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【フローニンゲンからの便り】17146-17152:2025年8月3日(日)


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タイトル一覧

17146

アンスロピック原理と唯識

17147

今朝方の夢

17148

今朝方の夢の振り返り

17149

科学的発見と唯識

17150

ロジャー・ペンローズの著書“Shadows of the Mind”を読み返して

17151

ロジャー・ペンローズの著書“The Emperor’s New Mind”を読み返して

17152

量子重力と唯識

17146. アンスロピック原理と唯識

                                 

時刻は午前7時を迎えた。今日は少し空が曇っているが、雨は降らないようだ。今の気温は15度で、日中の最高気温は22度とのことである。ここから10日間の天気予報を見ると、最高気温は19度から23度の間で推移するようで、8月を迎えてもまだまだ過ごしやすいことに感謝したい。こうした涼しい気候の中だと、学術探究を含め、諸々の仕事が非常に捗る。有り難い限りである。


ここ最近は唯識と量子論哲学の探究に加えて、その延長上として宇宙論の探究をしている。その中で、「アンスロピック原理(anthropic principle)」という概念と出会った。アンスロピック原理とは、宇宙の物理的な法則や定数が極めて精密に調整されており、もしわずかに異なっていれば生命が存在できなかったであろうという事実に基づき、「私たちのような観測者が存在するのは、そのような宇宙であるからだ」という帰結を導くものである。この原理にはいくつかのバリエーションがあるが、代表的には「弱いアンスロピック原理(WAP)」と「強いアンスロピック原理(SAP)」が挙げられる。前者は「観測される宇宙は、観測者が存在可能な条件を満たしていなければならない」とする相対的な命題であり、後者は「宇宙は知的生命を生み出すように調整されている」といった目的論的含意を持つ。いずれにせよ、アンスロピック原理は物理学・宇宙論・哲学における論争の的となっており、特に「説明になっていない説明」であるとする批判や、「多元宇宙論(multiverse theory)」との結びつきによる確率論的な逃避であるとの疑念が提示されてきた。このようなアンスロピック原理に対し、唯識思想は根本的な見直しを促す哲学的視座を提供する。唯識学は、あらゆる存在や現象は「識」すなわち心の働きに他ならないとする立場であり、物理的な宇宙は「心の顕現」であると理解される。とりわけ『成唯識論』では、「三性説」(遍計所執性・依他起性・円成実性)を通じて、私たちが経験している世界がいかに主観的構成に依存しているかが論じられる。ここで重要なのは、宇宙や物理法則が「与えられた前提」ではなく、「阿頼耶識」の潜在的種子から転変されたものであるという発想である。すなわち、宇宙が人間にとって都合よく調整されているのではなく、「人間的な世界そのものが、心の構造から構成されている」というのが唯識の根本的視座である。この点において、アンスロピック原理は「観測者と世界」の関係をあくまで二元論的に捉えているという限界を持つ。観測者(人間)と観測される宇宙(外的世界)とを分離し、その一致や適合を偶然か意図かで説明しようとするアプローチは、唯識から見れば根本的な錯誤である。観測者と世界は同時に心において成立しており、その両者を切り分けること自体が「遍計所執性」による虚妄分別に他ならない。すなわち、唯識の立場では、物理的宇宙もまた「識の流れの相続」であり、その“調整されているように見える”構造すらも、主観的意識が持つ構造的制約の反映とされる。また、アンスロピック原理における「生命が存在可能な宇宙」という問い自体も、唯識においては問題設定の前提が誤っていると言える。生命とは単なる物理的配置や生化学的条件によって定義されるものではなく、心相続という無始の識の連続によって成立する。ゆえに、「物理定数の微調整」ではなく、「識の潜在的傾向性」が世界の現れを規定するのである。このように考えると、アンスロピック原理は「物理的条件と生命の適合性」という表面的な一致に注目しすぎるあまり、認識構造そのものに踏み込めていないという限界が見えてくる。唯識は、物理宇宙を「外的な実在」ではなく「内的識の顕現」と見なし、「宇宙が人間に適している」のではなく、「人間的認識構造が宇宙をそう経験させている」と見るのである。結論として、アンスロピック原理は世界と自己を分離した還元的思考にとどまっており、唯識の観点からは「観測と観測対象の二元論的執着」に基づく1つの仮構にすぎないと見なされる。世界の意味を根本的に問い直すには、「心が世界を構成している」という転倒的直観を持つ唯識的な哲学こそが、より根源的なパラダイム転換を提供すると言えるだろう。フローニンゲン:2025/8/3(日)07:22


