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1379. 昨年の自分からの手紙


さわさわと風が流れていく。今日は薄い雲が空を覆い、太陽の光を拝むことはできない。

しかし、雨雲がないためか、鬱蒼とした感じでもない。ノルウェーの作曲家ハラール・セーヴェルーのピアノ曲が書斎に鳴り渡っている。

「あぁ、これが北欧なのか」という言葉が自然と漏れた。クリスタルの光がきらめくようなピアノの音が奏でられ、それでいてその背後には豊かな自然を感じさせるような不思議な音の世界が広がっている。

セーヴェルーの音楽に対する今の私の印象はそのような言葉で表される。来週の今日は、北欧旅行に出かける日だ。

奇しくも昨年の今日は、日本を出発した日だった。昨年の出発と来週の出発について、少しばかり思いを巡らせていた。

昨年の今日、私は欧州に向かうための飛行機を待ちながら、成田空港のラウンジで出発前の最後の日記を綴っていた。その日記を再度読み返してみると、次のような内容のものだった。 **** ——人が自己の根底に持つオリジナルな本源的な知覚。それの探求のために、考究のために、また検討のために、人は出発するのだ——森有正 日本を離れる時が来た。今日という出発の日は、どんよりとした雲が空を覆っている。だが、雲の合間からわずかばかり青空がこちらを覗いている。 現象の表面に囚われず、絶えず本質を捉えようとすること。表面的に見えている雲の大群の裏には、紺碧の青空が広がっているということ。そして、紺碧の青空のその先には、広大な宇宙が存在しているということ。それを忘れてはならない。 そんなことを思いながら、チェックインカウンターに向かった。そこで思わぬ光景に遭遇した。リオデジャネイロ五輪の日本代表陸上選手一行がニューヨークへ出発するということで、報道陣が大勢駆けつけていた。 おそらく、同じような思いで、そして一人一人異なる意味を携えて、彼らと私は日本を出発するのだろう。 多数の報道陣を後にし、私は外貨両替場に向かう。オランダのフローニンゲンではクレジットカードの利用が不便であるから、一ヶ月分の生活費をユーロに替えておいた。ヨーロッパの広大さに比べ、ユーロ紙幣の小ささに思わず笑みがこぼれた。 手荷物検査を終え、パスポートに出国スタンプが押された。このスタンプが「入国」に変わる日付はいつになるのだろうか。いつかその日が来ることを思いながら、空港のラウンジへ向かう。 空港のラウンジから、一機、また一機と飛行機が飛び立っていくのが見える。そして、一機、また一機と飛行機がやって来るのも同時に見える。日本から世界へ、世界から日本へ。 今の自分の心境を「希望で満ち溢れている」と表現することは、極めて不適切だと感じている。「無」という大海の中に、一粒の希望を投げ入れた時に生まれる波紋のような感覚なのだ。大きな波紋がだんだんと小さな波紋になり、無に還っていく様子が心の眼を通して見える。 私の今の気持ちは、希望という名の小石であり、小石が生み出す大きな波そのものであり、それが徐々に小さくなって無に還っていく変化そのものであり、無そのものなのだ。こんな気持ちを二度と味わうことはないだろう。 ラウンジで焙煎した一杯のコーヒーを味わうのと同じぐらい、この気持ちを十分に味わうことは重要であり、全くもって重要でもないのだ。そんなことは本質ではなかった。 全てを飲み込む無の世界を突き破ってでも、そこを通って進むしかないのだ。ただ一点、この「それでも進む」という己の姿勢にのみ、自己の本質を感じるのだ。 自分には前も後ろも関係なく進むことしか、ただひたすらに進み続けることしかできない。それが私という一人の人間なのだと思う。 フライトの時間が刻一刻と静かに忍び寄り、そして堂々と自分に向かってくる。 自己の目醒めからの出発。そして未知なるものへの出発。それは、ヨーロッパという未知なるものかもしれないし、そこで生まれ変わる未知なる自分へ向かっての出発かもしれない。 人間の成長とはつまるところ、こうした出発の繰り返しなのだろう。常に常に出発する。いつもこの瞬間も新たな始まりなのだ。自分には始点しかないのだ。 始点から出発し、再び新たな始点に行き着く。この過程を取り巻くものは絶望なのか、希望なのか。いずれだとしても、もう自分は次の始点へと向かって進むことしかできない。一点の曇りもないこの断固とした思いを携えて。 空港内のラウンジを見渡すと、様々な人たちが自分を取り巻いていることに気づく。目を輝かせている子供たち。神妙な面持ちでパソコンを眺めているビジネスパーソンたち。ラウンジを片付けている人たち。 これら全ての人たちと共に私の世界があるのだと思った。フランクフルト行きのフライトの時間が迫ってくる。 刻む秒針のリズムに合わせて、張り詰めた私の魂が高鳴っていく。真夏の日本に深呼吸して、私は出発することを腹にくくった。二度と戻れぬ今という自分に別れを告げて。 ついにフライトの搭乗アナウンスが響き渡った。私は「一足入魂」の思いで日本の大地を噛み締めながら搭乗ゲートに向かった。 ゲート近くにある大きなな窓ガラスから曇り空が見える。肉体の眼だけで世界を見ないこと。心の眼で、いや、魂の眼でこの瞬間に広がる世界を見ることが大事なのだ。 私の視線の先には、広がる紺碧の空があった。魂の視線のさらに先には、新たな世界への出発があった。2016/8/1 **** 昨年の今日、私はそのような内容の日記を綴っていた。一年経った今読み返してみても、当時の自分の思いや感覚が行間から滲み出していることを感じる。

