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3290. 認識論への関心の高まり


時刻は午後の八時半を迎え、辺りはすっかりと暗闇に包まれた。今日は一日を通してとても気温が低かった。本格的に秋が深まったことを実感する。

そうこうしているうちに、すぐに冬がやってくるだろう。そしてこの冬は来年の五月半ばまで続くということを忘れないようにしたい。

これからやってくる長い冬に対して、精神的な次元での準備はもう整っている。身体に関する準備も整っていると言ってもいいだろう。

この長く険しい冬の後に、新たな自己が姿を見せるであろうことを予感する。

今日は協働関係の仕事があったため、一日に三曲作ることは難しかった。結局三曲目を作るのではなく、最後に日記を執筆することによって本日を締めくくろうと思う。

午前中に今道友信氏の書籍を読むことによって、認識論の観点から芸術教育の意義について探究を深めていくのは筋が良さそうだという直感があった。何より、今月の初旬にハーバード大学教育大学院を訪れた際に、キャサリン・エルギン教授のクラスを聴講し、認識論そのものに関心が向かっていたことを見逃すことはできない。

エルギン教授のいくつかの論文を読み進めていくと、今日得られた直感を支えるような論点があったのを思い出す。具体的には、芸術に固有の認識の仕方を認識論によって明らかにし、その固有の認識方法の意義をもって芸術教育の大切さを論じていくという論理の流れである。この論理の流れに関して、自分なりの観点や具体例を交えながら、自分独自の考えを育むことができたらと思う。

来週の木曜日にフローニンゲン大学のキャンパスに立ち寄った際には、エルギン教授の論文を数本ほど印刷する予定である。それらの論文と、以前に一読を終えたエルギン教授の最新刊“True Enough (2017)”を再読し、グッドマンとの共著である“Reconceptions in Philosophy and Other Arts and Sciences (1988)”の初読を進めていきたいと思う。

芸術教育の意義を考察していく際に、これまでの自分の専門である発達心理学の観点だけでは不十分であり、認識論や批判理論などに習熟することによって、自分なりの思想を育むことができたらと思う。とりわけ認識論に関しては、日々関心が高まるばかりである。

昨日ふと、自分の考えの中に耐えず誤謬性が含まれているということ自体が、発達の原動力なのではないかという考えが芽生えた。自分の内省も、他者との対話にも誤謬性が必ず含まれているからこそ、その誤謬性を正し、新たな認識を得ようとする運動が始まるのではないかと思う。

逆に言えば、誤謬性を排除しようとするような発想は、発達を停滞させてしまうのではないだろうか。科学の発達に関しても、その科学的研究に反証可能性があるかどうかは極めて重要であり、そうした反証可能性、つまり誤謬性が入り込む余地が確保されて初めて、発展・発達というものが起こりうるのだと思う。

誤謬性というのも認識論の扱うトピックであることを踏まえると、ますます認識論への関心が高まる。フローニンゲン:2018/10/19(金)20:39

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