【フローニンゲンからの便り】17130-17139:2025年8月1日(金)
- yoheikatowwp
- 8月3日
- 読了時間: 30分

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タイトル一覧
17130 | 現代の代表的な宇宙論 |
17131 | 今朝方の夢 |
17132 | 今朝方の夢の振り返り |
17133 | ひもと量子 |
17134 | M理論とひもと理論の共通点 |
17135 | 仏教宇宙論について |
17136 | 現代宇宙論に対する唯識の貢献可能性 |
17137 | ボルン則について |
17138 | デイヴィッド・ルイスの様相実在論について |
17139 | 様相実在論と唯識 |
17130. 現代の代表的な宇宙論
時刻は午前6時半を迎えようとしている。今朝方も寒さがあり、自宅では極暖のヒートテックを着ることにした。ちょうど今日から8月を迎えることになったのだが、8月を迎えてもまだ肌寒い日が続く。聞くところによると、日本はかなりの猛暑とのことで、その対比が際立っている。
多元宇宙論とは、私たちの宇宙が唯一の存在ではなく、さまざまな形態の宇宙が複数存在するという仮説の総称であり、その理論的展開には空間構造、量子的分岐、数学的実在論、高次元理論など多岐にわたる観点が含まれているが、代表的には5つの主要なモデルが挙げられる。第一に、レベルIの多元宇宙は、インフレーション理論に基づいて観測可能な宇宙の外側に同じ物理法則を持つ無数の宇宙が広がっているとする空間的多元宇宙であり、これは初期条件の違いによって異なる宇宙が生じうることを前提としている。第二に、レベルIIはカオティック・インフレーションによって生じた真空の相転移により、それぞれ異なる物理定数や法則を持つバブル宇宙が無数に生成されるというモデルであり、私たちの宇宙の物理法則もその中の一例に過ぎず、人間原理(Anthropic Principle)によって私たちがその宇宙を経験していると説明される。第三に、レベルIIIの多元宇宙はエヴェレットによる量子多世界解釈に基づき、量子測定におけるすべての可能性がそれぞれ実在する分岐宇宙として展開し、私たちの意識はそのうちの1つの経路を経験しているに過ぎないとする立場であり、観測による波動関数の収縮を否定しつつ、意識の関与を含めた解釈がメンスキーなどにより拡張されている。第四に、マックス・テグマークが提唱したレベルIVの多元宇宙は、あらゆる数学的に自己無矛盾な構造が物理的実在として存在するとする「数学的宇宙仮説」に基づき、論理的に可能なあらゆる宇宙が現実に存在するという形而上学的かつ存在論的に徹底した立場を取る。第五に、弦理論およびM理論の文脈で提唱されるブレーン宇宙論的多元宇宙は、私たちの宇宙を高次元空間に浮かぶ3次元的ブレーンとみなし、他のブレーンが隣接する形で存在しうるというモデルであり、ブレーン同士の相互作用がビッグバンを生じさせた可能性もあるとされている。これら多元宇宙論は、いずれも現代物理学の限界や観測の問題に対する理論的応答であると同時に、「私たちはいかなる宇宙を生きているのか」という存在論的問いに対する多角的な探求でもあり、物理学にとどまらず、認識論・倫理学・宗教哲学などを含む広範な知的枠組みにおいて再考されるべき総合的世界観として位置づけられるのである。昨日は随分と宇宙論に関する書籍を読んでいて、ミクロな量子世界だけではなく、マクロな宇宙世界にも関心が募る。フローニンゲン:2025/8/1(金)06:28
17131. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、見慣れない不思議な森を散策していた。散策の中で生き物と遭遇することは全くなく、1人静かに森の中を歩いていた。その時の自分の心は静謐であり、ある種の瞑想状態だった。森の中を歩くことによって、心は浄化され、そしてエネルギーが充電されている感覚があった。森が持つ不思議な力の恩恵に授かる場面があったのを覚えている。
もう1つ覚えているのは、小中学校時代のある親友(KF)の家のこたつで数学の円に関する問題を解いていた場面である。厳密には、最初はカフェのテラス席で彼と問題を解いており、しばらく問題と向き合ってもなかなか解答まで辿り着けず、気がつけば彼の家のこたつにいたのである。テラス席では、高校時代か大学時代の友人が近くにやって来て、彼もまた同じ問題を解こうとしていた。どうやら自分は円に関する基本的な公式を間違って覚えてしまっている可能性があると思ったので、もう一度基礎から確認しようと思った。公式を間違って覚えていると、問題が解けないのは当たり前だと思ったのである。問題を解くときには、ノートにイメージ図を書くことを通じて、視覚的に問題を解くように心掛けた。イメージ図を書いてみると、やはり自分は公式を間違って覚えているわけではないことに気付き、それでも答えが合わなかったのは、計算ミスがあったからなのではないかと思ってそれを確認した。気がつくと親友の彼の家のこたつの中にいて、そこで彼の母親と自分の母親を含めた4人で和気藹々とした雰囲気で話をしていた。
