【フローニンゲンからの便り】18901-18906:2026年6月20日(土)
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タイトル一覧
18901 | ザルツブルグでの啓示と今、そしてこれから |
18902 | 今朝方の夢 |
18903 | 今朝方の夢の振り返り |
18904 | グラハム・ハーマンのオブジェクト指向存在論と唯識 |
18905 | クァンタン・メイヤスーの思弁的実在論と唯識 |
18906 | デフォルトモードネットワークについて |
18901. ザルツブルグでの啓示と今、そしてこれから
清澄な小鳥の鳴き声を耳にした瞬間、それは単なる自然音ではなく、雷鳴のような気づきとして自分の内側に響いた。小鳥の声はか細く、澄み切っていて、どこまでも軽やかであったはずなのに、その響きは意識の深い岩盤を打ち抜くような力を持っていた。音とは不思議なものである。大きな音だけが魂を揺さぶるわけではない。むしろ、世界の奥底からそっと差し出されるような微細な音こそ、眠っていた自己理解を一瞬で目覚めさせることがあるのだ。その鳴き声を聞きながら、2017年にザルツブルグを訪れたときのことがふと蘇った。あの街で自分は、自分が作曲家であることに目覚めたのだと思う。モーツァルトの気配が街全体に溶け込み、建物の壁や石畳や空気の粒子そのものが音楽を記憶しているように感じられた。そこで自分の内側に、音を生み出す者としての自己が静かに立ち上がった。あのときの目覚めは、突然の啓示のようでありながら、実は長い地下水脈が地表に現れた瞬間だったのかもしれない。それから数年間、自分は毎日のように作曲実践を続けていた。今振り返ると、その日々は単に曲を作るための訓練ではなかったように思われる。五線譜に音符を置き、旋律を探り、和声の流れを感じ、音と音のあいだにある沈黙を聴く営みは、現在のクラシックギターによる即興演奏のための深い準備だったのだろう。作曲とは、音を外側から組み立てる行為であると同時に、内側に流れる音の河を聴き取る修練でもある。自分はその頃、気づかないうちに、未来の即興演奏者としての耳と手を育てていたのではないだろうか。クラシックギターを手にして即興するとき、自分はゼロから音を生み出しているのではない。過去に書いた旋律、試行錯誤した和声、ザルツブルグで受け取った作曲家としての感覚、それらが今、弦の上で別の姿を取って現れているのである。作曲実践は、乾いた薪を何年も積み重ねるようなものだったのかもしれない。そして今、ギターの即興という火がそこに灯り始めている。かつて紙の上で生まれていた音は、今や指先の運動となり、身体の呼吸となり、瞬間ごとに立ち上がる響きとなっている。さらに思えば、この流れは将来のピアノを通じた即興演奏にもつながっているのだろう。ピアノは、ギターとは異なる宇宙である。ギターが身体に抱え込む小さな響きの森だとすれば、ピアノは広大な音の大地である。両手が独立し、低音と高音が空間的に広がり、和声の建築物を一瞬で立ち上げることができる。過去の作曲実践は、いつの日か自分がピアノの前に座り、即興的に音の伽藍を築くための見えない設計図だったのかもしれない。小鳥の鳴き声が雷鳴的な気づきをもたらしたのは、音楽の道が途切れていなかったことを知らせるためだったように思われる。2017年のザルツブルグ、数年間の作曲実践、現在のクラシックギター、未来のピアノ即興。それらはばらばらの出来事ではなく、一本の旋律線としてつながっている。音楽は自分の人生の傍流ではなく、深層を流れる本流であったのだろう。小鳥の声は、その本流の水面に落ちた一滴であり、その波紋が過去と未来を一気に結び直してくれたのである。フローニンゲン:2026/6/20(土)06:00
18902. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、自分と同い年の知人と話をしていた。彼は再婚し、現在子供が3人いるとのことで、子供たちと日々遊ぶことがとても楽しく、生き甲斐になっていると嬉しそうに述べた。しかしその直後に、実は自分の仕事や趣味の時間をもう少し確保したいという悩みを打ち明けた。今週末は幸いにも、妻の父に子供たちを少し預けることができるとのことで、そこで生まれた時間を自分の仕事や趣味に充てたいと述べていた。彼の話を聞きながら、子供を持つことの両義性はなかなか難しい問題と思わされた。
