天気予報を確認すると、今日は一日中曇りのようだ。ただし、不気味な雨雲が空を覆っているわけではなく、太陽の光がなんとか地上に届きそうなぐらいの薄い雲が空を覆っている。
一日の活動に弾みをつけるため、今日はベートーヴェンのピアノ協奏曲を早朝から聞いている。おそらく今日は一日中、ベートーヴェンのピアノ協奏曲を聴くことになるだろう。
ここ数日間、自分の中では珍しい行動を取った。私は普段、よほどの用事がない限り、基本的にはこちらから友人に連絡をすることはないのだが、ここ二、三日の間に何人かの友人にメールを送った。
もしかすると先週に、ジョン・エフ・ケネディ大学で一緒に学んでいた友人の方からのメールやグルジア人のラーナからメールをもらったことに影響されているかもしれない。今回メールを送った三人の友人はそれぞれ別々の仕事をしているが、教育について関心を持っているという点では共通している。
一人の友人は、偶然にもこの八月からドイツからオランダに引っ越してきたようだった。途切れることのない友人関係が自分の世界の中に存在していること。それを確認できた時、なぜだか心が温かくなった。
仮に友人と何年も連絡を取っていなくても、本当の友人関係は途切れることなく存在し続けるものなのだと知る。
ここ最近シュタイナー教育について探究を始め、昨日もあれこれと色々なことを考えていた。シュタイナー教育に加えて、私がもう一つ関心を持っているのはモンテッソーリ教育である。
もちろんオランダにいるという都合上、イエナプラン教育についても関心を持っている。それら三つの教育方法についてはこれからより詳しく学んでいく必要があるが、これまで得た知識の限りでは後者二つは同じ分類に括ることができるように思う。
当然、両者に横たわる教育思想や細かな教育実践は異なれど、両者は同一の分類に括ることができそうだ。どのような分類かというと、それは発達理論の観点に基づいた分類である。
現時点ではそうした分類は、それらの教育方法の全体像を比較する際の参考程度にとどめ、ここからそれらの教育方法の詳細を学んでいくことによってその分類を見直していきたいと思う。
昨日改めて考えていたのは、それらの教育方法において親はどこまで学校と連携することができるのか、という点だった。学びを学校の中だけで完結させるのではなく、家庭と学校を有機的につなげることによって、どちらの環境における学びも相互作用することが理想だろう。
そうした理想を実現させていく際に、親と学校の連携は重要であり、一つの学びの共同体として両者の協働はそれぞれの教育方法においてどれだけ密なものがなされているのかに関心を持った。どうやらシュタイナー教育においては、その創始者のルドルフ・シュタイナーの共同体意識の影響もあり、親が積極的に学校の行事や学校運営に関与しているようである。
そのあたりについては、モンテッソーリ教育やイエナプラン教育ではどうなっているのだろうか。単に教師からその日の子供の様子を聞くことや、学期を通じた子供の成長のフィードバックを得るのではなく、学校の運営そのものにどれだけ親が関与する余地があるのかが気になる点だ。
そうした余地がない学校は閉じられた系としての学びの空間であり、そうした余地が多分にある学校は開かれた系としての学びの空間を生み出し得る土壌を持っていると言えるかもしれない。今の私はシュタイナー教育に傾倒しているが、冷静な目を持ってできるだけ幅広くその他の教育方法についても調べてみようと思う。フローニンゲン:2018/8/19(日)07:35
No.1242: Endful Endless Days
I’m looking at a dark night, listening to a piece of music that I composed.
I have a strong feeling that today is really approaching the end.
I die and revive everyday; literally everyday to the actual end. Groningen, 21:00, Wednesday, 9/19/2018