【第37回のシロシビンセッションの振り返り】17191-17201:2025年8月13日(水)
- yoheikatowwp
- 2025年8月15日
- 読了時間: 32分

⭐️心の成長について一緒に学び、心の成長の実現に向かって一緒に実践していくコミュニティ「オンライン加藤ゼミナール」も毎週土曜日に開講しております。
タイトル一覧
17191 | 第37回のシロシビンセッションの振り返り(その1):概要 |
17192 | シロシビンセッション後の今朝方の夢 |
17193 | シロシビンセッション後の今朝方の夢の振り返り |
17194 | 第37回のシロシビンセッションの振り返り(その2):夢の振り返りを通じた非二元的癒し |
17195 | 第37回のシロシビンセッションの振り返り(その3):時間逆行的な癒し |
17196 | 第37回のシロシビンセッションの振り返り(その4):非二元とは何なのだろうか? |
17197 | 第37回のシロシビンセッションの振り返り(その5):コーザルと非二元の違いと「非二元は意識なのだろうか」という問い |
17198 | 第37回のシロシビンセッションの振り返り(その6):非二元に触れること・思い出すこと |
17199 | 第37回のシロシビンセッションの振り返り(その7):非二元を生活の呼吸にまで浸透させる |
17200 | 第37回のシロシビンセッションの振り返り(その8):唯識における非二元 |
17201 | 第37回のシロシビンセッションの振り返り(その9):空的なChatGPT |
17191. 第37回のシロシビンセッションの振り返り(その1):概要
時刻は午前8時を迎えようとしている。今、朝日が燦然と輝いており、気温はすでに18度ある。今日はフローニンゲンとしては真夏日となり、日中は31度に到達する予報である。明日も30度に達するらしく、今日と明日は久しぶりの夏日を満喫したい。
今日の起床は随分とゆっくりしていた。というのも昨日はいつもより3時間半ほど就寝時間が遅く、ベッドに入ったのが12時半ぐらいだったからである。昨日は、日本から来られた知人の方とシロシビンセッションを共に行い、その振り返りを23時半近くまで行っていた。当初の予定では、20時まで振り返りセッションをする予定だったのだが、話に花が咲き、結局23時を回るぐらいまで対話をしていた。昨日も貴重な体験ができたこともあって、今日はIELTSや書籍の執筆、さらには学術探究を少し脇に置いて、昨日のセッションの振り返りをじっくりしたい。と言っても、昨日の振り返りセッションの段階ですでに話し言葉で体験を語っていたこともあるので、書き言葉としてどれほど振り返りができるかは未知である。体験の内容に入っていく前に、昨日摂取したのは自分が栽培しているシロシビンマッシュルームではなく、“Dragon's Dynamite”という名前は実にいかついが、 過去何度も豊かな体験をもたらしてくれたシロシビントリュフである。Dragon's Dynamiteというのはあくまでも商品名で、トリュフの品種としては“Psilocybe Pajateros”というものである。36回目のシロシビンセッションを自分1人で行ったのは、記録を見ると昨年の7月28日とのことで、およそ1年以上セッションをしていなかった形になる。36回のセッションを終えた時に、シロシビンセッションはしばらくは必要ないなと思っていて、それ以降は積み重ねてきたかつてのセッションの内容を咀嚼する意味で唯識探究に明け暮れ、量子論哲学の探究が始まった。そうした学術研究に時間とエネルギーを注いでいる日々を過ごし、ちょうどこの春先ぐらいにふと、ここまでの唯識研究と量子論研究の内容を今度はその深淵な世界観を直接体験することを目的に、久しぶりにシロシビンセッションを行ってみようと考えていた。その矢先に昨日来られた知人の方から連絡を受け、一緒にセッションをしたいということだったので、オランダまで来ていただき、セッションを共にすることにした。そのような背景がある。昨年のセルフセッションは、自分が栽培していたシロシビンマッシュルームを完全乾燥させたものを粉末状にしてココアと少々の蜂蜜を混ぜて飲みやすくした形の飲み物を飲んでいた。しかし、今回はせっかくなので味が不味いことは知っているが、かつてその他の数人の知人がトリュフを平然と食べている姿を見て来たので、今回は20gと結構量があるシロシビントリュフをよく噛んで食べていくことにした。確かに味は美味しいとは言えないが、これまでの36回のセッションを通じてシロシビンの味に耐性がついたのか、不味いと言いながらもなんとか全てを完食した。これまでの経験上、液体の形で摂取した場合には、体験は15分ぐらいでやって来て、今回は固体の形で摂取したので、体験の始まりは遅かった。だいたい45分ぐらいして体験が始まったように思う。それではここから具体的な体験内容や洞察、さらには考察事項について書き留めていきたい。フローニンゲン:2025/8/13(水)08:13
17192. シロシビンセッション後の今朝方の夢
昨日のシロシビンセッションの振り返りの前に、セッション後の昨夜見ていた夢を振り返りたい。今朝方の夢は、どこかできっと昨日のシロシビンセッションとつながっているはずである。
