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4081-4085:フローニンゲンからの便り 2019年4月3日(水)


タイトル一覧

4081. 72時間の断食を終えて:自分の内側の大切なペット「腸内細菌」

4082. 巧妙に仕組まれた心身の腐敗

4083. 今朝方の夢

4084. コンサートホールのロビーでの夢

4085. 腸内環境の良し悪しの見分け方:人が糞便を忌避する理由について

4081. 72時間の断食を終えて:自分の内側の大切なペット「腸内細菌」​

72時間の断食を終えた後の最初の一日がやってきた。早朝より、薄い雲が空を覆っていて、相変わらず気温は寒い。

昨夜は雨に見舞われたが、今はそれが止んでいる。今日も午後から時折小雨が降るような天気とのことである。

三日間の断食を終えた今朝は、とても晴れ晴れとした感じがする。だがそれはとても静かな感覚であり、自分の身体が生まれ変わり、静かに新たなスタートを切ろうとしているという感じである。

それにしても、昨日の夕方に食べた回復食の梅流しは本当に美味しかった。梅流しを調理している最中、2Lの水を測っている最中は、「これは今日だけでは食べきれないだろう」と思っていたのだが、嘘のように全て完食した。

そこから数十分すると、事前の情報通り便意を催し、そこから少し間隔をあけて合計で三回ほど水のような宿便が出た。便意が収まったことをもってして、断食が終わりを告げた。

もちろん、今回は三日間の断食を行ったため、今日と明日もまだ回復食として果物と野菜だけを摂っていくことにする。今日からは、先日街のオーガニック食品専門店で購入した玄米味噌を野菜につけて食べるのが非常に楽しみだ。

三日間の断食を終えた今朝、肌の調子がひときわ良いことに気づいた。顔の皮膚はこれまでにないほど張りがあり、手荒れに関してはようやく完治と言っていいほどの状態になった。これらは全て、食生活の抜本的な見直しと断食によるものだと断言できる。

特に、断食によって胃腸が休み、本来の働きを取り戻したことに加え、食生活の改善によって、腸内環境が新たなものになったことを忘れてはならない。特に私は、腸内環境を整えることの大切さを身を持って知った。

今日からもここ最近の食生活を継続させていき、特に味噌などの発酵食品を加えることによって、腸内環境をさらに良いものにしていく。

昨夜就寝前に、ベッドの上に仰向けになりながら、自分の胃腸の部分に手を当てていた。そして、胃腸を撫でるようにして、これまで胃腸のことを気にかけていなかったことを謝った。また、これまで一日に三回も働かせていたことに対しても謝り、これまでの働きに感謝の念を伝えた。

ペットを飼っている多くの人は、そのペットを大切に思うがゆえに、適切な食事を適量だけペットに与える。だが、そうした飼い主は往々にして、自分の中にもとても大切なペットのような存在がいることを忘れてしまいがちなのではないだろうか。それは腸内細菌というものだ。

いやそれはペットというよりも、自分の分身、ないしは自分自身に他ならないと言ってもいいだろう。私たちの体内には、腸内細菌が約100兆から1000兆個も存在しているそうだ。

腸内細菌はよく知られているように、善玉菌、悪玉菌、そしてそのどちらにもなりうる日和見菌の三種類がある。それらの細菌は私たちにとってのペットのような存在として見なせば、彼らに何を餌として与えるかを考えることは、腸内環境を整える上で極めて大事になり、ひいてはそれが自分の心身を整える上で非常に大事になる。

昨日調べていると、心の病の多くは、実は単純に心の問題というも、腸内環境の乱れにより、心身の機能の低下からもたらされていることが多いことを知った。実は最近私も同様のことを思っており、正直なところ、サイコセラピーやコーチング云々の前に、まずは食を通じて腸内環境を整えることが先であり、心の器としての身体が健全なものになってからそうした手法を活用することが賢明だと考え始めている。

もちろん、ソマティックセラピーのようものがあり、それは身体に働きかけていくが、身体の健全さを司る腸内環境が乱れているのであれば、そのようなセラピーもほとんど効果を上げることはできないだろうし、仮に効果があったとしてもそれは一時的なものであり、再び症状が現れるに違いない。そのような考えを持つぐらいに、腸内環境が大事だと思わされている。フローニンゲン:2019/4/3(水)07:59

No.1823: Modesty

Today is approaching the end with deep modesty.

