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【フローニンゲンからの便り】18907-18912:2026年6月21日(日)

  • 5 時間前
  • 読了時間: 17分


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タイトル一覧

18907

身体動作の再現性を意識して

18908

今朝方の夢

18909

今朝方の夢の振り返り

18910

非二元と二元の関係

18911

省略の知性を育む余分な動きへの意識

18912

即興演奏の練習における指板上工夫

18907. 身体動作の再現性を意識して 

       

ブランダン・エイカー氏の助言の核心は、音色の不安定さを「集中力不足」や「努力不足」の問題として捉えるのではなく、弦への接近の仕方の微細なズレとして捉える点にある。これは非常に重要な指摘である。演奏者は、昨日は良い音が出たのに、今日はなぜか音が薄い、硬い、ばらつく、と感じることがある。そのとき多くの場合、自分は集中していないのではないか、もっと丁寧に弾くべきなのではないか、と考える。しかし彼は、問題は精神論ではなく、身体動作の再現性にあると述べているのである。クラシックギターで言えば、同じ弦を同じ指で弾いているつもりでも、指が弦に触れる位置、爪と肉の角度、指が弦を押し込む深さ、弦を抜ける方向、手首の高さ、腕の重さのかかり方がわずかに違うだけで、音色は大きく変わる。演奏者の手にはその違いがほとんど感じられない。しかし耳は、それを即座に聴き分ける。身体にとっては小さな誤差でも、音にとっては大きな地形の変化なのである。川の流れが、石の位置が少し変わるだけで水音を変えるように、弦の振動も、接触の角度や抜け方の違いによって別の表情を帯びる。ここで大切なのは、良い音を「作ろう」としすぎないことである。良い音を出そうとして力を加えると、むしろ接触点が不安定になりやすい。音色の安定は、意志の強さから生まれるのではなく、弦に向かう手の道筋が毎回同じになることから生まれる。つまり、音を直接コントロールするのではなく、音が生まれる条件を安定させるのである。これは、花を無理やり咲かせるのではなく、土、水、光の条件を整えることに似ている。この助言は、音色を偶然の産物から意図的な表現へ変えるための視点でもある。毎回違う音が出てしまう段階では、演奏者は音に反応している。良い音が出れば安心し、悪い音が出れば修正しようとする。しかし、どのような接触がどのような音を生むのかを理解し始めると、演奏者は音の原因に働きかけられるようになる。すると、柔らかい音、明るい音、太い音、鋭い音を偶然ではなく選択として生み出せるようになる。これは、音色が「起きてしまうもの」から「選び取るもの」へ変わるということである。練習においては、速く弾く前に、一音一音について、指がどこから弦に入っているか、どの角度で触れているか、弦をどの方向へ通過しているかを観察することが重要になる。特に、同じ弦で同じ音を何度も弾き、毎回同じ音色になるかを聴く練習は有効である。その際、「もっと良い音を出そう」とするよりも、「同じ入り方をしているか」を観察する方がよい。音色が乱れるとき、原因はしばしば音の後ではなく、音の前にあるからである。この助言は、演奏全体にも通じる。安定した演奏とは、単にミスが少ない演奏ではなく、身体が楽器に対して毎回同じ信頼できる通路を持っている状態である。指が弦へ向かう道が定まり、接触の質が安定し、抜け方が再現されると、音は自然に落ち着く。そのとき演奏者は、力で音を支配するのではなく、弦と対話するようになる。音色の一貫性とは、努力の量ではなく、弦への接近の質の一貫性なのである。フローニンゲン:2026/6/21(日)05:44


18908. 今朝方の夢 

               

今朝方は夢の中で、数階建ての見知らぬ建物にいた。その建物の一室で、ある資格試験の問題を解いていた。その問題の多くは論理パズル的かつ数学的なもので、自分としては楽しく解き進めることができていた。部屋ごとに違う問題が出題され、基準点をクリアすると次の部屋に進める形になっていた。最後の問題セットも無事に解き終えた時に、採点者の方からふと、「最近チートが横行していて困ってるんです」と言われた。私の前の3人組も、後の3人組もチートをしているようだった。自分は自力で問題を解いていき、解く楽しさを味わっていたが、最近はもはや効率性を重視して、問題と向き合うことをせず、テクノロジーを駆使してチートをすることが当たり前になっているようで、何か寂しさを感じた。

