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2478. 調和的進化に向かって


今日は早朝から随分と日記を書き留めているように思う。予定していた論文の執筆はこれからだ。

今日は祝日ということもあってか、本当に平和な雰囲気がフローニンゲンの街に漂っている。クリスタルのような春の一日。そんな一日の一瞬一瞬を今日も大切にしたいと強く思う。

なぜなら、私たちの人生は今という瞬間の結晶に他ならないからである。先ほど洗濯を終え、ゴミを捨てに外に出た時、足元に種類の異なる虫を見つけた。

それらの虫が生きる姿を見て、どこか励まされるものがあった。それらの虫が懸命に生きていたかどうかは定かではない。生きているということそのものが私を打ったのである。

同時に、多様な種類の生物がこの世界に存在しているということに対して、改めて心を打たれるものがあった。多様な空間に多様な生物が存在しているということ。そしてそれらの生物は各人固有の多様な時間を生きているということ。それはこの世の実相なのではないだろうか。

財産を残すのではなく、生きた証を残すこと。それこそ、欧州で学んだ最大のことではなかったか。そんなことを先ほど突発的に思った。

人は財産を築き上げようとし、財産を残そうとする。だが、往々にしてそうした人は真に生きることが何なのかを忘れ、生きた証をこの世界に残すことができない。そこに残るのは平準化されたカネだけであり、平準化されえぬ一人の人間の固有の生の証が残ることはない。

過去の偉大な芸術家、思想家、科学者が残してきた仕事の価値と意義を、欧州での生活を通じて強く実感するようになった。彼らが残したのは、平準化されたカネでは決してなかった。

固有の精神と魂の宿った形が、幾千年の時を超えて今もなおここにある。ワルシャワでもそれを見た。ブダペストでもそれを見た。昨日目を通した森有正先生や井筒俊彦先生の書籍の中にもそれを見出した。

人類全体の共有資産としての形を残していくことの意義と大切さ。今の自分にできることはほとんど何もない。

しかし、一人の人間が真に生きたことの過程を絶えず形として残していくことなら何かできることがあるかもしれない。この一連の日記や毎日生み出す曲がそうしたものの一端を担ってくれればと思う。

先ほど自宅の外で見た虫たちの存在を思い出さなければならない。彼らがいるからこそ、この世の多様性が確保されているのだ。そして、そうした多様性こそがこの世界の調和に不可欠なのだ。

一人の人間の生きた証を残す試みは、決して自己を誇示するようなものであってはならない。そうではなく、生きた証を残すということが、多様性を平準化しようとするこの世の風潮に対する不可欠な抵抗であり、極めて大切な打開策であるということを理解する必要がある。

自らの固有の生を生きたという証は、平準化の流れに抗い、この世界の多様性をさらに豊かなものにする。この世が調和的進化を遂げるにはそれが必要なのではないだろうか。フローニンゲン:2018/4/27(金)10:36

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