I look forward to tomorrow very much. Groningen, 21:13, Wednesday, 4/3/2019

4082. 巧妙に仕組まれた心身の腐敗

時刻は午前八時を迎えようとしている。今日も七時ぐらいから、作業員の人たちが向かい側の赤レンガの家の近くにやってきて、作業を始めた。彼らの仕事振りには目を見張るものがある。

私は昨日、その日が日曜日だと思っていたのだが、火曜日だったという笑い話がある。外の雰囲気、そして自分の内側を流れるもの、それらを観察していると、今日が水曜日だという感じが全くしない。今日も土日のような感覚がするのである。

常に平穏な感覚を持って生活ができるようになったのは、欧州にやってきてからだろう。確かに、日本で個人事業主として生活をしていた時にも、自由な時間はたくさんあったが、どうしてもクライアント企業と同じリズムで生活をする必要があったり、時に都心に出かけていく必要などがあり、そこで都会に固有なあのせわしない時間の流れに組み込まれることが多かった。

欧州にやってきてからの最初の二年間は、確かに大学院に所属していたこともあって、大学院の動くペースに合わせる必要はあったが、それは日本、とりわけ東京で生活をしていた時間の流れ方とは全く異なっていたため、その時点でも十分に落ち着いた生活を営むことができていた。

そこから欧州での三年目の生活においては、大学院から離れることにし、それによって毎日が土日のようにゆったりとしたものになった。それは私にとって大変喜ばしいことであり、自分の取り組みに十分落ち着いて取り組めるようになった。

一般的には65歳から老後生活として自分の好きなことに打ち込む傾向にあるようだが、私は最初の会社を辞めた25歳の時にそうした生活に入り、30歳の時点で完全にそうした生活を送るようになったのだと思う。

これからも自分のライフワークに従事し続ける形で日々を過ごしていく。ライフワークとしての取り組み内容と取り組むあり方に変化が起こるのは当然であり、今後はそうした変貌を遂げながらゆっくりと人生を歩んでいくことになるだろう。

先ほどの日記の中で、腸内細菌は自分にとって大切なペット、いや自分自身に他ならないということを書いていたように思う。それは自分自身に他ならないのだから、それを健康に育んでいくのは自分の責任だろう。

腸はよく言われるように、「第二の脳」と呼ばれている。英語においては、直感を“gut feeling”などと言うが、まさにこの“gut”というのは腸のことを指している。

食べ物の選択に関してよく、「自分が欲しているものを直感的に選ぶと良い」ということを聞くが、それはほぼ全ての現代人には当てはまらないことだと思う。それが当てはまるのは、ごく一部の人、しかも食に関して現代企業が仕掛ける洗脳的なマーケティングの仕組みと方法を理解し、それでいて腸内環境が整っており、正確に直感が働く人だけに当てはまることだと思うのだ。

逆に言えば、現代人のほぼ全ての人は、現代企業の洗脳的なマーケティングにより、食欲までもが作り上げられ——種々の科学実験によって食欲や味覚を改変することが行われているのは非常に有名な話である——、腸内環境の悪化により、正確な直感など働きようもない状態に陥っているのではないかと思う。

直感が麻痺した状態で選ぶ食べ物は、ことごとく劣悪なものであり、その地獄のようなサイクルの中で延々と生かされているのが多くの現代人の姿だろう。食について学べば学ぶほど、そして食そのものだけではなく、食を取り巻く政治経済的な仕組みを学べば学ぶほど、そうした地獄絵図が見えてくる。

当初私は、なぜこれほどまでに現代人が食に関して無知であり、あえて心身を腐敗させるような食べ物を食べ続けているのか理解できなかった。少し前までの私自身も無知であり、確かに食には気をつけていたが、そうしたものを必ず少しは口にしていた。

現代人が自分の意思で、心身を腐敗させていくという自殺行為を選択しているのであれば、その意思を尊重する必要があると思ったが、事態はそうではない。自殺へ向かう意思そのものが巧妙に仕組まれているのであり、それを許すことはできない。食に関して、何か関与をしていく必要性を強く感じる。フローニンゲン:2019/4/3(水)08:22

No.1824: A Tributary

Today is cold as usual. Even so, I’ll concentrate on my lifework. Groningen, 10:22, Thursday, 4/4/2019