17147. 今朝方の夢

  

今朝方は夢の中で、ある2人の見知らぬ若い男性が話をしている場面を目撃していた。片方の男性がどうやら東大受験を控えているらしく、当日の戦略について話していた。彼は英語が相当にできるらしく、これまでの模試では、常に安定して120点中100点を超える点数を取っているとのことで、英語の安定さについてまず言及していた。英語の安定さがある分、それほど得意ではない数学では1完半で十分とのことで、その他の社会と国語に関しては安定して平均以上の点数を取れるとのことだった。彼も述べていた通り、それくらいの点数が安定して取れていたら、合格は間違いないだろうと私も思った。もう片方の男性がその男性に、英語の勉強方法に尋ねたところで夢の場面が変わった。


次に覚えているのは、ある知人が新幹線に乗って、席でYoutubeのショート動画の撮影をしている場面である。この場面においても自分は目撃者の意識として存在していた。その方と対面する席にその方のアシスタントが座っていて、アシスタントの方がスマホを持って撮影をしていた。その方は、今度会社で販売することになった特殊なフィットネスシートを紹介していた。そのシートは椅子の上に敷くだけのもので、その上に座ると、シートが微妙に震え、お尻の筋肉に特殊な刺激がいくというものだった。実際にその方が実現をしてみると、どうやらその刺激は心地良く、そして気持ちの良いものらしいことが伝わってきて、自分も試してみたいと思った。今朝方の夢で覚えているのはこの2つだが、今日はどちらの夢においても目撃者の意識として存在していたことが興味深い。夢の世界の中でサトルボディとして生きているのではなく、純粋な意識体として存在していた。そのことが示唆することは何なのだろうか。その点について今から少し時間を取って考察をしてみたい。フローニンゲン:2025/8/3(日)07:33


17148. 今朝方の夢の振り返り

 