この場面を受けて現れたのは、大学時代のゼミの友人と今は亡きカート・フィッシャー教授の別荘を訪れようとする場面である。私はかつてフィッシャー博士の別荘を訪問しており、今回が2回目だったので、彼のナビ役を務めることにした。彼が車の運転をしてくれるとのことで、事前に地図上で迷いやすい箇所を説明した。出発前日に念の為、Googleマップの実際の場所の写真を見ながら、迷いやすい箇所について説明することを彼に持ちかけると、自分は彼のナビとして当日横にいるからその必要はないと彼は笑った。確かにそうかもしれないなと思い、当日きちんとナビをすれば十分だと判断した。フィッシャー博士の別荘は、郊外の高級住宅地の真ん中に位置しており、周りには隣接した家はなく、広大な敷地にポツンと立派な家が立っている感じであった。フローニンゲン:2025/8/1(金)06:40
17132. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢を貫く枠組みは、「内なる空白と再生」という二重の運動である。まず見慣れぬ森を独り歩む場面が示すのは、自我が外界の雑音を遮断し、原初的な生命の揺籃へと還ろうとする志向である。そこには生き物の気配が皆無であった。これは他者に媒介されない純粋経験の領域を象徴し、自己の深層に潜む“無名の自己”と向き合う契機である。静謐さと瞑想状態は、思考以前の沈黙に身をゆだねることで心身を洗い直すイメージを伴う。森の恩寵を吸い込み、エネルギーが充填される感覚は、日常で消耗した心理的資本を再生産する過程を暗示する。森という原型的シンボルは、死と再生、無意識の肥沃な土壌であり、ここで得た浄化こそが次の諸場面を支える根拠となる。次に円の問題を解く場面が現れる。円は自己完結と循環を表す古典的図像であるが、そこで公式を誤記したのではと自省する行為は、自己定義の枠組みの再点検を意味する。テラス席から親友のこたつへと舞台が移るのは、理知的な探究(屋外の開放性)から感覚的・情緒的な安寧(こたつの内省性)への揺れであり、思考と情感を往復する精神のリズムを示す。高校‐大学時代の友人が同じ問題に挑む姿は、同輩的競争と共学習の記憶を呼び込み、個的努力が集合的ネットワークに照射される場面である。公式の取り違えではなく計算ミスだった、と気づくプロセスは、自己基盤(理論)に根本的瑕疵はなく、実践上の手続きに修正余地があるという示唆である。つまり自己は、価値観や信念はおおむね妥当でありながら、日常的運用の段階で誤差を生むことを自覚している。母親たちと親友を交えた和気藹々の場は、内的批判が最終的に家庭的温もりへ抱擁される構図を描き、認知的緊張を情緒的包摂が癒やす心的機構を物語る。続くフィッシャー博士の別荘訪問は、過去の知的指導者との再会を志向する再帰的円環である。すでに此世を去った師を再訪する「二度目」の旅は、単なる追憶ではなく、取得済みの知を再編成し次段階へ昇華するイニシエーションである。自分がナビゲーターを務める決意を示しつつ、友人の「当日そばにいるのだから説明は不要」という発言を受容する流れは、知識の保持者と実践的運転手の役割分担を示す。ここで自分は導師的立場と同伴者的柔軟さを同時に経験する。郊外の広大な敷地に孤立して建つ別荘は、社会的成功と隔絶、ひいては到達点の孤高を暗示する。そこへ再び足を踏み入れることは、自己が到達可能と信じる精神的高地の再確認であり、訪問が「二回目」である点は、円環的成長──第一周目で得た洞察を携えて再挑戦する螺旋的発展──の象徴である。これら三場面は、森→円周→郊外の大邸宅と、空間的スケールと社会的位相を拡大しながらも、中心に回帰する構造を共有する。森の静寂は未分化の無意識、円の問題は形式化された思考、別荘は社会的承認を帯びた完成形であり、自分はこの三位一体を縦断することによって、自己の根源・方法・成果を一挙に照射している。総じて本夢は、自己再生のための沈潜と、知的自己点検、そして再び外界へ貢献する成熟を連鎖的に描き出したものである。まるで円運動のように、出発点へ戻りつつ新たな高度を獲得する螺旋の軌跡──それこそが、本夢が指し示す無意識の羅針盤だと言えるだろう。フローニンゲン:2025/8/1(金)07:00
17133. ひもと量子
