【フローニンゲンからの便り】18895-18900:2026年6月19日(金)
- 2 日前
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タイトル一覧
18895 | カオスの淵で寛ぐこと |
18896 | 今朝方の夢 |
18897 | 今朝方の夢の振り返り |
18898 | ミュージックセラピーとしてのギター演奏 |
18899 | 自分のホロスコープとモーツァルトのホロスコープを比較して |
18900 | ギター演奏に内在するマルコフモデル・エルゴード性・非エルゴード性 |
18895. カオスの淵で寛ぐこと
カオスの淵とは、秩序と混沌のちょうど境目にある状態を指す概念である。完全な秩序の中では、物事は安定しているが、新しいものは生まれにくい。反対に、完全な混沌の中では、変化は豊かに見えるが、形として保たれにくい。カオスの淵とは、その両者のあいだにある、秩序が崩れすぎず、混沌にも飲み込まれすぎない、創造性と適応性が最も高まりやすい領域である。生命、知性、組織、創造活動は、しばしばこの境界領域で進化すると考えられる。氷のように固まりすぎても、水蒸気のように散りすぎても生命は宿りにくい。生命はむしろ、流れながらも形を保つ水のような状態において、最も豊かに躍動するのである。今の自分にこの概念を重ねると、まさに人生がカオスの淵に立っているように感じられる。オランダでの長い生活を終え、エディンバラへ移る準備をしている。書籍を手放し、種々の手続きを進め、住まいを整え、仏教学の学びへと本格的に向かおうとしている。これまで自分を支えてきた生活の秩序は少しずつほどけている。しかし、それは崩壊ではなく、新しい秩序が生まれる前のゆらぎなのだろう。ちょうど、楽器の弦を張り替えるときに一時的に音が不安定になるように、今の不安定さは、新しい調律の前触れなのかもしれない。カオスの淵にいるとき、人はしばしば不安を覚える。なぜなら、古い秩序はもう完全には機能せず、新しい秩序はまだ十分に形を取っていないからである。これまでの仕事、生活、研究、所有物、人間関係、習慣の一つひとつが、もう一度問い直されている。何を持っていくのか。何を置いていくのか。何を学び直すのか。何を深めるのか。こうした問いは、単なる引越しの準備ではなく、自己そのものの再編成に関わっているように思う。しかし、カオスの淵は危険な場所であると同時に、最も創造的な場所でもある。完全に安定した生活の中では、自分は既存の役割を繰り返しやすい。反対に、すべてが混乱してしまえば、方向性を失ってしまう。だが今の自分には、混沌に飲み込まれないだけの軸がある。仏教研究、法相唯識、縁起、意識とリアリティの探究、音楽、日記、身体実践。これらは、荒れた海に浮かぶ灯台のように、自分の方向感覚を支えている。だからこそ、今の変化は単なる不安定さではなく、創造的な再編成として受け止められるのだろう。最近、文化箏やクラシックギターの即興に惹かれていることも、このカオスの淵と深く関係しているように思う。即興とは、完全な無秩序ではない。音階、楽器、身体、響きという一定の制約があり、その中で自由に揺らぐ営みである。制約があるからこそ遊べる。秩序があるからこそ逸脱できる。即興演奏は、カオスの淵を小さな音楽的空間の中で体験する稽古なのかもしれない。一音を出し、その響きを聴き、次の一音を探る。その連続は、まさに今の人生そのものに似ている。また、カオスの淵は、仏教の縁起とも響き合っているように感じられる。あらゆるものは固定された実体ではなく、条件の変化によって絶えず生起し直す。秩序もまた固定物ではなく、関係性の網の目の中で一時的に立ち上がる模様である。今の自分は、古い条件の網の目から、新しい条件の網の目へと移行している。その過程では、自分という存在の輪郭もまた揺らぐ。だが、その揺らぎこそが、より深い自己理解へと至る入口なのかもしれない。人生における意味として、今の自分がカオスの淵にいるということは、単に不安定な時期にいるということではない。それは、古い秩序を失いながらも、新しい秩序を創造する力が最も高まっている時期にいるということである。大切なのは、混沌を恐れてすぐに古い型へ戻ることでも、秩序を捨てて流されることでもない。秩序と混沌のあいだで、自分の内なるリズムを聴き取りながら、一音ずつ次の人生を即興していくことである。今の自分は、崩れかけた場所にいるのではなく、新しい形が生まれる震源に立っているのであろう。フローニンゲン:2026/6/19(金)06:14