今朝方の夢は、主体として行為する自分をいったん退き、内面の「戦略家」と「見届け人」を分離させて観察する構造を持つ象徴劇である。どちらの場面でも自分は目撃者として存在し、身体性を薄めた純粋意識の位置にとどまっている。この配役は、現実における大きな節目や判断を前に、拙速な介入よりも俯瞰と選択の質を高めることを無意識が優先していることを示すものである。すなわち「今は動きすぎるな、まず見よ」という合図である。東大受験の話題は、人生における最難関級の関門を象徴する。しかも登場人物は見知らぬ若者であり、年齢や属性を越えた汎用的な自我の断片、あるいはアーキタイプとしての「受験者=挑戦者」である。英語が安定して120点中100点を超えるという設定は、「他者や世界とつながる力」「情報を受け取り、編み替え、発信する力」が抜きん出ていることのメタファーである。数学が一完半で十分という台詞は、論理・抽象・厳密さの領域では満点主義を降ろし、合格点を見極めてリソース配分する成熟を示す。社会と国語が平均以上という記述は、文脈理解や常識、集合知との整合を保つ地力の安定である。ここには「強みを軸に弱点は必要十分で着地させる」「総合点で勝つ」という明快な戦術が描かれている。しかも自分自身がその戦略に即座に頷いていることは、内なる審判がすでに合格基準を把握し、過剰な完璧主義から距離を取る準備が整っていることの表出である。もう1人の若者が英語学習法を尋ねたところで場面が切れるのは、「方法論の細部は今は要らない、態勢と配分の設計こそ先だ」という無意識の編集であり、技法の蒐集より戦略の確定を優先させるカットであると言えるかもしれない。新幹線の場面は、現実の時間軸が高速で進行する只中にあっても、創造と発信を同時に走らせるモードへの移行を映す。走行中の車内=移動の最中での撮影は、「到着を待たずに生成する」「プロセスの速度とアウトプットの即時性を両立させる」態度の象徴である。アシスタントが対面でスマホを構える配置は、自分の内側にある補助的機能――段取り、後方支援、記録化――が正面から主役を支えている心的布置である。紹介される特殊なフィットネスシートは、椅子に“敷くだけ”で微細な震えが基底の筋に刺激をもたらす装置であり、「日常の座るという行為に、ほとんど摩擦なく付加できる微小介入が、基盤を活性化する」というメタファーである。尻は身体の土台と推進力を担う部位であり、そこに心地よい刺激が与えられる描写は、根源的な支持感や生存エネルギー(グラウンディングやリビドー)の循環が安全に快く立ち上がることの許可証である。新製品を“会社で販売する”という枠組みは、この微小介入を個人的嗜好ではなく制度化・反復可能な仕組みに格上げする意図を示す。自らが「自分も試してみたい」と感じた一行は、観察に徹していた意識が再び身体へ帰還し、実装へ踏み出す扉を見つけた瞬間である。2つの場面を横断する主題は一貫して「レバレッジ」である。受験の場面では、英語の安定という強い支点が他科目の“十分”を許容し、全体を押し上げる。新幹線の場面では、座面という日常最小単位に微細な振動を加えるだけで、基盤の機能が底上げされる。前者は認知領域におけるレバレッジ、後者は身体領域におけるレバレッジである。さらに両者に通底するのは「安定」という語感である。安定して100点超、平均以上の安定、座るだけで得られる安定した快。無意識は、激烈な追い込みや大幅な改革ではなく、すでに安定している核に微細な手当てを重ねることで、総合点と推進力を最大化せよと告げている。自分が終始「目撃者の意識」にとどまったことは重要である。これは単なる逃避ではなく、行為主体が暴走して戦略や感覚を乱さぬよう、純粋意識の視座で配分と姿勢を調律する段階であることを示す。東大=最高水準の審級、英語=世界と結ぶ回路、数学=精度、社会と国語=文脈と物語、新幹線=高速の時代、YouTubeショート=凝縮と即時性、アシスタント=オペレーション、フィットネスシート=微介入による基盤活性――これらの記号が一枚絵として重なるとき、「強みを主軸に据え、弱点は必要十分で合格させ、日常の最小単位に快い微振動を仕込みながら、速度の只中で発信せよ」という設計図が立ち上がる。同時に、この夢はもう1つの勧告も秘めている。観ることはすでにできている。次は、方法論の細部に溺れず、まずは“敷くだけ”の一手を現実に置くことである。英語学習法の答えが語られる前に場面が切れたように、完璧なマニュアルは不要である。強みを運用する第一歩、弱点を一完半で止める撤退ライン、座る時間に加える微小な刺激――この三点を同時に走らせれば、総合点は合格域に安定的に入るはずである。純粋意識の高座から降り、座面にシートを敷くように、身体と日常にそっとレバレッジを差し込むこと。それがこの夢が示す、静かながら確かな推奨である。フローニンゲン:2025/8/3(日)07:58


17149. 科学的発見と唯識

  