超ひも理論における「ひも(string)」とは、従来の素粒子物理学が前提としてきた「点状粒子(point particle)」という概念を置き換える新たな基本的構成要素であり、それは一次元的に広がった「線状の構造体」として定義されるが、単なる幾何学的な線分ではなく、その本質は明確に量子的な存在である。すなわち、超ひも理論の「ひも」は、古典的に連続体として想定される物理的構造体ではなく、量子力学的な取り扱いを要する「量子化された振動体(quantized vibrational object)」であり、ひものあらゆる性質——例えば振動モード、エネルギー状態、相互作用など——が量子論的に記述されている。この点を理解するためには、まず標準的な量子力学と量子場理論における「場(field)」の考え方を振り返る必要がある。従来の場の理論では、粒子とは場の量子励起として現れる点状のエネルギー単位であり、フェルミ粒子やボース粒子はそれぞれ異なる場における励起状態として記述される。これに対して超ひも理論では、「ひも」そのものが基本的な存在であり、さまざまな粒子はすべて、ひもが取る異なる「振動モード(vibrational mode)」の現れとして統一的に理解される。ここで重要なのは、この「振動モード」が連続的ではなく離散的、すなわち量子化されていることであり、これは音叉やバイオリンの弦が特定の周波数でしか共鳴しないのと似た構造を持つが、その振動が量子論的な不確定性を持ち、確率的な振る舞いを示す点において、決定論的な古典的弦とは本質的に異なる。例えば、ひもがある特定のモードで振動しているとき、それは質量を持った電子として観測され、別のモードで振動するとそれは重力子(graviton)やクォーク、中間子、光子などとして現れる。このように、すべての素粒子は本質的に同じ「ひも」から派生しているという発想は、従来の標準模型では別個に取り扱われていた粒子群を統一的に記述する強力な理論的基盤を提供する。また、超ひも理論において重力子が自然に現れることは、一般相対性理論と量子力学の融合、すなわち「量子重力理論(quantum gravity)」の候補として注目される所以であり、それはひもが本質的に量子であることの証左でもある。理論的には、ひもの運動は「世界面(worldsheet)」と呼ばれる二次元的な時空の上で記述され、この世界面上の理論は共形場理論(conformal field theory)という量子場理論の特殊な一形式として定式化される。したがって、ひもの力学を正しく記述するには、単なる古典的な波動方程式ではなく、量子場理論の方法と構造を応用した「ひもの量子化」が必要となる。実際、ボース的なひも理論とフェルミ的な成分を含む超ひも理論とでは、スピン統計や対称性の取り扱いに差異が生じ、それぞれに対応する数学的枠組みも異なるが、共通しているのはすべての振動状態が量子数によって分類され、干渉・遷移・相互作用が確率的に決定される点であり、それは量子力学の基本的要請に則ったものとなっている。さらに、ひもが量子的な存在であることは、その振る舞いに非局所性や波動的重ね合わせ、仮想的経路の寄与といった量子特有の現象を生じさせることを意味し、そこには古典的直観を超えた新しい空間構造の理解が要請される。加えて、ひも理論は整合的な理論として成立するために高次元空間(例えば10次元あるいは11次元)を必要とするが、この次元構造自体もまたひもの量子的性質から導かれる厳密な条件によって定まっている。これもまた、ひもが単なる幾何学的模型ではなく、量子論的制約に基づいて存在する構造体であることを示している。したがって、超ひも理論における「ひも」は、量子力学的な振る舞いを本質的に備えた存在であり、点粒子を量子化するのではなく、そもそも一次元的な構造を初めから量子論的に取り扱うという意味で、「ひもそのものの量子化(quantization of the string)」こそが理論の核心をなすと言えるだろう。ゆえに、ひもは量子か否かという問いに対しては明確に「量子である」と答えられ、超ひも理論はこの量子的ひもを通じて自然界の基本相互作用すべてを統一的に説明しようとする、現代物理における最も野心的かつ包括的な理論体系であると言えるのではないかと思う。フローニンゲン:2025/8/1(金)07:05
17134. M理論とひもと理論の共通点
M理論とは、現代物理学における統一理論の最有力候補の1つであり、特に重力を含む全ての基本的相互作用(電磁気力、弱い力、強い力、重力)を1つの枠組みに統合することを目指す理論である。M理論は、「膜(membrane)」の頭文字を取ったとも、「神秘(mystery)」の略称とも言われるが、未だその全貌は完全に明らかにされていない。1995年、物理学者エドワード・ウィッテンによって提唱され、既存の5つの異なる超弦理論を1つの11次元的理論の側面として統合し得る、より包括的な理論として登場した。ひも理論は、点粒子を基本構成要素とする標準的素粒子理論とは異なり、一次元的な「ひも」(ストリング)が基本単位であると考える。これらのひもは開いていたり閉じていたりし、その振動モードによって異なる素粒子が表現される。