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3179. 子供たちに「対して」か「共に」か?:相互発達的権威の必要性


今日も午前中のほぼ全ての時間を哲学書を読むことに充てており、その時間にかなり脳を使っていたためか、昨日と同様に、いつもより多くの仮眠を取った。時刻は午後の三時を迎えようとしており、ここからまた午後の活動に入っていきたい。

午前中にデリダの思想と教育哲学に関する書籍を読み終え、昼食後からはドゥルーズの思想と教育哲学に関する書籍を読み終えた。ここでひとまず休憩として、一度作曲実践を行い、その後に再び読書を再開したい。

この世界に存在する自分なりの良書を見つけ、それらと向き合いながら日々の歩みを進めていこうと思う。決して、消毒されたような書物を読むことをせず、逆に毒があるような書籍を読んでいくことにする。

読み進める書物には、自分を刺激する何かがなくてはならず、それは著者の実存性と言ってもいいかもしれない。著者の実存に根ざす強い問題意識が立ち込めているような書物をとにかく読み続けていくことにする。

まさに自分の人生は、そうした書物と共にゆっくりと深まっていく。そのようなことを考えていると、先ほど読み進めていた書籍の中に、ドゥルーズが徒弟的な教育、つまり教師が生徒と一緒になって学んでいくことの重要性を強調していることを思い出した。

この八年間を通じて、私に大きな影響を与え続けている教育哲学者のザカリー・スタインは、教育上における権威の重要性を指摘しており、それはドゥルーズの教育思想とも繋がってくる。

これは学校における教師だけではなく、スポーツや芸術の世界における指導者にせよ、親も含めて、旧態依然とした教育上の権威の発想は、発達理論を用いれば、慣習的段階における権威に根ざしているように思う。

この段階の権威は、子供たちに「対して(to)」何かを教え込もうとする。それは知識であり、技術であり、何でも構わないが、この段階の権威は、一方的に子供たちに対して何かを提示しようとする。

すなわちこの段階の権威の発想には、子供たちと「共に(with)」に学習を進めていくという意識が欠落しているのである。スタインは権威の存在の重要性を指摘しており、私もこの点について賛成である。

子供たちに完全なる自由を与えようとし、権威の欠落によって、過去にフリースクール運動は失敗に終わっている。重要な点は、子供たちを野放しにすることでも、慣習的な権威を振ることでもなく、子供たちと共に学びを深めていく権威が相互発達的な教育によって子供たちを健全な発達に導いていくことだと思う。

シュタイナーも権威の存在の大切さを指摘しており、シュタイナー教育においては、子供たちが権威といかに向き合い、いかに権威を乗り越えていくかに関する配慮がなされていることを先日知った。発達理論の観点からも、私たちは成長の過程において必ず権威の存在が必要であり、権威を乗り越えていくことも発達課題の一つである。

現代社会の親や教師、そして各種指導者にせよ、子供たちに「対して」何かを教えようとする意識があまりにも強すぎるように思うのは私だけだろうか。そして、子供たちと「共に」学んでいこうとする親や教師、そして指導者が少ないように思えるのは私だけだろうか。

俯瞰的に眺めれば、そうした親や教師、そして指導者に「対して」ではなく、彼らと「共に」人間発達や教育について学んでいくような存在が現代社会には求められているのかもしれない。フローニンゲン:2018/9/25(火)15:12

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