4083. 今朝方の夢

時刻は午前九時を迎えようとしている。つい今しがた、玄米味噌を白湯に溶かした味噌汁を飲んだ。

この味噌はまだ開封しておらず、今日の夕食の野菜に付けて食べることを楽しみにしていたのだが、早朝の自分の身体が味噌汁を欲していたため、先ほどそれを飲んだ。オーガニックの玄米味噌の味は極めて濃厚であり、味噌汁というのは良質な酵母ドリンクなのだと実感した。

いつもはこの時間あたりにヘンプパウダーとココナッツオイルを白湯に溶かしたものを飲むのだが、今日はそのような気分ではなかった。早朝に一杯の味噌汁を飲むことによって、どこか生き返るような気分になった。

そういえば、まだ今朝方の夢について振り返っていなかったので、早朝の作曲実践の前にそれらを振り返っておきたい。夢の中で私は、見慣れない作りの校舎の中にいた。

そこは見かけ上、中学校のようであるが、私が通っていた中学校とは雰囲気が異なる。私の近くには小中高と付き合いのある友人(YU)がいて、どうやら小中高時代の親友(SI)と三人で鬼ごっこのような遊びをしているようだった。

追いかけてくる親友の姿が下の階の渡り廊下に見えた。友人と私が今いる場所は、開かずの扉の向こう側にある渡り廊下であり、そこは廊下としての通路の役割を果たしていながらも、柵がない屋上のような作りになっていた。

親友はそこにはやってこれないだろうと思っていたため、私たちはそこにいることが安全だと思っていた。しかし、親友は開かずの扉を見事に開け、私たちがいる渡り廊下の扉の前までやってきた。

それを見て私たちは驚き、すぐさま逃げる準備をし始めた。逃げると言っても、反対側の扉の方に走って行くかしかないのだが、私たちには空を飛ぶ能力があることを思い出し、柵のない渡り廊下の縁から飛び降りて逃げることにした。

いざ親友が渡り廊下の扉を勢い良く開けたタイミングで、私たちは下の階に向かって飛び降りていった。どうやら私たちは、飛ぶ速度を三段階で変えられる力を持っているらしかった。

一番早い速度は、何十階もの高さのビルから飛び降りる時に、落下する重力速度に対抗するためのものであり、今回は三階からの落下であったから、一番遅い速度で十分であった。私たちは一番遅い速度を選択し、二階の渡り廊下に逃げ込んだ。

見上げると、追いかけてきた親友が悔しそうな表情を浮かべており、反対側の扉に駆けていき、再び私たちを追いかける意気込みを見せた。二階の渡り廊下に無事に到着した私たちは、今度は教室に逃げ込んだ。

そこには、小中高時代のクラスメートの男女が何人かいて、談笑をしていた。私たちが今鬼ごっこをしている最中だと伝えると、彼らは私たちをそっとしてくれた。

すると、鬼を務める親友がその教室を突き止めた。私たちはもう見つかってしまったと思った。

その時、私の横にいた友人が、教室の窓から飛んで逃げることを選択したのか、バク転のような形で窓から下に落ちていった。私はその様子を見た瞬間、何かおかしいと思った。

彼は飛ぶ能力を使わずに下に落ちていってしまったのではないかと思ってたのである。そこで恐怖心がよぎり、夢の場面が変わった。

次の夢のは、剣術士をテーマにしたアニメのキャラクターが山の中を逃げている光景から始まった。彼には相棒の剣術士がいて、二人で何者からか逃げているようだった。

二人は足跡をつけずに巧みに走る技術を持っているようだった。時に大きなジャンプをして、足跡が全く残らないような走り方をしていた。

山を駆け抜けると、山下には現代的な街が広がっていた。そこで突然、今まで剣術士であったキャラクターと入れ替わる形で、私はその場にいた。

この時、まだ姿形の見えない誰かに追いかけられている感覚があった。空は黒い雨雲で覆われており、実際に雨が降り始めた。

雨を少々浴びながら、私は山下の街に降りていった。するとそこで、小中学校時代の友人(YK)が一風変わった白い小型の高級車をビルの横に停車させており、誰かを待っていた。

この車は左ハンドルであったから、私は右側の助手席の窓を軽くノックした。すると友人は、「早く乗って」と述べた。

私たちの後ろには、小中学校時代の女性友達(AS)がいて、彼女の性格や身体には似つかわしくない、いかついモーターバイクに彼女は乗り、私たちの後ろを走ることになっていたようだ。友人が車を発車させたタイミングで、夢の場面が変わった。フローニンゲン:2019/4/3(水)09:20

No.1825: Lamentation of Early Spring

Although it is already April, this coldness seems to be the lamentation of early spring.

