身の状態の確認しながら、断食の日数を減らすのか、増やすのか、そしてどのタイミングで断食を終えるのかを判断していく。

その判断には一にも二にも自己観察が必要であり、自己観察をより正確なものにするために、先日読んだ三冊の書籍“Prof. Arnold Ehret's Rational Fasting for Physical, Mental and Spiritual Rejuvenation: Introduced and Edited by Prof. Spira (2014),” “The Science and Fine Art of Fasting (2013),” “The Transformational Power of Fasting: The Way to Spiritual, Physical, and Emotional Rejuvenation (2012)”を再読していこうと思う。

昨夜感じていた、何も食べないことに対する高揚感は、昨日の日記の内容とも関係しているかもしれない。

普通であれば、近い未来に食べるものに対して楽しみを感じたりするが、昨夜の私は全く逆であり、何も食べないことを心底楽しみにしていたことは不思議である。人間が見出す楽しみや喜びの源泉の多様さを見て取ることができ、さらにはこれまでの楽しみや喜びの源泉とは対極にあるものからそうした感情が湧き出るようになってきていることは、ひょっとすると感情的発達の一つの証なのかもしれない。

自己観察に加えて重要なことをもう一つ挙げておくと、確かに今日から固形物を一切摂らないが、飲み物を通じて栄養を補給していくことはしっかり行う。早朝の一杯の味噌汁しかり、味噌汁は普段夕食を摂っている時間にも再度一杯飲む。

午前午後の日中においては、タンパク質やアミノ酸が豊富なヘンプパウダーとココナッツオイルを白湯に溶かしたもの、ココア二杯、ハーブティーを飲むようにしていく。今日から断食をすることによって見出された変化については、逐一文章の形にしておきたい。

小鳥の鳴き声はまだ聞こえず、今日は本当に早いスタートを切った。フローニンゲン:2019/4/12(金)04:54

No.1851: The Feeling on the Second Day of Fasting

Today is the second day of my fasting.

Probably, if there is any timing which requires patience, that would be today. Groningen, 09:53, Saturday, 4/13/2019

4141. 今朝方の夢の断片

時刻は午前五時を迎えたが、まだ小鳥たちは眠っているようだ。小鳥たちの眠りを邪魔しないように、私は普段と何も変わらず自分の取り組みを静かに進めていく。

それはシンプルなことであり、自分の生命を通じて生きること、そしてそれを何らかの形としてこの世界に発露させること、ただそれだけである。

小鳥たちがゆっくりと目覚める時、あの美しい鳴き声を今日も聞くことができるだろう。今日と明日までは気温が低く、両日ともに最低気温はマイナス1度になる予報だ。幸いにも、今日から行う断食が終わるあたりには気温が再び上がり、今月末からは比較的暖かくなるのではないかと思う。

いつものように今朝方の夢について振り返っておきたい。ただし、今日は夢の内容をそれほど覚えておらず、断片的な記述になるかもしれないが、書くことを通じて初めて生まれる形象化作用、あるいは書くことがきっかけになって自発的に再想起される夢の断片があることを期待して、覚えている範囲のことを書き留めたい。

私はどこの国かわからない大学のキャンパスにいて、ある大きな講義棟の前にいた。その作りはモダンであり、外観から想像するに、まだ建設されて間もないような建物だった。

私は一階のエントランスホールから中に入り、これから行われる講義か何かに参加するため、それが行われる教室の場所を探そうと思った。いや、厳密には、講義に参加するよりも優先させたかったのは、シャワーを浴びることであった。

できればシャワーだけではなく、浴槽に浸かりたいという思いを持っていた。この講義棟は不思議な作りをしており、建物の中には何箇所もシャワー室があり、そのうちの一つか二つには浴槽もあった。

とはいえ、どこのシャワー室に浴槽があるのかあまり把握していなかったため、私は偶然目の前を通りかかった外国人の小さな男子学生に声をかけて、浴槽があるシャワー室の場所を尋ねた。すると、その男子学生は親切に場所を教えてくれたが、私は直感的に、そこには浴槽はないと察した。

一応彼が教えてくれたシャワー室を覗いてみたが、やはり浴槽はなかった。しかもそこはあまり綺麗なシャワー室ではなく、使うことをためらわれたので、私は自力で浴槽のシャワー室を探すことにした。