18896. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、見慣れない家の中にいた。そこには小中学校時代の数人の友人がいて、彼らと話をしていると、突然強風と激しい雨がやってきた。窓を閉め、雨が入ってこないようにしたのだが、どうしても最後まで閉まらない窓があり、どうしようかと思った。しかし幸いにも、そこはちょうど雨除けがある箇所だったので、雨は部屋に入ってこず助かった。
この場面の後に現れたのは、感動的なスピーチを聞いている場面である。私は思わず涙が込み上げて来て、感動の渦の中にいた。感動が収まって来た頃にふと、そう言えば今読み上げられているスピーチ原稿は、自分で書いたものだと思い出した。自画自賛ではないが、我ながら見事な内容だと思い、そこからは冷静になってスピーチを聞いていた。
次の場面もまた断片的なものだった。地元にいて、父から車を借りて友人たちがいる室積の方に向かって行こうとしていた。しかし、事故を起こしたくないと思ったので、不慣れな車の運転をするのではなく、幾分時間はかかるが、自らの足で歩いて行こうと思った。片道1時間半、あるいは2時間ぐらいかかるかもしれないが、それでもいい運動だと思って歩いていくことを決心すると、不思議と安心感が芽生えた。
最後に覚えているのは、かつてのサッカー日本代表の名選手たちと身体能力の測定の話で盛り上がっていた場面である。これまでずっと身体能力が高いと思っていた中盤の2人の選手が、実はきちんと測定してみると意外と平均的であることに驚いた。2人が語っていたのは、測定の数値に表れないような、実際のフィールド上での体の使い方が上手いのだろうということだった。確かに、アセスメントの数値には還元できないような、実際の現場で発揮される能力というものが確かに存在し、むしろそちらの能力を大切にする必要があるように思った。具体的なコンテクストから切り離されたアセスメントをどれだけ受けても意味はなく、アセスメントの数値を鵜呑みにすることの危険性を教えてもらったような気がした。これはデータサイエンスが流行になりつつあるスポーツ界にとって重要な警告のように思えた。ふと視線を左にやると、屋外のフットサルコートで少年たちが試合をしていた。彼らは真剣な表情でプレーしており、大人顔負けの見事な試合をしていた。それを受けて、応援している大人たちも大いに盛り上がっていた。2026/6/19(金)06:25
18897. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は、自分の内側で進んでいる「環境の変化への適応」と「能力観の組み替え」を象徴しているように思われる。見慣れない家は、これから移り住もうとしている新しい生活空間、あるいは新たな自己の器を表しているのかもしれない。そこに小中学校時代の友人たちがいることは、過去の自分、原初的な人間関係、まだ社会的役割によって厚く覆われていなかった頃の感覚が、今の変化の場に同席していることを示しているようである。突然の強風と激しい雨は、外界からやってくる予測不能な変化である。引越し、進学、経済的判断、生活環境の再編など、今の自分を取り巻く現実は、まさに風雨のように押し寄せているのだろう。窓を閉めようとする行為は、境界を整え、自分の内的空間を守ろうとする働きである。しかし最後まで閉まらない窓がある。これは、どれほど準備しても完全には制御できない隙間が残ることを示しているように思われる。だが、その箇所には雨除けがあり、雨は入ってこない。ここに重要な示唆がある。自分が完全に閉じなくても、世界の側にすでに守りの構造があるのかもしれない。自分の努力だけで全てを防御しなくても、縁や環境が傘のように働くことがあるのである。次の感動的なスピーチの場面は、自分の言葉が自分自身を癒やし、励ましている構造を示しているようである。最初は他者の言葉として聞き、感動していたものが、実は自分で書いた原稿であったと気づく。これは、自分がこれまで書き続け、考え続け、語り続けてきた言葉が、他者へ向けたものに見えながら、深層では自分自身を支える祈りでもあったことを表しているのではないか。言葉は、外へ投げた矢であると同時に、内側へ戻ってくる光でもある。感動から冷静さへ移る流れは、自分の表現力を陶酔ではなく技術として受け取り直す成熟を示しているようである。父から車を借りて室積へ向かおうとする場面は、受け継がれた力、家族的資源、あるいは父性的な推進力を使って目的地へ向かおうとする構図である。