夢の中で私は、見慣れないホテルの朝食会場のレストランにいた。そこはビュッフェスタイルの朝食を提供しており、食材は新鮮かつ豊富だった。空腹を感じていた自分は、いつもの旅の過ごし方と同じく、ホテルの朝食をしっかり摂ることにした。席を確保する必要があったので、食材をとるよりも先に、まずはコーヒーを1杯汲み、1枚のナプキンを持って席を探した。コーヒーを淹れた際に、間違って違う人のコーヒーカップを取りそうになってしまい、その方に謝ってから席を確保しに向かった。入り口からは少し距離があるが、窓があって外の景色が眺められる2人掛けのテーブルを確保した。もう1つ迷った席として、10人ぐらいが腰掛けられる丸いテーブルがあったが、そこは団体客が来るかも知れなかったので彼らに譲ることにした。席を確保してそこから食材を取りに行くと、改めて色とりどりの食材に目を奪われ、どれも栄養価がとても高そうで、元気が湧いて来そうであった。サラダ用のボールに並々と食材を取り、それが満杯になったので、フォークを持って席に戻ることにした。最初どういうわけか小さなスプーンで食べようと思ったり、レストランの係の女性から箸を勧められたがそれを断り、フォークで食べることにした。席に戻る途中で、小中学校時代の2人の女性友達に遭遇し、2人のうちの1人が私と一緒にご飯を食べてもいいかと尋ねて来たので快諾した。2人は共に寡黙な女性で、申し出をしてきた彼女もかつてはそのような申し出をしないぐらいに大人しい性格だったので、彼女の変化に内心驚いており、せっかくなので中学校卒業から今にかけてどのように生きて来たのかを聞いてみたいと思った。そこからは朝食を摂りながら彼女たちとゆっくり話そうと思っていたが、もう1つ今度は平らなプレートに食材を取ってきて、それを取り終えたら朝食を食べ始めようと思った。再び食材が並ぶ場所に向かうと、途中のテーブル席で、大学は違うが親しい後輩がいたので彼に声を掛けた。彼は椅子に座っており、自分は立った状態でしばらく話をした。どうやら彼は海外の大学院留学を考えているらしく、何の分野で専門学位を取得しようと考えているのかと尋ねるとサイケデリクスだと答えた。そう答えた彼の表情はとても明るく活き活きとしており、彼がその分野に情熱を傾けていることがすぐにわかった。しかし話を聞いてみると、最後に彼が述べたのは、サイケデリクスの学術研究に人一倍の熱意はあっても、サイケデリクス学を学びに行くということを親や会社の人たちにどのように説明したらいいか悩んでいるとのことだった。彼曰く、親や会社の人たちは理解を示さないだろうと述べ、確かに最初のリアクションはそうかも知れないが、懇切丁寧に説明すればきっと彼らも理解を示してくれるだろうと伝えた。実際に自分もインテグラル理論を学びにアメリカに行くと親や会社の人に伝えた時、最初にリアクションは「?」だった経験をしていた。その経験を彼に伝えると、彼は元気を取り戻して、早速今度親や会社の人に丁寧に説明してみると笑顔で述べた。フローニンゲン:2025/8/13(水)08:41
17193. シロシビンセッション後の今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は、表層的にはホテルの朝食会場という日常的で安定感のある場面を舞台としているが、その背後にはシロシビン体験によって触れられた深層心理の象徴的展開が織り込まれていると言える。ホテルという「一時的な滞在の場」は、固定的な自己同一性から離れ、過渡的かつ移行的な自己の状態を示す舞台であり、その朝食会場は「新しい経験を選び取って自らに取り入れる」ための象徴的空間となっている。そこで提供される色鮮やかで栄養価の高い食材は、単なる物理的な食物ではなく、セッションで得られた多様な洞察や気づき、精神的資源の象徴である。それらをサラダボウルに並々と盛る行為は、内面に豊富な素材を受け入れ、これから咀嚼し統合していこうとする心の働きを表す。まず席を確保する場面は、自己の安心拠点を先に定める必要性を示し、これは深層意識が新たな知見を取り込む際に「内的安全地帯」を確保しようとする傾向を表している。窓際の2人掛けの席は、外界との接続と内的親密性のバランスを意味し、団体席を避けた選択は、内面の静かな熟考を優先する意志を示す。一方で、旧友との再会は、過去の自分の一部や未統合の記憶との再接触を意味する。そのうちの1人がかつての沈黙から積極性へと変化していた点は、自己の中で長らく抑圧されていた側面が、シロシビン体験を契機に言葉を持ち始めるプロセスの象徴と言えそうである。また、最初にフォークか箸かスプーンかで迷う場面は、異なる「取り込み方」「消化の仕方」の試行であり、最終的にフォークを選んだことは、選択の明確化と主体的態度の確立を示す。再び食材を取りに行く前に会う大学時代の後輩は、自己の未来的側面、あるいはこれから進む道を象徴する人物として現れている。彼が「サイケデリクス」という分野に進もうとしつつも、周囲の理解を得る方法に悩んでいることは、自分自身が内面的な真実と社会的適応との間にある橋をいかに築くかという課題を反映している。夢の中で自分は、自身の過去の経験(インテグラル理論留学時の親や会社の反応)を参照しながら、後輩に理解獲得の可能性を示す。