人は科学的発見を「発見」と呼ぶが、果たして本当に「発見」という言葉が正しいのだろうか。唯識の観点からすると、識が何かを見つけたというよりも、事象が「顕現」してきたとみなす方が適切のように思えるということについて考えていた。「科学的発見」という言葉には、「何か既に存在していた真理や現象を、人間の意識がついに見つけた」という含意がある。しかし唯識の観点から見るならば、この「発見」という表現は、世界の在り方や認識の成り立ちをある種誤解させる可能性を孕んでいる。なぜなら、唯識においては、外界に実体として独立に存在する「物自体」は否定され、あらゆる事象や対象は「識」、すなわち認識作用の所現(=現われ)として把握されるからである。唯識では、認識対象とは「外にあるもの」ではなく、八識(眼・耳・鼻・舌・身・意・末那・阿頼耶)という心の流れの中で、種子として潜在していたものが、因縁に応じて現行化し、像として立ち現れてくるものとされる。つまり、科学的な現象や真理もまた、外界に独立して待っていた「客観的事実」ではなく、識の深層に内在していた可能性が、特定の条件や文脈、知的探究という「因縁」によって顕現したものである。例えば、ニュートンが万有引力を「発見」したという言い方は、あたかも引力という法則が外界に実在しており、彼がそれを掘り出したかのような印象を与える。しかし唯識的には、万有引力の概念は、彼の識の中に潜在していた種子が、観察・思考・直観という行為の連鎖によって成熟し、象として立ち現れたものにすぎない。これは「事象が顕現した」と捉えるべきであり、認識主体が既にそこにあったものを「発見した」という理解よりも、はるかに精緻な説明である。また、唯識では「現象と認識は同時に生起する」(相応生起)と説かれる。すなわち、ある対象が「そこにある」から認識されるのではなく、認識作用と対象の姿は不可分に生じる。この見地に立つならば、科学的「発見」は、対象がそこにあったことの確認ではなく、「そういう像がそういう仕方で意識に現れた」という事実の成立を意味する。したがって、「発見」という語の背後にある「外界実在説」を唯識は否定し、「顕現」という語がより正確な表現となるのである。さらに深く見るならば、科学的認識とは阿頼耶識における潜在的種子の熟成と抽出の過程に他ならない。阿頼耶識とは、一切の経験と認識の基底にある、流転し続ける深層意識であり、そこには過去の経験・知識・文化的遺産・言語的規定といった種子が絶えず堆積している。科学的理論もまた、この阿頼耶識に沈潜していた意味の層が、個人的・文化的条件のもとで表層に押し上げられてきた結果である。それゆえ、「発見」は「外界の真理の獲得」というよりも、「識の深層からの意味の浮上」「事象としての像の浮上」と捉え直すべきである。この視座を受け入れるとき、「科学的客観性」のあり方も見直される。すなわち、真理とは誰にも共通に見える「客体」ではなく、共通の因縁において共時的に現れる「共顕現性(inter-subjective manifestation)」である。物理定数や数学的法則が人類にとって「同じように」観測されるのは、それが絶対的に存在するからではなく、人間という存在様式(五蘊)の構造、言語体系、歴史的文化的背景が共通しているために、顕現の仕方が似通っているからにすぎない。したがって、唯識からすれば、科学的「発見」という語の背後には、誤った外実観、すなわち世界が心とは無関係に実在し、それを私たちが外から発見するという二元的な構造が潜んでいる。それよりも、「科学的顕現」「識における出現」「意味の発露」といった表現の方が、認識の実相を的確に捉えていると言えるだろう。世界とは「発見されるもの」ではなく、「共に顕現するもの」なのである。フローニンゲン:2025/8/3(日)09:15


17150. ロジャー・ペンローズの著書“Shadows of the Mind”を読み返して 

                         