あの日の私は、人間の成熟過程とはつまるところ、出発の連続であり、いかなる瞬間も出発の始点であると述べていた。その言葉を聞いて、今の私もやはり同じことを思う。

そこで私は少しばかりハッとする思いに駆られた。この一年間、欧州の地に足を踏み入れてから今日までの間、自分が一切の仕事を始めていないことについて悶々とする思いを抱え続けていたように思う。

しかし、自分の仕事を始めていないという解釈は間違ったものであり、それが形になるかどうかは別として、私は絶えず自分の仕事を始めていたのだと思う。それも毎日だ。

毎日毎日、新しい出発があったはずなのだ。この一年間の日々は、全て新たな出発であったはずであるし、今朝の目覚めと共に新たな出発が始まっていたのである。

私は一年前の今日の自分が述べていた、出発の連続性について本質的な事柄をわかっていなかったのだ。 昨年の自分もどうやらこの肉体の眼だけでは捉えられないものを認識しており、それを捉えるための眼を育もうとしている様子が伝わって来る。その姿勢に対して、今の私も大きな共感の思いを寄せる。

同時に、この日記を読む前に視界に入っていた、薄い曇り空の向こう側を見ていなかった自分を反省させられた。肉体の眼を通して眺めれば、それは曇り空しか見えない。

だが、心の眼や魂の眼を通して眺めれば、全く違ったものが見えてくるはずなのだ。肉体の眼に惑わされず、心の眼や魂の眼を通じてこの世界を認識するようにしたい。

その認識世界の中に真の幸福と生の充実があるはずなのだ。目の前に見える曇り空のその先に、紺碧の空を知覚し、そのさらに先に無限の宇宙を見る。

昨年の自分の日記は、今日の自分に送られた大切な手紙のように思えた。今日は母の誕生日であるから、お祝いのメッセージを母に送ろうと思う。2017/8/1(火)

No.24: Toward the Condensation of Affluent Meanings and Senses Whereas the sun is slowly going down, the vital force within me to create meanings and senses is rapidly arising.

That is an irrepressible energy to encourage me to engage in meaning-making and sense-making. Others might ridicule such an impulse, but I would like to follow it in a serious and rigorous way.

Continuously pursuing the driving force would navigate me toward the condensation of affluent meanings and senses. Sunday, 8/6/2017

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