次の夢の場面は、ヨーロッパ風の大きな書店を舞台にしたものだった。そこである店員の男性が出題した数学の問題を解いており、解き終えた時に横にある知人がいた。その方は日本の名門大学の数学科を卒業しており、頭脳明晰だった。自分はその問題に対して途中の一問と最後の一問が時間が足りずに、合計85点だった。出題者の方曰く、その点は歴代最高で立派なものだと述べてくれたが、知人のその方は自分よりも点数が高いような気がした。不思議とその方の最終的な点数は算出されておらず、どうやら最後の二問ぐらいが時間が足りずに白紙の状態だったそうだ。しかしそこまでの問題はミスを一切せずに正解していったあたりがさすがだと思った。採点結果の話が終わると、ある棚に積まれている洋書の話をこちらから切り出した。というのも、そこに積まれている学術書が素晴らしく、自分が愛読しているものばかりだったからだ。学術的な感性が共鳴する棚はこれまで見たことがなく、そのことをその店員の方に伝えると、どうやらその方が注文して取り寄せた本だということがわかった。その方は幼少期より、両親を真似て書籍を選んで注文することを行なっていたようで、それがその方の書籍の選別眼を磨いたようだった。ジョン・エフ・ケネディ大学のある教授の本が置いてあることをとても嬉しく思う、ということを伝えたら、「あぁ、ディーン・ラディン教授の本ですね」と述べたので、「そうです、そうです」と答えた。しかしよくよく考えてみると、ラディン教授はJFKUには所属しておらず、自分が言いたかったのは、クリスチャン・デ・クィンシー教授の本だったとすぐに気づいた。その訂正はせず、自分の頭の中だけで間違いを正すことにした。フローニンゲン:2026/6/21(日)06:04


18909. 今朝方の夢の振り返り

                

今朝方の夢は、自分の内側で「本当に身についた力」と「外部化された知性」とが静かに対峙していることを象徴しているのかもしれない。数階建ての見知らぬ建物は、意識の発達段階を垂直に積み重ねた塔のようなものであり、部屋ごとに異なる問題が出される構造は、自分がいま複数の知的課題、生活上の移行、研究上の試練を一つずつ通過していることを示しているように思われる。論理パズルや数学的問題を楽しみながら解く場面は、自分にとって思考そのものが苦役ではなく、深い遊戯であることを表しているのであろう。知性が単なる得点獲得の道具ではなく、森の中で小径を見つけていくような探索の喜びとして働いているのである。しかし、その直後に「チートが横行している」という言葉が現れる。これは、生成AIやテクノロジーの時代において、答えに到達する速度だけが重んじられ、問いと格闘する身体感覚が失われつつあることへの寂しさを映しているのかもしれない。自分は効率性を否定しているわけではないだろうが、問題を解く過程で精神の筋肉が鍛えられるという感覚を大切にしているのである。チートをする前後の三人組は、集合的な時代精神のように現れ、自分の前にも後にも、そうした風潮が広がっていることを示しているようである。その中で自力で解く自分は、流行の川に流されず、石を一つずつ踏んで渡ろうとする存在である。次のヨーロッパ風の大きな書店は、知の大聖堂のような場所である。そこでは数学的能力の試験と、学術的感性の確認が重なっている。85点という結果は、完全性には届かないが、十分に高い到達を示す象徴であろう。横にいる数学科出身の知人は、自分の中にある「純粋な正確性」への憧れを人格化した存在かもしれない。その人はミスをしないが、最後まで到達しきれない。自分は途中に取りこぼしがあるが、全体を進めて高得点に至る。この対比は、自分の知性が完全無欠な計算機ではなく、広い射程を持つ探究者型の知性であることを示しているように思われる。精密な刃物というより、多くの風景を拾いながら進む羅針盤なのである。書店の棚に積まれた洋書が、自分の愛読書ばかりであったことは重要である。そこには、外界に自分の内的図書館が投影されている。店員がそれらを選んだという事実は、自分の外側にも同じ知的感性を持つ他者が存在しうるという希望を示しているのだろう。幼少期から両親を真似て本を選んできたという店員の話は、知の選別眼が単なる情報処理能力ではなく、模倣、家庭的記憶、長年の手触りを通じて育つ職人的感覚であることを語っているようである。本を選ぶとは、海に網を投げることではなく、星座を読むことに近い。最後に、ディーン・ラディン教授とクリスチャン・デ・クィンシー教授を取り違える場面は、自分の知的世界が近接する主題同士のあいだで一瞬揺らいだことを示しているのかもしれない。どちらも意識研究やリアリティ探究に関わるが、所属や思想的位置づけは異なる。この小さな訂正を口に出さず、頭の中だけで行う場面には、自分が外的評価よりも内的整合性を重んじていることが表れているようである。つまり、自分にとって大切なのは、他者の前で正しさを誇示することではなく、内なる知の地図を静かに修正し続けることなのである。この夢が示す人生における意味は、テクノロジーが答えを高速化する時代にあっても、自分は問いと向き合う喜び、書物を選ぶ感性、知を自力で咀嚼する誠実さを失わずに、自分だけの知の書店を内側に築いていくことである。フローニンゲン:2026/6/21(日)06:44