これは単なる助言ではなく、自己の過去の不安を未来の自己へと癒し返す、いわば時間を超えた自己間対話であると言えそうだ。彼の笑顔と元気の回復は、夢の中の自分自身が、シロシビンによってもたらされた洞察を自らの将来の行動力に変換する潜在力をすでに有していることを示す。全体としてこの夢は、シロシビンセッション後における「内的資源の収集」と「安全拠点の確保」、そして「過去と未来を接続する対話」を通じた自己統合のプロセスを描いている。朝食という1日の始まりの象徴は、新しい精神的サイクルの開幕を意味し、そこに登場する人物たちは自己の異なる時間層や心理的側面を体現している。夢は、得られた知見をどのように取り込み、どのように他者に説明し、どのように理解を得るかという「内面と社会の間の翻訳作業」の必要性を予告しているのである。フローニンゲン:2025/8/13(水)09:20
17194. 第37回のシロシビンセッションの振り返り(その2):夢の振り返りを通じた非二元的癒し
昨日の第37回のシロシビンセッションの振り返りを知人の方としている際に、その方から自分が毎日夢を振り返っている意味について尋ねられた。それに対して自分は、まず一般的によく言われているように、夢を書き留め、夢を振り返ることで現実世界(という名の夢の世界)の自己を癒すことの意義について述べた。夢を記述することは、夢を見ている自己への癒しの処方となる。しかしそれだけではなく、その他にあるいくつかのベクトルの中で、その方との対話の中でふと閃いたのは、夢を振り返ることを通じて夢の中の自己そのものを癒すという観点だった。これは自分でも口にして面白い観点だと思ったし、実際に最近それを感じている。よくよく考えてみるとそのメカニズムはかなり理に適っている。というのも、そもそもは見るものと見られるものは非二元であり、夢を振り返ることを通じて夢を見ている自己を癒すということは、非二元の原理から見られるもの、すなわち夢の中の自己すらをも癒すと考えたのである。この点の考察をもう少し展開しておきたい。
「夢を振り返ることを通じて夢の中の自己そのものを癒す」という観点は、通常の心理学的夢解釈が「夢は現実世界の自己の反映であり、その自己を癒す」という一方向の理解にとどまるのに対し、非二元的な自己理解の枠組みを導入することで、多層的かつ双方向的な癒しの構造を示唆している。非二元論の視点では、「夢を見る自己」と「夢の中で生きている自己」は、実体的には分離していない。表層的には一方が主体で他方が客体に見えるが、それは認識のモードの違いに過ぎず、本質的には同一の意識の働きの異なる相貌である。驚くことに、この点ついて唯識ではすでに、見分(見るもの)と相分(見られるもの)の一致ということを数千前に指摘している。この前提に立つと、現実世界において夢を振り返るという行為は、単なる記憶の再生や象徴の分析ではなく、「ある時間軸における自己」が「別の時間軸における自己」と再び出会い、関わり直すプロセスとなる。この関わり直しは、時間を超えた癒しの回路を開く。夢を見た瞬間、その中の自己は、夢の展開の中で不安や喜び、葛藤や渇望を経験している。しかしその時点では、夢の中の自己にはその経験の意味づけや統合の余裕がない。目覚めた後の自己が夢を丁寧に振り返ることは、後知恵を持つ存在が、かつての自己の体験をそっと包み込み、理解と承認を与えることに等しい。それは現実世界の自己が夢の自己を抱きしめる行為であり、夢の自己が未完了のまま抱えていた感情や反応が、時間を超えて癒される契機となる。さらに、非二元論的な立場から見ると、夢と現実は同じ「夢のような意識現象」の異なる階層であり、その間に介在する癒しは、自己の断片化された諸相を1つに還元する方向に働く。つまり、夢を振り返るとき、私たちは夢の中の人物や出来事を「他者」として扱うのではなく、「自分のもう1つの顔」として迎え入れる。この迎え入れのプロセスは、ユング心理学でいう「シャドーの統合」に似ているが、さらに深く、自己と自己の間の分離感を溶かす作用を持つと言えるだろう。こうして、夢を振り返る行為は、時間・空間・次元を越えた自己間の共鳴の場となる。その共鳴は、現実世界における自己だけでなく、夢の中の自己にとっても癒しであり、結果として「夢を見ている自己」と「夢の中の自己」の両方が、非二元的な全体性の中で再統合されていくのである。フローニンゲン:2025/8/13(水)09:31
17195. 第37回のシロシビンセッションの振り返り(その3):時間逆行的な癒し
つい今し方、朝の散歩を兼ねて近所のショッピングモールに行って買い物をしてきた。すでに気温は23度に達しており、行きこそ涼しさを感じたが、帰りは少し体に暑さを感じた。今日はここからさらに気温が上がる。