しかし自分は、不慣れな車を運転するよりも、自分の足で歩くことを選ぶ。ここには、速さよりも身体化された確かさを選ぶ姿勢がある。車は効率の象徴であり、歩行はプロセスの象徴である。遠回りであっても、自分の足裏で道の硬さを確かめながら進むことの方が、今の自分には深い安心をもたらすのだろう。これは、学問や音楽や生活移行において、借り物の推進力ではなく、自分の歩幅で進むことへの信頼を示しているように思われる。最後のサッカー日本代表の場面は、能力を数値化することへの批判的洞察を象徴している。身体能力の測定では平均的であっても、フィールドでは卓越した動きができる選手たちがいる。これは、文脈から切り離された評価では見えない知性、身体に沈み込んだ判断、場の流れを読む感覚の重要性を示しているのだろう。自分が関心を寄せてきた成人発達理論やアセスメントにも通じる警告である。人間の能力は、試験管に入れられた水のように測れるものではなく、川の流れの中で初めて形を現す。能力とは、数値の高さではなく、場と呼応するしなやかさなのかもしれない。少年たちのフットサルは、その洞察の結晶である。彼らはまだ完成された選手ではないが、真剣な場の中で、すでに本物の力を発揮している。そこには、未成熟でありながら成熟を先取りするような輝きがある。自分の中にも、まだ測定され尽くしていない若い力があり、それが現場の中で育とうとしているのだろう。この夢が示す人生における意味は、自分が完全な制御や外的評価に依存する段階から、自分の歩幅、場に応じた実践知、そして内側から湧き上がる言葉と身体感覚を信頼する段階へ移行しつつある、ということである。フローニンゲン:2026/6/19(金)07:29
18898. ミュージックセラピーとしてのギター演奏
ミュージックセラピーの要諦は、音楽を単なる鑑賞対象として扱うのではなく、心身の状態を映し出し、整え、変容させる媒介として用いる点にあるのだと思う。音楽は、言葉になる前の感情に触れる。まだ自分でも名づけられていない疲れ、不安、寂しさ、緊張、喜び、祈りのようなものが、音の振動によって少しずつ表面に浮かび上がってくる。言葉が心の地図を描くものだとすれば、音楽はその土地を実際に歩く足裏の感覚に近い。だからこそ、音楽は分析する前に癒しを始めるのかもしれない。特にクラシックギターは、自己治癒の楽器として非常に繊細で豊かな可能性を持っているように思う。ピアノのように鍵盤を介して音を出すのではなく、弦に直接指が触れる。自分の皮膚、爪、指先の角度、右手の重み、左手の圧、呼吸の深さ、それらがすべて音に現れる。つまり、クラシックギターを弾くことは、自分の内面の状態を木と弦に翻訳する営みである。心が硬ければ音も硬くなり、呼吸が浅ければフレーズも詰まり、身体がほどけると音の輪郭にも柔らかさが出てくる。ギターは、自分の状態を隠さず返してくれる小さな鏡なのであろう。自己治癒としてのギター演奏で大切なのは、上達を目的の中心に置きすぎないことだと思う。もちろん技術の向上は大切である。しかし、癒しのために弾くときには、正しく弾くことよりも、今の自分の状態に丁寧に耳を澄ませることが重要になる。たとえば、一日の途中でギターを手に取り、開放弦をゆっくり鳴らす。それだけでもよい。音が部屋に広がり、消えていくまで待つ。次の音を急がず、余韻の中に自分の呼吸を置く。すると、意識の表面で忙しく波立っていたものが、少しずつ深い水面へ沈んでいくように感じられる。即興演奏もまた、自己治癒において大きな意味を持つように思う。あらかじめ決められた曲を弾くと、どうしても誤りや完成度が気になる。しかし即興では、今出てきた音を受け入れ、その音から次の音へ進むことができる。これは、人生そのものに似ている。思い通りではない音が出ても、それを否定するのではなく、その音を次の展開の素材にする。失敗した音も、別の響きへの入口になる。自己治癒とは、傷を消すことではなく、傷の周囲に新しい旋律を編み直すことなのかもしれない。クラシックギターを通じて自己治癒を行うためには、身体感覚を丁寧に観察することも大切である。右手が弦に触れる瞬間、左手が指板を押さえる瞬間、肩や首に余計な力が入っていないか、呼吸が止まっていないかを感じる。これは一種の身体瞑想である。ギターは、身体の緊張を音として可視化ならぬ可聴化してくれる。硬い音が出たとき、それを責めるのではなく、身体のどこが硬くなっているのかを尋ねる。音は、内面からの小さな手紙である。そこには、「もっと緩めてよい」「急がなくてよい」「今ここに戻ってよい」と書かれているのだろう。