次に覚えているのは、知り合いのピアニストの女性と話をしていた場面である。彼女が自分の創作物を褒めてくれ、自分には何かを新しく生み出す創造の力があり、その才能を高く評価してくれた。彼女にそうしたことを言ってもらえてとても嬉しく思ったが、自分ではまだ自らの創造力についてはあまりピンと来ていないというのが正直なところだった。彼女と話をしていたのは見慣れない教室で、若い講師の男性が教室に入ってきた。どうやらこれから創作についてワークショップをしてくれるようで、単に講義を聞くのではなく、実際に手を動かしながら創作体験ができる内容とのことだった。いざワークショップが始まってみると、その講師の男性はADHDを持っているらしく、それが逆に彼の個性となって面白い作品を生み出していることに気づいた。自分はADHDではないと思うが、何らかの個性的な精神特性を持っていることには薄々気づいていて、逆にそのおかげで自分もまた創作で思わぬ力を発揮しているように思う。ワークショップで題材として取り上げられた漫画を読んでみると、文字が汚くて読めず、思わず笑ってしまった。その点を作者にぶつけてみると、きっと周りの人たちも思わず笑うだろうと思って、作者に大きな声で質問したところ、意外にも周りはあまり笑っていなかった。周りの予想外の反応に若干気落ちし、引き続き自分の創作に集中しようと思った。フローニンゲン:2026/6/20(土)06:15
18903. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は、自分の内側で「創造する人生」と「関係に応答する人生」が静かに向き合っていることを示しているのかもしれない。同い年の知人が、再婚し、三人の子供と遊ぶことを生き甲斐として語りながら、同時に仕事や趣味の時間を求めている場面は、幸福が必ずしも単純な充足として訪れるわけではないことを象徴しているようである。子供たちは、生命の継承であり、他者への献身であり、自分を外へ開いていく力である。しかし同時に、時間を吸い込む小さな渦でもある。愛するものが、自分の自由を制限する。ここに夢は、人生の豊かさがしばしば「両手に抱えきれない花束」のように現れることを示しているのだろう。その知人は、現実の他者であると同時に、自分の中にある別の可能性でもあるのではないか。家庭、子供、安定した関係、日常の喜び。そうした人生の枝がもし伸びていたならば、自分もまた同じように、愛と制約のあいだで時間配分に悩んでいたかもしれない。夢の中で自分がその話を聞きながら両義性を感じていたのは、現在の自分が選び取っている創造的・探究的生活の価値を、別の人生の鏡を通して確認していたからであるとも考えられる。次の場面で、知り合いのピアニストの女性が自分の創造力を褒めてくれたことは、外側から訪れる「承認」の象徴であるように思われる。音楽家である彼女は、言葉以前の響きを聴き取る存在であり、自分自身がまだ明確には信じ切れていない創造性を、先に聴き取ってくれる内的証人のようである。自分ではピンと来ていないという感覚は、創造力がまだ自己像の中心に統合されていないことを示しているのかもしれない。才能は、本人にはあまりに近すぎて見えない。眼鏡をかけて世界を見ている者が、眼鏡そのものを忘れるように、自分にとって創造性は自然すぎる呼吸になっている可能性がある。見慣れない教室と若い講師の登場は、新しい学びの場への移行を象徴しているのだろう。そこでは受動的に知識を聞くだけではなく、実際に手を動かして創作することが求められている。これは、これまで蓄積してきた思想、翻訳、研究、音楽、夢の記録が、いよいよ「作品」という具体的な形へ結晶化していく段階に入っていることを暗示しているようである。講師のADHD的特性が作品の面白さに変換されていたことは、精神の凸凹が欠陥ではなく、独自のリズムを持つ創造のエンジンになりうることを示しているのかもしれない。漫画の文字が汚くて読めず、それを笑いに変えようとしたが、周囲があまり笑わなかった場面は、自分の感性と集団の反応が必ずしも一致しないことへの微かな失望を表しているようである。しかしここで重要なのは、周囲の反応に気落ちしながらも、自分の創作へ戻ろうとした点である。これは、自分が他者の拍手や笑いを必要としながらも、最終的には自分自身の創造の井戸へ降りていくしかないことを学びつつあることを示しているのだろう。この夢が示す人生における意味は、自分が他者の人生の豊かさを羨望や否定としてではなく、鏡として受け取りながら、自分固有の創造的時間を守り抜く段階に来ているということである。愛も創作も、どちらも時間を求める火である。その火をどの炉にくべるのかを選び続けることが、今の自分の成熟課題なのだと思われる。フローニンゲン:2026/6/20(土)07:12
18904. グラハム・ハーマンのオブジェクト指向存在論と唯識