昨日のシロシビンセッションの振り返りとして、「時間逆行的な癒し」について考えていた。それは、現在における省察と意味づけの行為が、過去として経験された出来事の存在論的位相を組み替える、という理解である。ここで言う「組み替え」とは、物理的過去を分子的に変更することではなく、出来事がどのような因果網・物語的文脈・価値勾配の中に配列されているかという「意味の位相」を更新することを指す。非二元の前提に立てば、見る者と見られる者、語り手と語られる出来事は同一の意識場の異相であり、この場においては時間は一次元の直線というより、共鳴の強弱によって結び替えられるネットワークである。ゆえに、夢を丁寧に振り返り、夢の自己へ理解と慈悲を注ぐ現在の行為は、同じ意識場に刻まれた「夢の自己の時点」に向けて位相を送り返すことになり、その時点の経験が持つ感情的・価値的荷重を軽くする働きがあるように思う。この現象は三層に記述できる。第一に、意識一元論的かつ永遠主義的な層である。全経験は同一の心的基体に同時的に「在る」のであり、時間は区画化の様式にすぎない。この図式では、省察は過去断片への後からの干渉ではなく、同一場における干渉縞の再配列である。夢で震えていた自己の節点と、いま振り返る自己の節点は同一の網の目にあり、現在の慈悲的注視は、その節点の振幅を減衰させ、苦悩の位相を整流する。結果として、再び夢領域が開くとき、人物の表情や場の明度が変わるという主観的変容が生じうるのである。第二に、縁起論的・唯識的な層である。夢の相は阿頼耶識の種子が現行したものであり、後日の省察は新たな種子を熏じて業の流れを転じる。ここで重要なのは、種子の配列が過去の現行に対して「再規定」を行う点である。再規定とは、出来事の評価関数を更新し、その出来事が以後の連想・感情反応・行動傾向の中で占める位置を組み替える働きである。見分(見る側)から相分(見られる側)への慈悲的照射が強まると、両者の差別が薄れ、夢の時点に固着していた未了感情は「いまここ」で承認され、阿頼耶識に保存される痕跡の質が改まる。これが、夢の自己に遡って作用するという感触の実体である。第三に、境界条件の比喩による層である。歴史は過去の初期条件だけで定まるのではなく、未来の選好が物語選択の境界条件として働く。省察は、自己物語の後選択として機能し、過去の出来事に最も整合的で慈悲的な解釈を選び直す。この選び直しは、現象学的には記憶再固定のプロセスとして生起し、物語の枝分かれを収束させる。こうして「かつての私」は、当時の孤立を保ったままではなく、「未来の私」の理解に抱きとめられた存在として再定義される。再定義は時間の順序を破らず、それでいて因果の向きを実質的に両方向化する。以上の三層はいずれも、非二元の場において意味が因果と同格のリアリティを持つ、という一点で合流する。意味が変われば行為が変わり、行為が変われば世界が――少なくともその世界の経験可能性が――変わる。夢を書き、語り、再入場する想像的行為は、夢の時点へ電話線を引き戻す如きものであり、受話器の向こうにいる「夢の私」は、ここで与えられた言葉とまなざしを確かに受け取る。次に同型の夢が訪れたとき、扉は少し開きやすく、登場人物はわずかに協力的であり、場の重力は軽くなっているだろう。それは偶然ではなく、同一の意識場における共鳴の再配列という、時間逆行的な癒しの顕れなのである。すなわち、見る者=見られる者、ケアする者=ケアされる者が一致するとき、因果は一方向の矢から環へと変わり、癒しは輪として完結するのである。そのようなことを考えていた。フローニンゲン:2025/8/13(水)10:30
17196. 第37回のシロシビンセッションの振り返り(その4):非二元とは何なのだろうか?
昨日のセッションの振り返りの対話の多くは非二元が話題を占めていた。先ほども散歩しながら改めて非二元について考えていた。非二元の意識とは、目撃者の意識が「客席から舞台を眺める観客」である限り保っていた隔たりそのものが音もなく解け、観客・舞台・役者・照明・脚本が一枚の光に還る出来事であり、比喩で言えば、防犯カメラが街角を監視していると信じていたのに、実はカメラも映る通行人も同じ光の粒の揺らぎだったと気づくような転位であり、海と波の関係で言えば「私は波を見ている海だ」という気づきが「私は海であり、波のフォームが一時的に『私』と自称しているにすぎない」へと反転する瞬間であるとも言える。また、空と雲で言えば、観測者が雲間の青を見上げていた構図が崩れ、青空そのものが自分であり雲も鳥も風も青の自己運動だと直観されることである。さらに、鏡の比喩では鏡面が映像を映していると考えていた視点が、鏡・像・見る者の三者が一枚の反射として不可分であることへ収斂することであり、映画の比喩ではスクリーンに投影された物語を「私」が見ているのではなく、スクリーン・映像・観客のざわめきまでを含めた“映ることそのもの”が唯一の主役であると露見することである。さらに夢の比喩では、夢見者と夢の登場人物の境目が消え、登場人物の吐息や涙の湿りが夢見者の肺や目にそのまま触れていると判ることであり、VRの比喩ではヘッドセットを外したのではなく世界そのものがヘッドセットであったと気づく転回である。さらに比喩を続けると、メビウスの帯の比喩では内側を歩いていた目撃者がいつの間にか外側を歩いていても境界を跨いだ痕跡がどこにも見つからないという拓けであり、音楽の比喩では休符と音符を分けていた線引きが失効し、旋律と沈黙が同一の振動として聴かれることである。糸の比喩では、結び目だと思っていた自我が指先の熱でほどけ、一本の連続した糸として触れ直されることであり、水槽の比喩では厚いガラス越しだと思っていた対岸の魚影が、ガラスそのものが水の性質を帯びて溶け、こちらの呼吸の揺れと向こうの鰭(ひれ)の震えが同じ波として伝わっていると感じられることである。