While thinking about it, it started to rain. Groningen, 12:24, Thursday, 4/4/2019

4084. コンサートホールのロビーでの夢

今朝方の夢にはまだ続きがあるので、それについても書き留めておきたい。夢の中で私は、非常に立派なコンサートホールにいた。

客席にいたわけではなく、これから始まるコンサートに向けて何やら準備を手伝っているようだった。準備と言っても会場整備ではなく、演奏者と観客を先導するような役割を担っていた。

どうやら、私はその日のコンサートの指揮者の一人のようであり、同時に、演奏する曲について、待ち時間の間に観客に解説する役割を担っているようだった。ロビーには演奏者とたくさんの観客がいて、まず私は演奏者を舞台の方に案内した。

その後、観客をいくつかのグループに分け、一つのグループに対して曲の解説を行おうと思っていた。すると、私の横に、私がアメリカにいた時からお世話になっていた知人の方がいた。

その方はずっと日本にいるのだが、オンライン講座などを通じてお世話になっていた。その方も観客の先導をしているようなのだが、グループ分けを少し間違えてしまったそうだった。

それと一言、「加藤さんの解説の前に、少しだけ私の方で、「変動性」という言葉を観客に伝えてしまいました。ですので、その概念についての説明も彼らにしてあげてください」と述べられた。私は、「了解しました。ちょうどその概念を取り上げて解説をするつもりだったので、良かったです」と述べた。

およそ15名ほどであろうか、観客の一つのグループを演奏会場の扉まで案内し、そこにある椅子に腰掛けてもらった。一旦私はその場から離れ、再び知人の方のところに行き、「他のグループについてどうぞお願いします」と述べた。

そして私は、着ていたスーツの身なりをもう一度整え、背筋を伸ばしながら、扉の前で待っているグループのところに行った。私が再度姿を現わすと、観客のみなさんが拍手で出迎えてくれた。

私は深々とお辞儀をし、改めて自分の名前を名乗り、これから曲についての解説を行わせていただく旨を伝えた。

:「それでは、今から音楽原論について解説させていただきます」

一人の男性:「あれっ、音楽原論ですか。プログラムを見ると、ショパンの音楽についてとなっていますが・・・」

:「えっ、そうですか。それは失礼いたしました(この瞬間私は、知人の方がグループ分けを間違ってしまったのだと改めて知る)。それでは、ショパンについて一緒に理解を深めていきましょう。とはいえ、私はショパン研究家ではないので、みなさんからのご意見を聞きながらこの時間を進めていければと思います。それでいかがでしょうか?」

そのように私が15名ほどの方たちに問いかけると、全員うなづき、そのように進めることにした。すると、その場がコンサートホールのロビーから、突然学校の教室のような場所に変わり、私は教壇の手前にいて、着席している15人の方たちと対話を始めた。

:「私は数年前に、ショパンの生まれたワルシャワに行き、そこでショパン博物館に訪れました。みなさんの中で、その博物館に訪れたことがある方はいらっしゃいますか?」

そのように問いかけると、4〜5人ほどが手を挙げた。その中で一人、中年の女性の方が、「あれはショパンの何博物館だったかなぁ〜。思い出せないなぁ〜」と、目を閉じて眉間にしわを寄せながらなんとか記憶を辿ろうしていた。

私の知る限りでは、ショパン博物館は世界に一つしかなく、それはワルシャワにあるものだけだと思っていたので、その方に、「博物館に訪れてみて印象に残っていることはありますか?」と尋ねてみた。するとその女性は何かを思い出したように目を開け、明るい表情で口を開こうとした。そこで夢から覚めた。フローニンゲン:2019/4/3(水)09:44

