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3722. 圧縮経験とシンプルな気づき


時刻は午前10時を迎えようとしている。外の世界は、一向に白銀世界のままである。

そこには凛とした美が佇んでいる。さらには、マイナスの世界固有の世界の息吹が存在している。

そうした環境の中に自己を置くことで、自己が圧縮され、その圧縮が次なる拡張につながっていく。

欧州で経験する三度目の圧縮が今始まろうとしている。この圧縮経験を経た後、そこに待っているのは、もう今の自分ではないだろう。

先ほど、数羽の小鳥がピヨピヨと元気よく鳴いている声が聞こえた。白銀世界の中の大合唱だ。

赤レンガの家々の屋根に真っ白な雪が積もっていることによって、もはや空の白さと区別がつかなくなっている。そう思った瞬間に、びっくりしてしまった。

「どこから空が始まっているのだろうか?なんと、今の書斎の中にいる目の前、この目の前から空なのだ」という気づきが芽生えたのである。目の前の空間に手を伸ばした時、もうそれが空なのだとわかる。

目の前も、後ろも横も、どこまで行っても空だったのだ。自分は空に包まれ、空の中で生きている。そんなシンプルな気づきが芽生えた。

シンプルな気づき。まさにこうした環境の中で芽生えるのは、そうした純粋かつ簡潔な気づきなのだ。それでいて、そうした気づきは強烈なまでに核心を得ている。

先ほども、自分の人生に関して、あるいは人間として生きていくことに関して、言語を絶する感覚的な気づきが得られたことを覚えている。その気づきはもうどこかに消えてしまったが、それが消えてしまったということと、それが確かに自分の内側に芽生えたことそのものが、つまり出現と消滅こそが、自分の人生の本質であり、人間として生きることの本質であるということが言える。

寒い。それにしても寒い。目の前で、世界で一番面白いコメディーを鑑賞しているかのように笑える寒さだ。

生きることは、やはり笑いなのだと思う。笑えないほどの真剣な笑いであり、笑えるほどの真剣な笑えなさなのだと思う。

これに異論を挟む人はいないと思われる。夢から目覚めた人であれば。

奇妙なほどに何かが見えているような感覚がある。透徹な眼差しを、それを超越した透徹な眼差しで見返すという強烈な眼差しの意識がここにある。その意識は、白銀世界の白銀さと全く同じである。

つい先ほど、カモメの群れが戯れている姿を見た。それは実に微笑ましい光景であった。

窓辺に近寄って観察してみると、どうやら一羽のカモメが口にパンをくわえていることがわかった。他のカモメは、そのパンを自分もかじろうと一生懸命になっている。

その光景は、幼稚園か小学校低学年のサッカーの試合を見ているようである。一つのボールに群がる子どもたちの姿と、目の前にいるカモメたちの姿は瓜二つであり、同時にそれらの光景は、この現代社会において、ボールやパンに類する消費対象に群がる現代人の姿を映し出しているように見えた。

現代を生きる成人の多くは、一つのパンに破片に群がるカモメであり、一つのボールに集まる子供たちだったのだ。これもまたシンプルな気づきの一つである。

透徹な眼差を超越した透徹な眼差しで眺めてみれば、このリアリティの諸々がシンプルであることがわかる。同時に、昨日かかりつけの美容師のメルヴィンが述べていたように、「このリアリティの諸事象は、シンプルであるがゆえに複雑であり、複雑であるがゆえにシンプルである」ということを心に留めておきたい。フローニンゲン:2019/1/23(水)10:15

No.1604: A Tempest and Stillness

As well as yesterday, I can see a winter wonderland outside today, too. Groningen, 12:06, Thursday, 1/24/2019

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