ひも理論の枠組みでは、特に閉じたひもの振動が重力子(グラビトン)として振る舞うため、量子重力理論を含む統一理論としての期待が高まった。しかし、1980年代末までに5種類もの相互に異なる超弦理論が存在することが判明し、どれが「正しい理論」であるかをめぐって理論物理学は混迷を深めた。ここで登場したのがM理論である。ウィッテンは、これら5つの弦理論は全て、あるより高次元の根源的理論の異なる側面にすぎず、それらを包含する「母体理論」が存在するという洞察を示した。この理論は11次元を必要とし、そのうち10次元が空間、1次元が時間とされる。ひも理論が10次元時空を要求するのに対し、M理論はそれより1つ多い次元構造を仮定する点が大きな違いである。加えて、M理論の中では、基本的構成単位は一次元的な「ひも」だけでなく、二次元の「膜(ブレーン)」や、より高次元のp-ブレーンと呼ばれる拡張対象である。したがって、ひも理論における構成要素はM理論に包含される特別な一例に過ぎず、M理論の方がより根源的な理論構造であると位置づけられる。M理論とひも理論には共通する哲学がある。それは、時空や物質、力といった概念を、より基礎的な数学的構造(例えばカラビ・ヤウ空間やモジュライ空間)に還元し、物理的現象を幾何学的に説明しようとする点である。また、両者ともに「二重性(デュアリティ)」の原理、すなわち、ある理論が別の理論と数学的に等価であるとみなされる関係性に注目している。特にM理論では、S-デュアリティ(強結合・弱結合の入れ替え)やT-デュアリティ(コンパクト化された次元のサイズの入れ替え)などの対称性が、異なる弦理論をつなぐ架け橋として機能する。しかし、M理論と従来のひも理論との決定的な違いは、構成の抽象度と理論的視点にある。ひも理論はすでに量子論的枠組みにおいて定式化され、摂動論的手法(摂動展開)によって具体的な計算が可能であったのに対し、M理論は非摂動的(非展開的)な理論であり、明確なラグランジアンや作用原理が未だ不明瞭なままである。つまり、M理論は、ひも理論が到達し得ない「非摂動的領域」における物理をも記述可能とされながら、その数学的厳密性と定式化の完成度においては、ひも理論よりも未成熟であるという逆説的特徴を持つ。さらに、M理論における空間の11次元性は、私たちが経験する4次元時空とどのように整合するか(すなわち7次元の「余剰次元」がどう巻き込まれているか)という問題も未解決のままである。このように、M理論は、ひも理論の断片的全体を統合し、宇宙のあらゆる力を一元的に記述する可能性を持ちながらも、その理論的完成にはなお多くの課題を残している。その意味でM理論は、理論物理学における“神の方程式”の探索における現時点での最前線であり、同時に私たちの理解を超えた深奥に通じる扉の前に立つ、未完成の壮大な地図でもあると言えそうである。フローニンゲン:2025/8/1(金)07:13
17135. 仏教宇宙論について
最近は毎日良遍の漢文文献と向き合い、転写作業を地道にコツコツと続けながら、それだけではなく、転写が完了したものについては英語の註釈論文を執筆し始めている。やはり論文を書くという行為は理解を促進させてくれるのにうってつけであり、ここからしばらく良遍の作品を註釈していく論文の執筆を継続させていく。それがどこかで落ち着いたら、唯識と量子論哲学を佳境させる英語の論文の執筆も始めていこうと思う。量子論哲学の理解を深める上でもそれが最良の道かと思う。
仏教宇宙論は、初めてその構造を目にした者にとって、あまりに壮大で奇怪な印象を与える。須弥山を中心に据え、無数の世界が重層的に広がり、時間は億劫という膨大な単位で流れ、衆生は六道を輪廻し続ける。こうした世界観は、現代科学の宇宙像──ビッグバン、銀河、膨張宇宙──と比べると、神話的で非現実的に見えるかもしれない。しかし、仏教の宇宙論は単なる自然描写ではなく、深い瞑想的体験と思索に基づいて形成された「存在の構造」そのものであり、比喩的・心理的な層を含みつつ、認識と存在の関係を根源的に問い直す試みである。まず、仏教宇宙論は初期経典においてすでに登場し、とりわけアビダルマ仏教や瑜伽行派の体系化によって精緻化された。そこでは、須弥山世界(トリローカ)は単なる物理的宇宙ではなく、感覚・認識・行為が織りなす「経験的宇宙」の象徴である。天界や地獄は単なる死後の行き先というより、欲望・怒り・執着・慈悲などの心の状態が具現化された世界であり、私たちの内面にも存在し得る構造と見るべきである。例えば、欲界の天に生まれるということは、極めて微細な快楽の欲に囚われる心理状態を表し、阿修羅道は競争心や怒りに満ちた状態を象徴する。つまり六道は、輪廻する魂の旅というより、心が刻々と移ろう多世界的構造を描いているのである。では、こうした複雑な宇宙論はどのように形成されたのだろうか。仏教の瞑想修行──特に止観や禅定(サマーディ)──において、修行者は感覚・思考・感情の流れを超えた、時間・空間を超越する意識状態に入るとされる。