すると、そこで偶然にも、小中高時代の親友(SI)と出会った。再会の喜びよりも先に、私は彼が何か困っているように感じた。それは表情から察せられたことだった。

彼に話を聞いてみると、やはり何かに対して問題を抱えているようであることがわかったが、それが何かについては覚えていない。今朝方はそのような夢を見ていた。

実際には、もう少し他の夢を見ていたことを覚えている。例えば、私は小中学校時代を過ごした社宅のリビングで、暖房を強めに設定しており、暖かい部屋の中である新聞を読んでいた。

その新聞の第一面に、若くしてサッカー界から身を引いた中田英寿さんが再びサッカーを始め、日本代表に選出され、再度ワールドカップの出場を目指すという記事が大きく掲載されていた。その記事を読みながら、中田さんがどのようなきっかけで再度サッカーを始められたのかを尋ねてみたくなくった。

その記事から一瞬目を逸らすと、キッチンで父が熱心に料理を作っている姿が目に入った。そのような夢の場面があったことも覚えている。フローニンゲン:2019/4/12(金)05:21

4142. 己の書法

時刻は午前六時を迎えた。起床から二時間が経ち、今、ようやく辺りが明るくなってきた。

ちょうど五時を少し過ぎてから小鳥たちが目覚め、そこから今に至るまでずっと鳴き声を上げている。それは早朝の歌の始まりであり、この歌を聴きながら、これから早朝の作曲実践を行っていこうと思う。

昨夜も自分の内側から何かがほとばしるように、作曲上の修練を重ねていきたいという思いが湧き上がった。その時に自分の脳裏にあったのは、絵画の学術的なトレーニングをほとんど受けず、どの組織にも所属しない形でひたすら絵の精進を続けたヴァン・ゴッホの姿であった。

ゴッホの手紙が収められた全集は、未だ机の左隅に置かれたままであり、ここから私は再度、ゴッホの手紙を紐解いていこうと思う。その手紙の中に、新たな発見と励ましがあるだろう。

今日からは、作曲理論の解説書を再び読み進めていく。近日中にハイデガーの書籍を読み始めることは確かだが、それに並行して教会旋法に関する書籍とハーモニーに関する書籍を読んでいく。

その後には、バルトークの作曲技法に関する書籍、メシアンの作曲技法に関する書籍、フーガに関する書籍などを再読していこうと考えている。以前の日記で書き留めていたように、作曲上の選択肢を広げるために、選択肢としての観点をとにかく身につけていく。

そのためには、理論家や作曲家自身がまとめた書籍を読むことは有益である。ただし、いつも述べていることであるが、自分の体験に勝る学びはないのであるから、絶えず作曲実践に従事することを忘れないようにする。

とにかく自分が進むべき道は、自らの書法の確立にある。昨日はふと、自分の書法を持っている人の創造物には光るものがあり、自分に対して何らかの刺激を絶えずもたらしてくれると思った。

端的には、仮にその人の書法がいかに独特であっても、一見すると独りよがりであったとしても、その人が生み出す文章や作品は面白さがどこかに必ず内包されているのである。

今、「一見すると独りよがりであったとしても」と述べたが、ひょっとすると、真にその人固有の書法というのは、まさにその人しか持ち得ようのないものであるがゆえに、独りよがりであることは当然なのかもしれない。ただし、言うまでもないが、ここで言う「独りよがり」というのは、独善的という意味とは異なる。

その人固有の書法というのは、独善的という言葉が意味するような閉じられたものなのではなく、世界に向かって大きく開かれたものなのだと思う。つまり、独善的というのは自閉的な性質を持っているのに対して、書法上における独りよがりというのは、自己が世界に向かって大いに開かれているものなのだと思う。

そうした特性を持つ書法で書かれた文章や作品は、事実上の誤りや何かしらの欠陥があったとしても、それそのものとして存在意義があり、大いにこちら側を刺激してくれる。

最近私は、何人かの知人が執筆する日記を毎日読んでおり——残念ながら毎日更新されないものがあるが——、彼らに共通するのは自らの書法を持っていること、ないしは自らの書法を確立することに向けて絶えず前進していることであり、そうした人たちの文章を読むのは本当に面白い。

