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171. 読者の方から寄せられた質問事項(No.1):「欲求や願望」と「価値観」の違いとは?


拙書『なぜ部下とうまくいかないのか:「自他変革」の発達心理学』が出版されて、10日ほど経ちました。有り難いことに、本書を読んでくださった方々から様々な感想をいただいております。今後、こちらのウェブサイト上で、読者の方から頂いた質問事項にできるだけ返答したいと思います。

本書の中で説明しきれないことが数多く存在したため、質問事項を送ってくださることは大変ありがたいです。送っていただいた質問事項に返答することは、他の皆様にとっても非常に有益な情報になりうるのではないかと思っています。

著者として、本書を「閉じられた書籍」にするのではなく、「開かれた書籍」にしたいと思っています。つまり、専門家のための専門書ではなく、多くの方に門戸を広げながら、読者の方から頂いた質問事項によって、一緒に本書を育てていきたいなという思いがあります。

そうした思いから、まずは下記の質問事項に返答させていただきたいと思います。

p.155で取り上げられている、「自分の欲求や願望」と「自分の価値観」の違いとは何か、より明確に説明していただけますでしょうか?価値観は人それぞれで異なるため、ある意味自分の価値観に基づいて発言することも、自分の欲求や願望を満たすことと言えるのではないでしょうか』

これは非常に鋭いご指摘だと思います。確かに、自分の欲求や願望と価値観を峻別することは難しいです。ただし、発達理論の観点からすると、本書で述べている欲求や願望というのは、衝動的な思いや感情のことを指し、価値観とは、より抽象的な自己の規範や行動指針のようなものを指します。

例えば、段階2ですと、「イライラしたから部下を叱る」というように、衝動的な苛立ちの感情と同一化してしまい、そうした感情を抱く自己を客体化することができません。一方、段階4に到達しても、イライラという感情は当然生まれますが、段階4の人は、もはやそうした感情と同一化することなく、自己を冷静に客体化できる認識能力を兼ね備えています。

そのため、段階2の人に「なぜ部下を叱ったのですか?」と問うと、「イライラしたから」という実に利己的な回答が返ってくるでしょうし、「それでは、なぜイライラしたのですか?」と問うと、「分かりません。とりあえずむしゃくしゃしてました」という回答しか返ってこないことが推測されます。要するに、自分の感情がどこから生まれてきたのかを理解できるほどの内省能力が備わっていないのです。

一方、段階4の人に同様の問いを投げかけると、「部下を叱ったのは、自分がイライラしていたからなのですが、衝動的な振る舞いをしてしまったことを恥じています。その時の自分は、あまりにも仕事が忙しく、手一杯な状況であったため、部下に対して親身に接する心のゆとりがありませんでした。そうした心のゆとりのなさが、イライラの感情につながり、結果として衝動的に部下を叱ってしまったのだと思います」というような回答が返ってくるでしょう。

まとめると、「自分の欲求や願望」に従っているのか、「自分の価値観」に従っているのかを基準にして、段階2と段階4の相違点を探ろうとすると混乱してしまうと思います。そのため、上記のように、自己の客体化能力の違い、言い換えると、内省能力の深さに着目すると、両者の違いがより明確になるのではないでしょうか。

また、質問の後半部分に関して、これもまたごもっともな指摘です。価値観を物事の優先順位づけの判断基準や好き嫌いの判断基準と解釈すると、それはどんな段階の人も必ず持っているものだと言えます。しかし、ロバート・キーガンが述べる「価値体系の枠組み」とは、それらの単なる判断基準とは異質のものです。

端的に述べると、両親や周りの友人からの影響を含め、学校や社会の中で生きていく過程で構築されたそれらの判断基準を客体化させ、それらを批判に晒せるような認識の枠組みのことを、キーガンは「段階4的な価値体系の枠組み」と定義しています。

要するに、段階4に到達して初めて、これまで自分が盲目的に従っていた種々の判断基準を疑いの目を持って検証し始め、これまでの判断基準とは次元の異なる新たな判断基準を構築することができるようになります。

さらに、「自分の価値観に基づいて発言することも、自分の欲求や願望を満たすことと同じなのではないか?」という問いに関して、これはYesでもあり、Noでもあります。

Yesについて述べると、もし「自分の価値観」というものを「衝動的・利己的な判断基準」と定義し、「自分の欲求や願望」を「衝動的・利己的な感情や思い」と定義するのであれば、そうした判断基準に従った発言は、段階2的な欲求や願望を満たすためのものであると言えます。

しかし、もし「自分の価値観」というものを「衝動的・利己的な判断基準を超え、さらに、既存の所属集団や社会が作り上げた他者依存的な判断基準を超え、それらを批判の目にさらした後に生まれてくる判断基準」と定義し、「自分の欲求や願望」を「衝動的・利己的な感情や思いを超え、集団や組織に従属したいという感情や思いを超え、自己の独自性を認めてほしいというような感情や思い」と定義するならば、そうした判断基準に従った発言は、段階4的な欲求や願望を満たすためのものであると言えます。

これがNoという回答です。つまり、「価値観」という言葉や「欲求や願望」という言葉が内包する意味には、次元が存在し、「段階1的な価値観もあれば、段階2的な価値観もある」「段階1的な欲求や願望もあれば、段階2的な欲求や願望もある」ということです。

要するに、同じ言葉でも、意識段階が異なれば、次元が全く異なる意味がそこに付与されており、「価値観」や「欲求や願望」を例にとってみても、段階の数だけ異なる意味が存在するということです。意識段階が異なれば、意味の内容が全く次元の異なるものになる、というのはありとあらゆる言葉に当てはまります。

以上の説明が少しでもお役に立てば幸いです。今回お送り頂いた質問のように、本書を読み進める中で質問事項が出てきたら、何なりとご連絡いただければ幸いです。

(追記)「開かれた書籍」の具現化

書籍が一度世に送り出されると、そこからは著者の手を離れ、読者の皆さん一人一人が独自の意味を汲み取ったり、独自の意味を付与していくことになります。時に、あるいは、常に、著者の意図とは異なった意味の捉え方が存在するでしょうし、本書をきっかけにして読書の方が紡ぎ出す意味も多様なものになると思います。

そうした現象が起こるのが、ある意味、書籍の醍醐味でしょう。冒頭で、本書を「開かれた書籍にしたい」という私の思いを述べさせていただきましたが、まさに私も一人の読者として、この本に関与していきたいと思っています。

「開かれた書籍」というのは、何も門戸を開くという意味にとどまらず、システム理論で言う「オープン・システム(開かれた系)」のような書籍となり、皆さんとの相互作用によって、常に新たな意味や物語がそこに生起し続けるような、躍動した書籍になってほしいと思っています。

拙書がそのような書籍として具現化されるためには、読者の皆さん一人一人から得られる質問事項が貴重な存在となります。そのため、頂いた質問事項に対して、私なりの回答を共有させていただき、意味や物語が重層的かつ躍動的に生じ続けるような生きた書籍になってくれればと願っています。

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