また、短いフレーズを繰り返すことにも治癒の力がある。たとえば、穏やかなアルペジオを何度も弾く。あるいは、低音をゆっくり鳴らし、その上に小さな旋律を置いてみる。反復は退屈なものではなく、心が安全を取り戻すための揺りかごである。一定のリズムの中で、心身は少しずつ「ここは安全である」と感じ始める。すると、普段は言葉で処理しようとしていた感情が、音の中で自然にほどけていく。人生における意味として、クラシックギターによる自己治癒は、自分という楽器を日々調弦し直す営みであるように思う。社会的な役割、研究、移住準備、将来への期待と不安の中で、自分の弦は少しずつ緩んだり張りすぎたりする。ギターを弾く時間は、その張力を確かめる時間である。うまく弾くためだけではなく、よく生きるために弾く。音を鳴らし、響きを聴き、身体を緩め、心の奥にある静かな場所へ戻る。その小さな反復を通じて、自分は自分自身を癒す演奏者であり、同時に癒される楽器でもあるのだろう。フローニンゲン:2026/6/19(金)08:23
18899. 自分のホロスコープとモーツァルトのホロスコープを比較して
先日ふと自分のホロスコープとモーツァルトのホロスコープを並べて眺めていると、そこには単なる星の配置以上のものが浮かび上がってくるように感じられた。自分の図では、太陽が天秤座終盤、月と木星が水瓶座、金星が天秤座、水星・土星が蠍座、火星が乙女座付近にあり、風の知性、水の深さ、地の精密さが絡み合っているように見える。 一方、モーツァルトの図には、水瓶座的な集中が強く現れており、音楽を通じて世界の秩序を軽やかに翻訳する魂の構造が示されているように思われた。自分とモーツァルトの共通点としてまず感じたのは、水瓶座的な革新性である。モーツァルトにとってそれは、旋律や和声を通じて既存の形式を内部から刷新していく力であったのだろう。音符が鳥の群れのように空中で形を変えながら、一つの秩序へと収束していくような創造性である。それに対して自分の水瓶座性は、月と木星に現れているように見え、音としてではなく、思想、世界観、教育、未来への展望として働いているように思われる。自分は音の建築家ではなく、意味の星図を描く者なのかもしれない。しかし、両者の創造性の質は明らかに異なるように感じられた。モーツァルトの創造性は、泉が地表から一気に湧き出すような即興性と軽やかさを持っている。それは火花のように速く、風のように自由で、世界そのものを音楽化してしまう力である。自分の場合は、そうした瞬発的な天才性というより、蠍座的な深層探究、乙女座的な精密作業、天秤座的な美的均衡を通じて、長い時間をかけて意味を結晶化していく創造性なのだと思われる。モーツァルトが空から旋律を受け取る人であるなら、自分は地下水脈を掘り当て、その水を言葉や音として汲み上げる人なのだろう。特に、自分の中にある蠍座的な力は重要であるように思う。それは、物事の表面だけでは満足せず、意識、死生観、無意識、変容、唯識、量子論、宗教哲学といった深い領域へ潜っていこうとする力である。自分にとって知ることは、明るい野原を散歩することではなく、鉱山の奥へ降りていき、暗闇の中から光る鉱石を探し出す作業に近いのかもしれない。そこには苦しさもあるが、その苦しさの中にこそ、自分の思想の核が育っているように感じられる。また、天秤座の太陽と金星は、自分が美しい均衡や関係性の調和を求める性質を示しているようである。自分は概念をただ積み上げたいのではなく、それらを美しい配置に置き直したいのだと思う。論文、講義、書籍、日記、翻訳、そのいずれにおいても、自分は一つ一つの概念を室内楽の楽器のように配置し、主題、対比、変奏、再統合の流れを作ろうとしているのかもしれない。モーツァルトが音の中で秩序を作ったように、自分は言葉の中で秩序を作ろうとしているのである。この比較を通じて思ったのは、自分の中にも確かに音楽的な構造感覚があるということである。ただし、それは必ずしも作曲家として現れるものではなく、文章、思想体系、教育実践、学問的探究として現れるのだろう。自分の人生における創造性は、旋律ではなく意味を奏でることにあるのかもしれない。モーツァルトが宇宙の響きを音に変えた人であるなら、自分は宇宙・意識・人間発達の深層構造を言葉に変えていく人である。人生における意味は、この比較を通じて、自分が誰かの天才性を模倣する必要はなく、自分固有の楽器で、自分固有の星の音を奏でていけばよいという静かな確信を得ることにあるのだと思われる。フローニンゲン:2026/6/19(金)08:32