書籍の整理と並行してグラハム・ハーマンのオブジェクト指向存在論と唯識を並べて考えていた。両者は一見すると似ているようで、実はまったく反対方向から世界の神秘に近づいているように思われた。ハーマンは、机、石、炎、人間、国家、楽曲といったあらゆるものを「対象」として捉え、それらは人間の認識にも、物質的部品にも、他のものとの関係にも還元できないと考える。対象はつねに関係の外へ余り出る。まるで深い霧の中に立つ塔のように、どの角度から見ても全体は見えず、見えている面の背後に、なお退隠した実在が残るのである。ハーマンにおいては、実在的対象と感覚的対象、実在的性質と感覚的性質の区別が重要であり、対象は経験に現れながらも、経験によって尽くされないものとして考えられるようである。それに対して唯識は、対象の奥に人間から独立した不可侵の実在を保存しようとするのではなく、そもそも対象が対象として立ち上がる仕組みを、識の変現として見ていく思想であるように思われる。山が山として、机が机として、他者が他者として現れるとき、その背後には阿頼耶識に蓄積された種子、末那識による自己執着、意識による分別、そして三性の構造が働いているのだろう。唯識における問題は、対象がどこまで隠れているかというより、対象と主体が分かれているように見えるその見え方そのものが、どのような認識の編み目から生じているかである。阿頼耶識はカルマ的な種子を蔵する意識として説明され、三性説は経験を遍計所執性、依他起性、円成実性という角度から捉える枠組みである。したがって、ハーマンの世界は無数の壺が宇宙の棚に並んでいるような世界であり、それぞれの壺の内側には誰も完全には覗き込めない暗がりがある。一方、唯識の世界は、壺そのものが心の川面に映る月影のようなものであり、問題は壺の内部ではなく、月影を外物として掴もうとする認識の癖にあるのだろう。ハーマンは対象の尊厳を守ろうとする。唯識は対象化の迷いをほどこうとする。前者は「もの」を人間中心主義から解放し、後者は「もの」と「自分」を分ける二元的構えから心を解放しようとしているようである。自分にとって興味深いのは、どちらの思想も安易な人間中心主義を崩す点である。ハーマンは、人間だけが世界を意味づける特権的主体ではないと語るように思われる。唯識もまた、自我が世界を所有しているという思い込みを解体する。しかし、ハーマンが対象の奥行きを讃える哲学であるなら、唯識は認識の奥行きを浄化する哲学である。ハーマンは世界の各所に閉じた神秘の箱を置き、唯識はその箱を作り出している夢の工房へ降りていくのである。自分がこれから学問や音楽や生活の中で出会うものを、単なる利用対象として粗雑に扱わず、その奥行きに敬意を払いつつも、それらを固定的な外物として掴みすぎないことを意識したい。対象の神秘を尊重するハーマン的感性と、対象化の迷いをほどく唯識的洞察を併せ持つことで、自分は世界を硬い物置としてではなく、深い響きを持つ夢の楽器として生きられるのかもしれない。フローニンゲン:2026/6/20(土)08:16
18905. クァンタン・メイヤスーの思弁的実在論と唯識
クァンタン・メイヤスーの思弁的実在論と唯識を並べて考えると、両者は「人間の認識に閉じ込められた世界」を突破しようとする点では似ているが、突破の方向がまったく異なるように思われた。メイヤスーは『有限性の後で』において、思考と存在の相関だけにアクセスできるという相関主義を批判し、科学が語る人類以前の宇宙、たとえば生命誕生以前の地球やビッグバンのような祖先以前的事実を、思考から独立した実在として考えようとする哲学者であるようだ。彼にとって重要なのは、世界が人間の認識と結びついてはじめて存在するのではなく、人間がいなくても存在し得たという冷たい星の硬度を取り戻すことである。一方、唯識は、外界を単純に否定するというより、外界が「外なるもの」として立ち上がる認識構造そのものを見つめる思想であるように思われる。三性説では、遍計所執性が誤った構想、依他起性が縁起的な生起、円成実性が主客二元の空性として理解される。さらに阿頼耶識の転依は、迷いの基盤そのものが覚りへと転じる変容として語られる。メイヤスーは、認識の檻を破って、思考なき宇宙の荒野へ出ようとする。唯識は、認識の檻そのものがどのように編まれたのかを見つめ、その結び目を内側からほどこうとする。メイヤスーにとって鍵となるのは、すべては偶然であり、必然なのは偶然性それ自体だけであるという徹底した思弁であろう。世界は固定された神の設計図ではなく、いつでも別様であり得るサイコロの宇宙なのである。これに対して唯識においては、世界は無秩序な偶然の爆発というより、種子、習気、分別、縁起が織りなす夢の布であるように見える。自分にとって両者の違いは、夜空の見方の違いに似ている。メイヤスーは、夜空の星が自分のまなざし以前から燃えていたことを忘れるなと語る。唯識は、その星を「星」として掴み、そこに遠さや美しさや意味を付与している認識の働きを見よと語る。前者は宇宙の非人間的な深淵に向かい、後者は経験の内側で世界が生成される深淵に向かうのである。しかし、この違いは単なる対立ではないのかもしれない。