4085. 腸内環境の良し悪しの見分け方:人が糞便を忌避する理由について

時刻は午後の五時を迎えた。今日の午後はとても寒く感じ、今もまだ室内においても寒さを感じる。足元から底冷えするような一日だ。

午前中からヒーターは真冬と同じ温度設定のままつけっぱなしにしている。もう四月を迎えたというのに、相変わらずの寒さである。

やはり例年通り、五月末まではヒーターが必要であり、外出の時は冬用のジャケットが必要となるだろう。仮に朝晩に出かけていく際には、五月末まではマフラーと手袋が必要そうだ。

三日間の断食を終えて一夜が明け、今日から三日間は回復期ということもあってお腹は全くと言っていいほど空かない。正直なところ、昨日の感覚からすれば、さらに三日や五日の断食は容易であったが、24時間以上の断食は今回が初めてだったので、慎重を期して72時間の断食に留めた。

次回の断食は今月末か来月の頭に予定しており、その際も体調をしっかりと見極めながら、可能であれば今回よりも少し長めの断食をしてみようと思う。理想としては、現在監訳中の書籍の初校がそろそろ出来上がるようであり、それに合わせて断食をしたいところである。

というのも断食によって、脳がブドウ糖(レギュラーのガソリン)ではなく、脂肪が分解されたケトン体(ハイオクのガソリン)によって脳が働くようになり、集中力が極めて上がるためである。そうした思考が明晰な状態で監訳書のレビューができればと思っている。

ここ最近特に思うのは、病気も含め、心身の不調は何らかの貴重なメッセージだということだ。それを真摯に受け止めずに、対処療法的に薬などで解決しようとしていてはならない。

世の中の多くの人たちは、表面的な問題にばかり目がいってしまいがちであるが、そうした表面的な問題に対してアプローチをしていても、根本的な問題が解決されない限り、同じような問題がまた繰り返されるのは必然である。心身の不調の根本にあるであろう自らのあり方や生活態度を見つめることは、必ず行うべきことだと思う。

今朝方の日記でも書き留めていたが、ここでも改めて腸内環境について追記しておきたい。腸内環境が良いというのは、腸内が善玉菌優位であるという状態である。

善玉菌優位かどうかを見分ける簡単な方法は、便の色と形を見ることであり、バナナのような色と形をしていれば、それは腸内環境が良いことを指す。まさにここ最近の自分の便はそのようなものが出ており、黄色くなっていることを不思議に思っていたところだった。

食生活を抜本的に見直すと、本当に腸内環境は一、二週間で好転するのだと身を以て知った。

実は私はここ数年間、ふとした時に、「なぜ人間は糞便を汚いと思うのか?」ということについて考えていた。よくよく考えてみれば、糞便の元になる食べ物に対して汚いと思わず、それを消化分解する胃腸を取り出してみると、胃腸そのものに対して汚いとはそれほど思わないだろう。

ではなぜ、腸から出てきた最終成果物の糞便に対してだけ汚いと思うのかが不思議であった。システム理論の代表的な考え方である、「部分と全体は違う」という発想を用いれば、全体としての糞便と、それを生み出した部分としての食べ物と胃腸には何か明確な差があることは理解できる。

ただし、それだけではなぜ人間が糞便を汚いと思うのかあまり納得できない。もしかすると、糞便が汚いと思うのは文化的に埋め込まれたものなのではないかと思う。

また別の理由としては、糞便には腸内細菌の死骸が含まれており、それを本能的に汚いとみなすのかもしれない。だが、実際のところ、糞便の70%近くは水であり、食べかすは7%ほどであり、残りが腸内細菌の死骸である。

私たちは、その約20%の腸内細菌の死骸に対して汚いと感じるのだろうか。だが、そもそも私たちが生物の死骸に対して汚いと感じる理由についても謎が残る。

例えば、親愛なるペットが死んだ場合、おそらくその死骸に対して汚さを感じることはないだろう。ということは、やはり私たちは腸内細菌に愛を与えておらず、最初から汚い存在だとみなしてしまっているのかもしれない。

悪玉菌は愛すべき存在ではないかもしれないが、腸内環境を整えることによって増えた善玉菌は愛すべき存在なのだと思う。それによって、糞便が汚いという印象が少しは和らぐかもしれない。フローニンゲン:2019/4/3(水)17:30

4月3日(水)の曲一覧

Op.1013 柔らかい流れ

Op.1014 緩やかな足取り

Op.1015 冷たい午後

Op.1016 慎み深さ

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

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