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646. 互恵関係と知識のネットワーク


今日は早朝から雨が断続的に降っていた。時折太陽が雲間から顔をのぞかせると、幻想的な光で辺りが照らされていた。

昼食前に晴天になったかと思うと、午後から天候が一転して、激しい風とともに雨が窓ガラスに打ち付けられている。二転三転変動する天気を見ていると、もし目に映る天気のことを天気だと思っているなら、それは認識上の大きな過ちであると思った。

外側の世界の天気は、外側の世界の天気にとどまらないということだ。言い換えると、外側の世界の変化は、そっくりそのまま内側の変化そのものを指し示すものだということだ。

そのようなことを思いながら、簡単な思考実験を試みた。外界の天気を一切変化のない状態に固定してみるとどうだろうか?固定された天気は、私たちの内側にどのような影響を与えるだろうか?

天気に一切の変動がないとなると、私は気が滅入ってしまうだろう。なぜなら、内側の流れは絶えず変化しており、仮に外側の世界の流れが固定化されてしまうと、内側の流れそのものにも淀みが生じると思うからである。

内側の流れに淀みが生じているというのは、精神生活上、非常に不健全な状態だと言えるだろう。私たちが絶えず内側の変化の流れの中で生きられるというのは、もしかすると、外側の世界の絶え間ない変化の流れに恩恵を受けているからなのではないだろうか。

同時に、外側の世界が絶えず変化を生み出しているというのは、私たちの内側の世界の絶え間ない変化の流れに恩恵を受けているからなのではないか、と思った。つまり、内面の世界と外面の世界は、両者が共に変化を生み出す主体として互恵関係を結んでいるようなのだ。

ここから得られた発見は、日々の変動する天気は私の変化を支えており、私の変化は天気の変動性を支えているということだ。もちろん、私の変化が直接的に天候の変化に影響を与えるわけではない。

しかしながら、天気が絶えず変動する姿として存在するためには、私の認識上の変化が必要なのだ。そのような互恵関係が、天気と私の中で結ばれている気がしてならない。

午後より、昨日から読み進めていた”Complexity and education: Inquiries into learning, teaching, and research (2006)”に目を通していた。その中でも一つ私の関心を捉えたのは、ダイナミックネットワーク理論の一つの考え方であった。

中心に一つのハブを持つネットワークは、そのハブが機能しなくなると、ネットワーク全体が機能しなくなってしまうため、非常に脆弱である。一方、一つのハブにネットワークのリンクが偏らない脱中心的ネットワークの方がより強靭であるということを学んだ。

ここから知識体系の構築について思いを巡らせていた。一つの専門しかない知識のネットワークは、一つのハブに依存しているがゆえに、とても脆弱である。そのため、脱中心的な知識のネットワークを構築することが望ましいような気がしたのだ。

当然ながら、一つの専門領域を深く掘り下げ、知識体系をより高度にしていく試みは依然として重要である。しかし、そうした試みに並行して、一つの中心に依拠するのではなく、知識のネットワークを脱中心化するべく、複数の専門領域を構築していくことがやはり重要であると思ったのだ。

確かに、複数の専門領域を持つことの重要性は様々なところで提唱されている。ただし、これまで様々な議論を見てきた限りでは、ネットワークの脆弱性の観点から複数の専門領域を持つことの重要性を指摘しているものはほとんどなかったように思うのだ。

自らの知識のネットワークの中で、一つの点を高度化させていくことだけでも骨が折れるが、それに加えて、複数の点をより高度なものにし、それらの点を結び合わせるような試みを果敢に行っていきたいと思う。

それができて初めて、徐々に強靭な知識のネットワークが構築されていくのだろう。2017/1/11

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