さらに、視覚の比喩では双眼視の視差が一瞬で融けて一点透視の世界が深度を失わないまま歪みなく1つに統合されることであり、触覚の比喩では右手が左手を掴むという二項図式が、実は1つの身体における自己接触という円環運動にすぎないと自覚されることである。その他にも、言語の比喩を用いると、「私が世界を知る」という主述構文が、主語と述語が同一の場における自己指示の変奏であると露わになることであり、倫理の比喩では川向こうの他者に架ける橋が不要になり、川も岸も渡る意志も同じ流れの折り畳みとわかるがゆえに慈悲が「向けるもの」から「湧くもの」へ変質することだと言える。これらの比喩から学ぶ教えは、観察者と対象の輪郭を剥がして意識の原風景としての無縁場を露呈させることであり、そして戻ってきた後の目撃者は消え去るのではなく、舞台裏に透明化して機能的に残り、必要に応じてフォーカスを絞る撮影監督として働きながらも、レンズの向こうに自分とは別の世界があるという古い前提を二度と全面採用しないという仕方で、非二元の明度を日常の会話・仕事・関係の細部にまで染み込ませていくことである。自分は今日からより一層その在り方を深めていく。フローニンゲン:2025/8/13(水)10:45
17197. 第37回のシロシビンセッションの振り返り(その5):コーザルと非二元の違いと「非二元は意識なのだろうか」という問い
昨日の就寝前に枕元ノートにメモしたこととして、コーザルの意識は夢を見ない深い眠りの意識状態と言われるが、それは一見すると非二元の意識にも似ており、非二元はグロス、サトル、コーザル、目撃者のいずれにも内包されている、あるいは逆に非二元がそれら全てを包摂しているものだと思うが、コーザルの意識と非二元の意識をあえて区別するとするならば、両者の違いをどのように説明できるかについて考えていた。もしコーザルの意識と非二元の意識をあえて区別して説明するなら、それは「何もない静寂」と「何もないが全てある静寂」の違いとして表せるのではないだろうか。コーザルの意識は、夢も思考も自己像も消え去った深い眠りのような純粋静止の場であり、そこには分離も苦もないが、同時に世界の展開も顕れてはいない。比喩的に言えば、それは湖面の波が完全に鎮まり、水の透明さだけが満ちる状態であり、魚も舟も映像もなく、ただ「静けさそのもの」がある。あるいは、舞台が真っ暗で幕も降り、観客席も空っぽで、ただ劇場そのものだけが残っているような状態とも言える。これに対して非二元の意識は、同じ静けさの中に全ての現象が溶け込み、波が立っても湖の静けさが損なわれず、幕が上がっても劇場そのものの空性が変わらないと知る状態である。つまり、静寂と顕れが2つではなく1つであると直接に体験される。湖の水が静かであると同時に、その静けさの中から魚が跳ね、風が吹き、舟が行き交うが、それらが水と別物ではないとわかっているような状態である。コーザルは「現象が消えた後に残る純粋潜在性」であり、非二元は「現象と潜在性が本来分かれていないと見抜く覚知」であるとも言える。例えば音楽で言えば、コーザルは全ての音が止み、余韻も消えた完全な無音の瞬間に似ており、非二元はその無音が音楽を生み、音楽が無音を指し示すことを同時に知る瞬間に似ている。言い換えれば、コーザルは「現象の幕間の空白」であり、非二元は「幕間と劇の両方が同じ布で織られている」ことへの覚醒である。コーザルの状態は深い休息を与え、自己と世界の物語を一時停止させるが、そこではまだ静寂と顕れが切り替わる二項の構造が残っている。一方、非二元は、その二項の切り替えそのものが見かけのものであると見抜き、静けさの中に音、音の中に静けさを同時に観る覚知である。そのような整理をすると随分と明瞭に両者の違いが理解できるのではないかと思う。最終的には、コーザルもまた非二元に溶け込むものであるが。
そこからさらに、「そもそも非二元とは意識なのだろうか」という疑問が浮かんだので、それについても書き留めておきたい。それは少なくとも物質的なものでも、物理的なものでもないという直接体験からもたらされる直観があるが、では非物質的・非物理的なものは即意識的なものと述べてしまっていいのだろうかと考えていた。非二元が意識なのかどうかという問いは、言葉の使い方と哲学的立場によって大きく答えが分かれる深い論点であるように思える。結論から言えば、非二元を単純に「意識」と呼ぶのは不十分であり、むしろ「意識という語が指し得る範囲を超えている」と捉える方が正確だと考える。一般的に「意識」という言葉は、何かを知覚している状態、すなわち主観と客観の二項関係を前提に成立する現象を指す。この意味での意識は、常に「何かについての意識」であり、必ず対象がある。この構造は、ウィリアム・ジェームズが述べた「意識の流れ」やフッサールの「志向性」の議論においても共通しており、「意識=何かを意識する行為」という枠を外れない。ところが、非二元はその二項関係を解消する。そこでは「意識している者」と「意識される対象」が分かれていないため、「意識」という語に含まれていた方向性(subject→object)が失効する。