ロジャー・ペンローズの著書“Shadows of the Mind(心の影)”を久しぶりに読み返している。本書は、前著『皇帝の新しい心』で提起された主張の延長線上にあり、意識と計算、量子力学の関係についてさらに踏み込んだ議論が展開されている。ペンローズはこの書で、コンピュータによるアルゴリズム的な計算処理(チューリング機械によるモデル)では人間の意識を説明できないとする強い主張を展開し、意識の本質は非計算的な物理過程、すなわち量子力学に潜むまだ未解明の重力理論との接合点にあると論じた。彼の議論の中心には、ゲーデルの不完全性定理がある。すなわち、人間の数学的直観は形式的な論理体系に還元できないとし、それゆえ人間の意識はアルゴリズム的な推論を超える何かを含んでいるという。この「非計算性(non-computability)」こそが人間意識の本質であり、それを担っているのは脳内における微細な構造、特に神経細胞内の微小管(マイクロチューブル)で起きる量子的プロセスではないかと仮説を立てている。これがいわゆるペンローズ=ハメロフ理論の基礎であり、後に「Orchestrated Objective Reduction理論: Orch-OR理論」として展開された。ペンローズによれば、脳の中で通常の古典的情報処理とは異なる、量子コヒーレンスの状態が保たれ、それがある閾値に達したときに「客観的収縮(objective reduction)」が起こる。この瞬間が意識の「閃き」や「気づき」を生むとされており、意識とは脳内量子プロセスの収束として生じるというのである。この大胆な主張に対して、唯識の立場から応答するならば、まず問い直されねばならないのは「意識とは何か」「それは物理的過程によって生じるのか」という根本的な見方である。唯識は、意識や心が物理的な基盤の副産物であるという前提そのものを否定する。むしろ、あらゆる物質的現象こそが「識」の所現、すなわち心が因縁に応じて投影した現象であるとみなす。すなわち、ペンローズが「微小管における量子的過程」を意識の源と見るのに対し、唯識は「微小管そのものが識の顕れ」であると見るのである。また、ペンローズがゲーデルの不完全性定理を根拠に、人間の意識が非計算的な性質を持つとする見解は、唯識の「無分別智」の理解と接点を持つ。すなわち、人間の意識は単なる分別(言語的・二元的区別)によって成立するのではなく、言葉や論理を超えた「直観的な了知」が可能である。これは仏教における般若波羅蜜や如実知見の力に相当し、まさに形式的推論を超えた智慧の顕現である。ペンローズが「直観」や「洞察」といった非機械的認知の源を、脳内の量子的相互作用に求めるのに対し、唯識はこれを「識の無始以来の種子」が因縁によって開花した結果として把握する。さらに、唯識における「識の多重構造」――眼耳鼻舌身意という前六識、自己執着の根である第七末那識、そして経験の痕跡を蔵する第八阿頼耶識――は、ペンローズの言う「意識の深層にある非計算的構造」とある種の類似性を持つ。特に阿頼耶識は、顕在意識に先立つ深層で、あらゆる認識の種子を保持し、経験や因縁に応じて現象界を構成していく。ペンローズが言う「閃き」は、この阿頼耶識に埋め込まれた種子が、特定の因縁によって現行化した結果と見ることもできるだろう。ただし、ペンローズの理論はあくまでも「物理過程としての非決定性」すなわち、量子の不確定性を用いて意識の不規則性や創造性を説明しようとする試みである。しかし唯識は、意識が物理の「産物」であるのではなく、物理そのものが「意識の顕現である」という転倒した立場を取る。すなわち、量子的過程もまた識の所現であり、そこに意識の根拠を求めるのは、鏡の中の像に本体を求めるようなものである。鏡が像を映すのは本体があるからであり、像が本体を生むのではない。唯識においては、「心こそが世界を映し出している鏡」であり、物質的構造はその心の内奥における無数の種子が、因縁によって時宜にかなって顕現したものである。ゆえに、“Shadows of the Mind(心の影)”が提起する意識と物理との関係性は、唯識の観点から見れば1つの「現象としての理解」にとどまり、最終的には「識こそが主体であり、物理はその映り」であるという根本転換が求められる。科学の方法論の限界を越えたところで、いかに心の働きを知るか――その問いに対して唯識は、「心が万物を生む」「あらゆる見られるものは見ている識の影である」と応えるのである。ペンローズの「心の影」とは、唯識においては「影ではなく本体」そのものであり、影と思われていたものの実体がむしろ「世界そのもの」なのだと反転する地点に導かれていく。フローニンゲン:2025/8/3(日)10:20


17151. ロジャー・ペンローズの著書“The Emperor’s New Mind”を読み返して

                        

ロジャー・ペンローズの“The Emperor’s New Mind”も再び読み返すことにした。本書は、人工知能(AI)と意識の問題に対する強い懐疑と、物理学・数学・心の哲学を横断する壮大な試論である。本書においてペンローズは、当時盛んになりつつあった「強いAI」、すなわちコンピュータが人間の意識を再現できるという立場に対して、数学的・哲学的・物理的観点から反論を試みている。彼の主張の核心は、「心(mind)」の本質は単なるアルゴリズム的計算では捉えきれないという点にある。この立場を支持する根拠として、ペンローズはゲーデルの不完全性定理を取り上げる。彼は、いかなる形式的体系においても、システム内から証明できない真理が存在すること、そして人間の直観はしばしばこのような「非形式的真理」を捉えうるという事実を重視する。これによって、心は単なる論理体系やプログラムには還元されない、という主張を補強する。ペンローズはまた、心の働きを理解するためには、現在の量子力学や相対性理論において見過ごされている、未知の物理的原理が必要であると考えている。特に彼は「量子重力理論」が完成すれば、人間の意識の非決定的性質を説明する手がかりが得られると期待している。この文脈において、「意識とはまだ未発見の物理法則の影(shadow)である」という彼の象徴的な表現が生まれる。本書では、コンピュータの構造や計算理論、人工知能、時間の非対称性、熱力学、相対論、量子力学など、広範なトピックが展開されるが、いずれも「人間の心の本質は単なる機械的処理を超えている」という結論を支持するために配置されている。こうしてペンローズは、意識とは物理世界の深層構造に根ざした、未知なる何かによって支えられていると結論づける。


