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908.【ウィーン訪問記】アムステルダム国際空港のカフェで:波と海


予定よりも少し早く自宅を出発し、アムステルダム国際空港に到着した。セキュリティーを通過し、搭乗ゲート近くのカフェで今この文章を書いている。

自宅から空港までの間に、何か大きな気づきや発見があったわけでは決してない。しかし、なぜだかパソコンを立ち上げ、日本語の文章を綴っている自分がいる。

六年前に米国に留学して以降、日本国外にいる間は、外出中に日本語の文章を読み書きしないような習慣があった。これは幾分謎めいた習慣なのだが、自宅やホテルなどの滞在先にいる間以外は、外で日本語を読み書きすることを避ける傾向があるのだ。

表面的な理由として、外出先で日本語空間に思考が移行してしまうと、突然の時に他の外国語空間に思考を変える一瞬が命乗りなってしうまうかもしれない、というような防衛反応が関係しているように思う。もちろん、これまで海外生活において、身の危険を感じたことは一度もないのだが、万が一に備えて、出先では常に英語空間に留まっているような無意識的な働きがある。

だが、今このようにして、アムステルダム国際空港で日本語を書いていることからわかるように、日本語と外国語の使用に関して、少しばかり私の中で変化があったようなのだ。これは国外で暮らすことからの慣れが生み出したものなのかもしれないし、直ちに日本語空間から英語空間に移行できるというような驕りのようなものがそうさせているのかもしれない。

この現象のさらに奥には、私の言語感覚と言語能力に関して、まだ明確な言葉を与えられないような現象が横たわっている気がしてならない。今少しだけ言えることがあるとすれば、ようやく日本語への固着から解放されつつあるように思うということだ。

とりわけ、外国語の中でも英語がようやく自分の感覚や存在に流入するようになっているのを実感する。ここに至るまでに五年の歳月がかかった。

昨日の午後から夜にかけて、友人と対話をした後に気づいたのは、日本語にせよ英語にせよ、書き言葉だけではなく、とりわけ話し言葉の能力も高めていく必要があるということだった。日本語と英語という二つの言語がともに、自分の存在と深層的な感覚から生み出されるようになってきたことは喜ばしいことなのだが、それらの言語の使用に関して、道半ばであるという思いが尽きない。

それほどまでに、言語を真の意味で使用するということは難しいのだ。ウィーンに到着するまで三時間ほどとなった。ウィーン行きの搭乗まで一時間を切った。

それなのに、私の内側は、一切の波が消失した大海のようである。自宅を出発した時の期待感と静けさの感覚を超えて、今の私の心の状態は恐ろしいほどの感覚無だ。

ウィーンへの期待感もいつの間にやら消え失せ、私は、カフェの机の上に置かれたグラスと同様に、ただここにある。飛行機の搭乗を待つ無数の人たちが見える。

彼らの一挙手一投足が、打ち寄せては消える波のように見える。それらの全てが、波を生み出す海そのものに溶け込んでしまうかのようだ。

人間というのは毎日このように、打ち寄せては消える波のように振る舞い、波を生み出す大海の中で常に存在しているのだ、と思わずにはいられない。パソコンを開く前に書き留めておこうと思ったこととは全く異なることを自分が書き留めていることに気づいた。

我に返った瞬間、ウィーン行きの搭乗が始まった。2017/4/3

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