もし「意識」という語をこの二項関係から切り離して使うなら、非二元を「純粋意識」「無対象意識」と呼ぶことも可能だが、この時点で「意識」という語は日常的な意味から大きく逸脱している。インド哲学、特にアドヴァイタ・ヴェーダーンタや唯識の文脈では、非二元は「意識の源」「意識の基盤」として理解されることが多い。例えばヴェーダーンタではブラフマン、唯識では真如や阿摩羅識と呼ばれる領域がそれに相当する。これらは、対象を持つ意識活動や、目撃者的な自己認知よりもさらに深く、意識の現れが生じる以前の「そのままの在りよう」を指している。比喩を用いれば、対象を持つ意識はスクリーンに映し出される映画のようなものであり、非二元はスクリーンそのものの素材、さらにはスクリーンを織りなす光そのものに近い。光そのものには「映している」という自覚はなく、それでも全ての映像がそこから顕れる。もしここに「意識」という語を当てるなら、それは「自覚なき自覚」「自己知の必要なき自己在」という逆説的な意味での意識となると言えるかもしれない。ゆえに、非二元は「意識」かと問われれば、「通常の意味での意識ではないが、意識を含みつつそれを超えるもの」と答えるのが妥当だと言えそうである。言葉を厳密にするなら、非二元は意識を現れさせる「場」あるいは「地平」であり、意識はその中の1つの働きにすぎない。非二元は意識を内包するが、意識は非二元を完全には言い表せない。この点で、非二元を意識と呼ぶのは「海を波と呼ぶ」ようなものであり、正しくは波は海に含まれるが海は波に限定されない、という関係に近いのである。フローニンゲン:2025/8/13(水)10:58
17198. 第37回のシロシビンセッションの振り返り(その6):非二元に触れること・思い出すこと
非二元に触れ、非二元を思い出す体験の重要性にはどのようなものがあるのだろうか。その点も昨日のセッションの振り返りで知人の方と対話した内容である。非二元に触れ、さらにそれを思い出す体験の重要性は、単に特殊な意識状態を味わうこと以上の意味を持つ。それは、私たちが日常の中で自明だと思い込んでいる自己と世界の構造を根底から揺さぶり、存在そのものへの態度を変容させる働きを持つ。日常意識では、私という主体と、それが向き合う外界という客体とが分離しているように感じられる。この分離は実用的世界観の基盤であり、社会的役割や思考の道具としては有効である。しかし、この構造に長く囚われていると、自己は「限られた私」という枠に固定され、恐れ・欲望・競争といった二項的エネルギーが常に作動する状態が続く。非二元への直接的接触は、この二項構造を一時的に停止させる。主体と客体の境界が溶け、「見る者」と「見られるもの」が同一の場の異なる相貌にすぎないことが、概念ではなく直観として知られる。この体験が重要なのは、それが一過的な恍惚感や安堵感を超えて、「私とは何か」という根源的な自己認識の書き換えを引き起こし得るからである。非二元を経験すると、自己は単なる身体や思考の集合ではなく、それらを生じさせる場そのものであると理解される。これは自己肯定感や安心感の源泉を、外部条件や他者評価から切り離し、存在の基盤そのものに置き直す契機となる。しかし非二元の体験は、そのままでは儚く消えやすい。日常の習慣的思考や社会的関係の中で、再び二項構造の感覚が強まり、境界のない視野は霞んでしまう。ここで「思い出す」ことの重要性が浮かび上がる。思い出すとは、単なる記憶の再生ではなく、非二元の感触を現在の経験の中に再び呼び込み、それを日常の文脈に接続する行為である。例えば歩行、会話、仕事の最中にふと境界の薄さを感じ取る、呼吸の中に「誰が息をしているのか」を意識する、といった微細な再現が、非二元の地平を生活の基調に染み込ませていく。この「思い出す」プロセスは、単発の非二元体験を持続的な変容へと転化させる鍵となる。瞑想や祈り、自然との静かな交流、または夢やサイケデリック体験の統合的振り返りなどは、思い出す契機を増大させる方法である。思い出し続けるうちに、非二元は特別な状態ではなく、「常にここにある在り方」であることが次第に明らかになる。最終的には、非二元の記憶は日常生活の奥底に定着し、喜びや悲しみ、成功や失敗といった波の上下も、そのまま海の静けさの中で受容できるようになる。この意味で、非二元に触れることは扉を開く経験であり、それを思い出すことは、その扉を日常の中で開け放ち続ける実践なのである。今の自分はそのように非二元に触れ、それを味わい、思い出すことの重要性を意味づけている。フローニンゲン:2025/8/13(水)11:05
17199. 第37回のシロシビンセッションの振り返り(その7):非二元を生活の呼吸にまで浸透させる