18900. ギター演奏に内在するマルコフモデル・エルゴード性・非エルゴード性
クラシックギターを手に取りながら、ふと隠れマルコフモデル、エルゴード性、非エルゴード性という三つの概念が、演奏の成長過程を見事に説明してくれるように思えた。数学や統計の概念が、指板の上で音になり、右手と左手の小さな運動の中に溶け込んでいく感覚があった。ギターの練習とは、ただ音を出すことではなく、見えない状態が少しずつ変化していく過程なのだと思った。隠れマルコフモデルとは、表に現れている観測可能な出来事の背後に、直接は見えない状態の遷移があると考えるモデルである。これをクラシックギターに当てはめると、表に現れるのは音の美しさ、ミスの有無、テンポの安定、音色の明暗である。しかし、その背後には、身体の緊張、右手の準備、左手の独立性、呼吸、集中度、楽曲理解といった隠れた状態がある。自分がある音を綺麗に出せたとしても、それは偶然の成功かもしれないし、背後の身体状態が本当に整い始めている兆候かもしれない。反対に、ミスが出たとしても、それは能力の欠如ではなく、隠れた状態が一時的に不安定になっただけかもしれない。そう考えると、日々の練習は、見える音を通じて、見えない自分の状態を推定していく営みである。ギターは小さな診断機のようである。弦に触れた瞬間、身体の癖が音として露出する。力んでいれば音は硬くなり、準備が遅れていれば音は濁り、呼吸が浅ければフレーズは縮む。音は嘘をつかない。しかし音は、背後の状態を直接語るのではなく、暗号のように示すだけである。だから自分は、演奏しながらその暗号を読み解いているのだろう。そこにエルゴード性という概念が関わってくる。エルゴード性とは、大まかに言えば、一つの個体が長くたどる時間平均と、多数の個体を一時点で見た集合平均が一致するような性質である。もしギター上達がエルゴード的であるなら、多くの人の平均的な練習過程を見れば、自分の成長もおおよそ予測できることになる。毎日何分練習すれば何ヶ月でこの曲が弾ける、というような一般則が成り立つはずである。しかし、実際のクラシックギターの成長は、かなり非エルゴード的であるように思われる。他者の平均的な上達曲線は、自分の身体にそのまま当てはまらない。ある人は右手の独立に苦労し、ある人は左手のバレーに苦労する。ある人は譜読みが速く、ある人は音色への感性が鋭い。自分の場合も、ある技術は突然開けるが、別の技術は長く沈黙する。まるで地下で根が伸びている植物のように、地上では何も変わっていないように見えても、ある朝突然、新しい芽が出ることがある。非エルゴード性とは、人生や学習が単なる平均値では語れないということである。昨日の自分の練習は、今日の自分の身体に残っている。過去の癖、過去の成功体験、過去の力み、過去の聴覚経験が、今日の一音に影を落とす。つまり、ギターの上達はリセット可能な試行の繰り返しではなく、履歴を持った変容である。指先には時間が沈殿している。爪の形、弦への触れ方、音への反応のすべてに、自分の歩いてきた道が刻まれている。だからこそ、クラシックギターの練習では、他者の平均と比較するよりも、自分固有の遷移確率を見つめることが大切なのだと思う。今日はどの状態からどの状態へ移りやすいのか。集中から焦りへ移るのか、力みから脱力へ移るのか、断片的な音から歌うフレーズへ移るのか。その小さな遷移を観察することが、練習の本質なのかもしれない。隠れマルコフモデルのように、音の背後にある見えない状態を推定し、非エルゴード的な自分だけの時間の流れを尊重するのである。今日の気づきは、クラシックギターの上達とは、平均的な地図に従って進む旅ではなく、自分の身体という未踏の森に道を刻んでいく営みだということである。音は観測値であり、身体は隠れた状態であり、人生は非エルゴード的な軌跡である。だから焦らなくてよい。自分だけの遷移を丁寧に観察しながら、一音一音を通じて、見えない自己の構造を少しずつ調律していけばよいのである。フローニンゲン:2026/6/19(金)09:39
Today’s Letter
The world needs each one of us because reality reveals itself through each of us in a unique way. That is why we are all precious beings. Groningen, 6/19/2026

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