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931. 知識体系の発達と差異


オーストリアからフローニンゲンに戻ってからの二日目の朝を迎えた。フローニンゲンに到着した夜と同様に、昨夜も十分な睡眠を取ることができた。相変わらず、睡眠の直前は不思議な意識状態になる。

昨夜も、非常に研ぎ澄まされた静かな意識状態の中で眠りに落ちた。起床直後、ザルツブルグで開催された非線形ダイナミクスの学会について振り返っていた。

欧米を中心に、各国から様々な研究者がこの学会に参加していた。中には、コーチングを生業とする人たちも学会に参加しており、人間発達に非線形ダイナミクスの考え方を導入する実務的なヒントを得ようとしているようだった。

私も研究と並行して発達支援コーチングに携わっているため、今回の学会が発達支援の実務に有益な知見をもたらすものであったことを実感している。特に学会の発表では、非線形ダイナミクスをサイコセラピーに活用した研究が多数取り上げられており、それらの研究成果はコーチングにおいても有益なものだった。

サイコセラピーにせよ、コーチングにせよ、それらは非線形的な挙動を見せる人間の複雑な心に関与するという特徴を持っているがゆえに、非線形ダイナミクスの知見は当該実務領域に携わる者にとって不可欠だと改めて強く思った。

学会は最終日を除き、三日間を通じて基本的に朝から晩まで行われた。私にとって馴染みのない分野の発表もあったし、発表内で取り上げられている概念や理論なども馴染みのないものが多かった。

そのためか、今回の学会を通じてかなりの量の新たな知識が自分に向かって流れ込んでくるような感覚がした。そうした大量の知識をその場で全て咀嚼できるはずはなく、知識体系の構築運動が少し麻痺するような感覚があった。

参加者の何人かと雑談をしていると、同様のことを述べる者がいた。その場で咀嚼しきれなかった知識は、これからじっくりと時間をかけながら自分なりに理解を深めていく必要があるだろう。

学会での発表というのは、そうした行為に私たちを促すきっかけにすぎない。逆に、そうしたきっかけを逃すことなく、自らの知識体系を確固とするための歩みを着実に進めていくことが大切になる。そのようなことを思った。 昨日、「創造性と組織のイノベーション」のコースで課せられている25本ほどの論文を通読した。明日の最終試験に向けて、今日もそれらの重要な箇所を読み返す必要がある。

それらの論文を読みながら、初読の時の自分とは違う場所に今の自分がいることにはたと気づかされた。これは目新しい気づきではないかもしれない。

だが、私にとっては、初読の時と再度論文を読み返した時の自分を比較し、そこに差異を見出すことが何よりも重要だった。それらの差異は、変化と呼ぶこともできるだろう。

あるいは、ミクロな発達と呼んでもいいと思う。初読から二ヶ月ほどしか経っていないにもかかわらず、それらの論文から見出す意味とその深さが異なることに純粋な驚きがあった。

観察の眼をより研ぎ澄ませてみると、一週間前にフローニンゲンからウィーンに向かう最中に読んだ論文を再度昨日読み返してみると、そこから汲み取れる範囲と深さが異なっていたのだ。これは驚くに値することではないだろうか。

人間の知識が深まるという現象は、私を虜にする何かが依然として潜んでいる。初読時と再度時において、知識体系の不可逆的な発達が起こっている。

とても奇妙なのだが、一度書物や論文を読んでしまうと、記憶の忘却があったとしても、以前の状態に戻れないのだ。これは非常に奇妙な現象であり、興味深いものでもある。

再読時に知識体系が深耕されるのは、既存の知識や体験が再読という行為を通じて差異を生み出すような運動を自発的に行っているからではないかと思った。そう思った瞬間に、これはダイナミックシステム理論で言うところの「自己組織化」に他ならないと気づいたのだ。

そもそも知識体系が自己組織化を絶えず行うことができるのは、知識体系自体が一つの生態系として生きているからであり、私たちの内側の変化や環境という外側の変化が触媒となって、知識体系自体が変化し続けているからだろう。

本日、再びそれらの論文を読み返すことになるが、その際にどのような差異を自分の内側で見つけることができるだろうか。差異を生み出すことが難しいのではなく、差異に気づくことが難しいのだ。

なぜなら、差異は絶えず自分の内側で生まれており、それはとても微細なものとして常に立ち現れているからである。2017/4/12

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