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360. オートポイエーシスとアロポイエーシス


ルートヴィヒ・フォン・ベルタランフィの主著 “General system theory (1968)”を読み終え、次にジョン・ミンガーの “Systems thinking, critical realism and philosophy (2014)”という書籍に取り掛かっている。無駄に書籍を増やさないように慎重に吟味をして、自分が必要とする書籍だけを購入するようにしているため、当たり前ではあるがこの書籍も内容が実に充実していると思った。

フローニンゲン大学ではダイナミックシステムアプローチに関する技術的(数学的)な訓練を積むことになるため、それと並行して、ダイナミックシステム理論に関する哲学的な理解を自分で深めていこうと考えている。そうした一貫として、ミンガーのこの書籍はシステム理論に関する哲学的な話題について多くのことを教えてくれ、それがきっかけとなり様々なことを考えさせてくれる。

ダイナミックシステム理論の母体となるシステム理論の中で用いられる様々な概念を哲学的に捉え直すことによって、数学的なアプローチだけを採用していては見えない境地が開けてくる。何より、数式を駆使した技術的な側面ばかりに関心を持って研究を進めることは、どこかその研究を浅薄なものにしてしまう危険性があると思っている。

そうしたことを考えると、本書が扱う各々のトピックは見事に自分の関心と合致していると言える。

システム理論を学ぶ上で、頻出かつ非常に重要な概念は「自己組織化」だろう。同時に、チリの生物学者ウンベルト・マトゥラーナとフランシスコ・ヴァレラによって提唱された「オートポイエーシス(自己産出)」という概念も非常に重要になる。ミンガーの書籍の中で「オートポイエーシス」を扱う章を読んでいた時に、ある記憶が蘇ってきた。

それは数ヶ月前に日本で生活をしていた時に、ジャガイモの皮をむいている最中、皮むき器で左手の親指の指紋と肉をえぐってしまった、という記憶である。応急処置として、えぐれた皮と肉を引き剥がすのではなく、それらごと右手で押さえながらすぐに止血をした。この処置が適切だったのか、比較的速やかに回復したことを思い出したのだ。

回復過程で不思議に思ったのは、一週間後には以前と同様の指紋と肉がそこにあるということであった。もちろん、今回は皮と肉を引き剥がさず再利用したこともあるが、仮に皮と肉を引き剥がしたとしても、そこで再生されるものは同じく私の皮と肉であるということが不思議だったのだ。

つまり、なぜ傷口からジャガイモではなく、以前と同じような姿をした自分の皮と肉がそこに生まれてきたのか?ということに関心を持ったのである。

それは私たちの身体がオートポイエーシスを伴うシステムに他ならないからである。オートポイエーシスとは簡単に述べると、あるシステムがそれ自体を創出していくことを意味する。まさに、この例で言えば、損傷した皮と肉を埋める形で新たな皮と肉が創出されたことは、オートポイエーシスの働きのおかげだろう。

仮に、傷口から以前と同じような姿を持つ皮や肉ではなく、ジャガイモが創出されれば、それは私の身体がオートポイエーシスという機能を伴っていないことになってしまう。仮に、傷口から私の皮や肉以外のものが出てくるとき、それを「アロポイエーシス」と言う。

アロポイエーシスとは要するに、システムがシステムそれ自体を生み出すのではなく、種類の違うものを生み出すことを指す。例えば、車の工場がわかりやすい例だろう。工場は一つのシステムとして機能しているが、原材料がこの工場というシステムのインプットとして注入されたとき、アウトプットは何だろうか?

仮に車の工場がオートポイエーシスの働きをしていれば、工場そのものがアウトプットとして生まれてくるはずである。しかし、「工場が車の製造に必要な原材料を使って工場を作る」というのはおかしな話である。

実際にもそのようなことは起こらず、原材料から車というアウトプットが生まれてくるはずである。これはまさに、車の工場がアロポイエーシスとして機能しているからなのだ。

人間の知性や能力は、オートポイエーシスの働きによって発達していくと言われているが、そこにアロポイエーシスの特性も見ることはできないだろうか?自己を絶えず産出していく過程で質的に異なるものが産出されること、これがまさに構造的発達であり、システム理論では「創発」や「位相変異」と呼ばれたりするが、こうした現象をオートポイエーシスの中の一つの特異な現象とみなすのか、アロポイエーシス的な現象とみなすのかはもう少し考えてみなければいけない。

質的に異なるなものを絶えず産出し続けることをオートポイエーシスの本質とみなし、種類の異なるものを絶えず産出し続けることをアロポイエーシスの本質だとみなせば、知性や能力の発達現象はやはり多くの研究者が指摘するようにオートポイエーシスの産物なのだろう。

なぜなら、知性や能力の発達現象は種類の変化ではなく、質的な変化を本質とするからである。このテーマについては今後も引き続き考えていきたい。

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