その中で、個我の境界が消滅し、意識が多層的宇宙の運動や構造と「共鳴する」ような体験が報告される。こうした体験は、主観的ながらも極めて鮮烈で、意識の底にある宇宙的秩序への「直観的アクセス」として捉えられてきた。『華厳経』に描かれる重々無尽の世界観や、法界縁起と呼ばれるネットワーク的存在観は、単なる物理空間の描写ではなく、あらゆる存在が相互に関係し、縁によって生滅するという「関係論的宇宙観」を表している。さらに、仏教の宇宙論はしばしば比喩的な読みを必要とする。例えば「三千大千世界」とは、1つの世界(小千世界)が千個集まり、それがさらに千個集まり、さらに千個──すなわち10億個の世界が存在するという構造だが、これは単なる数の問題ではなく、あらゆる存在が複雑に重なり合い、どこを取っても「一即多・多即一」であるという華厳的直観を反映する。また、時間の単位である「劫(こう)」は、物語的には「城が一度壊れ、風雨によって完全に風化するまでの時間」と表現されるが、これは心理的・存在論的スケールを想像力の限界まで拡張するための装置である。仏教宇宙論は、有限な自己中心的世界観を超えるための「意識の拡張装置」として機能していると言えるだろう。このように考えると、仏教宇宙論が私たちに伝えようとしているのは、世界とは固定された客観的実体ではなく、私たちの心の状態と行為によって絶えず形成され、変容する「流動的秩序」であるという洞察である。宇宙の中心にある須弥山は、私たちのエゴや認識の軸を象徴し、その周囲に展開する諸世界は、私たちがどのような心で世界を見ているかによって構成される多元的現実の反映である。すなわち仏教宇宙論とは、客観宇宙の地図ではなく、主観と客観、内面と外界の連関を描いた「存在の曼荼羅」なのである。仏教は、宇宙の真理とは外にあるのではなく、心の構造とその変容の中にこそ宇宙の真実が映し出されると説く。ゆえに、仏教宇宙論を読み解くことは、世界を知ることと自己を知ることが一致するという、深い認識論的洞察を生きる実践へとつなげる道なのである。荒唐無稽に見えるその宇宙は、実は私たちの心の深層が映し出す「鏡の宇宙」なのであり、その鏡に何が映るかは、私たち自身の在り方に他ならないのである。フローニンゲン:2025/8/1(金)08:15
17136. 現代宇宙論に対する唯識の貢献可能性
現代宇宙論は、ビッグバン理論、インフレーション宇宙論、量子宇宙論、多元宇宙論、そして量子重力理論などの分野を中心に、宇宙の起源・構造・進化・終末といった根本的問題に取り組んでいるが、これらの探求はしばしば「観測者の役割」「実在の定義」「空間と時間の本性」などの哲学的・存在論的問いに直面する。こうした背景において、インド大乗仏教の唯識思想、とりわけ瑜伽行派の深層心理学的・認識論的枠組みは、現代宇宙論の一部のトピックに対して新たな視点や方法論を提供する可能性を秘めている。唯識は「すべての現象は識の変現である」とする哲学的立場に基づき、外的実在の独立性を否定し、認識主体と対象との相依性を強調するが、この立場は量子力学以降の現代物理学においても再評価されつつある。第一に、観測問題に対する唯識の応答は、量子宇宙論やコペンハーゲン解釈などに見られる「観測者の関与」への理論的補完となりうるだろう。例えば、量子力学では観測によって波動関数が収縮し、物理的現実が定まるとされるが、このとき「観測者とは誰か」「観測とは何を意味するのか」という問いが未解決のまま残される。唯識においては、認識行為は常に「見分(主体)」「相分(対象)」「自証分(内省的自己知)」という三分構造、あるいは四分構造によって説明され、意識は自らの内容を映し出す鏡であるとされる。この構造を量子認識論に応用すれば、物理的現象の成立が「観測によって確定する」というよりも、「観測はもとより識の変現として生起する」というより深層的な理解へと導かれる可能性がある。特に、宇宙全体をひとつの波動関数として扱うホイーラー=デウィット方程式などにおいて、外部観測者が存在し得ない「閉じた宇宙」の観測問題を考える際には、「自証分=自己照明的意識」のような唯識的構造が理論的余地を提供する。第二に、唯識が説く「阿頼耶識」の概念は、宇宙の基底構造あるいは情報の貯蔵場として再解釈される可能性がある。阿頼耶識とは、すべての経験・種子・記憶・潜在性を含む深層識であり、時間的には過去・現在・未来を超えて連続し、空間的には個と個を超えて共通する「識の蔵」として機能する。この考え方は、ホログラフィック宇宙原理やブラックホールのエントロピー、さらには「量子真空場」における情報保存則など、現代物理学における情報論的アプローチと共鳴する点がある。すなわち、唯識的観点からは、宇宙そのものが「情報(種子)の現行化=現象化」の過程として理解され、ビッグバンすらも阿頼耶識に潜在していた可能性の現成とみなされうるのである。