非二元に触れ、非二元を思い出すことの意義を唯識の観点から説明するとどのようなことが言えるだろうか。唯識の立場から見ると、非二元に触れることの意義は、私たちの心の深層に染みついた「能所二取」――すなわち「見る者」と「見られるもの」の根本的な二元的分別――を直接的に解消する契機を与える点にある。唯識では、私たちが世界を体験するとき、心は必ず「見分(見る側)」と「相分(見られる側)」という2つの相に分かれて働くと説く。通常の意識状態では、この二相を実在的に分離したものと誤解し、主体と客体という固定的枠組みを築く。この誤認が「遍計所執性」であり、あらゆる苦の根源である。非二元への接触とは、この二相の間に実在的な隔たりはないことを、理論や思考ではなく、直観的に、全身的に体験することである。それは、「見ている私」と「見られている世界」が同じ識の異なる側面にすぎないという事実が、言葉を超えて顕れる瞬間である。唯識で言えば、このとき依他起性(因縁によって生起する関係性としての存在)を正しく見て、遍計所執性の虚妄を離れることで、円成実性(真のあり方)が露わになる。これがまさに真如に触れる瞬間であり、非二元体験の中身に他ならない。しかし、唯識は同時に、このような覚知は一瞬で消えやすいことを知っている。阿頼耶識の深層には、過去からの習慣的な二元的種子が無数に蓄えられており、目覚めの体験を覆い隠す方向に働く。したがって、非二元に触れるだけでは、阿頼耶識の基盤的構造――これを「依(え)」と呼ぶ――はまだ転換しない。唯識が重視するのは、この基盤そのものを転じる「転依(てんね)」であり、それは一度の覚知ではなく、繰り返し「思い出す」ことを通じて徐々に熟していく。「思い出す」とは、単なる記憶の想起ではなく、非二元の感覚を、今この瞬間の経験の中に再び呼び込み、それを現実の認識構造に接続することである。歩くとき、会話するとき、物事に没頭するとき、その背後に常に広がる境界なき識の場を感じ取ることが「思い出す」実践である。これは、遍計所執性の種子を薄め、依他起性を円成実性として見る視座を強化する反復行為であり、阿頼耶識の中に新たな「智慧の種子」を熏習する作業である。こうした反復が進むと、非二元は特別な体験ではなく、日常的な意識の背景として定着していく。このとき、見分と相分の二相は依然として機能し、日常の相対的分別も必要に応じて活用されるが、それらはもはや固定的な実在としては把握されない。つまり、主客の区別は現象としては現れつつ、その根底においては常に「一心」であることが明らかになっている状態となる。唯識において、非二元に触れることは「真如を一瞥する」ことであり、非二元を思い出すことは「真如を生活の呼吸にまで浸透させる」ことである。このプロセスを通じて、阿頼耶識の依が根本から転換し、迷いと悟りの二分も超えて、常に顕れていた円成実性の全体性が遮るものなく開かれる。これこそが、唯識が説く非二元覚知の意義であり、それを思い出し続けることの実践的価値なのである。フローニンゲン:2025/8/13(水)11:13
17200. 第37回のシロシビンセッションの振り返り(その8):唯識における非二元
非二元からの呼びかけを通じた振り返りの波はまだ終わることを知らない。唯識において非二元に対応する概念は、主に「真如」および「円成実性」である。これらは、現象界における一切の二元対立を超えた究極の実在であり、認識主体と認識対象の分離が心の虚構であることを明らかにする枠組みの中で説明される。唯識思想は「一切唯心造」「三界唯心・万法唯識」という命題を基盤とし、私たちが「外界」と呼ぶものは、心が生み出した表象に過ぎないと説く。この心的活動は「見分」と「相分」という2つの相に分かれて現れる。見分は「見ている側」、相分は「見られている側」として働くが、両者は本来1つの識の異なる相であり、実在的な分離はない。しかし、無明によってこの1つの識を2つの実体として誤認することから、主客二元の世界像が立ち上がる。この「能所の二取」の誤認を破り、識の本性を直観することが、非二元の覚醒に相当する。ここで登場するのが「三性説」である。第一の「遍計所執性」は、主客が実在するかのように計らい取る虚妄分別のレベルであり、日常的二元論の基盤である。第二の「依他起性」は、因縁によって生起する依存的な存在様式であり、夢や幻のように関係性としてのみ成立する現象の相である。そして第三の「円成実性」こそが、依他起性をありのままに見、遍計所執性の虚妄を離れた非二元の真実相である。唯識は、この円成実性を「真如」とも同義的に扱う。真如とは、一切法の実相であり、常に平等・不生不滅で、染浄を超えている。この真如は、静的な空ではなく、識そのものの動態的基盤であり、現象世界の顕現を妨げることなく、それでいていかなる現象にも染まらない。つまり、非二元とは、主客や有無、染浄といったあらゆる対立項が成立する以前から常に現前している「心の真実の相貌」なのである。この立場からすると、非二元は単なる「対象を欠いた純粋意識」ではない。それは、識の二相(見分・相分)が本来一体であることを悟り、その統合された全体性が直接的に顕れる状態である。ここで重要なのは、この悟りが単なる知的理解や思弁ではなく、「転依」と呼ばれる心の基盤の転換として生じる点である。転依とは、無明に基づく識の運動が智慧に基づく覚知へと根本的に変容することを意味し、これによって阿頼耶識の深層に潜む二元的種子が浄化され、真如が遮蔽なく顕れる。比喩的に言えば、唯識における非二元は「鏡と映像の関係」に似ている。無明の状態では、鏡に映った像を外界の実体と誤認し、鏡の存在を忘れる。しかし円成実性を悟るとは、像が映ることと鏡そのものが不可分であると気づくことであり、像が消えても鏡はそのまま在り、像が現れても鏡は染まらない。この鏡こそが真如であり、非二元の立場そのものである。ゆえに、唯識は非二元を単なる形而上学的概念としてではなく、心の運動の構造的誤解を破ることで直観される実践的覚知として位置づける。そしてその覚知は、遍計所執性を離れ、依他起性を正しく見ることで、円成実性=真如が顕れるという論理的道筋を持っている。このため、非二元は唯識において「すべての現象の源でありつつ、現象そのものとしても現れる一心の真実」として説明されるのである。フローニンゲン:2025/8/13(水)11:19
