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968. 自己偽装と発達測定

May 3, 2017

早朝から書斎の中では、マウリツィオ・ポリーニが演奏するベートーヴェンのピアノソナタが清らかな小川のように流れ続けている。私は音楽に関しては門外漢であり、楽譜に記載されている音符すらも読めないが、絶えず自分の内側には音楽的な何かで満たされていることに気づく。

 

ピアノの演奏などできないにもかかわらず、自分の感覚に合致するピアノ曲を聴く時は、頭の中に鍵盤が浮かび上がり、鍵盤の一つ一つが曲の流れに応じて光るような現象を内側に知覚することがよくある。

 

なんとか明日の午後は時間を取り、作曲の学習と実践に時間を充てたいと思う。内側の音楽を形にする日が一刻も早く訪れることを願う。

今日は「タレントアセスメト」のコースで取り上げられている論文を早朝に読んでいたのだが、いくつかハッとさせられるような指摘がそれらの中にあった。一つは能力測定に関する偽装問題である。

 

先ほど目を通していた論文の中では、特に性格類型テストに関する偽装問題について取り上げられていた。論文の焦点は、性格類型テストと実際に発揮されるパフォーマンスとの関係と、性格類型テストを受ける際に偽りの回答をする問題に関するものだった。

 

結論から述べると、性格診断は確かに私たちの個性を明らかにし、能力の水平的な特性と種類を明らかにすることに関しては有益だが、パフォーマンスとの相関関係は極めて希薄であることが、複数の研究を俯瞰的に捉えるメタ分析から明らかになっている。

 

発達心理学の観点からしてみても、それは納得のいく話である。私たちのパフォーマンスは、性格類型のような水平的な分類に立脚していながらも、パフォーマンスの高低は、垂直的な特性に大きく基づいている。

 

性格類型テストのようなタイプ論的アセスメントは、私たちが持つ知性や能力の種類を明らかにしてくれるのだが、結局のところ、知性や能力が持つ深さを捉えることはできない。この論点については、発達理論を学んだことのある人にとっては周知のことだろう。

その論文を読みながら私が面白いと思ったのは、別の箇所にある。それは、性格類型テストに関する自己を偽りながら回答することに関する論点だ。

 

その論文の結論に興味深い指摘がなされていた。性格類型テストにおいて、被験者が自己を偽りながら回答することを避ける手段は今のところない。

 

ただし、そうした自己を偽れる能力というのも、組織環境や社会環境に適応するためには必要な能力なのではないか、という指摘がなされており、大変興味深い観点だと思った。論文の中でのその主張は、少しばかりあまのじゃく的なものに映るかもしれないが、そこには一定の真実があるように思えた。

 

被験者が、測定を受けるという環境に真に適応するとき、ありのままの自分をさらけ出すことは逆に純朴過ぎなのではないだろうか。真に環境適応能力を有しているのであれば、自己を偽りながらでも、測定が生み出す文脈に沿った形の自己をその場で発揮することができるように思うのだ。

自己を偽装するという言葉は響きは良くないかもしれないが、それは刻一刻と激しく変化する社会的な文脈に適応するという意味では、非常に大切な能力なのかもしれない。また、意識の発達という形而上学的な側面から捉えれば、そもそも人間が作り出す諸々の測定を受ける際に、真の自己と偽りの自己を区分することは意味をなさない。

 

測定というものが人の手によって構築され、社会的に構築されたものであるがゆえに、それによって映し出される自己は、全て真の自己だとも言えるし、全て偽りの自己だとも言えるのだ。測定によって明らかにされるものは自己の一部を映し出すものであるがゆえに、それを通じて真の自己を捉えることができるのと同時に、測定が映し出すのは自己の一部であるがゆえに、全体性を持つ真の自己から見ればそれらは全て偽りの自己だとも言える。

 

これはあらゆる測定手法に当てはまることだが、測定が内包する幻想と価値の両側面を絶えず把握しておかなければならない。その論文で記載されていたことは、性格類型テストのみならず、知性や能力の垂直的な段階を明らかにする発達測定に関しても当てはまる。

 

もちろん、信頼性の高い発達測定である場合、被験者が自己を偽って回答をしたとしても、それらの測定が発話内容以上に発話構造を分析するものであるがゆえに、自己偽装の影響が測定結果に色濃く反映されることはそれほどない。

 

端的に述べてしまうと、垂直的な発達測定は自己偽装が極めて難しいのだ。多くの場合、自己を偽って回答をしたところで、垂直的な発達段階が高く測定されることはほとんどない。

 

ただし、それでも自己偽装によって測定結果が左右されてしまう可能性は常に残っている。しかし、発達段階を高く装うことによって、実際に評価結果が高度な段階を示したのであれば、それはその被験者に高度な段階を発揮することのできる潜在能力が備わっているという見方もできる。

 

高度な段階を装ったところで、高い段階を示すことがほとんどの人にとって困難であることを考えると、自己の形を変えながら測定という文脈に適応し、そこで高度な段階の特性を発揮できることは潜在的な能力の表れと見て取ることもできるのではないだろうか。

 

もちろん言うまでもなく、それらの測定が生み出す文脈と実際に能力を発揮する現場の文脈とが高い度合いで合致している必要があり、測定対象の能力がその測定手法で的確に計測することができるのかといった妥当性に加え、測定手法の信頼性が高度に担保されている必要がある。

 

発達測定と自己偽装の関係については、今後も考えを深めていく必要がある論点だと思う。2017/4/22

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