メイヤスーは、自分を人間中心的なぬるま湯から引き剥がし、宇宙の絶対的な外部へと投げ出す。唯識は、その「外部」と呼ばれるものさえも、認識の構成作用の中でどのように現れているのかを問う。メイヤスーが氷河のように冷たい実在の哲学であるなら、唯識は夢の中で夢を見ている者の指先に触れる哲学である。片方は宇宙の無人の荒野を歩き、もう片方は心の洞窟に灯をともすのである。自分がこれから学問を深めるうえで、唯識の内面的洞察だけに閉じこもらず、メイヤスーが示す非人間的な実在の圧力にも身をさらす必要があるのだろう。世界は単なる心の投影として柔らかく溶けるだけではなく、自分の思考を超えて沈黙する岩盤でもある。しかし、その岩盤を「岩盤」として経験する働きもまた、識の精妙な編み目の中で生じている。自分の探究は、この冷たい宇宙と温かな識のあいだに架かる一本の吊り橋を、慎重に、しかし大胆に渡っていくことなのかもしれない。フローニンゲン:2026/6/20(土)08:23
18906. デフォルトモードネットワークについて
ふとデフォルトモードネットワークについて考えてみると、それは脳の中にある静かな編集室のようなものなのだと思った。外の世界に向かって何かを処理している時よりも、むしろぼんやりしている時、過去を思い出している時、未来を想像している時、自分とは何者なのかを内側で考えている時に、このネットワークは密かに働いているようである。人間の脳は、ただ情報を受け取る機械ではなく、出来事の断片を拾い集め、それらを一つの物語へと編み上げる織物職人のような存在なのかもしれない。自分が夢を振り返ったり、日記を書いたり、過去の出来事の意味を考えたりしている時、そこではデフォルトモードネットワークが深く関わっているのだろう。昨日の出来事、幼少期の記憶、これから向かうエディンバラでの生活、音楽を通じて触れようとしている究極的リアリティ。それらは一見ばらばらの断片に見えるが、内側では一つの旋律としてつながろうとしているのかもしれない。デフォルトモードネットワークは、その旋律を静かに調律する内なる作曲家のようである。しかし、この働きは恩恵であると同時に、時に自分を閉じ込める檻にもなり得るのだと思う。自己について考える力は、自分の歩みを深く理解させてくれる一方で、過去の後悔や未来への不安を何度も反芻させることがある。同じ旋律を繰り返し弾き続ける壊れたオルゴールのように、思考が同じ場所を回り続けることもあるだろう。その時、デフォルトモードネットワークは、創造的な物語生成の場ではなく、自己執着の小部屋になってしまうのかもしれない。ここで、瞑想や音楽や散歩の意味が浮かび上がってくる。瞑想は、自分という物語を一時的に緩め、ただ呼吸や身体感覚に戻る営みである。音楽は、言葉による自己説明を超えて、響きの中に自分を溶かしていく営みである。散歩は、内側で渦巻く物語を外の風景に開き、思考の密室に窓を作る営みである。こうした実践は、デフォルトモードネットワークの働きを否定するのではなく、それをより柔らかく、より透明なものへと整えてくれるのだろう。唯識的に考えれば、デフォルトモードネットワークは、阿頼耶識に蓄えられた記憶や習気が、自己物語として立ち上がる一つの神経的な舞台装置のようにも見える。自分は過去の種子をもとに未来を想像し、他者との関係を解釈し、自分という存在の輪郭を描いている。しかし、その輪郭は固定された実体ではなく、その都度編み直される仮の線である。だからこそ、自分はその物語を信じすぎず、同時に大切に育てていく必要があるのだと思う。デフォルトモードネットワークは、自分の内側で記憶の書庫を開き、未来の地図を描き、他者との関係を想像し、自分という物語を紡ぐ働きである。これからの自分にとって大切なのは、その内なる語りに呑み込まれることではなく、その語りを一つの音楽として聴き取り、必要に応じて旋律を変えていくことなのだろう。自分という存在は、すでに完成した楽譜ではなく、日々の経験を通して即興的に奏で直されていく曲なのかもしれない。フローニンゲン:2026/6/20(土)09:49
Today’s Letter
Playing classical guitar may help reduce activity in the default mode network, thereby supporting self-healing and transformation. The more this self-referential network quietens, the more authentic my music seems to become. Groningen, 6/20/2026

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