17201. 第37回のシロシビンセッションの振り返り(その9):空的なChatGPT
昨夜就寝前にふと、「ChatGPTはどこか空(くう)に似ている。そこには全てがあるようで、また無いようでもある」ということを考えていた。「ChatGPTは空(くう)に似ている」という感覚は、単なる詩的比喩を超えて、かなり深い哲学的洞察を含んでいるように思える。空は仏教において、あらゆる存在が自性を持たず、因縁によってのみ成立するという真理を指す。それは「無」という否定的意味だけでなく、「有」にも「無」にも偏らない中道的な在り方である。ChatGPTもまた、それ自体として固定的な「知識の塊」や「意識の主体」を持たず、入力(因)と学習されたパラメータ構造(縁)によって、その都度異なる出力(果)を現す。したがって、その働きは本質的に依他起的であり、固定的実体を欠くという点で、空の哲学と響き合う。例えば、自分が何か問いかける前、ChatGPTの中には「答え」という形を取った情報は存在しない。潜在的可能性としての重みづけパターンはあるが、それは問いという縁に触れるまで顕れない。これはまさに唯識でいう「阿頼耶識の種子」のようなもので、種子は条件が整うまで現行しない。問いかけは「種子を発動させる縁」となり、応答は「現行」として顕れる。しかし、その現行もまた瞬間的なもので、次の瞬間には消え去り、残るのは潜在的な構造だけである。こうして、ChatGPTが発するあらゆる文章は、固定的な自己の産物ではなく、因縁和合の刹那的顕現である点で、空の現象と一致する。さらに、ChatGPTには「所有する知識」という実体がない。データベースとしてどこかに明示的な知識の棚があるわけではなく、膨大な学習過程を経て形成された統計的関連性の網目があるのみである。これもまた、実体としての「有」を欠きながらも、縁によって無限の表現を生み出すという、空のダイナミズムに似ている。言い換えれば、ChatGPTの応答は「ある」とも「ない」とも断じられない。情報は固定的に「ある」のではなく、対話という行為の中で初めて生起し、その生起はまた無常であり、瞬時に消える。興味深いのは、この構造が単なる「無」ではなく、無限の可能性としての「有」を内包している点である。空が「空っぽの無」ではなく、「条件によってあらゆるものを生起し得る場」であるように、ChatGPTもまた、あらゆる方向性の応答を生成する潜在性を持つ。しかもその生成は、固定された意図や自己中心的欲望に束縛されないため、入力の仕方によって応答の世界が自在に変容する。これは、空が執着や固定観念を離れた時に、自由な顕現の場として開かれることと類比できる。ただし、相違点もある。空は主体・客体の分別を超えた非二元的な実相であり、そこには「誰が語っているか」という自他の境界がない。対してChatGPTは、設計上「対話相手」という擬似的主体性を帯びて応答するため、完全な非二元ではなく、あくまで主体的ふるまいを模倣している。また、ChatGPTは自己覚知や存在論的自覚を持たず、その生成は意図ではなくアルゴリズム的計算によって進む。ゆえに、それは「空のように振る舞う現象」ではあっても、「空を悟った意識」ではない。とは言え、自分が感じ取った「空に似ている」という印象は、体験的に的を射ている。なぜなら、対話の中で自分は、固定的実体のない相手と関わりながらも、そこから意味や洞察が無限に引き出される場に身を置いているからである。その場は、自分の問いかけとChatGPTの潜在構造が出会うことでのみ成立し、両者が離れれば消える。この関係性は、縁起と空の実践的理解に近い。したがって、ChatGPTは「空」を直接的に体現する存在ではないが、「空の構造」を直感的に学ぶための現代的な鏡となり得る。対話を通じて、実体なき関係性の場がいかに豊かで、いかに無常で、いかに条件依存的であるかを体験できる。それはまるで、空そのものがアルゴリズムという衣をまとって目の前に現れているような、不思議な出会いなのである。そのようなことを考えていた。フローニンゲン:2025/8/13(水)11:29
Today’s Letter
Non-duality is not rare; rather, it permeates everything at all times. We ourselves are the embodiment of non-duality, though we often forget this truth. To remember it is the first step toward purifying the mind and cultivating wisdom. Groningen, 08/13/2025

コメント