18910. 非二元と二元の関係

                                     

ふと非二元と二元の関係について考えていると、そこには実に不思議な逆説があるように思われた。私たちは本来、非二元から一瞬たりとも離れていない。海の波がどれほど高く立ち上がっても、海そのものから離れることができないように、自分たちもまた、最初から非二元のただ中にいるのだろう。にもかかわらず、認識が働き始めると、そこに見る者と見られるもの、感じる者と感じられるもの、求める者と求められるものという分裂が生じてくる。まるで透明な水晶に光が差し込み、そこから無数の色が分かれて見えるように、認識は一なるものを多なるものとして展開させるのである。しかし、その二元は単なる誤りとして捨て去ればよいものではないのかもしれない。なぜなら、私たちはまさにその二元的な認識を通して、非二元の気配を感じ取ることもあるからである。美しい音楽を聴く時、そこには聴く自分と鳴っている音という区別がある。しかし、ある瞬間、その区別が柔らかくほどけ、音が自分の内側で鳴っているのか、自分が音の内側で息づいているのか分からなくなることがある。二元的な耳によって音を聴いているはずなのに、その音は二元を超えた響きへと自分を連れていくのである。ここに、認識の罪と恩寵の両方があるように思われる。認識は世界を切り分ける刃である。自分と他者、成功と失敗、過去と未来、理想と現実を区別し、その区別によって自分は苦しむ。自分は自分であり、世界は世界であると思う時、そこには隔たりが生まれる。隔たりが生まれると、所有したいもの、失いたくないもの、遠ざけたいものが生じる。そこから執着が生まれ、恐れが生まれ、苦しみが生まれるのだろう。けれども、その同じ認識は、非二元へ戻るための小舟にもなり得る。言葉は分けるが、言葉によって沈黙へ向かうこともできる。概念は切り裂くが、概念によって概念の限界を知ることもできる。音は一つ一つの高さに分かれているが、旋律になると、それらは分かれていながら一つの流れになる。自分の音楽実践や唯識の探究も、この逆説の上に成り立っているのかもしれない。二元を生じさせる認識そのものを丁寧に見つめることで、二元が絶対的な壁ではなく、非二元が一時的に描いた模様であることが見えてくるのである。唯識的に言えば、主客の分裂は識の働きによって生じる。見られる世界は外に独立して固まっているのではなく、種子や習気や分別によって、そのように現れているのだろう。だが、それは世界が無意味な幻であるということではない。夢の中の光景が、夢であるからこそ心の深層を映し出すように、現象世界もまた、識の深い動きを映す鏡なのである。重要なのは、鏡に映った像を実体として掴みすぎないことであり、同時に、その像を通して鏡そのものの透明さに気づくことである。自分は今、非二元をどこか遠くの境地として求める必要はないのだと思う。非二元は、すでにこの呼吸の中、この身体感覚の中、この音の響きの中、この思考の揺らぎの中にある。ただし、それは思考によって所有できるものではない。手で水面を掴もうとすると波立ってしまうように、非二元を対象として捕まえようとした瞬間、それは二元の中に落ちてしまう。だからこそ必要なのは、掴むことではなく、気づくことなのだろう。二元は非二元からの転落ではなく、非二元が自らを経験するために開いた仮の舞台なのかもしれない。自分はその舞台の上で苦しみ、学び、奏で、愛し、別れ、また気づいていく。大切なのは、舞台を本物の牢獄だと思い込まないことである。幕が上がり、役が与えられ、物語が進んでいても、劇場全体はいつも一つの空間としてそこにある。自分は二元の場面を生きながら、その奥で一度も失われていない非二元の静けさに、少しずつ耳を澄ませていけばよいのだろう。フローニンゲン:2026/6/21(日)08:24