巷に溢れるような、自分の書法を持たぬ単なる解説文の情報の山とは一線を画している。何か光るものがあり、私たちに促しをもたらすのは、己の書法を持った人の文章なり作品なのだと思う。

そこにその人そのものが滲み出し、それが人の心を動かすのだろう。フローニンゲン:2019/4/12(金)06:32

4143. 行動を変えてくれる読書:自分の音楽の根幹にある体験

つい今しがた仮眠を取り終えた。仮眠中、今日もまたビジョンが立ち現れ、その一つとして作曲実践を行っている自分がいた。

作曲をしている自分を見ていたというよりも、譜面がビジョンの中に現れて、その譜面上に音符を置いていた。いや、音符を置いていたというよりも、自発的に音符が生まれていたと言った方が正確かもしれない。

今日は断食の初日であり、おそらく今日は早朝の四時に起床し、そこから随分と活動をしていたことなどが組み合わさって、こうしたビジョンが生まれたのではないかと思う。

仮眠を取る前に作曲実践をしていると、夢の世界と詩の世界が溶け合ったところに自分の活動拠点があるのかもしれないとふと思った。偶然にも先ほど、ストラヴィンスキーが執筆した“Poetics of Music in the Form of Six Lessons (1970)”という書籍を見つけており、そのタイトルが示唆しているものはまさに自分の関心と合致している。

その他にも、音楽に関する興味深い七冊ほどの書籍を見つけたため、また近々購入しておきたいと思う。

今日は午前中に、教会旋法に関する書籍の再読を終えた。それは、“A Concise Explanation of the Church Modes (2018)”というタイトルの書籍だ。

今回は再読のため、最初から最後まで一字一句読み進めていった。バッハは古くから伝わる教会旋法を見事に活用しながらコラールを作っていたことを知り、改めてバッハのコラールを参考にしたいと思った。

その際には、教会旋法の観点から一曲一曲を見ていきたい。ただし、そのためには、教会旋法に関する知識をさらに身につけていく必要があるため、本書及び他の教会旋法に関する書籍を読み進めていく。

手元にはその他にも、“Chorale Harmonization In The Church Modes (2018)”という書籍があるため、こちらの再読も進めていこうと思う。

やはり読書とは、行動を変えてくれるものであり、行動を変えてくれないものは読書ではないのだと思う。読書というのも一つのれっきとした体験であり、それが自分にとって意味のある体験としてなされていればいるほどに、読書の後の自分は読書をする前の自分ではないはずである。

そして、読書の後の自分は新たな行動に乗り出していくはずである。そのようなことを思わせてくれたのが午前中の読書体験であった。

断食中は非常に集中力が高まり、それでいて朝も早く目覚めることができるため、集中的な読書にはうってつけであるように思う。ここから数日間の断食期間中は、断食に関する三冊の書籍、そしてシュタイナーの書籍(“The Inner Nature of Music and the Experience of Tone (1983),” “Music: Mystery, Art and the Human Being (2016),” & “Colour (1992)”)、さらには作曲理論に関する複数の書籍を読んでいこうと思う。

そうした気づきに加えて、ふと昨日の早朝にヨガを実践しているときに、中学校時代に体験した高次体験を思い出した。それは、全学年で行われる合唱コンクールに関するものだ。

中学二年生の時の合唱コンクールは、今の自分がなぜ音楽に向かったのかを決定づけるような体験の一つだったのではないかとふと思う。その体験についてここでは詳しく述べないが、合唱コンクールの本番で、私たちのクラス全員が各人の声を通じて間違いなく一つになり、これまでの練習で一度も発揮したことがないような声量を生み出し、音の巨大な大伽藍を生み出したのである。

私はその当事者の一人として壇上に上がっており、歌を歌っている自分が昇天しそうになったのを今でも鮮明に覚えている。結果として、私たちは二年生であったにもかかわらず、三年生のどのクラスよりも高評価を得て、合唱コンクールで優勝した。

あの日の高次体験は、きっと今の音楽探究と作曲活動の根幹にあるのではないかと思われる。フローニンゲン:2019/4/12(金)13:11

4月12日(金)の曲一覧

Op.1041 早朝の楽しげな行進

Op.1042 カカオ豆の精霊

Op.1043 夢と詩の境界線

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

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