第三に、時間と空間の本性についての唯識的直観は、現代宇宙論における時間の「始まり」と「非実在性」に関する議論に対し、重要な洞察を与えるだろう。唯識では、時間や空間は実体として存在するのではなく、識の構造の中で縁起的に生起する「仮有」であり、阿頼耶識が種子を熏習・成熟させる過程で、時空的分節が生じるとされる。これは、ループ量子重力やホーキング=ハートルによる「無境界仮説」などが唱える、時間の起源なき起源といった非時間的起源モデルと親和的であり、時間を「物理的実在」ではなく「意識構造の形式」として捉える哲学的転換に寄与する可能性がある。さらに、唯識が説く「虚妄分別によって外界が構成される」という見解は、多元宇宙論や仮想現実的宇宙モデル(simulation hypothesis)に対する批判的視座も提供しうる。すなわち、いかに多数の宇宙を仮定しようとも、それらは結局「識に現れる像」に過ぎず、唯識的観点からすれば、重要なのは「無数の宇宙」そのものではなく、それがいかなる心の構造や執着によって「多」として分別されているかという認識の位相なのである。以上のように、唯識は現代宇宙論に対して単なる宗教的補助理論としてではなく、観測問題、情報理論、時間と空間の哲学、認識構造における実在論の再検討など、根本的な問いに対して批判的かつ創造的な貢献をなしうる思考体系であり、物理学的実証主義を超えた総合的宇宙観の構築において、今後ますます重要な理論的対話の相手となる可能性を秘めていると言えるだろう。フローニンゲン:2025/8/1(金)09:05
17137. ボルン則について
「ボルン則(the Born Rule)」とは、量子力学において最も基本的でありながら、直観的に理解することが難しい原理の1つである。それは、波動関数が記述する量子状態が観測されたとき、特定の結果が得られる確率をどのように計算するかを定めるルールであり、1926年に物理学者マックス・ボルンによって提唱された。この規則によって初めて、量子論は確率的予測を可能にし、実験結果と理論との橋渡しがなされるようになった。ボルン則は、シュレーディンガー方程式などの波動関数の「振幅」から、観測される現実の「確率」を取り出すための鍵となる法則なのである。ボルン則は、波動関数自体は直接観測される量ではないが、それが持つ「確率振幅」を二乗することで、実際に観測される確率が得られるという関係を示している。ここで1つ、日常的な例えを用いてこの概念を直観的に理解してみたい。あなたが大きなコンサートホールの中で、舞台上に置かれたスピーカーから音楽が流れている。あなたは客席のどこに座るかによって、音の聞こえ方が微妙に異なるのを感じるだろう。波が干渉し合うことで、ある場所では音が強く、別の場所では弱く聞こえる。この「音の強さ」は、音波の振幅の二乗に比例しており、まさにそれが波としてのエネルギー分布を表している。量子力学ではこのアナロジーのように、波動関数の二乗がその地点での「存在の強さ」、すなわちその場所に粒子が「存在する確率」に対応するのである。例えば、二重スリット実験を考えてみよう。電子を1つずつスリットに向けて発射すると、それぞれの電子は波として干渉し、スクリーン上には干渉縞と呼ばれる明暗のパターンが現れる。この明暗のパターンは、波動関数の干渉によって決まり、その「明るい」場所ほど多くの電子が着地する、すなわち高い確率で観測されることを意味する。ここで電子がどこに着地するかは完全に確定できないが、確率的には波動関数の形に従って統計的に予測可能である。この予測を可能にしているのが、まさにボルン則なのである。重要なのは、このルールが純粋に経験的に導入されたという点である。ボルン自身も、なぜ波動関数の絶対値の二乗が確率を与えるのか、その理論的な理由までは示していない。これは量子力学の基礎における「測定問題」や「観測の意味」に関わる大きな謎の1つであり、コペンハーゲン解釈やエヴェレットの多世界解釈、あるいは量子ベイズ主義(QBism)など、さまざまな解釈理論がこの点をめぐって議論を展開してきた。なぜ確率が必要なのか、なぜ二乗なのか、なぜ観測が確率分布から1つの結果を選び出すのかといった問題は、今なお完全には解明されていない。しかし、実験的にはボルン則の正確性は繰り返し確認されており、現代の量子テクノロジー(例えば量子コンピュータや量子暗号)も、この確率的ルールに従って動作している。つまり、ボルン則は単なる哲学的なアイデアではなく、量子現象の予測において極めて実用的で不可欠なツールとなっている。要するに、ボルン則とは、量子の波動関数という抽象的な数学的存在から、現実の物理的観測結果としての確率を引き出す変換のルールであり、それはまるで音の振幅から音量を知るように、量子の世界における「存在の可能性の濃淡」を可視化するための道具である。そしてその正しさは、理論的な必然というよりも、数え切れないほどの実験結果によって裏付けられている。ゆえに、ボルン則は量子力学の根幹に据えられる「確率の法則」であり、私たちが不確定性と共に世界を知るための、最も信頼できる羅針盤の1つなのである。フローニンゲン:2025/8/1(金)13:44
