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2655. 使い込まれた書籍


ここ三日間に引き続き、今日もまた肌寒い。室内で半袖でいることは少々寒く、上に何か羽織るものが必要かもしれない。

気温の低さと同様に、空の様子もここ三日間と似ている。今日もどうやら一日中曇りのようだ。

昨日に論文の加筆修正の山場を超えたため、今日は論文を寝かせることにして、論文を開くことはしないようにする。明日と明後日に再度論文の加筆修正を行えば、最終ドラフトが完成することになるだろう。

すでに論文の規定の文字数に達しそうであり、何をどれだけ加筆するのか、あるいは余分な箇所をどのように削除するかということを考えていく必要がありそうだ。いずれにせよ、論文の加筆修正に目処が立ったことは嬉しいことである。

論文の提出を終えたら、欧州での三年目の生活が本格的に始まることになり、この一年間は旺盛な探究に従事し、旺盛に創造活動に励んでいくことになるだろう。学術的な探究は美学と意識の形而上学を起点にし、日記の執筆と作曲を毎日行っていく。

何よりも優先されるべきは日記の執筆と作曲であり、それ以上に重要な仕事は今の自分にはない。それらの実践こそがライフワークと呼べるものであり、自分の人生をより深く豊かにしてくれるものだ。

今日はこれからウォルター・ピストンの“Harmony (1978)”の続きを読んでいく。昨日の夜にも本書に言及していたが、この書籍はやはり非常に優れている。

500ページを越す大著だが、本書を何度も繰り返し読んでいく必要がある。学生時代に単語帳の全ての単語を全く苦もなく暗記したように、本書に掲載されている知識項目を全て実践に活用できる形で習得したいと思う。

そのためには繰り返し本書を読んでいくことが必要になり、読む際の工夫が大切になる。本書を読み進める中で何か思考が湧き上がってきたらそれを必ず書籍の中に書き込む。

ノートにメモをするという愚行を犯すことなく、書籍の中に次々と書き込みをしていく。また、文面から何かしらのイメージが喚起されたら、それも書籍の中に描いておく。

文章やイメージの書き込みがない書籍は自分にとって何も響かなかったものであり、逆にそうした書き込みが豊富なものは自分の心を動かす書籍なのだと思う。その書籍から得るものが多ければ多いほど、書き込みの量は増えていき、その書籍は使い込まれていく。

その書籍と真摯に対話をしたのであれば、その対話の跡が必ず書籍に残るはずである。学生時代に使い込んでいた単語帳をふと思い出す。

あれほどまでに読み込んだ書籍は、現在の書斎の本棚を見渡すかぎりそれほど多くない。いやほとんどないと言っていいかもしれない。

一回しか読まれない書籍というには、一回だけある人に挨拶をした程度に過ぎない。その人を知り、その人から何かを学ぼうと思うのであれば、何回もその人に会い、何度も話しかける必要がある。

それと同じことを書物に対しても行っていく。美学、意識の形而上学、音楽理論と作曲理論に関する優れた書籍を何度も繰り返し読んでいくことを行いたい。学生時代に使い込んだ単語帳のようなものが今の本棚にないのであれば、それは不勉強の証である。

読み込まれてボロボロになった書籍がないというのは、いかに寂しいことだろうか。それは不勉強を恥ずべきだというよりも、自分の人生を深く生きようとしないことに対する寂しさの感情を生む。

書物を通じて、書物と共に人生をゆっくりと深めていくこと。今日もその実現に向けた貴重な一日となる。フローニンゲン:2018/6/5(火)07:24 

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