本書は、現代科学が抱える「意識という難題」に真正面から取り組もうとする、極めて誠実な知的探究である。その中で彼は、心を単なる計算過程とは見なさず、むしろ直観的・創造的・非アルゴリズム的な実体と捉える。この認識は、唯識が説く「識こそが実在の根源であり、計算や言語に先立つ働きである」とする見解と親和性を持っている。唯識においては、「識」とは単なる知覚や情報処理ではなく、世界そのものを成立させる根本的機能である。すなわち、「外界に実体的な物があって、それを識が認識する」のではなく、「世界と意識は同時に生起し、不可分である」という「唯識所変」の原理が基礎にある。ペンローズが語る「人間の心は形式的システムでは説明できない」という主張は、唯識における「分別と無分別」「相対知と絶対智」の峻別に重なる。例えば、ペンローズはゲーデルの定理を用いて、「心は論理に還元されない」と述べるが、これは唯識において「分別智」(言語や概念による識別)と「無分別智」(直観的・直覚的知)の区別と深く通じ合う。無分別智とは、如実知見に通じる認識であり、知と対象が二元に分かれず、直に対象の真実を洞察する働きである。ペンローズが重視する「直観的理解」こそ、仏教における智慧の働きに近いものと解釈できるだろう。また、ペンローズは「心の本質は、まだ知られていない物理法則、特に量子重力に関係する何かに根差している」と考えるが、唯識はこのような「物理法則の探究」に対して、より根源的な問いを投げかける。「そもそも物理とは何か」「法則とはどこにあるのか」と。唯識にとって、法則とは外界に客観的に存在するのではなく、識が因果的連関を構成した結果に過ぎない。すなわち、物理法則もまた「識の表層に浮かび上がったパターン」に過ぎず、絶対的な基礎ではない。その意味で、ペンローズの「心は物理法則を超えている」という発想は、唯識が語る「阿頼耶識の深層性」と響き合う。唯識では、すべての認識と経験の根底に、阿頼耶識という潜在的な心の貯蔵庫があるとされ、そこには「種子」としてすべての経験の可能性が含まれている。人間の「閃き」や「直観」もまた、この深層から、因縁に応じて浮上してくる現象である。ペンローズが「論理体系を超えた直観の力」に注目するのは、まさにこの阿頼耶識的発想に肉薄している。しかし、唯識は決して心を神秘化するのではなく、その変化と働きを詳細に分析することによって、むしろ「識の自覚化」を目指す道を示す。ペンローズが物理的基盤の中に心の本質を求めるのに対して、唯識は「すでに現れているこの心」そのものを通して、世界の構造を逆照射しようとする。この点で両者は、目指す方向は似ていながらも、方法論においては異なる軌道を描いている。結局、ペンローズが「皇帝(=科学)」に対して「あなたの新しい心は、実は裸なのではないか」と問うたその批判精神は、唯識が現象世界の見かけを超えて、「識そのものが真実である」と言い切る態度と響き合う。両者はともに、現代的合理性の限界を見据え、その先にある「不可視の力」を仮定するが、唯識はその不可視の根源をすでに「この瞬間の識」において発見しているのである。つまり、心とは未来の量子理論の彼方にあるのではなく、今ここで世界を映し、問いを発し、その問いに驚いている「この心」そのものである。その事実に気づくことが、唯識の「転識得智」に他ならない。そしてその道こそが、真に「新しい心」を得るための転回なのである。フローニンゲン:2025/8/3(日)10:33


17152. 量子重力と唯識

              

