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2500. 成人発達理論の普及に関する危機感


今日は午後から嘘のように晴れ間が広がった。朝はあれだけ雲に覆われていて、雨も風もあったにもかかわらず、今はそれを信じることができないほどに晴天が広がっている。

時刻は夜の八時を迎えつつあるが、夕方の四時のように明るい。今この瞬間のフローニンゲンの外の様子を見て、現地人を除けば、誰も夜の八時だと信じる者はいないだろう。

今日は午前中に過去の日記を編集し、非線形ダイナミクスに関する論文を二本ほど読んだ。午後からは、昼食後すぐに作曲実践をし、その後にバルトーク博物館で購入した小冊子に目を通した。

バルトークが持っていた思想とその生き様をより深く理解しなければならない。それを促してくれるものとして、同じくバルトーク博物館で購入した“My Father (2002)”を読もうと思う。

この書籍は、バルトークの実の息子であるピーター・バルトークによって執筆されたものだ。実際にバルトークと一緒に暮らしていた息子の視点には、バルトークをより深く理解する上での貴重な事柄が描かれているだろう。

バルトークの書籍を読み終えた後、ワルシャワの書店で購入した哲学書に目を通していた。ミシェル・フーコーの一連の書籍をじっくりと読み進める必要がある、と改めて思った。

フーコーの指摘の中で、私が最近よく思っていることに関係する事柄があった。それは、科学的な知というものは、人々に力を与えるというよりも、社会的なコントロールをするための手段として活用される傾向にあるというものだ。

例えば、近年日本の社会の中で普及し始めている成人発達理論に関しても、そこに内包されている知が真に人々の発達を促す形で活用されているというよりも、下手をすると、本来発達を支援するために存在していたはずの知が歪曲されて普及し、結果的に集合的な発達を阻害することに繋がりうる危険性がすでに見え隠れしている。

端的には、本来成人発達理論に関する知の本質には、自己の諸々の囚われから私たちを真に開放するという重要な役割があるが、そうした本質が骨抜きにされ、むしろ自己への束縛を強化しかねない形でその知が普及されつつあるように思える。

これはもしかすると、成人発達理論だけに当てはまることではなく、他の科学領域の知についても当てはまるかもしれない。ただし、とりわけ成人発達理論というものが本来私たちを解放していくものであるという本質を考えると、今の普及状況には大きな危機感を抱く。

科学的な知の歪曲化を是正するためには、フーコーが述べているように、成人発達理論の知というものをある意味哲学的な姿勢で吟味していくという姿勢が求められるだろう。哲学的な姿勢というのは、具体的には、成人発達理論の本質に立ち返ることや、そもそも発達を取り巻く社会的な物語の存在と構造に敏感になり、それを検証していくということだ。

あるいは、成人発達理論の知というものがどのような形で生まれてきたものなのかを歴史的な観点で吟味することなども含まれる。ただし、個人的にとりわけ重要だと思われるのは、現在普及され始めている発達理論がどのような前提条件のもとに、どのような文脈でどのような物語がどのように語られているかをつぶさに検証することだと思う。

日本で普及され始めている成人発達理論の知は間違いなく、日本社会の中にある独自な文脈の中で独自な物語として構築されつつある。物語の背景にある文脈、物語構造及びその内容を真剣に検討する時期を私たちは迎えているように思えて仕方ない。

これを怠る時、成人発達理論の知は私たちを解放し、より自己を深めてくれるどころか、私たちを自己の囚われにさらに束縛し、個人及び集合的な発達を阻害することを招いてしまうだろう。私はそのような危機感を持っている。フローニンゲン:2018/5/1(火)20:13

No.998: Japaneseness and Universalness

A couple of weeks ago, I encountered my Japaneseness that is indelible, inherent, and precious to me.

Then I began to discover the universalness (≈universality) inside myself (≈my psyche), which can reside in the realm of human souls. Groningen, 10:07, Saturday, 5/26/2018

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