17138. デイヴィッド・ルイスの様相実在論について
デイヴィッド・ルイス(David Lewis)の提唱した「様相実在論(modal realism)」は、可能世界(possible worlds)という哲学的概念に対して、極めてラディカルで独創的な立場を取るものである。彼の主張の核心は、「可能世界は単なる想像や仮定ではなく、現実の世界とまったく同じ意味で実在する」という点にある。すなわち、私たちが「可能である」と語るとき、その可能性は単なる言語的便宜ではなく、実際にどこかでそのような世界が存在している、という大胆な存在論的前提に基づいている。ルイスの様相実在論は、形而上学、意味論、認識論、倫理学など幅広い哲学領域に衝撃を与えた。この立場を直感的に理解するために、1つの例えを用いてみる。あなたは図書館にいて、自分の人生が書かれた「一冊の本」を手にしている。これは、あなたが今いるこの現実世界での人生の記録である。しかし、棚には無数の似たような本があり、例えば「あなたが今朝パンではなくシリアルを食べた世界」や、「別の大学に進学した世界」、「全く異なる人格として生きている世界」の記録も存在する。ルイスによれば、これらの本は単なる仮定やフィクションではなく、それぞれが完全に独立した実在の世界であり、ただ私たちの世界とは空間的・因果的に隔絶しているだけで、現実としての重みや実在性においては等価である。このように、彼の理論では、あらゆる可能な事実が、それぞれ「その世界」では現実であり、私たちの世界(actual world)もその無数の世界の1つに過ぎないのだ。ルイスにとって、「実際に存在する(actual)」というのは絶対的な概念ではなく、相対的な視点にすぎない。つまり、「この世界が実在している」というのは、この世界に属する私たちの視点からの言明に過ぎず、他の可能世界の住人にとっては、それぞれ自分の世界が「実際に存在する世界」なのである。この視点の相対性は、ちょうど「ここ」や「今」といった語が話者の位置に依存して意味を持つのと同じで、「actual」という語も指示的であり、私たちの立場から見た現実性にすぎないとされる。では、なぜルイスはこのような極端な立場を取るのか。それは、彼が様相的命題(可能性や必然性に関する命題)を正確かつ自然に分析するためには、可能世界が実在するという前提が最も理論的に有効であると考えたからである。例えば、「ソクラテスは教師でなかった可能性がある」という文の意味を、ルイスの理論では、「ある世界において、ソクラテスに対応する人物が教師でない」というふうに解釈することができる。このとき、問題は「そのような世界があるか否か」であり、単なる論理的想定ではなく、そのような世界が本当に存在するという前提のもとでのみ、意味論が安定する。こうした意味論的厳密さを保持するために、ルイスは多くの哲学者が避けてきた「存在論的重荷(ontological commitment)」をあえて引き受けたのである。もちろん、この立場には激しい批判もある。多くの哲学者は、「無数の実在世界」があると考えることの直観的不自然さや、検証不可能性、倫理的含意(例えば「どんな悪もどこかの世界では必ず起きている」という事態)に対して疑問を呈してきた。例えば、ソウル・クリプキ(Saul Kripke)やロバート・ストールネイカー(Robert Stalnaker)は、可能世界を「実在」ではなく、「言語的・理論的なモデル」や「状況の記述」として扱う方が自然であると主張した。しかしルイスは、簡便性や直観よりも、理論的一貫性と説明力を重視し、可能世界が実在するからこそ、様相的命題や反事実条件文の意味論が明確になると反論した。結果として、ルイスの様相実在論は、可能性や必然性といった哲学の根幹にある問題群を再構築する上で、強力な道具となっただけでなく、「現実とは何か」「存在とは何か」「私たちの世界はなぜこのようであるのか」といった形而上学の問いに新たな風を吹き込むこととなった。たとえ彼の理論がすべての哲学者に受け入れられているわけではなくとも、その挑発的な存在論は、現代哲学における最も深く、最も挑戦的な議論の1つとして今なお議論され続けているのである。フローニンゲン:2025/8/1(金)16:51
17139. 様相実在論と唯識
