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2494. 考えるべきことに向かって


歩道の水溜りの表面が、風に吹かれて揺らめいている。その様子を眺めると、歩道の水溜りが自分と近しい存在であるかのように思えてくる。同時に、水溜りと吹く風の双方が自分に近しい存在なのだということが分かる。

考えてなくてもいいことを考えること。それを強いられるのが国の外で生活をすることの本質にあるような気がしている。

あえて「考えなくてもいいこと」と表現したが、それは当然、「一人の人間として生きていく上で考えるべきこと」を意味している。この現代社会において、考えるべきことが考えなくてもいいことに成り代わってしまっているがゆえに、あえて私はそのように表現した。

一人の人間として生きていく上で考えるべきことを、私はなぜ母国で考えていくことができないのか。おそらく、それは不可能ではない。

だが、そこには激しさが一切なく、怠惰な形で考えが進んでいくことが目に見えている。そうした状態を招いているものは何なのか。一つには自己の未熟さ、二つ目には文化的呪縛が挙げられるだろうか。

この問題について考えるときはいつでも、その問題をそれら二つの要因に還元してしまう自分がいる。その他にも要因はないか?仮にその他に要因がなかったとしても、少なくともそれら二つの要因についてはもっと掘り下げていく必要がある。

自国の外で考えられることが自国の中で考えられないのはなぜなのだろうか。より厳密には、考えられる・考えられないという二分法的なものではなく、考えの深度に如実な差が出るのはなぜなのかを考えていく必要がある。

一昨日、知人との対話の中で私は、「その土地でしか考えられぬもの、感じられぬものがあり、そしてその土地でしか育まれぬものがある」ということを述べていたことを思い出した。その発言は上記の件と密接な関係があるだろう。

今の私が焦点を当てているのはもしかすると、そうしたその土地固有の思考・感覚・育まれるものを超えた形で人間存在と向き合うことの可能性とその方策なのかもしれない。

辺りが不気味な明るさを放ち始めた。空は鬱蒼とした雨雲に覆われており、それでいて雨は降っていない。さらにそれでいて、外の景色が不気味な明るさを持っているように知覚される。

今日は午前中に、まずは過去の日記を少しばかり編集したい。少しずつ着実に編集が進んでいく様子を見て取ることができる。焦らず着実にこの一連の編集作業を完遂させたい。

編集作業に目処がたったら、論文の執筆に取り掛かる。ちょうど今日の午後に、研究アドバイザーのミヒャエル・ツショル教授とのミーティングがある。

そのミーティングで取り上げる論点を洗い出すことも兼ねて、論文の執筆を前に進めていく。今日は特に、“Results”のセクションの最後の分析に関する文章を執筆していく。

それが終われば、あとはいよいよ“Discussion”のセクションのみとなった。これについては今週末から書き進めていくことにする。ツショル教授とのミーティングに行く前に近所の郵便局に立ち寄り、不在通知と引き換えに荷物を受け取る。

ミーティングの後には、街の中心部の文房具屋に立ち寄り、そこでデッサン用の色鉛筆を購入しようと思う。昨日に、リストとドビュッシーの楽譜を購入したように、着々と日々の探究が前に進んでいるようである。

毎日が新たな方向に、そして新たな深みに向かっていくことを実感できている。その感覚は、日々の充実感と幸福感と密接に結びついている。フローニンゲン:2018/4/30(月)07:59

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