先ほど読み返していた書籍の中に「量子重力」についての記述があった。量子重力とは、現代物理学における最大の未解決課題の1つであり、量子力学と一般相対性理論という2つの根本理論を統一し、重力を量子的な枠組みで記述しようとする試みである。現在、自然界の4つの基本的な力(電磁力・弱い力・強い力・重力)のうち、電磁力・弱い力・強い力の3つは量子場理論によって成功裏に記述されており、素粒子物理学の標準模型を形成している。これらはすべて「ミクロの世界」における相互作用を扱うものである。一方、重力はアインシュタインの一般相対性理論によって「マクロの世界」、すなわち星や銀河、宇宙全体の構造を記述する形で理解されている。ここでは重力は「時空の幾何の歪み」として記述されるが、量子的な不確定性や重ね合わせのような性質とは無縁である。しかし、ブラックホールやビッグバンのような極端な環境、すなわち極小のスケールで極大のエネルギー密度が生じる状況では、量子力学と重力を統合的に扱う必要がある。そのため、両理論の統一が不可欠となる。これが量子重力理論の必要性の背景である。現在、量子重力の候補理論としては大きく2つが挙げられる。第一は「弦理論(string theory)」である。これは、素粒子を点状の存在ではなく、一次元的な「弦」として扱うことによって、重力子(graviton)と呼ばれる重力の媒介粒子を自然に導出できる理論である。弦理論は時空を10次元または11次元とする高次元宇宙を前提とし、重力を量子論の枠内で記述しようとする。第二は「ループ量子重力(loop quantum gravity)」である。こちらは弦理論とは異なり、時空そのものを離散的な構造として扱い、時間や空間が量子化されたネットワーク(スピンネットワーク)によって構成されているとする理論である。連続的に見える時空は、微視的には不連続な「量子的構造体」として存在するという。いずれの理論においても、「時空はそれ自体として絶対的に存在するのではなく、より根源的な量子的基盤から構成されるものだ」という世界像が根底にある。ここで注目すべきは、「物質や時空を実在の基礎とみなす」という古典的な前提が解体されつつある点である。


唯識思想の核心にあるのは、「一切は識より生ず」という非物質的な世界観である。すなわち、私たちが「外界」と呼ぶ世界は、実体として外部に存在するのではなく、識、すなわち認識作用の所現として立ち現れているにすぎない。したがって、時空や物質、エネルギーといったものも、それ自体が実在しているのではなく、識が因縁に応じて顕現させた現象にすぎないという見方を取る。量子重力が提示する「時空の量子化」や「時空の非連続性」というアイデアは、唯識の立場から見るならば、「時空そのものが実体ではない」という直観的認識と響き合う。特に、ループ量子重力が説くように、「空間」と「時間」が微細な構造単位から編まれているとする考え方は、唯識における「阿頼耶識の種子」が特定の因縁によって現象として開花し、五蘊や六境が展開するという構図と親和性を持つ。唯識はまた、「所見は唯識の影である」と説く。すなわち、空間にあるとされる山河や星々でさえ、それを見ている主体の識が編み出した投影にすぎないという。量子重力が「時空は場のように動的で、しかも観察者の視点と切り離せない」と見なす点は、唯識の「唯識所変」の教理と密接に関係する。つまり、観測とは対象の本質を暴く行為ではなく、観測それ自体が対象のあり方を規定する――これはまさに「見られる世界が、見る意識と不可分である」という唯識の主張に通底する。また、量子重力が究極的に「時間そのものの崩壊」や「因果の非絶対性」に触れようとするのに対して、唯識はすでに「三世(過去・現在・未来)すべてが識の流れにおける一時的な構成である」と見る。時間とは、阿頼耶識の種子が起現しては滅し、また次の因を生むという連続的な流れ(相続)によって成り立っているにすぎず、実体的な存在ではない。このように見ると、量子重力理論は、唯物論的世界観の解体と、主観と世界の非二元的関係への回帰を促す装置とも言えるだろう。すなわち、現代物理が到達しつつある最深部は、「物質がすべてではない」「時空も揺らぎの産物である」「観測者が世界の構成に関与している」という、まさに唯識が長らく説いてきた洞察を再発見しているのである。だが、唯識が単なる理論ではなく、瞑想と内観による直接的な体験に裏打ちされている点を考えると、物理学がどれほど精緻な数学的構造を構築しても、それが観察者の深層構造に迫らぬ限り、真の「如実知見」には至らない。唯識は、すべての認識と存在が心に還元され、しかもその心は清浄にして自在であるという希望の哲学である。量子重力が「世界は粒子ではなく関係である」と語り始めるとき、それは識が発するささやきの、最先端における科学的反響と見るべきかもしれない。フローニンゲン:2025/8/3(日)11:00


Today’s Letter

I voraciously read books and papers on Yogācāra and quantum theory every day. Now, I feel a strong calling to write peer-reviewed articles on these topics. The time is nearly upon me. Groningen, 08/03/2025

 
 
 

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