デイヴィッド・ルイスの様相実在論(modal realism)は、可能世界の実在性を真正面から肯定する点において、現代形而上学の中でも特にラディカルな立場であるが、その独創性と理論的厳密さにもかかわらず、多くの哲学者から深刻な批判を受けてきた。主な批判点は、実在の過剰な膨張(存在論的浪費)、倫理的直観との乖離、自己同一性の不透明さ、知識と意味論における実用性の欠如、などが挙げられる。これらの批判に対して、インド大乗仏教の唯識思想、とりわけ瑜伽行派の認識論的および存在論的枠組みは、極めて示唆に富む観点を提供しうる。唯識は、実在を外界に措定せず、すべての現象は識の変現であるとする非実在論的な立場に立つが、この立場からすれば、ルイスの様相実在論は「存在」の意味を誤解し、逆に「存在の虚構性」を実在化してしまった理論と見なすことができる。第一の問題である「実在の膨張」とは、ルイスがすべての可能世界を、現実世界と同様に実在するとみなすことで、宇宙の存在論的規模が無限に肥大化するという点にある。すべての可能な出来事、選択、配置が実在化されるとすれば、実在の定義そのものが希薄化し、現実と非現実の境界が消滅してしまう。しかし唯識思想においては、実在とは心識の縁起的構造の中で条件づけられた「如幻如夢」のものであり、「実在」とはあくまで作用的・機能的な構成概念であって、外的に独立した実体ではない。したがって、可能性をすべて実在と見なすことは、「虚構を実体化する」という錯誤であり、それは唯識が「遍計所執性(誤認によって構成された実在感)」として批判する対象そのものである。実在とは主観的識の構造に応じて現れる「依他起性」であり、可能性は「他の条件がそろえば生起しうる」といった機能的存在に過ぎない。第二の問題は倫理的含意に関わる。様相実在論によれば、例えば「どのような悪も、どこかの可能世界では必ず起きている」ということになる。これは、現実の悪に対する責任感や道徳的判断を相対化してしまう恐れがある。なぜなら、「この世界では善をなしても、別の世界では必ず悪が起きる」のならば、倫理的努力の意義が希薄になるからである。これに対し、唯識は善悪を業(カルマ)と阿頼耶識との因果的連関の中で理解する。悪が「どこかで」起きていることは重要ではなく、「この心相続の中で」善悪がどのように熏習され、未来の識にどう影響を及ぼすかが中心である。善悪は多元宇宙的な並列性ではなく、連続的な因果性の中で意味を持つ。この視点からすれば、倫理的責任は「この心」における選択と変容に根差しており、別世界の出来事に倫理的意味を委ねる様相実在論は、実践的倫理の基盤を喪失していると評価される。第三に、自己同一性の問題がある。ルイスは「同一人物の他世界的変種(counterpart)」の存在を認めるが、それは「自分であって自分でないもの」が他世界に無数に存在するという逆説を孕む。唯識においても「自己」の実体性は否定されるが、その否定は「自己は空である」という洞察に基づいており、それは心相続の非断絶的な連続性を重視する構造的理解である。つまり、「自己」は本質的実体ではないが、「識の系列」としての相続は業と熏習によって形成される統一性を持つ。他方、ルイスの理論では「自己」の相続性は断片化され、各可能世界に「似た他者」が分散して存在するに過ぎない。これはむしろ「一者としての生の統合性」の感覚を喪失させ、主体性の崩壊につながりかねない。さらに、知識と意味論の次元においても、唯識は深い批判を加えることができる。ルイスの理論は、反事実文や様相命題の意味を安定させるために、多数の実在世界を必要とするが、唯識においては意味や認識は「識の変現」によって生起するのであって、「外に実在する世界」がなければならないという必然性はない。むしろ、意味とは「概念と種子の結合によって起こる心の働き」であり、世界の構造は心の変容とともに生成されるものである。すなわち、反事実や可能性の意味も、識における想像力・記憶・推論といった作用の中で生起し、それを支える実在世界の有無は理論的には不要である。以上を総合すれば、ルイスの様相実在論は、分析哲学的厳密さを持ちながらも、実在・倫理・自己・意味といった根本問題において、「心とは無関係な客観的世界の網目」を過剰に展開した理論であり、それは唯識が批判する「遍計所執性」の極致とも言える。唯識の観点からは、あらゆる可能性や意味、現実感は「識の縁起的構造」として理解されるべきであり、存在を外に投影するのではなく、「この心の変容」の中に見出すべきである。したがって、唯識は様相実在論に対し、存在の哲学から認識の哲学へとパラダイム転換を促す、深い省察を与える立場だと言えるだろう。フローニンゲン:2025/8/1(金)16:57
Today’s Letter
This life is a gift given by the cycle of collective life. My life will be passed on to someone else, who will carry a part of my memories. Groningen, 08/01/2025

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