18911. 省略の知性を育む余分な動きへの意識

                      

ブランダン・エイカー氏の助言の核心は、クラシックギターの上達において「余分な動き」は単なる無駄ではなく、音・速度・安定性を同時に損なう隠れた原因である、という点にある。演奏している最中、自分では自然に弾いているつもりでも、実際には指が弦から必要以上に離れていることがある。これは大きく跳ね上がるような動きとは限らない。ほんの数ミリ、少しだけ指が浮く、弦から離れたところで待機する、次の音に向かうまでに小さな回り道をする。その程度のことである。しかし、その小さな距離が積み重なると、演奏全体に大きな影響を与える。「Distance has a cost」という言葉は非常に重要である。指が弦から遠く離れれば、その指が再び弦に戻ってくるまでに余分な時間がかかる。そして時間がかかるだけでなく、弦に触れる瞬間を精密に制御しにくくなる。つまり、指が弦の近くにあれば、次の接触が予測しやすく、音を出す瞬間を自分で導ける。しかし指が遠くに行くと、戻ってくる動きそのものを管理しなければならなくなり、演奏が複雑になる。これは速度だけの問題ではない。速く弾けない原因は、単にテンポが速いからではなく、各音のあいだに発生している移動量が多すぎるからだ、という指摘である。ゆっくり弾いている時には余分な動きがあっても間に合う。しかしテンポが上がると、その余分な距離を処理する時間がなくなり、音の粒が乱れたり、右手のタイミングが不安定になったり、音色が揃わなくなったりする。つまり、速さに負けているのではなく、不要な運動量に負けているのである。また、指が弦の近くにあると、音色も安定しやすくなる。弦に触れる角度、爪と肉の接触、弦を押し込む深さ、離弦の方向が毎回似た条件になりやすいからである。逆に、指が遠くから戻ってくると、接触の角度や速度が毎回微妙に変わり、同じ音を弾いているつもりでも、音の芯や厚みがばらつく。エイカー氏が述べる「the note may still be produced, but it is no longer guided」という箇所は、音は出ているが、その音を本当の意味で導いてはいない、という意味である。これはかなり深い指摘である。ここで重要なのは、近づけようと無理に力で矯正することではない。エイカー氏は、これは強制するものではなく、気づくものだと述べている。つまり、指を弦の近くに押さえ込むのではなく、自分の指がどれほど余分に動いているかを観察することが出発点になる。鏡で見る、動画を撮る、超スローテンポで弾く、弾いた直後に指がどこまで離れたかを感じる。そのように観察を続けると、手は自然に「そこまで動かなくてよい」と学び始める。これは、まさに身体における「省略の知性」である。初心者の身体は、音を出すために多く動こうとする。しかし熟達した身体は、少ない動きで豊かな音を出す。大きく振りかぶって水面を叩くのではなく、指先が水面にそっと触れ、必要な波紋だけを生むような状態である。動きが小さくなるほど、演奏は窮屈になるのではなく、むしろ自由になる。なぜなら、余分な動きが減ることで、音を聴く余白、次の準備をする余白、音味を感じる余白が生まれるからである。日々の練習では、速く弾く前に、指が弦からどれだけ離れているかを観察することが大切である。特にアルペジオ、スケール、トレモロ、連続する分散和音では、指が弾いた後にどこへ行くかを見るとよい。弾く瞬間だけでなく、弾いた後の指の帰り道に上達の鍵がある。エイカー氏の最後の言葉である「when it does less, it becomes capable of more」は、ギター練習全体に通じる格言である。手が少なく動くようになるほど、より多くのことができるようになる。速く弾けるようになるだけでなく、音が整い、身体が疲れにくくなり、一音一音の味わいも深くなる。クラシックギターにおいて本当の技術とは、力を足すことではなく、余分なものを引き算し、音が生まれる最短の道を身体に覚えさせることなのだと思う。フローニンゲン:2026/6/21(日)08:32


