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225. 発達の不可逆性に抗って


私たちの言葉には濃淡や密度があることを最近強く感じている。このウェブサイトを通じて紹介してきた過去の記事を眺め直してみると、それらの文章の多くは自分を通っていないことに気づく。

より正確には、発達科学全般に関する様々な内容を自分を通さないようにする形で紹介しようとしてきたのである。あくまでも「紹介者」として自分を位置付け、その位置から離れないように文章を書いてきた。

その結果として、それらの文章が味気のない「のっぺらぼう性」を醸し出していることに気づいたのである。書き手の存在が注ぎ込まれていない文章は、私にとってひどくつまらないものであるし、逆に書き手の存在が体現化されている文章は、読んでいて何か感じるものが必ずあると思うのだ。

自分が惹かれて読む書籍や論文には、書き手の存在がいつも見事に投影されている。客観性(という名の主観性)を喧伝する学術論文や専門書ですら、私の心を打つものは全て、書き手の肉声が聞こえるし、書き手の存在を直に感じることができるのだ。

今後も発達科学全般に関する知見を紹介していきたいと思うが、単なる紹介者から脱皮する必要があるだろう。結局のところ、のっぺらぼうな文章をいくら書いたところで何も伝わらないのではないか、という思いが日増しに強くなる。

事実、私はのっぺらぼうな文章から何かを学んだことはほとんどないだろうし、自分の心が動かされたことは一度もないと思う。文章の書き手も読み手も心は常に動いているのだ。こうした脈打つ心の動きを殺しながら人工的な文章を綴ることは、もはや今の自分にはできそうもない。

「すべての人間は絶えず変化し続ける」という命題が真であるならば、私という人間も絶えず変化し続けているのだと思う。であるならば、その変化のプロセスを文章として逐一記録しておきたいとも思った。

小さな変化でいい。それは退行でもいい。躍動でも停滞でもよく、とにかく変化の最中に起こる諸々の現象を書き残しておきたいと強く思うのだ。

小説家の福永武彦氏(1918-1979)の日記を読むと、自分の身に起こっていることをただ時の流れに任せて手放したくないという強い思いを持っていたことに気づかされる。外側の世界に呼応して生起する内側の様々な現象は、書き留めておくに値するものだという強い信念を福永氏は持っていた。

「発達の不可逆性」についてここで思う。一時的な退行現象は起こるにせよ、ひとたび次の段階特性を獲得してしまうと、私たちは戻りたくても以前の段階に戻れないのだ。時間を巻き戻すことができないのと同じように、発達も巻き戻すことができないのだ。それが発達の不可逆性である。

つまり、私たちはひとたび次の段階へ発達すると、以前見ていたように世界を見ることも、以前感じていたように世界を感じることもできなくなってしまうのだ。これはある意味相当恐ろしいことだと思うのは私だけであろうか。

発達というのは、世界からの新しい意味の汲み取り方と世界への新しい意味の構築の仕方を半ば強制的に私たちに注ぎ込んでくる。ならば、この瞬間にしかできない自分の今の世界の見方や感じ方を、そして世界へ意味を与える方法を記録しておきたいと思った。

遂行する必要もないのかもしれないが、私は発達の不可逆性に小さな反抗を企て続けたいのだ。

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