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2660. 芸術教育に関する探究


穏やかな風が引き続き吹いている。街路樹の葉が緩やかに風に揺られ、風の優しさを感じる。太陽の日差しもまだ強くなく、とても涼しく感じる。

書斎の窓を開け、空気の入れ替えをしていると、外の世界の様々な音が部屋の中に入ってくる。小鳥のさえずりや、遠くの方で行なわれている工事の音が聞こえて来る。

そうした音に耳を傾けながら、氷の世界について空想をしていた。氷の世界で行われる透き通る瞑想に思いを馳せる。そうした空想が自分を氷の世界に導き、あたかもその場で瞑想をしているような感覚になった。

これから昼食までの時間を使って作曲実践を行いたいと思う。今日はまずショパンに範を求めたい。

作曲実践に取り掛かる前にふと、以前から関心を持ち始めた芸術教育に意識が向かった。芸術教育の意義について深く探究をしていきたいという思いが静かに込み上げて来る。

欧州での生活を通じて、突如として芸術教育の重要性に目を開かされた。芸術教育の重要さについて今の私は言葉で説明することはできない。

感覚的かつ直感的にそれが極めて重要であるということに気づいたという段階だ。今はまだ気づきの段階なのだ。この気づきを育てていく必要がある。そして、芸術教育の重要性及びその意義を自らの言葉で説明できるようにしていく。

この二年間だけでも随分と欧州の様々な美術館に足を運んだ。いつも微笑ましく、かつ意義深く思うのは、美術の専門家が子供達に作品鑑賞を通じた芸術教育を施している光景を目にする時だ。

日本の美術館でもこのようなことを行っている場所はあるのだろうが、これまであまり気にかけたことはなかったし、そうした光景をそれほど目撃したこともなかった。芸術作品の鑑賞は、究極的には「没頭的に単に眺める」ということにあるのかもしれないが、その段階に行くためには鑑賞の感覚と技術を磨いていく必要がある。

それには当然ながら鑑賞の観点が必要となり、美術の専門家が子供達と対話をしながら鑑賞の観点を伝えていくことは大切に思う。そうした対話を通じて、子供達は少しずつ独自の観点を育んでいき、それが一人一人の子ども達の独自の感性を育んでいく。

そこからさらに鑑賞体験を積んでいくことによって、芸術作品と自己が一体となるような究極的な鑑賞体験に至っていくのだろう。

芸術教育は子供にとって大切なだけではなく、むしろ現代の成人においても非常に重要であるように思う。感性が画一化され、感性が蝕まれていくこのような現代社会において、芸術作品を鑑賞することや芸術作品を自ら生み出していくことの意義は計り知れないように思う。

その意義はもう自分がよく知っている。直感的にそれに気づいているのだ。だが、それを説明するに足る知識を持たない。

この点において芸術教育に関して本格的な探究をしたいと強く思うようになっている。今年一年間はどの学術機関にも属さないが、来年はまた芸術教育の探究に打ち込めるような学術機関に所属するかもしれない。

その探究は決して科学的に行うのではなく、哲学的・思想的に行っていく。この夏から少しずつ芸術教育についての探究を進めていくのと同時に、そうした探究を本格的に行える学術機関を探していこうと思う。

新たな道が今目の前に開かれつつあるのを感じている。フローニンゲン:2018/6/6(水)11:35 

 
 
 

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