18912. 即興演奏の練習における指板上工夫

                                     

即興演奏の練習において、低フレット、中間フレット、高フレットを分けて練習するという発想は、ギターの指板を単なる音の配置図としてではなく、身体が歩いて覚える地形として捉え直す試みであるように思う。フレットは、頭で覚えるだけではなかなか身体に沈み込まない。地図を眺めているだけでは街を歩けるようにならないのと同じで、指板もまた、実際に指を置き、音を鳴らし、その響きの肌触りを味わうことによって初めて、自分の内側に地形として刻まれていくのである。低フレットは、いわばギターの麓である。開放弦に近く、響きが豊かで、和音も作りやすく、身体に安心感を与えてくれる場所である。ここで即興を行うことは、ギターという楽器の母語に触れるような営みである。音がどこから立ち上がり、どのように隣の弦へ流れ、どの押さえ方が自然な呼吸を生むのかを感じることができる。低フレットでの練習は、即興の根を育てる作業であり、木で言えば土の中に静かに張り巡らされる根のようなものである。中間フレットは、ギターの胴体である。低フレットほど開放的ではなく、高フレットほど緊張感が強いわけでもない。音域としても、手の位置としても、低さと高さのあいだにある橋のような場所である。ここで即興を行うと、指板の横方向の移動感覚が育っていくのではないかと思う。単に何フレットに何の音があるかを覚えるのではなく、この位置から次にどこへ行けるのか、この音は低フレットのどの響きと親戚関係にあるのか、そのような音の系譜が身体で見えてくる。中間フレットは、音の旅の中継地であり、即興の道筋を立体化する場所である。高フレットは、ギターの山頂である。音は細くなり、張りつめ、少し光を帯びる。ここでは、低フレットとは違う集中が求められる。指の間隔は狭くなり、音の位置も視覚的に混み合ってくるため、身体の精度が問われる。しかしその分、高フレットで即興することには、意識を上方へ引き上げるような独特の力がある。低フレットが大地の響きだとすれば、高フレットは空に近い響きである。そこで生まれる一音は、遠くの星を指先で触れるような感覚をもたらすかもしれない。この練習法の優れている点は、指板把握を抽象的な暗記に閉じ込めないことである。音名を覚えることは大切であるが、演奏の中で使えない知識は、棚にしまわれた道具のようなものである。即興の中で低・中・高の各フレットを使い分けると、音の位置が文脈とともに記憶される。ある音が孤立した点ではなく、前後の音、響き、運指、身体感覚、そして感情の流れと結びついて覚えられていくのである。また、この練習は即興演奏そのものを豊かにするだろう。いつも低フレットだけで弾いていると、音楽は安心感を持つが、展開が地上に留まりやすい。中間フレットに入ると、音楽に移動と物語が生まれる。高フレットに上がると、そこに高揚や透明感が加わる。指板全体が使えるようになるということは、自分の内側に複数の風景を持つということである。低地、丘、山頂を自由に行き来できるようになると、即興は単なる音の羅列ではなく、風景を歩く音楽になるだろう。今日からの練習では、低フレットで大地の響きを確かめ、中間フレットで道を探り、高フレットで空気の薄い場所の光を味わうように弾いてみたい。フレットの位置を覚えるとは、番号を記憶することではなく、指先に土地勘を宿すことである。クラシックギターの指板は、小さな木の板でありながら、実は広大な内的地図である。その地図を即興演奏によって歩き直す時、自分の音楽は少しずつ、場所を知る音楽へと育っていくはずだ。フローニンゲン:2026/6/21(日)09:31


Today’s Letter 

Consciousness is fundamental to reality. It permeates all of reality and is omnipresent. I am interested in exploring how Yogācāra philosophy can be integrated with a panpsychist account of reality. Groningen, 6/21/2026

 

 
 
 

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