top of page

2498. 「自分自身であれ」及び内的曼荼羅


早朝に一日分のコーヒーを入れ、今日の一杯目のコーヒーを飲むことにした。空気の入れ替えのため、書斎の窓を開放すると、冷たい空気が流れ込んできた。

今、フローニンゲンの街には雨が降り注いでいる。風も幾分強い。雨に濡れた通りを走る車の音が時折聞こえる。こうした雨と風にもかかわらず、一羽の鳥が私の目の前を飛び去っていった。

「雨の日固有の侘び寂びを感じることができている」そんなことをふと思った。雨が鬱蒼としたものではなく、とても静かな感覚質を持ったものとして知覚されている。

雨の日は侘び寂びの表れであったか。外の風が強いためか、窓がひとりでに閉じた。

今日から五月を迎えたが、フローニンゲンは相変わらず寒い日が続いている。窓から流れ込んでくる風はとても冷たい。冷たいのだが、その中に新鮮さがある。それが春の風というものだろう。

今朝方、起床してすぐに、「自分自身であれ」という言葉が降ってきた。そうだ、この社会は私たちを私たちでないものにさせようとする働きかけをしてくる。

私たちは気づかないうちに、自分自身でないものとしてこの世界を生きるように強いられているのだ。社会は私たちを私たちでない何者かにしようとしてくる。

そうした見えない力を乗り越え、常に自分自身であることの大切さに改めて気づく。「自分自身であれ」というのはそういうことだったのか。

今日の起床時は、新たな一日が始まったことに一瞬戸惑ったが、今はもうその戸惑いはない。新たな一日が始まったことに驚いたのは、私がまだこの完全なる全体としての大きな流れの中に生きていないことの示唆なのだろうか。

降りしきる雨を眺めていると、今日という一日がまた始まったことの奇跡に思いを馳せざるをえない。そこに戸惑いを感じる必要はなく、この奇跡の中で奇跡的に生きていくということ。そうした姿勢とあり方を持ちたいものである。

早朝に、いつもの日課である過去に作曲した曲を一曲だけ聴くということを行っていた。厳密には、過去の一曲に対してタイトルを付けたり、コメントを付したりすることを行っていた。

数日前にデッサンを始めて以降、曲のタイトルやコメントを付す前に、その曲から喚起される内的感覚及び内的ビジョンをデッサンすることにしている。これはとてもよい習慣だと思う。

日記のみならず、作曲とデッサンによって、自分の意味世界がより豊かに深いものに向かっていくのが分かる。それこそが、日々の充実感と幸福感の深まりを促している。

残念ながら、昨日に色鉛筆を購入することができなかった。今週の金曜日にランニングに出かける予定なので、その時に街の中心部の文房具屋に立ち寄ろうと思う。

色鉛筆を購入することができたらデッサンの実践がより充実したものになるに違いない。そしてそれが日々の創造行為をより豊かに充実したものにしてくれる筈である。

デッサンに関してはこれから実践を積み重ねていきたいと思っているが、自分の特性からか、非常に抽象的なシンボルが内面世界に浮かび、それを描いていることが多いことに気づく。これからは少し意識的に、自己から生み出される内的シンボル、とりわけ内的曼荼羅に注目をしたいと思う。

そうした曼荼羅を描くことによって、それ自身がどのように変容を遂げていくのかを観察したいと思う。自分が描く曼荼羅にいつか私は驚かされる日が来ると思う。それは作曲においても同じであり、この一連の日記に対しても同じである。フローニンゲン:2018/5/1(火)09:47

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

bottom of page