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203. 徹底的な自己否定の果てに


——成熟するとは、何かを獲得することではなくて、喪失を確認することである——江藤淳

ひどく精神的に過酷な一年だった。同時に、ひどく変容的な一年だった。

日本に帰国中のこの一年間、不必要とも思えるほどの自己否定を敢行している自分がいた。自分でもなぜあれほどまでに、これまでの自分の思想やあり方、思考の枠組みや行動など、自己を構成する諸々のものをぬぐい去ろうとしているのかわからなかった。

人間が成長・発達していくためには、現在の自己の限界や未熟さを自覚できる必要がある。つまり、成長・発達には、健全な「自己否定」や「自己葛藤」が不可避となるのだ。これらは、発達心理学で必ず指摘される成長・発達の根幹原理である。

この根幹原理を経験すること。それは、これほどまでに過酷な営みであることに実存的な次元において感得した。人間の成長・発達を探究する者として、いつも驚かされるのが、自分自身が書物に書かれた概念・理論・原理などと予期せぬ形で体当たりする瞬間であり、他者が同様な経験をする瞬間である。

要するに、自分自身が変容する瞬間や他者が変容する瞬間に立ち会うこと、その中にいつも驚嘆と神秘を感じるのだ。

この一年間を振り返ってみると、徹底的な自己否定の果てに、自己の中に大きな空洞ができる感覚があった。しかしながら、空洞が生み出された瞬刻、その空洞を一飲みにしてしまうほどの実存性で満たされる。その瞬間は、まさに連続的なプロセスが途切れ、非連続的な跳躍が起こり、連続性の流れが何事もなかったかのように再び動きだす感じである。

自分の内側で起こっていたこの現象は何を意味するのか。それは、次の段階に参入し始めた兆候なのだ、と事後的にわかった。この6年間、人間の成長や発達に関する諸々の概念や理論を学んできたつもりである。

しかし、地図を理解することと地図を歩くことは、全く別次元の経験である、ということを痛感させられた。

骨の髄まで到達する自己否定の先には、”desvolper”があった。”desvolper”とは、「発達(development)」の語源であるフランス語であり、「拓く」という意味を持つ。

己の内側に閉じ込められていたものが開くような感覚。開拓されていくようなイメージだろうか。

「情熱」を持つ自己を徹底的に否定した挙句、「熱情」を持つ自己が開いた。熱情を持つ自己を徹底的に否定した挙句、「静謐さ」に包まれた自己が開けた。いや、これはもはや自己ではなく、静謐さそのものの中に自己が溶解したような感覚だった。

これ以上の先を望んだとしても、あるいは、望まなかったとしても、開いてくるのが発達というものの本質だろう。

惑星が惑星として運動しているあの法則。生命が生命として躍動するあの法則。客観的な記述が可能な次元の法則ではなく、そうした記述を一切寄せ付けない次元に存在する法則。

それらと全く同じような法則が人間の成長・発達にも組み込まれており、私はただその法則を感じている。法則に導かれるままに。

 
 
 

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